チェーホフ『六号病棟』

 アンドレイ・エフィームイチは、知性と誠実を人一倍愛していたが、自分の周囲に知的で誠実な生活を築き上げるためには性格が強くなく、みずからの権利にたいする信念が欠けていた。命令したり、禁止したり、主張したりすることは、およそ彼にはできなかった。それはまるで、決して声を荒らげまい、命令法を使うまいと誓いを立てでもしたかのようだった。「くれ」とか「持ってこい」とか言うのが大の苦手で、腹の減ったときには遠慮がちに咳払いしながら、料理女に、「お茶が貰えんだろうかね……」とか「食事にしたいんだけどね」とか言う。それくらいだから、事務長に横領しないように注意するなり、首にするなり、このまったく無駄な、寄生虫のような職務をきっぱり廃止してしまうなりすることは――とうてい彼の手にはおえなかった。人が彼を騙したり、おべっかをつかったり、でたらめとわかっている勘定書きにサインしてくれと持って来たりすると、アンドレイ・エフィームイチはそれこそ真っ赤になって、恥じ入りながらもサインしてしまう。患者が空腹を訴えたり、突っけんどんな付添婦のことで苦情を言ったりすると、どぎまぎしながら、すまなそうにこうつぶやく。
「よしよし、あとで調べてみるから……。きっと、何かの誤解だろう……」

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