アリストテレス『生成消滅論』第1巻第8章

 しかし、それはいかにして起こりうるのか、われわれはあらためてこの問題を論じることにしよう。
 ある人々には、末端に位置しており、最も固有の意味において作用を及ぼすものが、幾つかの細孔を通して入り込むことにより、それぞれのものは作用を受けると思われている。そして、われわれが見るのも、聞くのも、また他のすべての感覚を得るのも、この方式によると彼らは主張する。さらにまた──彼らは言う──、空気、水、また諸々の透明なものを通してものが見えるのは、それらが細孔──小ささのゆえに目に見えないが、しかしに列をなしている細孔──をもっており、それらが透明であればあるほど、細孔も、より密に列をなしているからである。かくして、ある人々は、実際エンペドクレスもそのうちに含まれるが、幾つかのものについてこのように規定し、作用を及ぼするのと作用を受けるものについてだけでなく、混合の場合もまた、混合するのはその細孔同士が適合しているものにかぎられる、と主張しているのである。
 他方、レウキッポスとデモクリトスは、始原として自然に即したものを採用し、最も体系的な仕方で、あらゆることを一つの説明によって規定した。
 すなわち、いにしえの人たちのうちのある人たちは、存在するものは必然的に一なるものであり、不動であると考えた。というのも、彼らの考えでは、空虚はあらぬ(存在しない)が、しかし、もしも空虚が離存するものとして存在しないとすれば、ものが動くことはありえないし、またさらに、分け隔てるものが存在しなければ多なるものも存在しえないからである。そしてこの点は、もしもだれかが、万有は連続的ではなく、分割された状態で触れあっていると考えるとしても、一なるものではなく多なるものと空虚が存在すると主張する立場と何ら異ならないのである。というのも、〔分割された状態で触れあっているとする立場をとったとしても、〕一方で、あらゆるところで可分的であるとすれば、一なるものはまったく何も存在せず、結果的に、多なるものも存在しないことになって、全体なるもの(万有)は空虚になってしまうし、他方で、ここでは分割されうるが、あそこではそうでないとすれば、それは、何か拵え事に似たものとなってくるからである。というのも、どこまで分割されうるというのか。また何ゆえに、全体なるもの(万有)のうちのある部分はそのようなあり方をしていて充実しており、別の部分は分割されているというのか。それにまた、この立場にとっても同様に、動の非存在が必然的に導かれるのである。
 以上の諸議論にもとづき、彼らは、理性に従わなければならないとして、感覚を越え出てこれを無視し、万有はなる不動のものであると主張している。そして幾人かの人たちは、万有は無限である──なぜなら、〔もしも限界があるとすれば、〕 それは空虚との関係で限界となるはずであるから──とも主張するのである。それゆえ、この人たちは、真理について、これらの理由にもとづき、上述のように表明した。さらにまた、諸議論にもとづくかぎりはそうした結果になると思われるとしても、しかし事実にもとづくかぎりでは、そのように思いなすことは狂気とほとんど等しいように思われる(というのも、狂気に陥っている人にしても、そのだれ一人として、火と氷とが一つのものであると考えるほど常軌を逸することはなく、ただたんに、美しい立派な)ことと、習慣のゆえに美しい(立派な)こととして現れていることとが、ある人々には狂気ゆえに何の違いもないと思われるにすぎないのである)。

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