中村文則『何もかも憂鬱な夜に』

「それで、死んで逃げるつもりなんだな。控訴しないで」
「違う」
 彼は叫んだ。
「俺のことは、どうだっていい。やるべきことが、一つ残ってるからだ。死ぬことだ。俺を恨む社会の人間なんて、どうでもいい。そんな奴らは、本当は関係ないから。ただ、あの二人の親とか、知り合いは、俺が生きてるのは嫌だろ? それが、俺の役割だよ。初めてだ。俺が何かの役割の中にいるのは。だから死ぬんだ。なるべく早い方がいい。大体、俺は元々」
「でもお前は」
 僕は怒りが湧き、手で壁を打った。あの人の姿が頭に浮かんだ。
「確かに、お前の言うのはそうだ。お前が生きてると、辛い人間がいる。お前が死んだって元に戻らんが、お前の死を遺族が望んでるなら、せめて、残った人間を、これ以上不幸にする必要はない。お前は死ぬべきかもしれない。でも、でもだ、お前は生まれてきたんだろ? お前はずっと繋がってるんだ。お前の親なんてどうでもいい。俺だって親はいない。一つ前のものに捨てられたからって、そんなことを気にする必要はない。俺が言いたいのは、お前は今、ここに確かにいるってことだよ。それなら、お前は、もっと色んなことを知るべきだ。お前は知らなかったんだ。色々なことを。どれだけ素晴らしいものがあるのか、どれだけ奇麗なものが、ここにあるのか。お前は知るべきだ。命は使うもんなんだ」
「だけど、俺は」
「いい、いいから、お前は控訴しろ。裁判でのお前の供述と違う。控訴してもお前の死刑は変わらない。でも事実を言わなければならない。事実を言ってから、死刑になれ。俺は死刑にはどうしても抵抗を感じるよ。死刑には色々問題があるのもそうだけど、人間と、その人間の命は、別のように思うから。……殺したお前に全部責任はあるけど、そのお前の命には、責任はないと思ってるから。お前の命というのは、本当は、お前とは別のものだから。でも今の状況はこうだし、どうあがいてもお前は死刑になるし、俺達はやるしかない」
 僕はそう言いながら、涙が出た。
「お前は屑と言われてる。大勢の人間に死ねと言われてる男で、最悪かもしれない。でも、お前がどんな人間だろうと、俺はお前の面倒を見る。話を聞くし、この世界について色々知らせる。生まれてきたお前の世話を、お前が死刑になるまで、最後までやる。お前の全部を引き受ける」
「……なぜだ?」
 山井は、そう言うと泣いた。
「そうしたいからだ。俺達は刑務官だ」
 冷えた廊下の向こうから、配水管の籠もる音が聞こえた。薄汚れた山井は小さく、かきむしられた白い腕は、血が滲んでいた。
「昔……俺に色々と、教えた人がいる。お前も……。今度持ってくる。観たくなくても、読みたくなくても」
 山井はうずくまったまま、動かなかった。

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