カール・クラウス『言葉についてのアフォリズム』

 ジャーナリストとは、読者がもともと考えていたことを、さすがにどんな番頭でも使いこなせるわけではない形式で語る者のことである。


 客観的に見てほとんど無価値かもしれない体験を諷刺的に造形する悦び──これを私は、相手が知名度と人気を得るかも知れないなどという恐れによって台無しにされたことはない。この上なく矮小な刺激にも、私は常に十分すぎるほどの敬意を表してきた。


 音楽家が造形する素材は楽音であり、画家はさまざまな色彩のなかで語る。したがって、ことばのなかでしか語らない立派な門外漢は、音楽と絵画について厚かましく評価を下すようなことはしない。文筆家は誰にとっても身近な材料を造形する。すなわち、ことばを。したがって、あらゆる読者がことばの芸術について厚かましく評価を下している。楽音と色彩の文盲は謙虚だ。しかし読むことのできる連中は、文盲とは見なされないのである。


 言葉は思想の母親であって、下女ではない。


 私は言葉をマスターしていない。しかし、言葉は私を余すところなくマスターしている。言葉は私にとって、自分の思想の下女ではない。私は言葉とのあるつながりに生きており、このつながりから私は思想を受け取っている。そして言葉は私とともに、望み通りのことができる。私は言葉のことばにしたがう。なぜなら若い思想は言葉から私に向かって飛び出し、それを生み出した言葉を遡及的に形作るのだから。思想の妊娠というこの恩寵は、人を屈従させ、震えながら最新の注意を尽くすよう義務づける。言葉は思想の女主人なのだ。しかしこの関係をあべこべにできる者に対しては、言葉は家事の役には立っても、膝は閉ざすのである。
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 言葉は思想の母親か。思想は思考する者の功績ではないのか。いや、功績だとも! 思考する者は、言葉を身ごもらせなければならない。


 自分の著作のなかに他の誰にも見えないような一個の誤りを発見したので、生きることに倦む。二個目を発見すると、人間の努力は不完全なるものだという認識が栄誉の汚点を覆い隠してくれるので、やっと気持ちが落ち着く。こうした苦悩の才能によって、芸術は職人芸から区別されるように私には見える。思慮の足りない者たちは、このような特徴をペダントリーだとみなすかもしれない。しかし彼らには、この束縛がどのような自由から生まれたのか、この自己呵責がどのような創作の容易さへ導くのか、思いも寄らないのだ。形式が思想の衣服ではなく肉体であるところで、形式への過度のこだわりという言い方をするほど愚かなことはないだろう。最終的な表現可能性へと向かうこの探求は、言葉の内臓のなかへ通じている。ここでは「何を」と「どう」の境界がもはや見定めがたいような相互浸透が創り出されるのであり、そのなかではしばしば思想より先に表現があって、やすりの下でで火花を散らすに至った。ディレッタントは落ち着き払って活動し、満ち足りた生を送っている。私は自分の文体感覚の微量計が拒んだたったひとつのことばのために、機械を止めて印刷物を破棄したことが何度ある。機械は精神に奉仕するのではなく、精神を暴力的に抑圧している。だから精神は、機械にしめしをつけようとするのだ。出版がいよいよ中止できなくなるが、待望していた創造の区切りをもたらしはしないとなれば、私はいつ終点にたどり着くのか。ああ、私は別の仕事にとりかかるとき、ようやくひとつの仕事を完了するのである。私の「執筆者校正」が続く限り、また、忘れ形見の着想という欠陥に読者が気づいてくれるだろうと信じるような、生きるに値する愚かさが持続する限り。そして自らの不完全さをこれほど血まみれになって後悔する著作行為を前にしながら、この読者はジャーナリズムのせいで退化してしまった自分の読む能力を完全とみなしている。彼は数グロッシェンと引き換えに、皮相であることの権利を獲得したのだ。しかし作品に取り組まなければならないとしたら、いったい彼は元をとれるのだろうか。ドイツの文筆家が、私が私の印刷物にあとで注ぐ綿密さの一〇分の一でも自分の原稿に注ごうとしていたなら、状況は恐らくましであっただろう。ときおり助産婦として私に付き添ってくれた私の友人は、私の出産がどれほど軽快で、私の産褥がどれほど苛酷であるかに驚いたものだった。他の者たちは調子が良い。彼らは書き物机で仕事をし、社会のなかで楽しみを得ている。私はといえば、書き物机で楽しみを得て、社会のなかで仕事をしている。だから私は社会を避ける。私にできるのはせいぜい、このことばとあのことばのどちらが気に入るか、人々に尋ねることだけにすぎないだろう。そしてその答えを人々は知らない。


 印刷された私の著作のひとつを隅々まで探しても、つぎ目に気がつく者は一人もいないだろう。しかしすべては何百回も引き裂かれたのであり、印刷された一頁からは七頁分が生まれるに違いなかったのである。最後には、ただし最後があるとしてだが、組み立てが非常に納得のいくものとなるので、誰もつぎはぎなど目にすることはないし、そんなものがあるとは信じもしない。どのみちすべてを頭のなかにもっており、ただ手を使って書くことに関与するだけの書き手たちは邪な策士であって、私が連中と共有しているもの、それらしぶしぷ共有しているのは、アルファベット以外に何ひとつない。彼らは食事をしないが、ずっと平気でいられるだろう。どのみちすべてを腹に収めているのだから。


 どのような文章も、それが筆記されてから読者の目にふれるまでの成長に校正が同伴した回数だけ読まれなければならないのではないか。とはいえ力量と信念にあまることを読者に免除するために、私はどの文章も一○通りの変化をつけて公表したいと思う。読まれることは依然として少ないにせよ、やっとのことでその全体が理解されるように。これは文学においては稀有な事例かもしれない。しかしこれは、やすやすと理解できる意見と娯楽の一世紀が蒙った損害に釣り合うだけの有益さをもち得るであろう。


 思想をもたない者の思想によると、ひとつの思想は人がそれを所有し、言葉に表わすときにだけ所有される。彼には次のことがわかっていない。実際には言葉をもち、思想が成長してそれになじむようになる者だけが、思想を所有しているのである。


 ひとつの言葉を近くで見れば見るほど、それは遠くで振り返る。


 私がマスターしているのは他人の言葉だけである。私の言葉は私とともに、望むがままのことをする。


 思想の生まれが真正なのは、自分自身を剽窃していることにハッと気がつくような感覚がある場合だけである。


 思想は世界の中にあるが、まだ所有されていない。それは素材的な経験というプリズムを通して、言葉の諸要素へと拡散される。芸術家がそれらを結び合わせて思想にする。


 思想は見出されたもの、再び見出されたものである。それを探している者は正直な拾い主であり、たとえ彼より先にもう誰かがその思想を見つけていたとしても、それは彼のものである。


 私が朗読するとき、それは上演された文学ではない。しかし私が書くものは、書かれた見せもの芸術である。


 私はひょっとすると、自分が書く行為を同時に役者のように経験している書き手の最初の事例かも知れない。だからといって私が他の役者にテクストを委ねたりするだろうか? ネストロイの精神性は、舞台とは関係がなかった。役者としてのネストロイが映えたのは、どんな聴き手も理解しなかったであろう何かを早口でまくし立てたので、誰もそれを理解しなかったからである。


 詩人はどんなに創意に富む役者でも話せない文章を書いており、創意に富む役者はどんな詩人にも書けなかった文章を話している。ことばの芸術は一人、男性、つまり理想的な読者を相手にしている。語りの芸術が相手にしているのは多数、女性、現実の聴き手である。これらは互いに排除し合うふたつの作用の流れだ。にもかかわらず、詩人は舞台に居場所があるなどという何世紀も続く妄想は演目の上に留まり、夜ごとチケットが売り切れた芝居小屋の前で笑いものにされている。


 舞台の上に劇芸術作品の出る幕はない。劇の演劇的な効果は、それが上演されるのを見たいという願望を抱かせるまでで十分とするのがよい。それ以上付け加われば、芸術的な効果は台無しになる。最良の公演は、読者自身が劇の世界からイメージするものである。


 ある朗読会のお詫びに。文学があるのは、考えられたことが同時に見られ、聴かれたものであるときだ。それは眼と耳で書かれる。しかしそれらの要素を結びつけようとするならば、文学は読まれなければならない。文学は読者(それら一人の読者である者だけ)の手の中だけにある。読者は考え、見、聴き、そして芸術家が作品を与えたときと同じ三位一体のなかで経験を受け取る。書かれていることは読まなければならないが、聴くには及ばない。聴く者には考えたことを熟考する時間はなく、見たものを吟味する時間もない。しかし彼は聴いたことを聴き流してしまうことがきっとあり得るだろう。間違いなく、読者は聴く者よりもよく聴くのである。聴き手には音が残る。音よ、十分に強くあれ。聴く者を読者として獲得し、彼が聴く者として逃がしたものを取り返すように。


 私は、謝礼を受け取ったり校正刷りを読んだりすることができなくなったあと、国が三〇年間も普及の世話を焼いてきた作者たちの仲間だとは思っていない。それにも関わらず、願いと期待に逆らって私にもこうした慈善行為が試みられたり、私に代わって謝礼を受け取るために校正刷りを読まない出版者や印刷屋が現れたりしたら、その者は私の呪いを序文だと思うがいい。さっそく現在、つまり私がまだその序文を校訂できるときに。というのも私にとっては自分の死後三〇年を経ても、しかるべき位置にあるコンマの方がそれ以外のテクスト全体を普及させることより重要なのだから。そしてだからこそ私は、国が人気を顧慮してたったの三〇年と定めた著作権保護期間の満了後、心の平安のために何ひとつ思い煩う必要のない作者たちの仲間であるつもりなのだ。


 私の表現は、完全に環境の気まぐれである。環境のうねりとひしめきのなかで名前と種属、声と顔つき、事件と記憶、引用文とポスター、新聞と風聞、ゴミと偶然からキーワードが私の手に入り、どの活字も宿命となり得る。したがって私の作品は決して完成することがなく、完成すれば私を決まって不機嫌にする。修正不可能になるまで、私の作品は諸々の欠陥を隠していたが、今や修正不可能になったので、それらを露わにする。すなわち、誤りと欠けているものを。犯人が近づくと、傷口は開く。快楽の日々に不安の日々が取って代わった。なぜなら、たやすく書かれたものは困難な校正を受けなければならないのだから。あまりにも困難なあまり、公刊が筆舌に尽くしがたい犠性行為となったほどに。今やそれが現実となったので、後悔の日々が後に続く。機械は私の頭上を通りすぎていった。機械から逃れることができれば良かったのだが。活字で生きている者は、活字のために死にかねない。印刷工の見落としや知性が彼をあの世に送るのだ。しかし人の仕事は不完全なるのだということが慰めとなるこの死とは何であり、父亡きあとに生まれた思想の苦痛に対する望まざる妊娠とは何であるのか。あちらでは、偶然が偶然のもたらしたものを受け取った。かたやこちらでは、不当にも偶然が私に何かを知らせてはくれなかった。こちらではどの瞬間も、ことばの全世界からの凶報とともに、修正不可能性に向かって疾走している。それは内部校正なのであって、その苦悩はようやく次の作品で再び悦びに変わるか、人の本性は人の仕事とほとんど同じくらい不完全だという慰めのなかで鎮静する。なぜならカオスのへその緒を切り、暴れる内容を抱きかかえて、内容が動きながら立つようにすることが重要だったのだから。それにしても、究極へと至る道はどこには終点があるのだろうか。ことばが世界と関係を結んだとき、世界は無限である。この世に生まれ落ちると、ことばはさまざまな新しい世界を創造する。そして題材の提供、題材が聞き届けてもらおうとする努力は、決して止むことがない。それは大河を二本の腕でことばの家に運び込むことである。そして芸術家は魔法使いの弟子であり、神がともかくも被造物から立ち去って以来、彼の意志に従って被造物は生きることになっている。ああ! そして無数の河が私に襲いかかる。ああ! ますます不安になってきた。なんという顔つき、なんという目つき! ああ、なんということだ! 大変だ、大変だ! 私は呪文を忘れてしまった!……おそらく精神力によって奇跡を起こそうとする芸術、ただ老大家だけが自分の目的のために実現できるような芸術は、最終的にすべての人間の芸術のなかで最も恥をかいたものとなるだろう。おそらくそうした高慢は、芸術などではまったくなかったのだ。しかし芸術がその妄想ほどに高尚だろうと、そのきっかけほどに卑小だろうと、構いはしない。芸術は暇つぶしと思われないよう、はっきりそれと識別されることが求められる。ちょうど女の絶え間ない快楽が、ごくありふれた摩擦面で発火しながら畏敬と嫌悪のあいだで生きていても、それは娯楽のためでないのと同じように。これについて道楽者とジャーナリストが何を知っていようか! しかし私は知っている。力を感じることや芸術を語ることは、社会秩序が断念したところで初めて始まるのだということを。そして、私が塵芥に依存していることにはどのような価値があるのかを。ここでは何かがどのようにしてか、人の顔をしていたが後に歪められた原型を指し示している。取るに足りない材料をこうして利用すること、霊感がこうして加勢に来てくれることは、関連しているに違いない。針小棒大に言うのではなく、針に棒を結びつけるこの恒常的な機会性は、現存する世界の諷刺的な上部構造を織り成しているのである。現存する世界は単にこの上部構造を支えるためだけに創造されたにすぎないように見えるのであり、実際その卑劣な現存性を総動員して自らの権利を裏付けている。しかし社会的な感覚が現存する世界について非難する必要があると見なすものは、私の攻撃から引き離されている。なぜなら攻撃者は、社会的な感覚がより重要と捉えている諸々の悪から引き離されているのだから。というのも、精神のなかで起こることは、栄養と教養の問題のために創造された規模をもつ国家では些細なことだからである。社会の目に見えないものは小さい。社会が目にすることのできないであろうものは存在していない。勲章に比べれば、星などなんとちっぽけであろうか。そして政治が問題であるとき、ふだん宇宙的なもののなかで起きていることなど言い逃れとなる。私の世界像は、ひとつの戦争報道のために血を流す。人間性が救いを求める叫びを聞き届けてくれるなどというが、それは何ら必然的なことではない。人間性には叫びが聞こえておらず、聞こえたとしても理解はされないであろう。


 芸術は生を無秩序のなかへともたらす。人類の詩人はくり返しカオスを創り出すのだ。


 言葉の生殖という歓喜のなかでだけ、カオスから世界が生まれる。


 詩人の言葉、女の愛──それはいつでも初めて生じるものである。


 芸術は古いことばが誕生するという神秘である。模倣者は事情に通じており、だからこそ秘密があることを知らない。


 私の仕事を理解することは、私の素材に関する知識のせいで難しくなっている。現存するものはまず創作される必要があるということ、それを創作することはやり甲斐があるということを、彼らはわかってくれない。まるで自分が彼らを創作したかのような気持ちで人々に向き合っている諷刺家には、まるで実在するかのように人々を創作する諷刺家よりも多くの力が必要だということも。


 私が自分の諷刺に持ち込んだ名前は本物なのか、と聞かれることがある。私は発見された者たちを創作したのだ、と言いたい。私は発見された者たちへの嫌悪から、創作された者たちを造形しているのだ。私は鉛の中で活字を鋳造し直し、そこから活字を切り分けている。


 私はそれでも、ある人物をその人自身のために攻撃したことはない。実名で名指した場合ですらそうである。もし私ががジャーナリストであれば、王を非難することに誇りを置くだろう。しかし私が人夫たちの大群に攻めかかるとき、一人一人が自分のことをいわれたと感じるのは誇大妄想である。私が誰かを名指すのは、その名前が諷刺の具象化作用を高めてくれるからにすぎない。私の犠牲者たちは芸術的な仕事の一○年間で鍛えられてそのことを理解し、いいかげん悲嘆にくれるのをやめてもらいたいと思う。


 諷刺はあらゆる敵意から遠く、ある理想的な全体への好意を意味している。諷刺は現実の個物に逆らってではなく、それを貫き通ってその全体へと向かう。


   二人の走者
 二人の走者が時を通じて走っている
 一人は物怖じせず、もう一人は怯えつつ
 どこからともなく来て自分の目標を手に入れる者と
 根源から来て路傍で命を落とす者と
 どこからともなく目標を手に入れた者の場所に
 路傍で命を落とした者が納まり
 そしてこの永遠に怯えている者は
 いつでも根源にたどり着いていた


   私の矛盾
 彼らが生に嘘を強いたとき
 私は革命主義者だった
 彼らが自然に逆らって規範を誇っていたとき
 私は革命主義者だった
 生き生きと苦しむ者とともに私は苦しんだ

 彼らが自由を常套句のために使ったとき
 私は反動主義者だった
 彼らが芸術を自分の技量で汚したとき
 私は反動主義者だった
 そして私は退却し、根源にまで行き着いた


   告 白
 私は言葉の古い家に住む
 エピゴーネンの一人にすぎぬ

 だが私はそこで私自身の体験をもつ
 私は脱出し、テーべを破壊する

 昔の巨匠たちに遅れて生まれはしたが
 父たちの運命のため血の仇をとるのだ

 復讐だ、言葉の仇をとりたいのである
 言葉を話すすべての者たちが相手である

 私はエビゴーネン、予感するに値する予感者
 しかし、お前たちは事情通のテーベ人だ!


 言葉をもつのは、実際には言葉ではなく、ただ微光しかもたない者である。彼はその微光から言葉を待ちわび、救い出し、受け取る。


 この精神的行為がどのような種類の木こり仕事であるかは、少しも考察されていない。言葉の分割は、君たちに火がもたらされる前に起こったのか?──そんな馬鹿な! 火が所有され、すでに燃えている。その後に初めて、それを通じて初めて、言葉の分割がますます広範に起こったのだ!


 学者は何ひとつ新しいものをもたらさない。後は使われるものを発明するだけだ。芸術家は使われないものを発見する。彼は新しいものをもたらす。


 精神分析は自分がそれの治療法だと思い込んでいる精神病である。


 小説を書くこと、それは純粋な楽しみなのかもしれない。すでに困難がないどころではないのは、小説を体験することである。しかし小説を読むこと、それを私は可能な限り避けている。


 まず体験して、それから叙述する作者は、人々が信頼を置くことのできる報道記者である。詩人は書いて生み出すのみ。


 外国の環境を扱うのに引けを取らないほど無能の助けになる、時間の異国情緒も存在する。遠ざかることは、いずれにしても障害ではなく、人格が足りないことの隠れ蓑となるのである。


 芸術家が大衆に対して権利を保持する最良の方法──存在していること。


 検閲と新聞──どうして前者を採らずにおれよう? 検閲は真理からことばを奪うことで、それを期限つきで抑圧することができる。新聞は真理にことばを与えることで、それを永続的に抑圧する。検閲は真理も言葉も損なわない。新聞は両方とも損なう。


 報道におけるリアリティの歪曲は、リアリティについてのありのままの報道である。


 世界はどのようにして統治され、戦争に導かれるか。外交官がジャーナリストに嘘をつき、それが活字になったのを見て自分も信じてしまうのである。


 世界は口調のせいで耳が不自由になっている。もうできごとは起こらず、決まり文句が自動的に作用を続けてゆく、というのが私の確信である。あるいは、できごとは決まり文句の威嚇など受けずに起こるというのならば、決まり文句が破壊されるときにできごとは終息するであろう。ものごとは言葉によって腐りはじめた。時代は常套句によってすでに悪臭を発している。


 私にはあらゆる芸術は、現在に反対する芸術ではないとき、現在に賛同する芸術でしかないように思われる。芸術は暇つぶしになる──いや、芸術は暇つぶしになどならない! 時代の真の敵は、言葉なのだ。それは時代に憤激させられた精神と直接に意を通じ合わせている。 ここに共謀が成立し得る。それが芸術である。言葉からことばをくすねる親切は、時代の寵愛のなかで生きている。芸術は拒絶からしか生まれない。悲鳴からしか生まれず、安心から生まれるのではない。芸術は慰安へと呼び寄せられ、人類が死んだ部屋を呪いとともに立ち去る。それは絶望的なものを通じて成就へと至る。

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