堀川恵子『教誨師』

死刑囚を見ていると、事件が悲惨であればあるほど、その犯人には気が小さい者が多いのは間違いないように渡邉には思えた。彼らは「殺す」ためよりもむしろ、「逃げる」ために人を殺める。後先のことを考えず必死に逃げようとする分、被害者の受ける傷や事件の態様は悲惨なものになってしまう。
 大橋は紛れもなく老夫婦を殺害した「加害者」である。その事実に間違いはない。しかし彼は、自身が最も気に病んでいる右手のことを平然と馬鹿にされたことへの「被害者意識」を拭えないでいた。罪を犯しながら、心は被害者のそれなのである。
 そんな人間に心の平穏を説いても伝わることはまずないことを、若い渡邉も教誨師として十分すぎるほど経験してきた。死刑事件の加害者である死刑囚には、大橋と同じような被害者的な恨みに捉われている者があまりに多く見受けられた。幼い頃から家や社会で虐げられ、謂れのない差別や人一倍の不運に晒されて生きてきた者が圧倒的に多い。そして成長するにつれ、自己防衛のために自己中心の価値観しか持てなくなっていく。だからと言って罪を犯すことが許される訳ではなく、自業自得と言ってしまえばそれだけのことだが、そうして行き着いた先が「処刑台」では救われない。事件のことはさておき、まずは彼ら自身に向き合って、その「被害感情」を取り払わなくては、事件に対する真の反省も被害者への慰藉の気持ちも永遠に訪れることはない。
 本来なら裁判で事件を犯すに至った経緯を詳しく調べ、曲がりなりにも彼らの言い分を聞き、止むを得ない気持ちも酌んでやった上で判決を下せば、たとえそれが死刑判決でも彼らなりに納得して刑に服すことも出来るかもしれないのに、と渡邉はいつも思ったものだ。なぜなら、彼らは独房で幾度となく判決文を読み直すからだ。いわば判決文は、彼らの人生最後の通知簿だ。しかし、そこで情状酌量の余地など認めれば、ひとりの人間をこの世から抹殺する死刑判決など下せるはずもない。だから多くの死刑判決は、そこら中に落ちている日常のちょっとした出来事まで殺人の背景を形づくる材料としてかき集め、一方的に断罪することに腐心しているように渡邉には思えた。殺人者の話に耳を傾けようとする者などいない。
 かたや軽率な言葉の刃物で相手の心をズブリと貫き、治らぬ傷を刻みつけ、その人生までも狂わせてしまう者を罰する法律は見当たらない。見えない傷は、人間の法律では裁けない。何より言葉を吐いた側の多くは、自分がそんな大変な事態を招いていることになど気付いてもいない。まさに浄土真宗でいう〈悪人〉と〈善人〉の話である。
 渡邉普相が視線を落とした先の手元には、四〇年以上も前からずっと大切に使い続けている国語辞典があった。ある男が、死刑を執行される間際に形見として残していったものだ。
 男の名前は、白木雄一(仮名)といった。
「彼はねえ、ほんとーーうに、いい男だったんだよ……」
 渡邉はすっかり古びた国語辞典をパラパラとめくりながら、やり切れないような強い口調で、どこか悔しそうにつぶやいた。
「死刑囚のことをいい男なんて、おかしいんじゃないかと思われるでしょうがね。被害者もおることですから滅多に言えんことですがね。頭もよいし気もよいし。じゃが、普通には暮らせん性を背負っとって、それから逃れることが出来んと自分で分かっておったから、あの男は自ら望んで死刑になっていったんだよ」
 形見の国語辞典の「死」という文字は、かすれた鉛筆書きの黒丸で囲まれていた。
 そんな白木が後日、思わぬ打ち明け話をすることになる。
 確かその日は、群馬県で発覚した大久保清の事件で、ついに六人目か七人目の遺体を山中から発見したというニュースが報道された時だった、と渡邉は記憶している。白木はその事件によほど触発されたようで、こちらから聞きもしないのに進んで語り出した。
「マスコミは最近、大久保清でもちきりですがね、あの事件を正しく伝えている者はひとりもおりません。私には分かるんです。大久保清は私と同じ種類の人間です。時々、強姦もしているけど、本当の目的は強姦なんかじゃありません。いわば強姦は前戯です。本当の目的は、殺しなんです。女を殺すのが、気持ちよくてたまらないんですよ」
 白木の言葉は極めて明確だったが、渡邉には一瞬、彼が何を言っているのか分からなかった。
「先生、私が弁護士の控訴を取り下げた時、新聞記者は被告人は反省を深めているなどと書いたようですかね、あれは違います。私はもう二度と外に出てはいけない人間なんです。外に出たら、私は必ず、また殺ります。自分の腹の奥から衝き上げてくる衝動を抑えられないんです。だから、私のような人間は死刑になるより道はないんです」
 白木の瞳の底の方から、鈍い光が放たれた。
 それから横田は上京し、木工所に勤めるも長続きはせず、窃盗を繰り返しては少年鑑別所を出たり入ったりした。実母に二度も捨てられたという現実に耐え切れず、いっそ死んでしまおうと何度も手首を切り、自殺未遂を繰り返した。渡邉は、死刑囚の多くが殺人を犯す前に自殺を試みているのは本当に共通しているなと思った。絶望の果てにその手に握った刃が、自分か相手のどちらに向くかなのだ。
〈いまは、くるしみや、かなしみが、たえず、きれない、せいかつでは、ありますが、それにも、だいたいなれまして、いまは皆とげんさい(※現在)、あたえられた、せいかつの、中に、ある、ほんの一ぶの、たのしみを、いかして、毎日を、おくって、おります。
 心のどこかには、いまも、くるしみは、あれども、べんきょうを、したり、「しゅきょう(※宗教)」をまなんできました。おかげで、いまは、いまなりに、たのしさをさがしては、あたえられただけの、あかるい、せいかつを、おくって、います……〉
〈ごくそうより うんどうじょうにふるあめを ながめてなげく われとともらよ〉
 そんな木内だが、渡邉にだけは素の姿を見せていたようだ。時々、教誨室で駄々をこねるように叫んだという。
「先生、セックスがしたくてたまらないよう!」
 強姦殺人罪を背負った若者の言葉はとても笑えるものではなかったが、「大の男が独房にひとりいるのだから、この種の話は木内だけにとどまらないんですよ」と渡邉は苦笑いした。
 死刑囚の話を聞いててね、ああ、あの時の火薬と同じだなと思ってね。彼らも普段は真面目で大人しいのが多いんですよ。本当に悪いやつは、人を殺して自分も死刑になんかなりません。だけど欲望や感情に色んな偶然が重なって一瞬にして火がついて爆発してしまう。その爆発を起こさんようにすることを考えんといけんのんですがね……。
 木内が辛そうにセックスの話を持ち出す度に、渡邉はあえて明るく答えた。
「そうか、そうか。あんたも、そんな立派で丈夫な身体をもてあまして気の毒なことだなあ。だが私も、ここに女を差し入れするわけにも、出前を取るわけにもいかんしなあ」
 すると木内は、実は対処法があると小声で打ち明けた。
「先生、コツがあるんです。なるべく運動の時にしっかり汗を流して、朝夕は背筋を伸ばして大きな声で読経をするのです。すると何だか落ち着いてくるから不思議なもんですよ」
 大切な秘密を教えてやるかのような、もったいぶった大男の口調に渡邉は苦笑した。
 格子越しに窓の外を見つめる山本にも、言葉はなかった。車窓には、死刑囚に対しても、いささかの分けへだてなく穏やかな日常生活が広がっている。身体からはみだしそうな大きな赤いランドセルを背負った子どもたち、その傍らで花壇に水をやる主婦の姿、信号が変わる度、目の前をどっと横切るサラリーマンの一群。山本は、今生最後の風景をじっと目に焼き付けているようだった。その目に映る群衆の誰ひとり、この車の終点が刑場であることを知らない。再びみなが夕刻に家路を急ぐ頃、この男の命が消えていることも想像すらしないだろう。
 暫く走ると左手に赤レンガの醸造試験所、右手に、半年後にまた何百本という桜に花を咲かせるだろう飛鳥山公園が見えてきた。明治通りを左折し、ゆるやかな下り坂を早稲田行きの路面電車とすれ違うようにして下りていく。その先の交差点の信号で、車は止まった。右前方に国鉄王子駅を見た時、山本がいきなり声をあげた。
「先生、あれ! あの店です!」
 山本が指差した先には、小さな赤提灯。まばゆい朝日から隠れるように、店の軒下でひっそり揺れていた。
「私、刑務所を脱走した時、あそこで酒を飲んだんです」
「ああ、山本さん、確かあなた、王子駅の近くで捕まったんじゃったな。あの店で念願の酒にありついたというわけか……」
 逃亡の末に逮捕された日の苦い記憶も、間もなくこの世を去ろうとする男にとっては愛すべき風景のひとつになっている。
「待ちに待った酒だったんですがね、実はあんまり咽喉を通らなくて……」
「山本さん、どのくらい飲んだんですか」
「先生、一合ですよ」
 たった一合──。
「ああ、そうかあ、一合だったのか。たった一合のために死刑かよ! ああ、わっし、どうにもやれん。なあ山本さん、いっそ一升くらい飲んだらよかったなあ!」
 思わず本音が口をついて出た。山本がふふふ、と小さな笑い声を漏らした。一文字に口を結んでいた刑務官の口元にも遠慮がちな笑みがこぼれる。そんな二人の会話を断ち切るよるように、車は王子駅を後にした。
 読経が終わると同時に、勢いよくシャッと乾いた音がした。隣の処刑部屋との間を仕切っていた濃い紫色のカーテンが開けられたのだ。いつの間にか、桜井の両手は後ろ手で縛られ、身体の自由を失っている。数人の刑務官に囲まれるようにして、隣の部屋へジリジリ移動した。白い線で囲まれた正方形の枠の上に、桜井の身体が立てられた。もはや桜井の身体は、彼のものであって彼のものではなくなっている。刑務官たちは、事前に何度も繰り返し練習した通り、天井から垂れた太い絞縄を手際よく首にかけようとした、まさにその時。
 青白い顔をした桜井がクルッと上半身だけをねじるようにして身体をこちら側に反転させ、必死の形相で篠田に向かって叫んだ。
「先生! 私に引導を渡して下さい!」
 刑務官たちの手が止まった。みなが篠田の顔一点を凝視した。渡邉は焦った。浄土真宗に「引導」などない、どうする。すると篠田は迷いなくスッと前に進み出た。そして桜井に正面から向きあった。互いの鼻がくっつくほど間合いを詰め、桜井の両肩を鷲摑みにして、しゃがれた野太い声に腹から力を込めた。
「よおっし! 桜井さん、いきますぞ! 死ぬるんじゃないぞ、生まれ変わるのだぞ! 喝ーーっ!」
 桜井の蒼白な顔から、スッと恐怖の色だけが抜けたように見えた。
「そうかっ、先生、死ぬんじゃなくて、お浄土に生まれ変わるんですね」
「そうだ、桜井君! あんたが少し先に行くけれど、わしも後から行きますぞ!」
 潤んだ両の目に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだと思った途端、その笑みは白い布で隠された。そこからは、わずか数秒のことだった。
 桜井を取り囲んでいた刑務官が、パッと離れた。同時に、桜井の身体の正面に身をかがめて待機していた別の刑務官が、床から伸びた太いレバーを力一杯、グッと引いた。その瞬間。
 バッターーーーッン……。
 両の耳をつんざくような音が、乱暴に沈黙を切り裂いた。桜井が立っていた足元の踏み板が外れ、そのはずみで反対側の床の裏側に叩き付けられたのだ。上方の明かりとりの窓ガラスが、地震の時のようにビリビリと音をたてて震えた。
 窓ガラスから下へ視線をもどすと、そこに立っていたはずの桜井の姿は、もうなかった。再び静まりかえった部屋で、天井からぶらさがった一本の太い縄だけが、ギッシギッシギッシギッシ、不気味な音をたてて揺れていた。小さな円を描きながら小刻みに震え、時おり大きくブルブルッと不規則に揺れる絞縄の動きは、その場にいる全員に否応なく、地下に吊り下げられた人間の断末魔を想像させた。レバーを引いた刑務官は、じっと床に視線を落として俯いたまま。同僚に促されるまで決して顔を上げようとはしなかった。
 暫くして、刑務官に連れられて山本が入ってきた。
 桜井の執行を告げる不気味な音は否でも耳に入ったはずだ。だが山本の表情は静かで、動揺している風はなかった。ふと見ると、それまで気がつかなかったが山本は手に何かを持っている。
「昨晩、寝ないで『正信念仏偈』を写経しました」
 そう言って一部ずつ、写経本を立ち会いする者たちひとりひとりに手渡した。自分をあの世へと送る経を用意してきたのだ。経本を手渡しながら、「これまで私のような者のお世話をして下さり、ありがとうございました」と挨拶し、頭を下げている。
 つい先ほどまでは篠田が先導して、場の雰囲気を作っていた。ところが今は、これから執行される山本自身が、いわば場を切り盛りしている。一番びっくりしたのは検察官だっただろう。これから処刑される人間が、処刑する側の人間に礼を言いながら、自分を送るための自作の経本を配っているというのだから。
 山本は、最後に渡邉の前に進み出ると、こう言った。
「渡邉先生には本当にお世話になりました。先生、私の部屋に『仏説阿弥陀経』の写経が何十も溜まっております。集合教誨の度に経本が足りぬと仰っておられましたから、この春からずっと作っておきました。どうかみんなのために使ってやって下さい」
 必死の勉強の間に写経していたのか。山本は、集合教誨で準備の悪い渡邉がつい漏らす「また足りないな」という一言まで気にかけていたのだ。
 しかし、渡邉には「ありがとう」というほんの一言が出ない。言葉を発したら一気に何かがガラガラ崩れていきそうな気がした。ただ山本の温かい手を両手で固く握りしめ、互いの視線を引っぱりあうようにしてウンウンと何度も頷いた。「では、そろそろ」という警備隊長の一声で、その手は永遠に離された。
 そこからの手順は、先ほどと何ひとつ変わることはなかった。まるでホームから動き出した電車のようにスムーズに、そして目的地に到着するまでは絶対に止まろうともしなかった。
 渡邉は小学生の頃、故郷の上山村で父に誉めてもらいたくてやったように精一杯、腹の底からできる限りの大声を絞り出した。
「帰命無量寿如来、南無不可思議光……!」
 両の目をつぶり、叫ぶように読み続けた。山本と面接の度、ともに何度も声を揃えてきた経だ。浄土に向かう山本の耳に、ずっとずっと届けと念を込めた。
 刑場の教誨室で最後のタバコを吸わせ、お別れの儀式を済ませ、いよいよ執行の部屋へと移動しようとした時だった。横田が動かなくなった。「さあ」と刑務官に促されても、両足から根が生えたように踏ん張っている。
 それまでつつがなく進んでいた場の流れが急に途切れ、居合わせた全員がぎょっとした。たくさんの視線が突き刺さった男の顔に、大粒の涙がポロポロポロポロこぼれる。横田は渡邉にすがりつくようにして叫んだ。
「先生! お袋はやっぱり来てくれませんでした! もう私には時間がありません、もう間に合いません! あの時、お袋に捨てられさえしなければ、私はこんなことにならなかった! お袋は私を捨てた、捨てたんです!」 そう言って、まるで子どものように顔を隠そうともせずワンワン声をあげて泣き始めた。
 一五歳の時、少年は母に会いたい一心で、ひとり北海道の果てまで訪ねていった。そして、無下に玄関先で追い払われた。本当はあの時、横田はこうやって声を張り上げ、母に抱きついて泣き叫びたかったにちがいない。それが出来ぬまま、その時の感情を心の奥深くに閉じ込めたまま生きてきた。大人になってどんなに口汚く実母を罵ろうとも、彼が向かった旅路の先にはいつも母の姿しかなかった。
 この期に及んでの横田の絶叫は、一五歳から心の成長を止めている彼の内なる子どもの叫び声のように渡邉には響いた。執行される間際、母がすぐ目の前のドアを破って駆けつけてくれるかもしれないという一縷の望み。その望みはまたも大きな絶望だけをもたらした。
「お母さん、お母さん!」
 横田は声にならない声で、届くあてもない名を叫び続けている。事態を察した刑務官が互いに目配せし、サッと彼の四方を固めた。両脇を抱え、ズルズルと処刑部屋へと引きずっていく。横田の号泣が、叫びにも似た響きを帯びてくる。もはや順を踏んで行われたお別れの儀式の余韻など、どこかへ吹っ飛んでしまった。平素は神聖な儀式を準備して何とか現代にふさわしい形を整えている処刑も、こうなると一転、よってたかっての殺人現場と化す。

 渡邉は、そこに呆然と立ち尽くしていた。
 命あるうちは決して止むことのないであろう横田の叫びに打ちのめされていた。母を怨んだまま死なせてはならぬと何年も教誨に臨んできた。自分が犯した過ちを自分の行為として受け止め、母を赦し、穏やかな心で旅立ってもらいたいと面接を続けてきた。しかし、そんな渡邉の心のうちなどお構いなく横田の両手が力ずくで縛りあげられ、容赦なく作業は進んでゆく。
「あの女のせいだ!」
 必死の形相を、白布が覆った。何本もの手が、横田の身体の周りを忙しく動く。黒光を湛える太い絞縄が強引に首にかけられた。刑務官たちはこの一瞬を成功させるためだけに、どれほど長い時間、本意でもない練習を積み重ねてきたか分からない。失敗は絶対に許されなかった。
「お母さん! お母さん!」
 白布で遮られた横田の叫びは、くぐもったような鈍い響きに変わっていた。その足元で身をかがめ、レバーのハンドルを握って待ち構えている刑務官の眉間に一層、深い苦渋の縦皺が浮かびあがる。そこに立ち会った誰もが、その時が一刻一秒でも早く過ぎ去ってしまうことを心から願い、目を閉じた。
 横田の身体が視界から消え去る間際、渡邉の頰に大粒の涙が伝っては落ちた。

 ──そん時、わっし、涙が出てね、お経が読めなくなったんだ……。「先生、わしは母親に捨てられなきゃあ、こういうことになるんじゃなかった」って泣かれてね、本当にこたえました。わしは……、長い間、教誨をしてきたけど、結局、何も出来んかったと。結局、彼は最後まで母親を怨みながら死んでいった。自分の力不足も感じたし、残念でもあったし、ええ……。本人が母親のことを怨みながら死んでいかなきゃならなかったという心の状態がね、それが可哀想でね。何のために教誨を続けてきたんだろう思うてね。ほれで、ガターーンッと落ちた時に、もう、お経が読めなくなったんですよ。
「キミョウ、ムーリョウ、ジューニョーライー……」
 そっから声にならない、まったく……。それで暫く休んでいて、全部が落ち着いてからまた、ひとり「ナームーアーミー」言うて、ひとりごとみたいに言うて……、そういうことがありましてね……。

 齢八〇を越えた渡邉の頰を、その時と同じように涙が伝った。唇の両端が微妙に震えて下がる。それ以上の感情の波がくることを許さぬように、渡邉は白いガーゼのハンカチを慌てて取り出して顔の全面をゴシゴシ拭い、ついでに予期せぬ涙をぬぐった。

 ──それで……その時の教育課長がね、わっしのそばに来て「つらいですなあ! 先生、おつらいですなあ!」って肩を抱いてくれましてね、一緒に涙を流してくれました。課長は元々は僧侶だった人でね、教育課に何十年といた人でしたから、わっしの気持ちを察してくれたんでしょう……。そういうことがありました……。
 小林カウは、最期までカウらしかった。
 自分は女だから絶対に死刑はないと信じ切っていたカウは、拘置所長から翌日の執行を告げられた時も事情がすぐには飲み込めぬ様子で「キョトン」としていた。
 次の日の朝、小菅に着いてからも、何か悪い夢を見せられているような狐につままれたような顔をしていた。これまで思い込んできた"一〇年後の恩赦"と、目の前に迫る現実。その距離を、うまく埋めることが出来ないでいたのかもしれない。
 あまり多くは語らなかったカウだが、一連の儀式を終えて、いよいよ刑場に移動させられ絞縄をかけられようとする間際、こう言って周りを驚かせた。
「すみません、もう二、三日、待ってもらえないもんでしょうか?」
 刑務官らは一瞬、ハッとしてその手を止めたが、すぐさま我に返ったように作業に戻った。カウもそれ以上、言葉を発することはなかった。渡邉は、篠田と声を揃え経をあげた。泣き叫ぶよりもいい、最後の最後までカウらしいと思った。そして心の中で願った。「カウさんよ、あんた本当に大したもんだった。どうかお浄土で阿弥陀様に抱かれて安心して暮らしなさい。次に生まれる時は、他人を幸せにする人間になってくれ」

 すべてが終わり、六一歳で人生を閉じたカウの顔は穏やかだった。あらゆる煩悩と欲望からやっと解き放たれ、これで自由になれたのだと渡邉は思った。いや、そう思いたかった。
 ──あと二、三日、待ってほしい。
 人間は、死ぬぎりぎりまで生きようともがく。どんな罪を背負った人間も、どんな勇者も聖人も、それはきっと同じだ。カウの最後の言葉ほど、己の心に正直な言葉はないと渡邉は思った。最後の瞬間まで「生きたい」と願う人間の本能ともいうべきありのままの姿を見せつけて、カウは逝った。
 そういえば木内は、文字を習い始めた時に誓った被害者遺族への詫び状と遺書は、最後まで書くことが出来なかった。世の中には立派な難しい言葉が沢山あるというのに、自分の気持ちにぴったりあう言葉が見つからない、とよくぼやいていた。
 世間では、加害者が更生したかどうかを判断する時、「被害者から見て」心から反省したと認めた時、という条件をつけたがる。しかし「それは違うよ」と渡邉はよく言った。
親鸞はある時、旅の途中で、疫病の発生や飢饉に見舞われ窮状にあえぐ農民たちを救おうと『三部経』を一〇〇〇回繰り返して読誦し、彼らを救おうと努めたことがあるという。しかし結局、何を思ったか、四日目の晩に読経をあきらめて理由も語らぬまま引き揚げたと彼の妻は書き残している(『恵信尼消息』より)。
 病院から東京拘置所に通い始めた最初の頃は、入院していることは隠しておいた。やはり「教誨師が"アル中"ではきまりが悪い」と思ったからだ。苦しい断酒との戦いで体調や気分にも波があり、面接に行けないことも何度かあった。面接を休むなどということは、皆勤賞の渡邉には何十年もなかったことである。
 休む度、どうでもいい理由を持ち出しては、いちいち噓をつかなくてはならなかった。噓を隠すために、また別の噓を重ねることに虚しさを感じた。「もう楽になりたい」。渡邉はとうとう死刑囚たちに、今の自分のことを思い切って打ち明けることにした。
「実はわっし、今、"アル中"で病院に入っとるんじゃ。酒が止められんでね。たびたび面接も休んでしもうて、申し訳ないことですな」
 平素は"先生"である教誨師の思わぬ告白に、さらに思わぬ反響が返ってきた。死刑囚の中にはアルコール依存症など序の口、覚醒剤中毒に苦しんだ経験を持つ者が多くいた。
「先生、あんたもか! それは苦しいだろう、分かるよ。覚醒剤も酒も同じだ。でも、私は独居房ですっかり薬が抜けましたよ。フラッシュバックで大変な時もあったけど、もう平気。まずは身体から薬を抜く、それしかない。自分で止めるしかありませんよ」
 "自分で止めるしかない"──。逆に死刑囚たちから指南され、励まされた。
 噂はあっという間に広まった。死刑囚たちは渡邉という一人の坊主に興味を持ったようだった。それまで黙って経典の解釈を聞いていた者が、酒や女の話など自分の方から経験を打ち明けてきた。少し休んで面接へ出かけると、「先生、大丈夫だったか」と抱きついてくる者まで現れた。死刑囚が教誨師に走り寄って抱きつくのだから、付き添いの刑務官は目を白黒させていた。
 渡邉が本来は隠したいような弱みをさらけだしたことで、彼らは教誨師という特殊な立場にあった渡邉をひとりの人間として認めたのかもしれなかった。

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