S.トゥールミン+A.ジャニク『ウィトゲンシュタインのウィーン』

第一章 ──問題と方法──

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 同じように、二十世紀初頭のウィーンの建築と芸術、ジャーナリズムと法律学、哲学と詩、音楽、戯曲および彫刻を、同じ時期の同じ場所にたまたま起きていた、多くの並行した、独立の活動とみなすならば、再び、それぞれ別な分野についての、莫大な量の、詳細な技術的な情報を集積することに終わるであろう。そして一方では、これらのすべての中で最も意義のある事実、すなわち、これらはすべて同じ時期に同じ場所で起きていたということに、眼を閉じてしまうのである。この点において、後期ハプスブルク朝ウィーンと、例えば現代のイギリスあるいはアメリとの間にある深い相違に、人は容易に欺かれる。前者では、芸術的および文化的生活は芸術家や音楽家ならびに著述家の、かたく結びついたグループの関心事であり、彼らは、ほとんど毎日会っては議論するのが習慣で、職業的な専門化の必要は少しも感じていなかった。後者では、学問および芸術の専門化は当然のこととみなされ、創造的活動のいろいろな分野は、実質的に互いに独立してつちかわれる。もし一九〇〇年代のウィーンの文化が、われわれ自身の現在の専門化を映すのに好都合であれば、(例えば)芸術の歴史と文学を分離することが、実際に正当かつ適切であろう。しかし実情は、ウィーンのいろいろな芸術と科学の相互依存関係をあえて見逃す、という危険を冒すのである。

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 人間ウィトゲンシュタインと哲学者ウィトゲンシュタインとの関係を新たに考え直してみることの必要性は、四番目の、顕著な、一群の未解決の逆説と問題を調べてみると分かる。これらは、『論理哲学論考』の解釈そのものに直接生じてくるものである。前に述べたように、ウィトゲンシュタインの著作は、普通、二十世紀の数理論理学やイギリスの分析哲学に対して貢献したとみなされている。彼がラッセルとフレーゲ、G・E・ムーアやジョン・ウィズダムと個人的に交わったために、彼の教養の源や知的関心事その他すべてのことが、影におおわれたのである。彼は、さまざまな形で称賛もしくは攻撃されている。例えば、「真理表の方法」の共著者、両大戦間の実証主義へのその顕著な影響、「私的な言語」、「直示的定義」および「感覚所与」の批判者、それに「知的な痙攣」「言語ゲーム」および「生活形式」の分析者というように。要するに、彼はバートランド・ラッセルとG・E・ムーアのアイディアや方法をとり入れ、これらを、この二人が想像していたよりも、はるかに洗練されたものに仕上げた人として、称賛もしくは攻撃されているのである。けれども、もし『論考』の出版をもっぱら哲学的論理学の歴史における一つの挿話としてみるなら、この本の一つの重要な特色が、相変わらず全く神秘的なままである。明らかに、もっぱら論理学、言語理論および数学ないしは自然科学の哲学に捧げられた七十頁ほどの本文の後で、突然、結びの五頁(命題六・四以降)に出くわすが、ここでは外見上、頭の向きがねじ曲げられ、独我論、死および「世界の外になければならない」「世界の意味」についての、一連の独断的なテーゼに直面する。論理=哲学的予備考察と、これらの最後の、道徳=神学的アフォリズムのそれぞれに割り当てられたスペースが全く不釣り合いなために、最後の諸命題を付帯意見オビテル・ディクタとして、つまり、ある法律上の判決の終わりに見せかけで述べられはするが、当の事件と裁判上なんの関係もないため、その後になんの拘束力をもたない、その場限りの思いつきのように、簡単に片付けてしまおうという誘惑があった。
 けれども、『論考』のこういう読み方は、本当に正当化されるであろうか。倫理、価値および「人生の諸問題」についての最後の考察は、単なる場あたりの言葉、埋め草、ないしは個人的な思いつきだったのだろうか。あるいは、それらは主要な本文と欠くことのできない関連をもっているが、よく知られている解釈がそれを見逃しているのであろうか。英語圏哲学の職業的、技術的な世界にとどまっている限り、この疑いはおそらく学問的なものでしかない。しかし、地理をケンブリッジからオーストリアへ移し、『論考』が普通は倫理学の論文とみられていることを知ると、それは実際上の疑いになる。ウィトゲンシュタインに最も近かったオーストリアの人々は、彼が何かに専念するときは、きまって倫理的な観点からであった、と主張する。この意味で、ウィトゲンシュタインは、彼らの一人に直ちにキルケゴールを思い出させた。『論考』は、彼の家族や友人のみるところでは、単に倫理学の書物以上であった。それは倫理の証文であり、倫理学の本性を示したものである。そしてこの印象は、パウル・エンゲルマンのコレクション『ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの手紙』と共に出版された最近の『回想』によっても、またルートヴィヒ・フィッカーとの文通によっても補強されるばかりである。後に『論考』について書いている、他のどんな人よりも、ウィトゲンシュタインと一緒に『論考』について議論したエンゲルマンにとって、この書物の趣旨は徹底して倫理的であった。エンゲルマンは、倫理学をいかなる種類の知的な基礎づけからも分離することが、ウィトゲンシュタインの基本的な考えであると特色づけた。倫理は「言葉のない信仰」の問題であった。そしてウィトゲンシュタインの他の関心事は、主として、この根本的な概念から生じたものとみられた。
 こうして、『論考』を論理学と言語理論についての試論とみる既存の英語の文献と、ウィトゲンシュタインが行っていたことについて、これとは非常に異なった見方をする伝統──これは今でもウィーンの知的世界で流布している──の間に、あからさまな衝突がみられるわけである。バートランド・ラッセルが『論考』に序文を書いて以来、英語圏の哲学者はほとんど例外なく、『論考』の根本的関心は、哲学的論理学におけるテクニカルな問題と言語の世界に対する関係である、という態度をとってきた。ウィトゲンシュタインが、この本の出版をとりやめようかと思ったほったほど、ラッセルの序文はミスリーディングであるとしていの一番に拒否したという事実を、彼らは、ラッセルがこの著作の、ある限られた局面を誤解したことを示すに過ぎないものと解釈した。彼らは基本的には依然として、それは価値について奇妙な暗示を含んだ、言語の論理に関する研究であると考えていたのである。カルナップやエイヤーのような論理実証主義者が、この著作を彼らの胸にしっかり抱きしめ、それを経験主義者のバイブルとしたという事実から、この解釈は次第に重みを増した。そして、エリザベス・アンスコムと同じように、ウィトゲンシュタインの身近にいた人の中には、実証主義的な見解は『論考』の真の理解には無関係であるとして退けた人がいたにもかかわらず、それに代わるアンスコムの主張は、ウィトゲンシュタインの最も重要な先駆者としてのフレーゲに対して、ほんのわずかな注意しか向けられていないということであり、したがってまた、スポットライトの焦点をしっかりと論理学に合わせておくこと、というにすぎなかった。
 『論考』を理解しようとする人は、こういうわけで、この本の主題そのものについて、二つの対立する見解に直面する。便宜上、それらを「倫理的」解釈および「論理的」解釈とよんでおく。双方の見解には定評ある支持者がいる。両者はともに、『論考』のある局面を説明するけれども、完全な説明としてはどちらも十分ではない。本書におけるわれわれ自身の分析には、現在広く知られているイギリスやアメリカの見解のバランスを、もう一度くつがえすという効果があるだろう。ここでは、ウィトゲンシュタイン自身の意図と合致する仕方でこの本を理解するためには、「倫理的」解釈の優位さを受けいれねばならないことを示す。次章以下で集める、すべての状況証拠を全く別にして、そうするための直接的な理由が二つある。第一に、この著作に与えられたあらゆる解釈に、ウィトゲンシュタイン自身が生涯を通じて反対していたし、その後の、多くの解釈は、彼が生きている間に出版された解釈と細部において違うだけである。第二に、エンゲルマンの直接の証言は、「論理的」な前提や方向づけで『論考』に近づいた、その後の人々の推測よりも、いっそう権威あるものとみられなければならない。なんといっても、この本が書かれたその期間中、エンゲルマンはウィトゲンシュタインと緊密に接触していたのであり、この著作について議論をする機会が、この二人にはひんぱんにあったのである。
 『論考』の解釈について、エンゲルマンが持ち出すに違いない最も重要な提案は、この本が特殊な文化的環境から生まれたものと考えられるべきだ、ということである。エンゲルマンによれば、この環境は、ウィトゲンシュタインが成年に達した当時のウィーン、特にカール・クラウスやアドルフ・ロースの作品に最も著しく表現されている、あの環境の中の風潮そのものである。残念ながら、エンゲルマン自身は、クラウスやロースのウィーンについて、ほんのわずかの情報しか提供していない。つまり、世紀末ウィーンの、文化的情景のほんのわずかな骨格しか与えていない。そして、本書の主要な目的の一つは、エンゲルマンが切り開いた研究領域を、すなわち、ウィトゲンシュタインの初期の著作の歴史的な広がりを、更に追求することである。
 ウィトゲンシュタインの歴史的背景について、他の補足的な見通しを述べている者は、きわめてわずかである。彼の友人で教え子のモーリス・ドルーリーは、ウィトゲンシュタインがキルケゴールを十九世紀の最も重要な哲学者とみなしていた、と報告している。アンスコム女史は、フレーゲの著作との関係においてのみ、ウィトゲンシュタインの著作は正しく理解されるという考えを持ち出している。ウィトゲンシュタインの見解とショーペンハウアーの見解の間の類似性や相似性に言及している著者も、何人かいる。エーリヒ・ヘラーとヴェルナー・クラフトは、クラウス、マウトナーおよびランダウアーといった、同時代の他の中央ヨーロッパの思想家による、言語の本性についての著述に対する、『論考』の関係を強調している。他方、エリク・ステニウスとモリス・エンゲルは、『論考』とウィトゲンシュタインの後期の哲学の双方にカント的要素を指摘している。けれども、もし『論考』の逆説の核心部を全面的に解きあかそうと思うならば、すなわち「倫理的な」ウィトゲンシュタインと「論理的な」ウィトゲンシュタインをどのようにして調和するか、したがってまた、その後のアカデミックな手術であいた切り口を、人間ウィトゲンシュタインとその著作に対するわれわれの見解で、どのようにして癒すべきかを全面的に解決しようとするならば、ウィーンの文化的情景の本質的な性格を明るみに出すために、もっと多くのことがなされねばならない。
 方法についての、以上の予備的な議論でわれわれが主張してきたことは、オーソドックスな学問的な分析では、ウィトゲンシュタインのウィーンおよびウィトゲンシュタイン自身についてのわれわれの描写に対して、事実上的はずれで、不適当な抽象化を押しつけることになる、ということである。この抽象化が不適当と考えられる理由は二つあり、一つは一般的なもので、他は哲学に固有のものである。第一に、後期ハプスブルク朝ウィーンの文化生活においては見られず、その後五十年たってやっと定着したにすぎない、知的なものと芸術的なものとの専門化を、当の抽象化はすべて当然のことと思っているし、この抽象化自身がその専門化の産物である。第二に、これらの抽象化は、哲学は自律的な職業と化した、アカデミックな学問であるという観念を──すなわち、わずかに第二次世界大戦以来イギリスと合衆国の大学で支配的になってきたが、一九一四年以前のオーストリアには、他に例をみないほど的はずれな観念を──より著しく反映している。ウィトゲンシュタインのウィーンにおいては、教養人の世界ではみなが哲学を論じ、カント以後の思想における中心的論点を自分自身の関心と──それが芸術的か科学的かを問わず、ままた法律的か政治的かを問わず──直接関係があるものと考えていた。彼らにとっては、哲学は、自律的で自己充足的な学問の、専門化された関心事であるどころか、多面的であり、また同時代の文化の、他のすべての局面と相互に関係のあるものであった。
 こういう対比があたえられると、もう一つの問いが生じる。一九二〇年以降、『論考』自身が、新しい、「職業化された」哲学の礎石になった。この結果として生まれた学問の内部において、哲学の「技術的な」論点を、より大きな、その文化の母体から切り離し、例えば純粋数学の問題と定理が外的なことにかかわらないのと同様に、この理論的な分析に、独立の基礎を与えようという試みが行われた。けれども、(今尋ねなければならないのだが)これはそもそもウィトゲンシュタイン自身の意図の一部であったのだろうか。もしそれを主として、その後他の人々が信頼した、アカデミックな伝統の一要素であるとみるならば、『論考』を正しく理解することになる、と期待してよいであろうか。それもまた、本書の研究に照らして、われわれなりに答を出すであろう、一つの問いである。さしあたり、一つのことだけを指摘すれば十分である。ウィトゲンシュタイン自身は、青年時代に親しんだ、かなり幅の広い文学的ならびに文化的伝統から、自分自身を切り離すようなことは決してしなかった。彼は昔の哲学の古典についてはあまり知らなかったが、ドイツ・オーストリア界隈の、主要な人物と豊かな、そしてさまざまな親交を結んでいたことで、それは補われていた。そして、彼が二冊の主著に選んだモットーは、おそらくこれ以上典型的なウィーン人はありえなかったであろう著者たちから、すなわち、『論考』にはキュールンベルガー、『探究』にはネストロイからとられたのである。
第二章 ハプルブルク朝ウィーン──逆説の都──

おお、ウィーン、夢の都よ。
ウィーンにまさる所はなし。
ローベルト・ムージル『特性のない男』
第三巻、第三十三章の狂人

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 「古きよき時代」が終わりに近づいた頃、ウィーンは、とりわけブルジョワジーの都市であった。すべての分野における指導的人物は、大抵、ブルジョワジーの出であった。ウィーンは遠い昔から商業の中心地であり、マリア・テレジアの統治以来、大規模な行政の中心であったが、ウィーンのブルジョワジーが独特の性格を身につけたのは、十九世紀後半の、最初の二十五年の間であった。この時期は、産業が大いに発展し、投資家、産業創立者あるいは斬新な製造技術をもった人物が、莫大な財産を築いたり失ったりした時期、泡沫会社氾濫時代グリュンダー・ツァイトであった。こうして築かれた物質的繁栄によって、次の世代は芸術心をつちかう余裕を得たのである。経済的成功は、家父長的社会の基盤であった。ブルジョワジーの結婚は、心の問題というよりは、あたかも最重の最要の企業合同ででもあるかのような手続きを踏んで取り決められた。「旧ウィーン」では、マルクスも指摘しているように、「ブルジョワジーは、家族の心情のベールを引き裂き、家族間の関係を、単なる金銭関係に変えてしまったのである」。
 実業界の大物を目指す者にとって、「よい結婚」は欠かすことができなかった。この社会において大事にされた価値は、分別、秩序、進歩、忍耐、それによい趣味や行動の基準への、規律ある適合であった。不条理、激情、それに無秩序なことは、どんな犠牲を払っても避けるべきであるとされた。このようなルールを守って初めて、知名度を高めることができ、成功の度合は、それがどんなものにせよ、個人の才能に比例すると考えられた。そしてそのような成功は、当人が所有する財産によって世間に示すことができた。マックス・シュティルナーがしばしばいっていたように、人は自分が所有した物を通じて、自己を表現したのである。
 過去の体制や伝統と深いかかわりをもつ、このような社会においては、安定を維持するということが、種々の美徳の中で、上位に置かれていたとしても驚くにあたらない。こうした考え方の具体的な表れが家庭であり、当時それはまさに(そして、しばしば文字通り)、当人の城であった。王国の中の、この小宇宙社会においては、一家の父親たるものは、秩序と安全の保障人であり、したがって絶対的な権力をもっていた。かつまた、家庭の重要性は、個人的成功の反映にとどまらなかった。家庭は、外部の世界からの避難所でもあり、ここでは、仕事の世界の退屈な些末事が入りこむことは許されなかった。そのような時代に生をうけなかった者には、生活がすべてきちんと保護されている、隔絶された環境の中に生まれ育つということは、一体どういうことなのか、想像はつかない。シュテファン・ツヴァイクは、まさしくそんな家庭で生長したのであるが、憂うつな調子で次のように述べている。

 「年若い友人と談笑していて、第一次大戦前の時代のエピソードを話すたびに、彼らは決まって、ふしぎそうに質問する。私にとってはまだ明らかに現実の事柄が、彼らにとっては既に過去の歴史にほかならず、理解できなくなってしまったのである。そしてわたくしの第六感は、彼らが正しいのだ、とわたくしにささやく。われわれの昨日と今日を結ぶかけ橋は、すべて焼け落ちてしまったのである」

 ツヴァイクの「昨日の世界』の意義は、最後の、そして最上の世代を形成していた人々にとって、彼らの喪失感をもってして、初めて評価できるものである。なぜなら、それまでブルジョワジーの家庭が創り出していた、現実との絶縁を、戦争が破壊し、その結果、家族は、現実のもつ苛酷な局面──彼らはこれに対して、まだ取り組む心構えができていなかった──に、立ち向かわされたからである。
 このようなブルジョワ的生活観にみられる気取りは、あらゆる場面に現れていた。もし家庭が単なる生きるための手段(machine a vivre)以上のものであったとすれば、家の中を満たしているさまざまな物にもまた、その機能と同じほど、多くの象徴的な価値があった。当時の保守的な批評家は、十九世紀の影響は、生活全般に浸透している大きな不幸であるとみていた。この時代の本質は、そのデザインに特有のスタイルを欠いていたという事実に、最もよく現れている。ブルジョワ階級は自分自身のスタイルをもっていないので、わずかに過去を真似ただけである。したがって、家は過去の美術品のイミテーションで満ちていた。どの部屋も、さまざまな様式のけばけばしい美術品オブジェ・ダールでごった返していた。どこでもかしこでも、シンプルなものよりは複雑なもたの、実用的なものよりは装飾的なものが好んで使われたので、部屋は見た目に下品で、とても住めそうになかった。家具調度は前の時代や他の文化の様式にのっとって整えなければならない、というのがこの時代の風潮であったとすれば、それに逆らうことは、とてもできない相談だったのである。ムージルの皮肉な目は、そうした状態の核心を見透していた。

 「他方、先輩たちの壮大かつ雄大な時代に執心していた新興成金階級ヌーヴォー・リシュは、思わず知らず、気むずかしく手のこんだ選択をしていた。城館がひとたびブルジョワの所有に帰すると、家宝のシャンデリアの内部に電線を通すというように、近代的な設備が取りつけられたばかりでなく、家具を整えるにあたっても、あまり高級でない物は取り払われ、価値の高い物が新たに運びこまれた。そしてその際には、個人的な好みに従って選ぶか、専門家の、狂いのない助言に従うかしたのである。因みにつけ加えると、そうした手のこんだやり方が最も強く現れていたのは、城館ではなくて、市内の邸宅であった。邸宅には時代の流行にあった調度がそろっていて、すべてに定期客船の、非個性的な豪華さがあった。だが、その邸宅は洗練された社交生活の野心に満ちていたこの国では今や消え去った栄光の、輝きの名残を、微妙に、しかしありありととどめていた。それは、邸宅の言語に絶した広さにおいても、いとんど隙間がないほど置かれた家具においても、あるいは、よく目立つ場所にある、壁の絵においても見られたのである」

 そういうわけで、新興ブルジョワ階級は、彼らの城館である家庭の調度品そのものにおいて、ハプスブルク王国の古いカトリック貴族階級と張り合おうとする気持ちを、不完全な形で表現していたのである。
 ひとたび自分の城に入ると、家長は彼の労働の成果を心ゆくまで享受することができた。彼の情熱のすべてに対し、「生来の」人間性を与えるはけ口であり、同時に、彼にとっての形而上学的真理の源泉でもあった芸術、音楽、それに文学に専心できたのである。やがて、貴族風を模倣しようとする欲望がより広がるにつれ、芸術を後援することが、富と社会的地位のシンボルと化し、裏の動機から行われた。城館や避難所が財界におけるその人物の反映となるや、芸術を通じて身につけた、洗練されたセンスや上品さは、芸術の本来的な価値とは異なった、何か別のもののために望ましいものとなった。労働時間中仕事に専念するのと同じような熱心さで、自由な時間を芸術に捧げて初めて、人はひとかどの人物であると認められた。実際、世紀の変わり目に成人に達した世代のウィーンの人々は、「美的」価値にひたされた、また、それに深い愛情を捧げた雰囲気の中で育ったので、それとは異なる価値がそもそも存在するなどということは、彼らにはほとんど理解できなかった。
 当時のウィーン文化を専門とする、ある著名な歴史家は、オーストリアの耽美主義を、フランスとイギリスのそれと比較して、次のように述べている。

 「簡単にいえば、オーストリアの耽美主義者は、フランスの耽美主義者のように、社会から遠ざかっていたわけでもなければ、イギリスの仲間のように、社会と密接なかかわりをもっていたわけでもない。オーストリア人の場合は、フランスの耽美主義者のような、激しい反プルジョワ精神はもっていなかったし、イギリス人の場合のように、社会改善への、熱のこもった積極性も欠いていた。自由奔放 (degage)でもなく、また政治にも参加 (engage)しなかったオーストリアの耽美主義者は、自分たちの階級から遠ざかっていたのではなく、彼らの期待を踏みにじり、その価値を拒否した社会から、彼らの階級とともに、離れていたのである」

 ブルジョワ階級は伝統的に、形而上学の真理と道徳の真理を教える手段を、芸術に見いだしてきた。泡沫会社氾濫時代には、この考え方がきわめて広く行き渡ったため、個人の美的趣味は、当人の社会的、経済的地位のバロメーターであった。次の世代にとっては、芸術が生活様式そのものとなった。「泡沫会社の発起人」の世代が、「ビジネスはビジネス」で、芸術は本来、(ビジネス)生活ライフの飾りにすぎないという考えをもっていたとするなら、芸術を本質的に創造的なものとみていた彼らの息子たちにとっては、「芸術は芸術」で、ビジネスは、人を(芸術的な)創造から逸脱させる、張り合いのない気晴らしだったのである。「泡沫会社の発起人」の世代は、過去の時代の価値を指向する芸術を貴んだ。彼らは収集家、すなわち家庭という美術館の館長であった。これとは対照的に、若い世代の芸術は、前向きで、刷新的であり、彼らの生活の核心をなしていたのだ。
 こうした状況が、アルトゥル・シュニッツラーとヘルマン・バールが中心になっていた、若い詩人たちのグループの背景であった。彼らはカフェ・グリーンシュタイドルに集まり、若きウィーン派として知られていた。中でも特に目立った存在は、フーゴー・フォン・ホーフマンスタールとシュテファン・ツヴァイクであった。彼らは、話し方、服装それに社会習慣の基準を形成していた演劇が、生活の中心を占めるのがきわめて自然であるとしていた社会に育った人たちで、かつまた、ジャーナリズムの水準が例外的に高い都市で成長したのである。実際、『ノイエ・フライエ・プレッセ』は、ヨーロッパでも一、二を争う一流新聞であった。ツヴァイクは、耽美主義的見地から次のように記している。

 「ウィーンの高級な新聞といえば、『ノイエ・フライエ・プレッセ』だけであった。その堂々たる主義主張、文化に対する熱意、政治的威信は、オーストリア = ハンガリー王国において、イギリスの『ザ・タイムズ』や、フランスの『ル・タン』と同じような役割を果たしていた」

 彼らが(そして実際に彼らの父親たちも)この新聞で、もはや最良質でないヌ・ プリュ・ユルトラと考えたのは、文学的エッセイもしくは文化的エッセイである「文芸論説欄」であった。

 「文芸論説欄の筆者は、文芸小品の名人であったが、それぞれ独立した内容の記事やエピソードを、十九世紀の人々の好みであった、具体性に十分訴える筆致で書いていた。筆者はその上、想像をもとに題材に色づけしようとした。経験した事柄に対する、報告者や批評家の主観的な反応、筆者自身の感じ方のトーンのほうが、議論の内容より、明らかに重要なものとなった。そして、筆者の心象を表現することが、判断を述べるための様式になっていたのだ。したがって、文芸論欄の担当者の文体では、名詞が形容詞に圧倒され、議論の対象の輪廓が、個人的な色合によって、実質的にぽかされてしまっていた」

 ツヴァイクの自叙伝からも明らかであるが、『ノイエ・フライエ・プレッセ』の文芸論説欄の編集者テオドール・ヘルツルにエッセイを認めてもらうことが、オーストリアの文壇に「登場する」ことだったのである。
 父親たちが、仕事の面で苦労して手に入れた地位は、息子たちにとってはなんの意味もなかった。芸術のための芸術に執心していた彼らにとって、唯一の価値ある仕事は、新米の詩人たちを育成することであった。一方、自己の存在を認めさせようとして奮闘してきた自分たちの社会の価値を息子たちが拒否しようとすることは、父親たちにとっては、不道徳なことと思われた。父親たちはひとたび旧秩序の中で社会的地位を確立することに成功すると、そのきわめて誠実な擁護者となり、若い世代の革新的な傾向を抑制しようと、最大の努力を傾けた。そのようなわけで、自分たちの学問の内容が生活とは無関係であった若い耽美主義者たちは、当時の教育制度はいつも退屈で、疲れるばかりだと考えていた。「ビジネスはビジネス」といった世界を避けるために、彼らは、芸術家でにぎわっているコーヒーショップに逃れた。ここには、自分たちが受けていた、きまりきった教育には全く欠けている、活発で、自発的な自己表現が見られたからである。教師の言葉が掟であり、学生の権利などない統制体制の下では、人間の振る舞いを説明するにあたって「劣等感」が重要な意味をもつことを発見した人物──アルフレート・アドラー──が生み出されたことは、(ツヴァイクが指摘していることだが)少しも不思議ではない。その体制はあまりにも抑圧的だったので、ツヴァイクの見方では、伝統的な権威と明らかに相容れない、いかなる思想や活動も、多くの人々にとっては犯罪の源泉となった。
 フロイトの精神分析は、性的欲望が抑圧されることから起こる欲求不満を、ノイローゼや人間の行動一般を理解する鍵であると力説した。ツヴァイクは、このフロイトの精神分析がフロイトもまたウィーン人であったことに由来する、とはっきりいいきってはいないけれども、彼は、当時のウィーン社会が性の観念に完全に支配されていた点を強調している。性が公然と論じられるようなことはなかったという事実そのものが、常に性が、人々の念頭を去らなかったことを立証していた。性についてのタブーは、思想と行為の「純粋性」を助長するどころか、かえって、人々の性意識を極端に強めたのである。当時のウィーンのブルジョワが、パリ、ロンドン、あるいはベルリンのブルジョワたちに比べ、性への執着がより強かったか、弱かったかは、議論の余地もある。しかし、少なくとも、その執着ぶりを表現するための、社会的に容認された手立てがなかったことは確かである。旧世代は、その執着は、社会の手で完全に制御しなければならない、無政府主義的な勢力であると考えた。性的衝動は人間の本性にとって基本的なことであるとか、 性的欲求不満は恐ろしい結果を招来するといった考えはいうにおよばず、そのような衝動が実際に存在するということは、公には少しも認めてはならないのであった。性についてのこの黙殺戦術は、二つの結果をもたらした。その一つは、性的問題について明白な抑圧と無知であり、もう一つは、性についてひそかに強調する、ということである。
 徹底的な家父長制社会において、最も苦しい運命を負っていたのは、女性であった。女体を特徴づけている部分はすべて、あまりにも扱いにくい衣類で隠されねばならなかったので、他人ので手を借りなければ服を着ることができないほどであった。したがって、そのようにやっかいな服をつけていた婦人の物腰は、いかにもわざとらしくならざるをえなかった。婦人に要求されていた振る舞いの掟も、同様に不自然であった。その最たるものは、「育ちのよい」女性が必要以上の教育を受けることは、社会的に許されなかったことである。決定的であったのは、中流階級の結婚が、個人の結びつきというよりは、いの一番にビジネス契約であったという事実を見ると、なぜフロイトの患者にはブルジョワの中年婦人が非常に多かったかが分かるし、フロイト式分析の適用範囲の限界もはっきりしてくる。一口でいうと、社会の設計全体が、婦人を欲求不満に導くものだったのである。ツヴァイクは次のように述べている。

 「当時の社会が望ましいとした若い女性のあり方とは、次のようなものだった。間抜けで、無学で、躾はいいが無知で、好奇心があるが恥かしがりやで、断固としたところがなく、自己防御の気分を欠き、教育によって考え方がどうとでもなる。世の中についての知識は最初からなく、結婚にあたっては、自己の意志などもたずに、男性の考えに従い、彼が望む通りに躾けられることであった」

 男性の問題はこれとは違ったものであったが、それでもやはり、困惑を招くものであった。中流階級の結婚では、当の紳士が、経済的にも社会的にも地位が安定していなければならなかった──すなわち、完全に彼の現状にかかわることだった──ので、二十五、六歳までは独身たらざるをえなかった。このように、社会的に成年が認められるのは、実際に成年に達してから、六年ないし十年後のことであった。したがって、男性が性的はけ口を見つけるとすれば、娼婦を相手にするよりほかはなかった。「育ちのいい」女性と性的関係をもつことは、まったく論外であった。そういうわけで(ツヴァイクは明言しているのだが)、「売春は、表面は無傷で輝かしいブルジョワ社会の、華麗な構造の、暗い地下室を形成していたのである」。
 女性が独身として欲求不満に甘んじなければならなかった一方、男性ははけ口を見つけることができた。しかしそれには常に、性病にかかる危険という高い代価を払わなければならなかった。これに代わるべき唯一の手段は、このような世界を避けて、コーヒーショップでの芸術家的生活にひたることであったが、それは自分に、退廃的で不道徳な耽美主義者というレッテルを貼ることであった。

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 ルエーガーの民衆扇動のテクニックは俗悪で公僕にはふさわしくない、とみていた皇帝も、結局は彼の就任を容認することになったのであるが、そうした皇帝のもとで、ルエーガーは五度市長に当選し、ひとたび権力を確立すると、彼の「ユダヤ系マジャール人」攻撃は、次第に回数が減り、激しさも薄れていった。事実彼は、その演説で非難したユダヤ系資本家の食事への招待を断るようなことは、在職中めったになかった。このような態度は、「誰がユダヤ人であるかはわたしが決める」という、彼の悪名高い言葉に、最もよく要約されている。実際彼は、適切な状況のもとでは、少なくともウィーンのユダヤ人については、お愛想をいう気になったのである。

 「わたしは、ハンガリー人以上にユダヤ系ハンガリー人が嫌いである。しかし、わたしはウィーンのユダヤ人の敵ではない。彼らはひどい悪人ではないし、われわれは彼らなしではやってゆけない。わがウィーン人はいつも十分な休息をとりたがるが、ユダヤ人だけは、いつも活発でいたいと思っている」

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 エミール・デュルケムは、一八九七年に発表した、自殺に関する古典的な研究の初めのほうで、この種の研究がどれほど時宜にかなったものであるかを説明している。

 「社会の道徳的構造は、どんな瞬間をとってみても、自発的な死が起こりうることを証明していた。したがって、人間それぞれに自滅を強いる、一定量のエネルギーの集約的な力が存在する。犠牲者の行為は、一見すると、彼の個人的な気質の現れのように見えるが、実際には、一つの社会状態の、外に向かって現れる補足と延長である」

 その後に起こった思想は、デュルケムの見解を大いに強化している。もしハプスブルク帝国の、国家、民族、社会、外交、性に関する諸問題が、われわれが示唆したように深刻なものだったとすれば、帝国内の自殺者の割合はそれに比例して高かったはずである。みずからの手で生命を絶った著名なオーストリア人のリストは、事実、広範で際立ったものである。それには次のような人々が含まれる。統計熱力学の父ルートヴィヒ・ボルツマン。彼自身、少なからぬ音楽の才能の持ち主であった、作曲家マーラーの兄弟オットー・マーラー。ドイツ語による作品でその才を凌駕するものはほとんど見当たらない抒情詩人ゲオルク・トラークル。その著書『性と性格』で有名な裁判事件を起こし、ベートーヴェンが死んだ家で、その数カ月後に自殺したオットー・ワイニンガー。自分の設計した帝室オペラ・ハウスに対して浴びせられた批判に耐えられなかった工ドゥアルト・ヴァン・デル・ニュル。本書で既に紹介したアルフレート・レードル。そしてルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン自身の三人もの兄たちなどである。おそらく、最も奇怪なケースは、八センチ×九センチ砲の開発者であった将軍フランツ・フォン・ウハティウス男爵の場合である。口径二八センチという巨大な野砲が、彼の最大の偉績となるはずであったが、テスト中に砲身が破裂し、その数日後に、彼が兵器廠内でのどをかき切って死亡しているのが発見された。帝室・王室も例外ではなかった。一八八九年、皇太子ルドルフがメイヤーリングの山荘で、彼が愛したマリーア・ヴェートゼラ男爵夫人を殺し、自分も自殺したが、その状況は、ロマンチックどころか凄惨なものであった。これらは、「夢の都」ウィーンが、自分たちにとってもはやこれ以上は耐えられない、悪夢の都市となってしまった人々のごく一部であった。
 アイデンティティと意思伝達の問題は、ウィーン社会のあらゆるレベルに突きささっていた。──つまり、政治的かつ社会的なレベルにおいて、また個人的なそして国際的なレベルにおいても。国際問題の急速な展開により、ハプスブルク家の領土は、ビスマルクが築き上げた若い強力なドイツ帝国から締め出されてしまった。政治問題は、十分に論じるには、一章や一段落はもとより、一書を費やしても、まだ足りないほど範囲が広い。しかし、チェコ人の場合を検討すれば、それら政治問題の最適のヒントを得ることができるだろう。オーストリア = ハンガリー帝国の属国民の中で、チェコ人はおそらく最良の立場にあった。つまり、ドイツ人、マジャール人、イタリア人、ポーランド人以外の国民の中で、という意味においてである。男子普通選挙権が王国の人でが西半分の地域に導入された一九〇七年には、チェコ人はドイツ人と意思の疎通をはかることができなかった。というのも、ドイツ人はチェコ語を認めることができなかったからだ。すべての少数民族についていえることだが、これこそが、帝国内で自分たちを確認する手段だったのである。つまり言語は、一九一四年の大変動に先立つハプスブルク朝支配の最後の日々を特色づけた、激しい公民権獲得闘争における、社会的および政治的同一性の基盤だったのである。
 異なってはいるが、決して無関係ではないやり方で、耽美主義者の世代──若きウィーン派がその典型である──は、自分たちの詩的作品において、より「確かな」言語を追求するようになった。つまり、ブルジョワ社会の束縛から、自分たちを逃れさせてくれるような言葉である。そして、われわれの話の残りは、クラウスやシェーンベルク、ロースやウィトゲンシュタインのような天才たちが、耽美主義者たちの現実逃避は、問題に対する自己陶酔的な、にせの解決法にすぎないことを見てとったその仕方にかかわるのである。ムージルは、「言葉が明確に定義されていない日常語は、自分を明瞭に表現しえない媒体である」とみた。そして彼は、マッハの「感覚印象」に直接基づく、私的で非機能的な、かつ、まだ知られていない──おそらくありえないだろう──「休日語」においてのみ、一義的な表現が可能であると考えた。これに反しクラウス、シェーンベルク、ロースそれにウィトゲンシュタインは、それまでに受けいれられていた表現方法に関する、根本的な、だが本質的には肯定的な批判の中に、これらすべての問題に関する解決の鍵を見いだしたのであった。これらの人々は、すべて、カール・クラウスの生活と作品から手掛りを得ていたので、われわれは今や、クラウスに向かわねばならない。
第三章 ──カール・クラウスとウィーン最期の日々──

言葉で生み出す喜びのうちにおいてのみ、
混沌から世界は生まれる。
クラウス『プロ・ドモ・エト・ムンド』

 カール・クラウスにとっては、ウィーンは「世界破壊の実験場」であった。それは、『我が闘争』の著者にとって、ウィーンが「最も厳しいが、最も徹底した学校」であったのと同じである。クラウスは、人間性を奪うような勢力がウィーンで影響を及ぼしていることを、どちらかといえば、シュニッツラーやムージルよりもいっそう鋭敏に気づいていた。しかし、クラウスは、彼らとは違って、診断だけでは満足せず、外科手術だけが社会を救えると信じた。古代のユダヤ人と同様に、ウィーン人は正義の大道から横道へそれていたのであり、クラウスは、彼らの強情さをいましめるために送られたエレミヤであった。この予言者、「ウィーンの著述家の中で最もウィーン的な著述家」の武器は、論争と風刺であった。ウィーンの人々にとっては、芸術、特に文学、演劇そして音楽以上に重要なものはなかったし、これらについての彼らの趣味が、この社会のいたるところに存在した道徳的二心を(クラウスの見解では)反映したのである。したがって、彼が、「夢の都」の生活に横たわっている偽善を暴露しようとしたのは、まさしく文学と音楽を通してであった。
 クラウスは、当時の多くの著名な同時代人と同じように、富裕なユダヤ人家庭の出身であった。彼の父は、カールがほんの子供の頃、ボヘミアから移住した商人であった。したがって、彼が自分で選んだ仕事には、彼は特に適任だったのである。その仕事というのは、一八九九年、彼が二十四歳の時、隔週発刊の雑誌『短火ファッケル』の出版を始めたことである。風刺に対する彼の才能は、ダニエル・シュピッツァーに劣らなかった。『ノイエ・フライエ・プレッセ』の風刺主筆の地位は、シュピッツァーに取って代われるほどすぐれた風刺家がいなかったため、五年間空席になっていたが、同紙の編集者モーリツ・ベネディクトは、この前年、クラウスにその地位を提供したのであった。こういうわけで、クラウスが風刺に対して並はずれた才能をもっていたことは疑いない。そして実のところ、彼の論争が当時きわめて効果的だったことや、また、彼の作品の多くが全く翻訳不可能だったのは、彼がドイツ語に精通していたためである。彼の文体スタイルはどれもよく考えられたものであった。カンマの位置一つに、彼が何時間も悩んだことが知られている。彼は、ドイツ語の単語を使って、自分の語呂合わせでゲームをしただけでなく、彼が、その信用を破壊しようとした著述家のスタイルを使っても、ゲームをした。人間の論理上の誤りも、人間の性格の欠点も、彼が主張したところによれば、その人が物を書くスタイルと文章の構造そのものに反映されている。積極的な意味でも消極的な意味でも、スタイルは人そのものである。それはまさしく、物を正しい光のもとに見る問題なのだ。

〔…〕

 著者とその仕事が、これほど完全に一致した例はまれである。クラウスは、著述のために生き、その生活は仕事中心であった。いかなる個人的な犠牲も、これより大きいものはなかった。彼自身、それを「さかさまの生活様式」といっていた。昼寝て、夜なかじゅう仕事をするのである。このような風刺活動が肉体的に危険なものであることは、『炬火』の最初の、四分の一の「説明文」に指摘できるし、そこには、次のような皮肉なことが記載されていた。すなわち、
  人をののしる匿名の文章 二三六
  脅迫的な匿名の文章   八三
  論難          一
 並はずれた性格をもった人間だけが、その生涯の約四十年を、このような仕方で過ごすことができたのである。テオドール・ヘッカーが、一九一三年のモノグラフ『セーレン・キルケゴールと内面性の哲学』の中で、みずから、クラウスをキルケゴールになぞらえたのは、いわれのないことではなかった。

〔…〕

 カール・ダラゴは、ブレナー・サークル(これはルートヴィヒ・フィッカーを中心にインスブルックで形成され、テオドール・ヘッカーやゲオルク・トラークルのような著名人も含まれていた)のオーストリアの仲間で、そのメンバーであったが、彼は、一九一二年に出版されたそのモノグラフ『オットー・ワイニンガーとその著作』の中で、ワイニンガーの「精神的率直さ」を称賛した。そしてワイニンガーに対するこの態度は、クラウスや他の多くの人々が共有したものである。ダラゴにとっては、ワイニンガーはニーチェ的な人物であり、彼は自分自身の、個人的な人生経験の深みから哲学したのであって、本を読んだり学術論文を書いたりすることによってではなかった。これは、哲学的な企てを遂行する上での、正しい方法であった。たとえワイニンガーが、自分に及ぼした女の力を、「女性」の力と端的に混同したことから、彼が間違った方向へ漕ぎ出し、自分自身の場合を大げさに話したとしてもである。彼はその二元論において、あまりにも主知主義者であり、またあまりにも合理主義者であった。そしてダラゴによれば、このためにワイニンガーは人間生活における愛の、真の意義を見損なうことになったのだ。ダラゴの見解では、ワイニンガーは正しい分類概念を多くもっていたが、彼は、女にとって本質的な、「無価値」ということが、キルケゴール的な深淵──真理を見いだすためには、人はそれを飛び越えねはばならない──の、一つの局面であることを理解できなかったのだ。すなわち、女性は「無価値」であるが、この「無価値」こそ、まさしくクラウスが、すべての価値の源であるとしたその「起源」なのである。
 クラウスは、ワイニンガーの意義に関するダラゴの見解と、ワイニンガーの立場に対する彼の批判との双方を共有した。実際、ワイニンガーの著作について前もって知識をもっていなければ、ほとんどクラウスの根本思想を理解することはできない。クラウスは、男性の性と女性の性には大きな相違があり、「男」と「女」は性格学上相異なったカテゴリーであるという前提を受けいれた。彼は更にワイニンガーと一緒にこう主張した。「合理性」は男性を他から区別する特徴で、男性に特有の性質であり、「情緒」は女性を他から区別する特徴で、女性に特有の性質である、と。けれども、比較はそこで終わる。クラウスは、ワイニンガーと同じ種類の、合理主義者どころではなかった。彼は合理的な要素を高めたのではなく、むしろ、それはわれわれの活動に秩序をもたらす際の、純粋に道具的な機能をもつものと考えたのである。ダーウィンの諸発見が通俗化されるに従い陳腐なものとなった、知識に関する生物学的─道具主義的理論や、あるいはエルンスト・ヘッケルのような人々によって、それらの発見が同時にゆがめられたことを、クラウスが知っていたかどうかは疑わしい。クラウス自身は哲学者ではなかったし、いわんや科学者ではなかった。もしクラウスの見解に哲学的な祖先があるとすれば、それは確実にショーペンハウアーである。なぜなら、偉大な哲学者の中で、ひとりショーペンハウアーだけが同質の人物であり、論争とアフォリズムに対して、すぐれた才能を──哲学的な資質も、文学的な資質も──もった、哲学的に深い人物だったからである。
 事実、ショーペンハウアーは、クラウスにとっていやしくも魅力のある、唯一の哲学者であった。男性らしさと女性らしさの本質的な性質に関するショーペンハウアーの見解は、ワイニンガーに影響を与えていたが、最終的な分析においては、その見解はクラウスが受けいれた見解と、特に女性の本質に対するその否定的な態度において、依然対立していた。女性に関するクラウスの考え方は、ダラゴのそれにもっと似ている。女の情緒的本質は奔放でも虚無主義的でもなく、むしろ感じやすいファンタジーであり、これは、人間の経験においてなんらかの価値をもつ、すべてのものの無意識の起源として役に立つ。ここに、すべてのインスピレーションと創造性の源泉が存在するのである。理性そのものは、人間が自分の欲するものを獲得する技術、手段にすぎない。理性は、それ自身では善でも悪でもない。それは単に効率が良いか悪いかだけである。理性は、外から適切な目標を供給されなければならない。それは、道徳的または美的タイプの方向を与えられねばならない。女性のファンタジーは、男性の理性を豊かにし、理性にその方向を与えるのである。こうして、道徳的真理と美的真理の源泉は、感情と理性の統一である。この二つは、一枚の、そして同じ硬貨の、補足し合う両面である。けれども、ファンタジーは依然として指導的な要素である。というのは、適切な感情がなければ、つまり、事物の価値についての感覚がなければ、理性は悪人をして、ただいっそう効率よく悪事を働かせる道具となるからである。するとクラウスの主眼点は、女性は、人とのつきあいで開化してゆくものすべての源泉である、ということであった。したがって、フェミニズムは他の側面からの脅威となった。男と同等のものとしての女、というフェミニズムのイメージは、ワイニンガーの場合と同様、それなりにゆがんだものであった。それは文明の源泉そのものを撲滅しようとするものであった。クラウスが女性の権利について無慈悲な敵となったのも、このためである。人間生活の目標は、この起源に向かう自分の道を発見することであった。

二人のランナーが時間のトラックを走る、
一人は向う見ずで、もう一人は畏れながら大またに歩く、
一人はどこからともなくやってきて、自分の目標をなし遂げる。もう一人──その起源が彼の出発点である──は道半でたおれる。
そして、どこからともなくやってきた者、勝利をおさめた者は場所を譲る。畏れながらいつも大またで歩く者に。そしてこの者はその目的地、起源、にかつて到達したことがあるのだ。

 ファンタジー──ゲーテが『ファウスト』第二部の末尾で述べているように、「われらを引きて昇らしむ」る「永遠の女性」──は、現代世界では、あらゆる側面からの攻撃にさらされている。それは、腐敗した新聞、フェミニズム、耽美主義、ブルジョワ道徳、精神分析、シオニズム、それにもちろんのこと、性そのものについての誤解と誤用といったような、さまざまな見たところ関連のない勢力によっておびやかされている。クラウスにとっては、男と女の間の不意の出会いが、理性を豊かにする「起源」であり、その源はファンタジーであった。この出会いの産物が、芸術的創造性と道徳的誠実さであり、これはその人間が行う、ありとあらゆることにはっきり現れた。これが、クラウスの生涯と仕事のすべてを統一する中心的な考え方である。彼の論争について系統立った分析を行えば、このことは証拠立てられる。
 本国以外で知られるようになった、クラウスの数少ないアフォリズムの中には、よく引用される次の言葉がある。「精神分析は、自分自身がそれの治療法であると考える、あの精神的病気である」。彼の精神分析に対する攻撃の根拠は、一見したところ、個人的なものであるように思われるが、しかし実際は、フロイトやその身近の仲間が提出していた、人間の本性に関するゆがんだ描写に向けられたのである。クラウスにとっては、フロイトとそのサークルは伝統的なユダヤ = キリスト教的ブルジョワの性欲についての神話を、精神分析の形をとった別のものと取りかえていたにすぎない。この猛攻撃を引き起こした直接の誘因は、フリッツ・ヴィッテルスによる、彼自身の「事例」の「分析」であった。ヴィッテルスは、クラウスの称賛者であったが、この頃フロイト主義を熱狂的に受けいれていたのである。ウィーン精神分析学会で発表した論文の中で、ヴィッテルス──彼は手に負えないほど単純な人物である──は、クラウスの論争好きの原因を彼のオイディプス的な欲求不満に見いだそうとした。簡単にいえば、モーリツ・ベネディクトと『ノイエ・フライエ・プレッセ』を攻撃する時、クラウスは自分の父親を攻撃しようとしていたというのであるが、彼と父の関係は、実際には、緊張したものではなかった。クラウスの父親が、「祝福された者」にあたるヘブライ語で、「ヤーコプ」と名付けられたという事実に、ヴィッテルスは大きな比重をおいた。もちろん、これはベネディクトという名前の源である、ラテン語の「benedictus」と同じであった。「炬火」で行ったクラウスの攻撃は、自分自身の小さな機関(『炬火』)が、父親の、すぐれて大きな機関(『ノイエ・フライエ・プレッセ』)と全く同じ効果をもっていることを、父親(モーリツ・ベネディクト=ヤーコプ・クラウス)に対して証明しようとする企てであると解釈されたのである! これは精神分析を、その創始者にもまして、拡張したものであった。絶えず懐疑的なフロイトは、その後の議論の中で、このような無謀な思弁には根拠がなく、非科学的なものであることを明らかにしたが、自分自身の仕事に対するこのような攻撃の結果、クラウスは人間の本性に関する精神分析的な描写に内在する危険に、注意を払うようになったのである。
 無意識は、フロイトにとっては、クラウスの概念作用と正反対のものであった。フロイトの「イド」(個人の本能的衝動)は、せいぜい理性によって追いつめることができるような、不合理で、自我中心的な、反社会的な衝動の沸きかえるようなかたまりであった。美的、道徳的価値は欲求不満の結果で、それは、これらの欲求不満が社会化したことの、本質的な付属物であった。クラウスにとっては、これは、個人と社会における、健全なものすべての源泉である、創造的ファンタジーとのきずなを断ちきることに等しかった。こういうわけで、新しい神話はそれが取って代わろうとしたものとほとんど同じであり、それが治療しようとした病気の、それ自身、もう一つの現れであった。実際、精神分析は、ウィーンの中流階級を悩ました、心理的な問題を解決するというよりは、むしろそれらの問題を更に複雑にしたのである。
 これらの問題の少なからぬものは、ヒステリーであった。つまり、なんら心理的な原因があるとは思われない、肉体的な病気である。ウィーンのブルジョワ女性に共通したこの問題の真の根とは、クラウスの見るところでは、ブルジョワの結婚がもつ、ビジネス的な性格にあった。配偶者の個人的な満足を無視して、財界の名家を創り出すためにもくろまれた結婚は、確実に欲求不満を生み出した。特に、きわめて厳格な社会の女性にとってはそうであった。夫婦の性が合わない時には、夫たちは売春婦の所に行くか、あるいは、シュニッツラーがその小説や戯曲で作りなおすのにきわめて精通していたたぐいの、あの情事に耽った。妻たちにとっては、問題はもっと複雑であった。というのも、みだらな堕落した女だけが実際に性的満足を望み、享受できるのだと、彼女たちは小さい時から教えこまれていたからである。彼女たちが、性はやはり楽しいものだということを発見した時、彼女らが自分たち自身を、こういう視点から考えるようになったとしても、なんら不思議ではない。結婚外の性は、夫たちにとっては挑戦すべきゲームであったが、妻たちには根深い罪悪感を生み出したのは当然であった。
 社会慣習が変わればウィーンの妻たちのヒステリーもやむだろうと、クラウスは固く信じた。男と女が、結婚を、二人が全面的に結ぶべき人生のパートナーシップ──ここでは、性的満足と精神的満足は一枚の硬貨の両側面である──とみなすや、結婚生活は、理性とファンタジーが何の障害もなしに作用し合える舞台となり、これによって、個人的にも文化的にもむくわれることだろう。そうなればヒステリーは、「母性の流れ出るミルク」──すなわち、非常に多くのウィーンの中流階級の女の「成熟」の重要部分──でなくなるだろう。
 したがって、精神分析に対してなげかけたクラウスの言葉の辛辣さは、個人的な嫌悪以上のものの現れだったのだ。精神分析は、彼の見解によれば、男性と女性、理性とファンタジー、意識と無意識の間のバランスをいっそうゆがめることを目指したものである。それは人間をあの「起源」から更に遠ざけ、つまりファンタジーから遠ざけて、社会の危機を深めるだけである。「わたしは、ジークムント・フロイトよりも、むしろジャン・パウルと一緒に幼時へもどりたい」と、クラウスはいい張った。ジャン・パウルにとっては、幼時は、われわれが行うすべてのことに、ファンタジーが生命を与える人生の、その時期である。一方、フロイトにとっては、これは欲求不満に終わる、一連の危機にほかならない。クラウスは、人生に対する精神分析的アプローチが、社会に対する順応を強調して、芸術家をおびやかすことを恐れた。

 「われわれにとって非凡な才能であるものを、病的と呼んで破滅させる神経医は、天才の全集でその脳天を打ち割ってもらうことだ……。〈正常な人間性〉を救助する、すべての合理主義者──彼らは、ウィットとファンタジーに富んだ作品を理解できない人々を安心させるのだ──の顔に、人は自分のかかとを詰めこむといい」。

 ここに、クラウスが、単に精神分析に対してだけでなく──奇妙なことだが──新聞に対しても、心の奥底から反対する理由があったのだ。
 クラウスを刺激して、精神分析と闘わしめたものが何であるかは、われわれは知っているが、一方、彼の一生にわたる、新聞に対する論争の確かな誘因は知られていない。彼の不平は、主として次のようなものであった。実際に客観的でありえた時でも、新聞は客観的にニュースを報道するという、その本来の機能をはるかに越えた役割を引き受けた、というのである。このような逸脱は文明にとって脅威であった。なぜなら、それはファンタジーの生活をあまりにもおびやかしたのだから。こういうわけで、彼は『炬火』を「反新聞」として創始したのである。つまり、あるクラウス学者の言葉によれば、「新聞と闘い、新聞に対する大衆の信頼を弱め、そして、新聞が当時与えていた損害を取りもどす」ために、始めたのである。クラウスが攻撃のほこさきを『ノイエ・フライエ・プレッセ』に集中することにしたのは、いかにも彼らしいことであるが、この新聞は、確かに帝国内で第一流の新聞であり、おそらく世界中で最も水準の高い新聞であった。(『ロンドン・タイムズ』のウィーン特派員であったウィッカム・スティードは──冗談半分、まじめ半分に──この新聞の編集者であるベネディクトを除けば、フランツ・ヨーゼフは、二重王国で最も力のある人物である、と報じた。)そして、クラウスがこれにつるべ打ちの焦点を合わせるようになったのは、ほかならぬこの新聞が卓越していたからであった。
 繰り返していうが、この新聞に対するクラウスのあざけりは、多くの人には、不平家の大言壮語にみえた。なぜなら、誰でも、『ノイエ・フライエ・プレッセ』のすばらしい国際的な評判を知っていたからである。けれども、彼の論争が彼自身のジャーナリスティックな野心の、なんらかの欲求不満の結果でもなければ、彼に対するそれ以前の攻撃によって引き起こされたものでもないことは確かである。更に、彼の痛烈な攻撃を引き起こしたものは、新聞がブルジョワ社会において、自分自身のために引き受けた高尚な役割であった。そして『ノイエ・フライエ・プレッセ』が彼の憤りの特別の対象であったのは、新聞としてのその高度な水準が、少しも客観的ではない視点や見解と、同類だったからにほかならない。実際、官憲の検閲を恐れたために、この新聞は政体の隠れた代弁者となり、一方、その洗練された優雅な報道はいつも産業界の利害に傾斜していた。それゆえ、クラウスの見解によれば、新聞としてすぐれているという主張は、とりわけ、ぺてんにたけているという主張を含むものであった。これは当然徹底的に攻撃されるべきであった。なぜなら、それは、他の新聞が見習おうとした、すべての事柄のよい例であり、他のあらゆる出版社が熱望した理想であったのだから。
 産業界の関心は全新聞に浸透した。社会主義的な新聞ですら、定期的に大量の、資本主義的な広告を掲載した。したがって二心と偽善が全体として社会の特徴をなしたが、特に新聞はそのかたまりだった。

 「どの下劣さも、新聞はそれが誤りであることを実証しようとするであろうし、また寛大な行為としていい繕おうとするだろう。新聞は、それが目的にかなう時はいつでも、どの悪漢の頭上にも、栄光の月桂樹や市民的美徳のかしわの冠を置くだろう」

 どの新聞も売春を「社会の疫病」として非難したが、「堕落した変態の」同性愛者がウィーンの街を歩いているのを見つけても、もはや憤慨しなかった。けれどもこの同じ新聞が、求人・求職広告欄で、「マッサージ」業や「コンパニオン」の広告を数え切れないほどのせていたのである。明らかに経営者は、彼らが第一面でののしった当の人々から、その裏面広告の代償として、金銭を受けることを恥としていなかったのだ。彼らは警察と共謀していたのではないか。警察は、その特定のなわ張りで売春婦を庇護することを請け合い、代わりに、彼女たちから金銭をゆすっていたのではないか。クラウスにとっては、それは疑いのないことだった。クラウスは極端に走り、そのような新聞よりも最も厳格な検閲のほうが好ましい、と考えた時期があった。
 当時のジャーナリズムに対するクラウスの憤りが、特にその絶頂に達するにいたったのは、階級の関心にもたれかかったニュースを伝える際に含まれている、見解と事実との混同であった。新聞の偽善は、貪欲のなせるわざであった。つまり、新聞は金銭のために事実をゆがめ、産業界をの関心の前に身を売ったのである。しかし、状況はこれ以上もっと複雑であった。社会全体が完全に偽善に染まっていたのである。その結果クラウスが、とりわけ最も不快に感じたのは、芸術に関する新聞の紙面であった。文化的エッセイ、あるいは文芸論説欄は、多くの人々にとって、紙面の中で最も重要な記事であった。もし新聞の階級的立場が一般にニュースをゆがめることになるとしたら、それは特に事実と見解、合理的客観性と主観的反応を勝手に混合してゆがめることになるのだが、これこそが文芸論説欄の意図したことであった。前に引用した個所でカール・ショースキが述べているように、文芸論説欄には、ある種の美文が要求されたし、その美文を用い、著者がかき集められるすべての色彩を使って、状況が記述されたのである。それは、客観的 的な事態に対する主観的な反応であり、副詞と、特に形容詞を詰めこんだ言語で、伝えようとしたものであった。それだけにまた客観的な状況は、小細工の中に失われた。こうして客観的な事実は、著者のその時々の感情を通して眺められたのである。このエッセイ形式での成功は、自分自身の感情的な反応を、普遍的なパースペクティヴと質をもつとみなすほどに、ナルシスティックな人にのみ開かれていたのだ。
 ウィーンのブルジョワジーは芸術が大好きだったので、文芸論説欄は、彼らにとって、すべてのジャーナリズムの中で重要な部分を占めていたし、あらゆる作家志望者の夢は、『ノイエ・フライエ・プレッセ』に載ることだった。しかしながら、クラウスにとっては、文芸論説欄は記述された状況の客観性と著者の創造的ファンタジーの双方を破壊するものであった。なぜなら、事実としてのニュースをゆがめる一方、それは、既成の状況に対する応答を要求することによって、著者が自分自身の人格の深みと折り合うのを妨げたからである。したがって、それはエッセイストの創造性を、言葉を手際よく扱うというレベルに引き下げ、また、読者がその事件のいくつかの事実について、なんらかの合理的評価を下すことを妨げた。こうして、ここには、芸術のための芸術を信じる人々にとっての理想的な媒体、恥美主義者のための完全でジャーナリスティックな形式が存在したのである。その自己陶酔のために、文芸論説欄は、クラウスが神聖なものと考えたすべてのものの、否定になった。すなわち、ファンタジーが男と女の出会いにおいて理性を豊かにする、という考えの否定となったのである。したがって、文芸論説欄となんらかの関連をもつあらゆる人───著者、編集者、それに読書界──に対して、クラウスが等しく徹底した攻撃を浴びせかけたとしても、驚くにあたらない。クラウスの信じるところでは、彼らの自我中心主義という共同謀議は、ブルジョワ社会を特色づける二心が極度に現れたものであった。こうして、文芸論説欄に対するクラウスの態度は、創造性の起源に関する彼の観念の表れであり、また、言語と芸術に関する彼の見解が、彼が生きた社会の偽善性に対する彼の論争と、直接的に接触した場面の表れでもあったのである。

〔…〕

 風刺家の言語は、話す人の道徳的性格をむき出しにすることによって、その「起源」に達するというクラウス的な考え方を、われわれはこのネストロイの戯曲において理解できる。このようなタイプの言語芸術においては、作家とその作品は一体となり、その結果、作家はその作品を除いては、アイデンティティをもたない。要するに、人間とその作品は、そのように完全に統合されるのであり、その結果、彼は、社会の欠点と偽善を暴露するために自分が用いた、言葉づかいのニュアンスそのものを通して、自分の性格を表現したのだ。これこそは、クラウスが、自分が続行していると考えた課題であった。

〔…〕

 こうして、カール・クラウスの生活と作品を統一する中心的な概念は、事実に関する議論と文学的技量という、二つの領域の間の「創造的分離」である。クラウスが論争において、決して理論一点ばりでなかったことは、この分離からもいえる。いい換えれば、人々の性格と行為を形造る際に、思想が発揮する効能を過度に信じる人だけが、理論ずくめでいられるのだ。これは前に見たように、クラウスの理性は道徳的には中立であるという見解と正反対であったし、その見解が、使の論争の人格的な本性のために必要な基盤を形成したのである。道徳的であったり、あるいは不道徳的であったりするのは、人間であって、思想ではない。それゆえ、例えば、表現主義に関する彼の批判は、自分たちの主張を通すために、異常な効果をもとめるだけの物書きに向けられたのであって、詩人ゲオルク・トラークルや脚本家フランク・ヴェーデキントのような傑出した表現主義者には及ばなかった。誠実な人、ファンタジーに生きた個々人は、どんな運動にも属しよう。なぜなら、彼らは、実際、そのことを選り好みしなかったから。クラウスが自分自身について語ったことは、また本物の著作家にもあてはまった──「わたしは他人の言語を意のままに使う。わたしの言語は、わたしにやらせたいことをやる」。
 言葉を巧みに扱う著述家は、その能力に比例して、不道徳であった。誠実さに欠けていたからにである。つまり、人間とその作品が一つにして同じ、ということがなかったからだ。そのような作家の典型がハインリヒ・ハイネであった。フランス語の文芸論説欄をドイツ語へ持ち込んだのは彼だったが、ドイツ語はそれには向かない言葉であった。また、ハイネがテクニックの名人であったという、まさにそのことのために、彼の場合はいっそう悲惨であった。テクニックは、クラウスの見解では、理性と計算の産物であったし、それゆえ、常に手段でなければならない。ハイネは、それを目的そのものに変えたのである。
 クラウスの見るところでは、技術的な能力あるいは「名人芸」ですらも、物を書くための関心が金銭上の成功や名声だけであるような人々によっては達成されるものではない。『ノイエ・フライエ・プレッセ』について、これが事実であることを証明しようとして、彼は、にせ学者風の言葉で書かれた、全くのナンセンスな、匿名の手紙を編集者に出すのが癖だった。彼には、これらの手紙を別名で出す必要があった。なぜなら、ウィーンの新聞がクラウスの攻撃を扱う方法は、初めから黙殺戦術だったからで──彼が何をしようとも、その名前が新聞に出ることはなかった。(『ノイエ・フライエ・プレッセ』は、例えばペーター・アルテンベルクの葬儀を報道しようとしなかったが、それは、報道しようとすれば、クラウスに触れないわけにはいかなかったであろうからだ。事実、クラウスは、墓地の脇で弔辞を述べていたのである。)これらの手紙の中で典型的なもの(しばしば彼に帰せられているが、この場合には、実際にはクラウスが書いたのではなく、彼の友人のエンジニアが書いたものである)は、採鉱技師の立場から、地震を描写した手紙である。これには、「宇宙的」な震動と「地球的」な震動についての想像上の区別が含まれており、またその描写の中で、この架空のエンジニアは、炭鉱犬という不可思議な獣がどうして落ち着かなくなって吠え出すのかを述べている。クラウスは、このようないたずらを楽しんだ。並の知性をもった、少しでも有能な編集者なら、そのほんのちょっとした冗談を通して、クラウスが分かるはずだった。彼はいっそう腹を立てて新聞に投書したが、それは、短命に終わったバヴァリア社会主義共和国の、劇作家の総帥エルンスト・トラーに対する、ミュンヘン政府の取り扱いに抗議したもので、これには、ホーフマンスタール、バール、それに他に五人の著名人が一緒に署名してあった。「署名者」はいくぶん当惑したが、彼らが匿名の手紙の主に公然と謝意を表したのは、自分たちが第一になすべきだったことを、この匿名氏が行ったからである。
 ハイネが、芸術的、道徳的議論から、事実に関する議論を分離する境界を識別できなかった時、彼はパンドラの箱を開けたのである。この「創造的分離」に失敗すると、事実的なものを曲解し、また美的なものや道徳的なものを低下させ、ゆがめることになるのである、とクラウスは断言した。

 「アドルフ・ロースとわたしは彼は文字通りに、そしてわたしは文法的見地から骨壺と寝室用便器の間には区別があること、また文化にゆとりを与えるものは、とりわけこの区別であること、を示したにすぎない。他の人々にはこの区別がないので、彼らは、骨壺を寝室用便器として使う者と、寝室用便器を骨壺として使う者に分かれるのである」

 クラウスは、価値の領域が事実の領域と全く異なるという、深い確信をここで表明している。両者を混合したために生じた悪い結果の中で、最もはっきりしているのは、まず文芸論説欄であるが、ここでは、想像が事実に対して全く的はずれなのだ。ついで、「道徳に関する法令」(例え、売春を禁止する法律)の概念において明らかであるが、ここでは道徳が、「自然的な道徳法則」から演繹できるものとして描かれている──そして、これほど不自然なものはなにもない。
 アドルフ・ロースが、単に機能的な工芸品を本物の美術品から区別することによって、ウィーンのブルジョワの趣味を批判していたのと同じ「創造的分離」を、自分は文法と言語についての論争的な分析によって、理性(あるいは事実)の領域とファンタジー(あるいは価値)の領域の間に行おうとしているのだ、とクラウスは主張している。これは、全く文字通りに受けとるべきであである。クラウスは、文筆家として、そもそもその最初から、文学作品の美的形式と道徳的内容を絶対的に同一視し、作品の道徳的・美的価値はその言語に反映されていると考えた。時がたつにつれて、彼は、これの正しいことをますます確信するようになったのである。

 「言語──すなわち、声明を行う手段──は、その声明と、その声明を行った人の道徳的・倫理的質を理解するのに必要なすべての徴候を帯びている、という考えが一九○五年以降次第に彼の心に刻まれている。逆に、真理を発見するためには、声明がもつ、そのすべての言語的な質に全神経を使って、声明を読む必要がある」

 そのような声明に関する、クラウスの分析的で論争的な注釈は、それに何も新しいものは付け加えず、その内部に隠れているものを、いっそうはっきり示しただけである。リヒテンベルク──クラウスは彼を称賛した──は、誠実さに欠ける著述家のことを、次のような人間だといっていた。「彼は書かされるのである。そして誰かをけなしたいと感じる時には、いつも自分自身を最も激しくけなすのである」。このような描写は、特に新聞にあてはまった。新聞がどれほど堕落しており、そして社会がなおさらのこと、どれほど堕落しているかを世間に示す彼の方法は、これによって定まった。こうして、クラウスの生活していた社会において人々が言語を使う、その仕方に関する彼の批判は、その社会についての暗黙の批判であった。
 言語に対するクラウスの態度は、ある種の「エロティックな神秘主義」といわれてきたが、これと、マルティン・ブーバーが発見の最中であったハジディズム(Hasidism)とを、比較対照してみるのは興味のあることであろう。そして、「愛の重さと長い経験」は「いうにいわれぬもの」と歌う、九番目の『ドゥイノの悲歌』の作者を鼓舞したのも、このハジディズムだったのである。わたしの言語は「わたしにさせたいことをする」という彼の主張は、この態度の表明である。したがって、堕落した人々の言語にある、二心を暴露する努力は、次第に必要でなくなった。つまり、その人自身の言葉をなんのコメントもつけずに、『炬火』に引用するだけで十分なことがしばしばあったし、その著者についての真実は、状況から十分明らかなのであった。第一次世界大戦に関する記念すべき風刺である『人類最期の日々』において、クラウスはこの技術を用いて大成功をおさめた。それは、登場人物の配役だけで十三ページに及ぶ、全体が七百ページの戯曲で、この戦争に対するクラウスの反応をこまごまと記録したものであるが、演説や社説の全部を新聞からそっくりそのままとりいれており、その点で、もっと後の戯曲『おお、なんと可愛いらしい戦争よ』を思い出させるものである。
 このような言語神秘主義は、次のことを意味するものと解されるかもしれない。完全な風刺は、風刺されている声明を少しも変えず、これらの声明に内在する偽善を照らし出すような光のもとで、それらを見せるにすぎない。おそらくネストロイを除き、他のいかなる著述家とも異なって、クラウスはこう信じた。あらゆる声明が、道徳との「予定調和」とも呼んでよいようなものによって、口には出さない道徳的特性をどのようにしてもつかを世間に示すことが、自分の使命である。彼とネストロイが好んだ、手のこんだ冗談ですら、こうして、人々を道徳的な洞察に導くことがあるのだ。それゆえ、ウィーン社会についてのクラウスの批判は、一部は言語神秘主義に根ざし、また一部は、創造上の誠実さという至高原理を彼が擁護した、その断固不動の態度に根ざしていた──「もし二つの悪のうちで、より小さいほうを選ばなければならないのなら、私はどちらも選ばないだろう」。
 この言葉は、クラウスを称賛し、彼をまねようとした、ウィーンの一世代全体のモットーになった。しかし、これらの多くの「クラウス主義者」にとっては、これは、独創性のない不毛な模倣であった。他方、クラウス主義者の中で最も独創的な人々は、クラウスに多く負うていたにもかかわらず、自分たち自身をほとんど「クラウス主義者」と考えようとはしなかった。なぜなら彼らは、自分たちは、派生的な仕事をしているのではなく、クラウスと同様の仕事を行っているのだと考えたからである。われわれは、次に、彼らの中で最も重要な二、三の人々を考察しよう。
第四章 文化と批判──社会批評と芸術表現の限界──

現代のモラルの本質は、時代の標準を容認することにある。
オスカー・ワイルド

 ハプスブルク王国の文化サークルがどれほど小さく、またどれほど固く結びついていたものであったかを認識するのは、今日、特にアメリカの青年にとっては容易なことではない。現在われわれが住みなれている社会には、多くの相異なった文化の中心や、また文化に対する多くの、さまざまな態度が存在している。ウィーンがヨーロッパ全体の文化生活の中で占めていた、その中心的位置を、正確に理解することは今では困難である。(おそらく、フランス文化におけるパリの位置が、現在それに匹敵する唯一の現象である。)こういうわけで、次のようなことを発見すれば、ショックではあるかもしれないが、実はそれは取るに足らないことなのだ。アントン・ブックナーがルートヴィヒ・ボルツマンにピアノのレッスンをしていたこと、グスタフ・マーラーがフロイト博士のところへよく心理学の問題をもっていったこと、ブロイアーがブレンターノのかかりつけの医師であったこと。また、青年フロイトが青年ヴィクトル・アドラーと決闘したこと──アドラーは、ハプスブルク朝の最後の皇帝カール一世ならびに、後のオランダのナチス長官アルトゥル・ザイス = インクヴァルトと同じ学校へ(もちろん、同じ時期ではないが)通っがたこと──それに、アドラー自身、シュニッツラーやフロイトと同じく、メイナートの診療所で助手をしていたことなどである。要するに後期ハプスブルク朝ウィーンでは、この町の文化的指導者の誰もが、なんの困難もなしに、互いに知り合うことができたのであり、活動した分野が、芸術、思想それに公務と全く異なっていたにもかかわらず、彼らの多くは、実際、親しい友人であった。
 こういった要因を肝に銘じておく必要があるのは、次のことが明らかだからである。アルノルト・シェーンベルクの音楽からアドルフ・ロースの建築にいたるまでの──そして独自のやり方で、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』まで含めて──広範囲の知的、芸術的な創造活動は、カール・クラウスが行った言語と社会についての批判に、密接かつ意識的に、関連しており、またそれの延長ですらあった、というのである。これらの人々はおのおの、クラウスの大志を認めていたし、したがってクラウス主義者であるといえる。しかし、誠実なクラウス主義者として彼らは、次のことを要求した。道徳的・美的な退廃に対する反対闘争は、それぞれの場合、個々の芸術家や著作家が、自分自身最も精通しているその特定の分野の人間的経験についての批判によって行うべきだ、というのだ。ロースにとっては、これは建築と設計であった。シェーンベルクにとっては、それは音楽であり、ウィトゲンシュタインにとっては哲学であった。
 前章で見たことであるが、クラウスは、自分の仕事をロースのそれと同一視した。その結果クラウスは、ロースが設計の領域で行っていることを、自分は言語に対して行っているものと考えた。──つまり、寝室用便器と骨壺の間の本質的な区別を、人々に道徳的に自覚させること! 実際これが、ロースの行ったこと──実用品を美術品オブジェ・ダールから区別すること──の背後にあった、中心的な考え方である。理性とファンタジーの区別を抹殺するという理由で、クラウスが文芸論説欄に宣戦を布告したのと同じように、ロースは、日用品の装飾を旨とする「美術」に対して、同じような戦いを遂行したのだが、それは、「応用美術」という考え方そのものが、家庭用品と美術品の間の、同じような区別を抹殺するという理由からであった。ロースは機能的なものから、すべての形式の装飾を取り除きたいと願った。──「文化の進展とは、日用品から装飾を除去することに等しい」。型にはまった、手の込んだ正面などの全くないビルディングをみずから設計して、彼はこの考え方を実行した。ロースによれば、建築家が手本にすべきものは、他の職人と同じように、鉛管であって、彫刻ではなかった。

〔…〕

 エゴン・フリーデルは、その『現代文化史』の中でウィーン・ブルジョワの家庭を描いているが、それによると、工芸デザインの分野において分離派が必要となるわけが完全に明らかになる。波が出時の「よい趣味」の典型として描いているものは、今日の読者にはぞっとするようなものである。

 「彼らの家庭は居間ではなく、質屋であり骨董屋であった。そこに見られるのは、全く無意味な飾品への熱狂……、見かけがしゅすのように光沢のあるものへの熱狂であった。つまり、絹、しゅす、ぴかぴか光る毛皮、金箔をかぶせた額縁、しっくい細工、金縁、べっこう、象牙、それに青貝への熱狂ぶりである。また、幾筋もひびの入ったロココ式の鏡、ヴェニス風の色ガラス、太鼓腹の古ドイツ風の壺、床いっぱいに敷いた、恐ろしい口をした毛皮の戦物、そしてホールには等身大の木製の黒人像を置くといった、全く無意味な装飾品に対する熱川ぶりである。
 また、あらゆるものが混合されて、全くわけが分からなかった。つまり、婦人の私室にはブール細工が一組、客間にはフランス帝国風の家具が一そろい置いてあり、隣はルネサンス風の食堂、そしてその隣は、ゴチック風の寝室といった具合であった。それらを通して、すべての多彩な香りが感じられるのであった。リボンやより糸や唐草模様が、たくさんデザインしてあればあるほど、色がけばけばしく毒々しいほど、よかったのである。こういった脈絡の中で、明らかに欠けていたものは、実用とか目的とかいった観念である。つまりそれは純粋に見せるためだったのだ。驚くべきことであるが、家の中で最も具合がよく、快適で風通しのよい部屋──〈最良の部屋〉──は、いやしくも生活するためのものではなく、友人に見せるためにそこにあったにすぎない」

 装飾に対する情熱が変じて、非現実的なものを喜ぶようになり、あらゆる工芸品は「見かけ」と「実体」がまるっきり違うようになった。

 「使われたどの素材も、実際以上のものに見えるようにしてある。石灰塗料を塗った錫が大理石のように見え、混凝紙パピエ・マシェが紫檀に、石膏がきらきら光る雪花石膏に、ガラスが高価な縞瑪瑙に見える。……一方、バターナイフはトルコの短剣であり、灰皿はプロシアの兜であり、こうもり傘は騎士の甲冑に立てかけてあり、温度計はピストルに立てかけてあるといった具合である」

 実際これらのものがなんらかの機能をもつとしても、それは、どんな場合でも、その形でその的を示すべきではないとされた。このようにして装飾は、事物をゆがめる方法となり、それ自身が目的となったのである。いかなるものも歪曲を免れなかった。工芸品のデザインが、ハプスプルクの最後の日々の社会生活と政治の、手のこんだ空虚さを反映するようになった時、葬式自体も、サーカスのパレードに劣らず、滑稽なものになったのである。
 「よい趣味」が第一の価値であるような社会では、大衆の趣味やアカデミックな趣味に根本的に異議を唱えることは、社会の基礎そのものを問うことであった。これこそが、分離派十九人のメンバーが始めた仕事であった。しかし、美術を生活に近づけようとする彼らの努力は、初期の目的にはるかに及ばなかった。彼らの耽美主義は、装飾に関する当時の見解を変えるのに成功しただけである。つまり、兆候を治療したのであって、病気を治療したのではない。若きウィーン派と同様に、分離派のメンバーも社会の一部同然だったので、この社会での反乱も、その社会の観点からなされ、それゆえ根本的には不完全であり、有効ではなかった。したがって、シュニッツラーの始めた仕事をクラウスが自分自身で完成することを引き受けたように、分離派についての悲しい事実──つまり、そのメンバーが既存の社会の部分同然だったがために、その理想が実現できなかったこと──を十分納得させることが、ロースに残されたのである。
 美術も、純文学と同様に、旧約聖書の預言者の役割を演じる美術家によってのみ、改革できる。これが、まさしくロースの行ったことである。彼は建築と設計における、あらゆる形式の装飾に宣戦を布告した。彼のエッセイ「装飾と犯罪」は、ダダイストの間で聖典の地位を獲得したがこれは実用品における、あらゆる形式の装飾を非難したものである。彼の同時代人の堕落ぶりは、当時のヨーロッパ人が実際に、体に刺青をしていた事実のうちに読みとれる。刺青をすることは、パプア人の文化では重要な価値をもっているが、ハプスブルク朝の文化では──ロースが主張していることであるが──「刺青をしていて、しかも拘留されていない者は、潜在的な犯罪者か堕落した貴族である」。彼らは、落書きをする人間と同類でしかない。「君たちは、一国の文化を、をその便所の壁に落書きが書かれている面積ではかることができる」。犯罪者の反社会的傾向と、彼らの多くが刺青を見せびらかしていた事実との間には、明確なつながりがあるとロースは主張した。一方、ハプスブルク王国の中流階級がもっていた「よい趣味」は、彼の見解では、彼らをすれっからしの野蛮人にしたにすぎない。彼は更に、二重王国の政治的衰退は、政府が助成金を支給する「応用美術アカデミー」が設置されたときから始まる、とさえいい切った。もはや物事を、あるがままには見たいと思わない社会だけが、おそらく、これほどまでに装飾に心を奪われるのである。ずっと健康なアングロ=サクソンの社会では、実用が第一であり、装飾は単なる補飾物にすぎないと彼は断言した。
 美と実用が十分に区別され、その結果、やはり美術を工芸品から区別できて、一方が他方を巻きこんだり、ゆがめたりしない所では、装飾はなお意味がある。イギリスやアメリカの工芸品では、装飾が純粋に飾りでありうるのだが、オーストリアでは、「装飾はもはやわれわれの文化と有機的に関連してはおらず、それはもはやわれわれの文化の表現ではない」。それはフランケンシュタインのような怪物となり、職人の創造性を窒息させていた。過去のあらゆる時代の模造品でウィーンのブルジョワの家庭を飾っている、凝った飾りを施した家庭用品と、「新芸術」の原理に従った機能的な器具の飾りつけは、等しくロースの攻撃の対象であった。つまり両者とも、芸術家と職人の間の本質的な区別を抹殺したのである。クラウスと同じく、しかしグロピウスやバウハウス派とは対照的に、ロースは理屈一点ばりではなかったし、装飾そのものを攻撃したのでもない。なぜなら装飾は、文化生活と有機的に連関している限りでは、受けいれることができる、と彼は確かに信じていたからである。どちらかといえば、彼の攻撃は、装飾品に対する盲目的崇拝に向けられていたのであり、それはウィーンの富裕階級と「新芸術」の反逆的な代表者のは双方に見られた。
 クラウスが文芸論説欄と闘ったのと同じ仕方で、ロースは設計の領域で、応用美術という考え方と闘った。文芸論説欄の場合と同様に、応用美術という概念そのものが名辞矛盾を含んでいた。応用美術家の製品は、よりいっそう実用的な工芸品でもなければ、機能的な工芸品でもなく、ひどく飾りの凝った家庭用品にすぎなかった。装飾は、ありとあらゆるものに、つまり、ビールコップからドアノブにいたるまで、「応用」された。ロースがここに見たものは、事実とファンタジーの混合であり、このことは双方にとってきわめて有害である。実用品を設計するための原理は、純粋に実際的で、その物が果たすべき機能によって決定されることだ。そのような工芸品はできる限り単純で、使いやすいものでなければならない。その設計は、同じ仕事に直面するどの二人の職人も、同じものを作り出すほどに「合理的」なものでなければならない。家庭用品は特定の場所と、そして特定の時間に使うために設計されるべきであるから、その設計は、その特定の環境ミリユにおいて一般に通用している文脈──すなわち、生活様式───によって常に定まるのである。

 「用途が文化の形式であり、物を作る形式であるとわたしはいいたい。テーブル・メーカーがかくかくのように椅子を作ったがゆえに、われわれはかくかくのように腰をかけるのではない。そうではなく、テーブル・メーカーが現にそのように椅子を作るのは、そのように腰をかけたい人がいるからである」

 このようにして、実用品の形式は社会生活の反映であり、形式上の変化で唯一正当化できるのは、生活の変化に由来するものだけである。これが、「革命に反対」したロースの主張の真意でにある。それは彼が反革命的だということではなく、彼の革命は、社会生活の要求に根ざしていない設計の革命に反対した革命だった、ということである。
 ロースによると、美術品は工芸品と正反対であり、その機能は実際、革命的であった。美術は時間を超えて革命的である時、偉大なものとなる。職人は今この場で使うものを生み出すが、芸術家はあらゆる場所のあらゆる人のためのものを生み出す。古代のギリシア人はこのことを理解していた。彼らの家庭用品と建築は、自分たちが住んでいる環境を改良する中で、彼ら自身の目的のために作られたものである。他方、彼らの悲劇は、普遍的な、人間の条件を描写したことだ。人々の注意を、日常生活の退屈さと単調な骨折り仕事から、ファンタジーと精神的価値の領域へと向けさせることによって、人々の心を教化することが芸術の狙いである。この意味で、芸術は常に革命的である。その目的は、一人前の人間の世界観と彼の仲間に対する態度を変えさせることなのだ。
 ロースの社会批評は趣味に関するいっさいに及んだ。それはヘヤースタイル、服装そしてテーブルマナーから、設計や建築にいたる全面的なものであった。一方、彼がその見解をみずから実践したのは、その最後の分野においてであった。建築に対する彼の態度は、次のように要約するのが適切である。

 「家はあらゆる人を満足させるものでなければならない。いかなる人をも満足させる必要のない美術から、家を区別すること。美術は美術家個人の問題である。家はそうではない。美術品は、何かのために使う必要など少しもなしに、この世界に発表されるものである。家は目的に仕える。美術品は誰にも責任を負う必要はないが、家はあらゆる人に対して責任がある。美術品は、人々を慰安(満足)から引き裂くのが望みだ。家は人々の慰安に役立つもはのでなければならない。美術品は革命的であるが、家は保守的である……。家は美術とはなんの関係もなくしたがって建築は美術の一つではないのではなかろうかそれが本当だ

 ロースが設計した建物はすべて、彼の信条を証明している。彼は文化を設計の単純性と同一視したが、これが最も明らかなのは、ウィーンの王宮の向かい側にあるミカエル広場に彼が建てた建物である。それは全く飾りのない建物で、窓の周囲にすら装飾がない。これがロースの開拓した単純性である。建物が完成した時には、その単純性と機能性そのものが皇帝に対する故意の侮辱とみなされたが、それは、王宮に見られる、驚くほどに装飾を施したドーム型の入口と際立った対照を示していたからであり、実際、公然と反抗しているように見えたのである。正面が平らで、すべすべした現代の商業建築は、よい趣味とは装飾的なことである、という考え方そのものが異常で、人を堕落させるものである、とハプスブルク朝の社会に警告しているように思えたのだ。
 このようにして、人間に奉仕するはずのものそのものが、人間を奴隷にするようになっていた。中流階級は公認の美の規準に同意し、その結果として生じたものを職人は設計し、作り出したが、両者とも狂気じみた考え方の奴隷になっていた。職人の仕事が社会生活に対してもっていた関係は、転倒してしまっていた。つまり彼らは、当時の生活様式に合うように建物を作るのではなく、彼らの建てた建物にそくして、人々がどのように生活すべきかを決定していたのである。ロースはこれに対する自分の批評を、論争によって、大衆と職人の双方に十分のみこませたいと思った。一方、彼がその建築で狙ったのは、設計と生活の間の本来の関係を再建する道を示すことであった。「スタイル」を要求することから、社会生活と美術に等しく押しつけられた恐怖支配を取り除きたいという希望から、彼は、社会生活と美術の間に根本的な区別をもうけた。そして、人々が美術をその本来のパースペクティヴにおいて理解するように、彼が努力をしている時、間もなくその仲間に加わったのが、議論の的になる、独学の画家オスカー・ココシュカであった。

〔…〕

 十九世紀の後半、音楽愛好者ははっきり二つのグループに分かれていた。一つは、リヒャルト・ワーグナーの「未来の音楽」に熱狂した人々であり、もう一つは、ブラームスのより伝統的な態度の擁護に同じように熱狂した人々である。そして、この論争のどちらかに味方しないでは、そもそも音楽に関心を抱くことが不可能なのであった。ワーグナー組の最も有名で、辛辣な批評家は、ジョージ・バーナード・ショーであった。真っ先にブラームスを弁護したのは、ウィーン大学の音楽教授エトヴァルト・ハンスリックであった。これは新しい論争ではなかった。つまり、その根は、一七七八年パリで、ピッチーニとグルックとの間で行われた争いにさかのぼる。中心問題は、音楽が「自己充足的」なもの──すなわち、音の整合的な集合であり、自分自身の言語にすぎないもの──であるか否か、であるか否か、それとも思想や感情を表現すること──すなわち、音楽的なもの以外の何かを象徴すること──が、音楽にとって本質的なことであるか否か、ということであった。前者の見解を支持する者の一人に、オーストリアの詩人フランツ・グリルパルツァーがいた。後者には、ラモーやルソーといったすぐれた作曲家がいた。ハンスリックが、このような議論に対して本物の貢献をした、啓蒙的で洞察力に富んだ思想家であったかどうか、それとも既成の音楽界の代弁者で、すべての新機軸に盲目的に反対する、学者ぶった凡人にすぎなかったかどうかは、まだ未解決の問題である。おそらく真理は、これらの両極端の間のどこかにあるのだろう。前者の見解は、批評に対する、彼の例外的に徹底した態度によって支持されている。彼は、前もって自分でおしまいまで弾かなかった作品の演奏については決して批評しなかった。後者は、ヘンリー・プレザンツが伝えているような言明によって支持されているが、これは、ハンスリックの批評のコレクションの序文をなす伝記で述べられている。

 「彼はかつてこう告白したことがある。自分はブラームスの『ドイツ鎮魂曲』よりも、むしろハインリヒ・シュッツの全集が破棄されるのを見たい。メンデルスゾーンの全集よりもパレストリーナのもの、シューマンとブラームスの四重奏曲よりもバッハの協奏曲やソナタが全部、そして『ドン・ジョヴァンニ』『フィデリオ』あるいは『魔弾の射手』よりも、グルックの全作品が破壊されるのを自分は見たい。〈衝撃的ではあるが、率直な告白〉を彼は付け加えたのであった」

〔…〕

 シェーンベルクの教育法は、楽想の構造に関する、非常に厳格な分析によるものであったから、多くの学生を失望させた。彼らがシェーンベルクの所にやってきたのは、どちらかといえば、と「十二音列」の作曲技術を習熟したいと思ったからである。しかし、作曲を学ぶ唯一の道は昔の巨匠たちを徹底的に勉強することだ、というシェーンベルクの主張はゆるがなかった。

 「学問は、楽想を余すところなく、しかも未解決の問題など一つもないような仕方で述べることに関心を抱く。他方、芸術は多面的に示すことで満足するので、ここでは楽想は、それとして直接的に述べる必要がないことは明らかであろう。こういうわけで知識の観点からみると、推量の入りこむ窓が開いているのだ。
 対位法において大事なのは、楽想の組み合わせそのものではなく(すなわち、それが目的そのものなのではない)、むしろ楽想を多面的に示すことである。テーマは既にそれ自身のはうちに、このような多くの音型を含むように構成されているのであり、楽想を多面的に示すことも、これを通して可能なのである」

 逆説的ではあるが、作曲の規則を厳密に守ることが、作曲家の自由の源である。シェーンベルクが学生たちに教えようとしたのは、自分自身を表現する仕方であるが、これは、彼の考えるところでは、巨匠が行った楽想の分節化を完全に知ることによってようやく遂行できる課題である。つまり、学生たちに「作曲の仕方」を直接教えることによってではなく、彼らが自分自身を表現できるようになる音楽の言語を間接的に教えることによってのみ、達成される課題なのである。このように、十二音列はシェーンベルクにとっては、組織化の一原理であった。杜撰な作曲の時代には、それはいっそう厳格で改良された方法であった。この点に関して、彼は自分自身を現代のモンテヴェルディとみなしたが、それは、モンテヴェルディがルネサンス期の対位法を単純化したのと同じように、リヒャルト・シュトラウスやレーガーあるいはマーラーのような人々が採用していた、曲がりくねった複雑な和声を、彼が単純化したからである。
 近代の作曲家は全く訓練に欠けていたし、しかも十二音列は、七音列よりはるかに厳格なものであった。それゆえ十二音列は、必要な訓練を行う、一つの方法であった。「わたしの作品は十二音による作曲であって、十二音の作曲ではない。ここでもわたしはハウアーと混同されている。彼にとっては、作曲は二次的なものにすぎない」。(ヨーゼフ・マティーアス・ハウアーはエキセントリックな作曲家で、十二音の技法を導入したが、シェーンベルクとは非常に異なった意図をもって、それを導入したのである。)
 十九世紀後半のロマン主義音楽は、作曲を「インスピレーション」の問題にしてしまい、その結果として、作曲家は訓練を無視した。訓練を受けずに「霊感で書く」作曲家は、もっと簡単にする必要のある、扱い難い作品を、作り出していたのである。十二音列の機能はこれであった。「こうしてこの音列は、旋律の要素として、音楽的インスピレーションにアプリオリに含まれているのである」。
 このようにしてシェーンベルクは、ハンスリックの論著『音楽美論』の原理によく似た原理から徐々に進んで、音楽理論の革命のみならず、作曲においても革命の到来を告げたのである。けれども、絵画において一人のココシュカが出現する以前に一人のクリムトが必要であり、また建築においては一人のロース以前に一人のオットー・ワーグナーが必要であった──つまり、ファンタジーを窒息させる代わりに、装飾がその役割を果たしていたような、過渡期の人物が必要であった──のと同じように、シェーンベルクが自分の住処としたウィーンには既に、そのような過渡期の作曲家がいたのだ。それは、グスタフ・マーラーという人物である。マーラーに対するたシェーンベルクの評価は、『和声学』の献辞で見事に要約されている。

 「本書をグスタフ・マーラーの追憶に捧げる。そうするのは、彼がまだ生きていた間に、ある小さな喜びを彼に与えるためであった。またそれは、彼の不滅の作曲に敬意を表するためであり、それに、アカデミックな音楽家が肩をすぼめ、実際に軽蔑して見落としたこれらの作品が、おそらく同じように、全く何も知らない人に崇拝されていることを、示すためでもあった。わたしが本書をグスタフ・マーラーに捧げることも、彼に一つの喜びを与えるはずであるが、彼はそれ以上に大きな喜びをこばまれたのだ。この殉教者、この聖者は、自分の作品を友人たちに安心して手渡せるまで完成する以前に、死ななければならなかった。彼に生前喜びを与えることができたならば、わたしにとっては申し分のないことだったのだが、彼が死んでしまった現在、わたしが〈あれは真にすぐれた人物の一人であった〉と言った時、誰もそれを無視できないような尊敬を、わたし自身に本書でかち得たいと思う」

 マーラーは、帝室オペラの指揮者であった時、音楽におけるあらゆる進歩的なものと同一視された。ワーグナーとモーツァルトが急速に人気を博するようになったのは、彼に負うところが大きく、それゆえ彼は、興行者兼指揮者として大きく称賛を浴びたのである。しかしながら気まぐれなウィーン人は、作曲家としてのマーラーをニヒリストとみなした。それは彼らがシェーンベルクをニヒリストとみなしたのと同じである。大編成のオーケストラ、合唱それにソロシンガーを要する、マーラーのとてつもない交響曲は、一見したところ、シェーンベルクの成熟した作品とは正反対にみえる。だが『さすらう若人の歌』から『大地の歌』にいたる、彼の作品それぞれに全体的にしみこんでいる誠実さに、シェーンベルクは深く心を打たれた。これらの巨大で空想的な交響曲と連歌曲は、現実に直面した絶望と陽気な気分とが互いに入りまじったもので、それは社会内で孤立した、空想上の英雄の完全な表現であった。それは「オーストリア人の中のボヘのミア人であり、ドイツ人の中のオーストリア人であり、世界全体の中のユダヤ人である」。このように成功した世紀末の芸術家の生活は、現実に対する陽気な気分と絶望が交錯する毎日であった。マーラーは、次のような究極的な問いに対する答えを、いたる所に探し求めた。

 「われわれの生活が根ざす基盤は、なんと暗いことであろうか。われわれは一体どこから来たのか。われわれの行手はわれわれをどこへ連れていくのか。わたしがかつて言葉で言い表す前に、このような生活を──ショーペンハウアーが考えるように本当にわたしは欲したのだろうか。まるで牢獄にいるように、自分の性格に閉じこめられているのに、なぜわたしは自由だと感じるようになったのか。何が、労苦と悲しみの対象なのか。ある種の神が創り出した残酷さと悪意を、わたしはどのように理解すべきなのか。人生の意味は、結局のところ、死によって啓示されるのであろうか」

 彼はこれらの問いに対する答えを、それが見いだせそうな、あらゆる所に探し求めた──すなわち、モーツァルトとワーグナーの音楽やアントン・ブルックナーの音楽に、詩やまた科学に、カントの哲学やショーペンハウアーの哲学に求めたのである。彼の音楽は、自分の人生経験を、感覚的で華麗な音楽で表現する試みであった。そして彼は、そのすべてを受けいれる誠実さのおかげで、クリムトの場合と同じように、他の人々には永遠に閉ざされている、独特な仕方で成功したのだ。
 マーラーがシェーンベルクに遺したものは、「信憑性」が、音に関する「慣行」にまさる地位を占めるようになったことにみられる。つまり、作曲は、美しい音を生み出すためのものではなはく、自分の人となりを表現するためのものなのである。シェーンベルクは、心の底からこの考え方をとりいれた。しかし彼は、未来の作曲家が自分たち自身を最も厳格な訓練にゆだねる時にのみ、この道は彼らに開かれるだろう、と強く主張した。マーラーにとっては、自己表現と自己訓練は等しく、自然で自発的なものであった。彼の並はずれたライフワークも、これで説明がつく。すべての本物の音楽がそうであるように、彼の革新的なファンタジーが、その楽想の源泉であった。すなわち、

 「音楽は単にもう一つの娯楽ではなく、それは楽想についての、音楽的詩人の表現であり、音楽的思索家の表現なのである。これらの楽想は、人間の論理の法則に対応するものでなければならない」

 このようにして、シェーンベルクの音楽概念の根底にあるものは、クラウス的なファンタジー観である。そして、クラウスがオッフェンバックと彼との精神的類似性によって、オッフェンバックの楽想を表現する、その能力について述べたベルクのコメントも、これで説明がつく。ファンタジーはテーマを生み、楽想を生む。一方、音楽の論理、和声の理論がその展開法則を与える。両者はよい音楽にとって欠くことはできない。ファンタジーは創造性の源泉にして起源であり、それが第一である。しかしそれは、訓練は少しもいらないということではない。シェーンベルクが「作品の質」と定義したスタイルは、「それを作り出した人間を表現する自然条件」に基づく。それは作曲家の誠実さの表明であり、作曲家の美的質の信憑性の指標である。
 シェーンベルクは、『音楽の様式と思想』という表題のエッセイの中で、音楽的創造性に関する他の基本的な考え方を表明した。シェーンベルクに関する、本書の今までの議論と同じように、このエッセイにおいても、そのものについては何もいわれていない。それはシェーンベルクが、ある曲がどのような音を出すかという問いを、ハンスリックとは異なって、なんら重要ではないと考えたからである。彼にとって大事なのは、楽想の信憑性と音楽の論理に従ったその分節化だけなのだ。こういうわけで、彼がジョージ・ガーシュインを、その音楽の信憑性のゆえに作曲家としてほめるということは、まずありえないことだろう。一方ハンスリック自身は、アーサー・サリヴァン卿を、同じような根拠に基づいてほめたことを付け加えておいてもよいだろう。シェーンペルクは、彼のいわゆる「無調」音楽を、その不協和音を理由にして攻撃する人々から擁護するのが常であった──ただし、「無調」という言葉は拒絶した──が、その際彼は、自分の音楽を攻撃する人々に、次のことを思い出させることにした。音楽の教育を受けていない者は、ウィーンの古城的な作曲家をみな不協和音の怪物を書いていると思って、同じように攻撃していた、というのである。しかし、ハイドンやモーツァルトは、音楽の教育を受けていない者のために書いたのではないし、決して「響きのよさ」を狙わなかった。彼らが作曲する時に念頭においていた聴衆は、エステルハージ侯やザルツブルクの皇太子 = 大司教といった貴族で、こういう人々はそれ自身アマチュア音楽家であり、したがって自分たちが依頼した作曲の精妙さを承知しており、また自分たちの技術的な側面を正しく認識できたのである。次いでシェーンベルクは、現代の「音楽愛好家たち」に議論を向けるが、彼らは音楽については何も理解せず、「自分たちが何が好きなのかを知っている」だけである。

 「音楽的であることは、音楽的な意味での耳をもつことであって、自然的な意味での耳をもつことではない。音楽的な耳は、平均律の音階と同化しているのでなければならない。一方、自然な調子を作り出す歌い手が音楽的でないのは、路上で〈自然に〉演技をする人で不道德な場合があるのと同じである」

 こういったパースペクティヴから眺めると、シェーンベルクの作曲はすべて、ブルジョワ的耽美主義がもつ、まがいものの教養に対する攻撃に相当する。作曲家としての彼の仕事は、ロースの建築がそうであったのと同様に、同時に、幾分とも社会批評となる。十九世紀後半の作曲家は「逃避した」のだ。彼らは、聴衆が喜ぶように慎重に音楽を書き、かくして物事の真の順序を逆転させたのである。すべてのグループは等しく間違っており、したがって、みなこらしめられねばならない。これが音楽における、彼の革命の消極的な側面である。そして今や真のパースペクティヴにおいて眺める時、これが、すべてのドラマチックなあるいは詩的な装飾を、楽想そのものと音楽の論理法則に従ったその表現から「創造的に分離する」、もう一つの試みであることが分かる。したがって、音楽における「美的」なものは、シェーンベルクにとっては、作曲家の誠実さの副産物であり、作曲家が真理を追求することと相関的なのである──「芸術家は美を欲しなくてもそれに到達する。なぜなら、芸術家は真実を得ようと努力するだけだから」。クラウスが文学において、そしてロースが建築において続行していた企てに、彼が仲間として加わる資格があったのも、このためである。したがってシェーンベルクの生涯の事業は、クラウスやロースのそれと並んで、次のことの例証となっている。その人為性や耽美主義を含めて、その当時のウィーン社会の習俗に対する批判が、どれほど自然に、美的表現に対する批判の形式をとるか、ということである。
第五章 言語、倫理および表現

君たちは、言葉でとらえることができるものだけを、考える。
マウトナーによる引用

〔…〕

 こうして、カント思想にみられるスコラ哲学の残滓に対して攻撃を加えた結果、ショーペンハウアーは、道徳を直ちに感情と意思に依存させることになった。価値の領域と事実の領域は、カントにおいて区別はされたが、決して切り離されなかったのに、ショーペンハウアーの哲学では大きく切り離されることになる。セーレン・キルケゴールの思想においては、この分離は、橋を架けることのできない裂け目となる。
 キルケゴールは、ショーペンハウアーと同じように、道徳は知性に基づかないと信じた。ショーペンハウアーがカントを攻撃したのと同じ仕方で、彼はヘーゲル的道徳の抽象性を攻撃した。二人にとって、倫理は理性の概念作用に根ざすものではなく、今生きている個人に根ざさねばならなかった。そして、ショーペンハウアーは「疑いもなく重要な著述家であり、意見は完全に食い違っていたにもかかわらず、こんなにも多くの点で私に影響を及ぼす」と認めるほど、キルケゴールは、ショーペンハウアーに深い感銘を受けていた。それでも、道徳的生活についての二人のそれぞれの考え方の間に、「全面的な相違」があることを見た点で、キルケゴールは正しかった。ショーペンハウアーにとって、道徳的な人間は完全に受け身である。彼の主たる道徳的な努力は、自分の本能的な衝動を否定することにある。「憐れみの道徳」は、人類は兄弟、という考え方に基づいており、徹底して社会的である。他人の苦しみを引き受ける時にのみ、ショーペンハウアーの立場では、人間は純粋に道徳的となるのだ。反対に、キルケゴールは、真の道徳は、各人と神との、絶対的に直接的な関係にあるがゆえに、社会的であると主張した。キルケゴール的人間の目標は、「不条理なものへ飛躍すること」、有限な人格が無限なものとトータルにかかわりあう信仰へ飛躍することである。この関係においては、友人や仲間は不必要な他人である。
 キルケゴールは、人々をこの真理に気づかせることに、その生涯を費やした。「問題自身が反省の問題である。人はある種のキリスト者であるとき……中略……キリスト者となる」。キルケのでゴールの出発点はこれである。すなわち、わたしはどのようにしてキリスト者になるのか? たとえわたしは、名前の上ではキリスト者であるとしても、わたしは真のキリスト者ではないということを、この問いそのものが含んでいる。だから、キルケゴールの問題は、人間が生きる、その仕方から取り上げられているのだ。彼は人間が行うことと、人間が自分自身について主張することとの間には、重大な矛盾があると主張する。ここから出てくる、キルケゴールの思想の一つの本質的な要素は、型にはまった、中産階級の道徳規範に対する、徹底した批判であった。これは彼の著作に何度も現れるが、その最もよい例は、おそらく、彼のエッセイ『現代』であろう。彼がいうには、慰め、一時的な無関心、それに同じように一時的な熱狂が現代の特徴である。それは情熱が何の役割も果たさない抽象的思考の時代であり、真の感情が何の役割も果たさない観念の時代である。そのように怠惰な時代では、革命は考えられない。こうして現代は、本物の価値をもたない時代なのだ。「情熱のない時代は価値をもたず、あらゆるものは表象の観念に変形される」。
 抽象的概念が大事にされる時代では、いかなる道徳も可能ではない。そのような時期が生み出しうるものは、せいぜいいかさまの人生である。時代そのものが抽象的概念となる。こういったものとして、それは、個別性に対する余地を全く残さない、水平化の過程によって徹頭徹尾、特色づけられる。実際、この時代は「大衆」において具体化される。

 「あらゆるものを同じレベルにするために、まず必要なことは、幻影、その亡霊、奇怪な抽象的概念、すべてを包括する無価値なもの、蜃気楼、を手に入れることである──そしてあの幻影が大衆なのだ」

 この抽象的概念には、なおいっそうの抽象的概念によって個人を押しつぶし、その結果、「世論」「上品」その他同種類のものを生み出す癖がある。堕落した社会では、この「大衆」は新聞の作り事である。

 「社会における仲間の感覚が弱く、現実の一つ一つが活気を失っているときに限って、新聞は〈大衆〉というあの抽象的概念を生み出すことができるのだが、これは、現実の状況や組織において決して統一されず、また統一できないにもかかわらず、全体としてまとめられる、非現実的な個々人から成り立っている」

 こうして、およそ七十年ほど後の、ウィーンのクラウスと同じように、コペンハーゲンのキルケゴールは新聞を、その非人格性と真理に対する無関心の結果として、道徳的退廃の特殊な媒介物であると考えた。こういったすべてに対して、彼は個人を対立させるが、これが、責任の唯一の担い手であり、宗教的ならびに道徳的経験の唯一の主体である。この個人は、息をつまらせるような群集のなかに失われていたので、キルケゴールは人々の注意をこの状況に向け、それを正すことが、自分の責任であると考えた。
 それを実践するためには、キルケゴールは、その社会に対して大論争を企てなければならなかはった。この論争は、彼が間接的伝達と呼んだものの本質的な要素を形成した。「いかなる幻影も直接的には破壊できない。それは間接的な手段によってのみ、根本的に取り除くことができる」。論争の機能は幻影を破壊することであったが、同時にその課題は創造的であった。「……創造的なことはどれも、潜在的に論争であった。なぜならそれは、生まれつつある新しいものに場所をは空けなければならないから」。これは特に宗教的な思想にあてはまる。なぜなら、宗教は常に見知らぬ者として、世界に入りこむからだ。こうして、社会についてのキルケゴールの論争的批判は、彼の思想において、欠かすことのできない要素である。新しい価値を確立するためには、古い価値は、特に最も注目に価するような仕方で、一掃されねばならない。単に他人の価値を論駁しようとするだけでは何もならない。それは彼を強め、憤激させるだけである。

 「人にある見解、確信、信念を受けいれさせることは、結局のところ、わたしにはできない。だが、一つのことはできる。つまり、その人に注意させることである。ある意味で、これが第一歩である。なぜなら、これは、その次のことに先立つ、つまり見解、確信、信念を受けいれることに先立つ条件だからだ。別の意味では、すなわち、もしその人が次のステップを踏まなければ、これが最後である」

 このとき、論争者は、あれかこれか選択をしなければならないような位置に人を立たせるが、倫理学の教師にできるのは──事の性質上──せいぜいこれだけである。
 事実、この「間接的伝達」は、キリスト教の礼拝における、ソクラテス的方法の復興以外の何のものでもないことを、キルケゴールの著作は繰り返し強調する。それは、かなり古い弁証論的方法にとって代わるためにもくろまれた、「新しい戦闘的な学問」であり、古い方法は、現代世界のキリスト教化のための、十分な道具を供給してくれないのだ。間接的伝達、あるいは(彼が時折そう呼ぶ)「反省による伝達」は、ソクラテスを模範にした、知的ならびに道徳的な産婆術である。それは誰かを知識の入り口まで高め、その結果、自分でこの入り口を超えさせてくれる。このようにして、論争に加えて、皮肉、風刺、喜劇および比喩が道徳の教師の道具である。これらの形式は、ある立場にショックを与えたり、それをからかったり、攻撃したりして、思弁的な論証ではできないことをなし遂げる。それらは、人々を選択しなければならない点にまで導く。キルケゴールにとっては、思弁という概念そのものがあざけりの対象である。なぜなら、それは決して人間の生き方を変えることができないから。キルケゴールの見解によれば、かつてキリスト教に降りかかった最大の不幸は、その真理を思弁的な言葉で表現しようと試みたことであった。その結果、キリスト教は矛盾したことをいったのである。思弁的な真理とは、あらゆる時に真な、普遍的で完全な知識のことである。これに対し、キリスト教は実存する人格にかかわらねばならないのであり、この人格は絶えず生成の状態にあり、常に個人である。思弁は「客観的な真理」にかかわり、キリスト教は主体的な真理──これはすべての、キルケゴールの思考の、核心に近い概念である──に根ざしている。
 キルケゴールは、「主体的な真理」とは「最も情熱的な内面性の専有過程において、しっかりととらえられた客観的不確実性」であると定義する。これが彼の実存的真理である。ここでキルケゴールが語っているのは、実際は、信仰についてである。これに照らしてみると、情熱のない社会に対する彼の攻撃は、大きな意味をもつ。彼が生きた社会は情熱を欠いていたので、「内面性」に対する余地を、したがって信仰に対する余地を、残すのを拒んだ。この意味で、群集は、「虚偽」である。なぜなら、群集とその心理は内面性と情熱に対して、全く敵対するからである。同じように、どれほど思弁を重ねても情熱を生み出すことはできない。人間は、議論によって信仰を告白するように説きつけられることはなく、「間接的伝達」のみが実存の真理を伝えることができる。これはまた、「不条理なものへの飛躍」としての信仰という、キルケゴールの教説の源泉である。

 「キリスト教は、時間における存在となった、永遠で本質的な真理であると宣言した。キリスト教は、自ら逆説であると布告し、またユダヤ人にとっては罪であり、ギリシア人にとっては愚劣であるような──そして、知性にとっては不条理な──関係に対する、信仰の内面性を個人に要求してきた」

 「不条理」なものは、その本性上、知性にそむく、客観的な不確実性に密着した、情熱的なものである。キルケゴールにとっては、信仰は、それが含む危険によって評価される。だから可能な最大の信仰は、可能な最大の危険となり、最も不確実なもの、不条理なものに全面的にかかわることである。思弁的な思考はこれを説明できない。「そうすると、逆説を説明することは、逆説とは何であるかをよりいっそう深く理解すること、しかも逆説は逆説であること、を理解することを意味するであろう」。思弁はその際、自分自身を超越しなければならないであろうし、そのような概念は「間接的に」伝えられるだけである。
 このようにしてキルケゴールは価値の領域から事実の領域を分離し、それを絶対的なものにした。まず、カントが理性の「思弁的」機能と「実践的」機能の区別を持ち出し、次いでショーペンハウアーが表象としての世界を意志の世界から分離して、それを引き継いだ道のりは、ついにキルケゴールにおいて、人生の意味に関係するものを、理性から完全に分離することとなった。この理論を受けいれるけれども、なお教訓を作り出したいと思う人にとっては、このほかにただ一つの手段があるだけであろう。つまり、人生の意味を自分自身の生活に見いだしていた人々の考え方を表す、寓話の著述に専心することである。
 一九世紀の終わりにこの結論を一般の読書界に知らせたのは、小説家レフ・トルストイであった。彼の仕事とキルケゴールのそれとの間には、直接的な関係はなかった。しかしながら、芸術についての彼らの考え方にも、また「間接的な対話」や「人生の意味」に対する彼らの態度にも、明確な類似点があった。トルストイは、道徳は本質的には感情に、また芸術は「感情の言語」に基づくものと考えた。これとは対照的に、演説は合理的思考の媒介物であった。彼にとって芸術とは、それを通じて道徳的教育が普及されねばならない媒介物であった。しかしながら、道徳的生活についての見解の細部においては、トルストイはキルケゴールよりも、ショーペンハウアーに同意した。トルストイにとって、道徳は、もし社会的でないならば無価値であった。芸術は人間生活の必要条件であり、感情の伝達であって、人々はここでは一心同体である。それは真の「憐れみ」や他人の状態に対する「同情」を生み出し、それゆえ、本性上、宗教的である。けれども、芸術が宗教的であるのは、それが教義であるという意味ではなく、人々に人間生活の根本法則を、すなわち「わたしはわたしの兄弟の番人である」という原理を気づかせる、という意味においてである。
 この原理が山上の垂訓の教説と同じ意味をもつ限り、トルストイはそれを、「悪を行わぬようにせよ」という意味にとる。トルストイのキリスト教は、苦悩に捧げられた人生を受けいれることであり、この点で、ショーペンハウアーの道徳概念に似ている。同時に、トルストイはすべての教義を激しく拒絶した。「わたしはキリストの教えを説明することに関心はない。わたしはただ一つのことだけを希望する。つまりすべての説明を廃止することである」。ここでは、彼は、主体性の概念に訴えるキルケゴールに近い。キルケゴールと同じように、トルストイはその伝道において思弁的な知識はほとんど使わなかった。

 「人生の問題には関係のない、それに固有の、特定の科学的な問いに対して答えを見いだすような知識の分野に取りかかるならば、われわれは夢中になって人間知性を称賛することだろう。しかし、人生そのものについての問いに対する、どんな答えも手に入れるはずのないことを、われわれは前もって知っている。なぜなら、これらの知識の分野は人生の問いをまさに無視するからだ」

 トルストイ自身がその結論に到達するにいたった精神的闘争の、おそらくそれに非常に近い自叙伝的説明が、小説『アンナ・カレーニナ』にある。コンスタンチン・レーヴィンという登場人物は、多くの点で、トルストイ自身の自画像を表す。長い物語全体を通して、レーヴィンは、自分自身の人生に意味を見いだし、したがって自分自身の行為を導く原理に自信がもてるような、自分自身の人間的状況の理解に彼の家族、彼の土地で働く小作人、仲間の土地所有者、ロシア人、人間性一般、そして最後に神との関係において──到達しようと努める。レーヴィンの自己発展に関する限りでは、小説全体は、探し求めている道徳のための知的基礎づけを見いだそうとして、彼が──公務、結婚、農耕法の合理的組織化その他において──次々に行った試みの記録である。最後に、物語のまさしく終わりに、彼はある種の回心を経験する。彼の眼からうろこはが落ちるのだ。自家の小作人の一人との、ふとした会話で、「ばらばらでは無力な、別々の観念を突然変換して、一つに結合させる、電気的な火花の効果」がもたらされ、その結果、行為の原理を知的に根拠づけようという、彼の試みそのものが、初めから全く間違っていたことを彼は認めることになる。

 「わたしと、そして他のすべての人々はただ一つのことだけを、しっかりと、明らかに、そして確かに知っている。そして、この知識は理性では説明できない。それは理性の外にあり、何の原因ももたず、したがって何の結果ももちえない。

 もし善に原因があるなら、それはもはや善ではない。もしそれが結果──報い──をもつなら、それはまた善ではない。それゆえ、善は原因結果の連鎖を超えている……。

 わたしは何も発見しなかった。知る、とはどういうことであるかに、わたしはただ気がついたのだ。わたしは、過去においてわたしに生命を与えてくれただけではなく、今もわたしに生命を与えてくれる神を理解した。わたしはごましから解放され、わたしの師を知ることを学んだ。

 わたしの身体、この草、この昆虫には物理的、化学的および生理学的法則に従って物質の変化が起きる、とわたしはかつてよくいったものである……。そして、その線に沿って最大の思索の努力をしたにもかかわらず、人生の意味、わたしの衝動の意味およびわたしの熱望の意味がわたしに示されなかったことに驚いた……。

 わたしはわたしの問いに対する答えを探した。しかし、理性はわたしに答えを与えることはできなかった──理性はこの問いとは比べものにならない。人生そのものがわたしにその答えを与えてくれ、その結果、わたしは何が善であり、また何が悪であるかを知ることになったのである。しかも、その知識をわたしはいかなる仕方においても獲得したのではない。それは、誰にでも与えられるように、わたしに与えられたのだ。わたしはそれをどこからも手に入れることができなかったがゆえに、与えられたのである」

 それゆえ、人生の意味は、科学が取り扱うのとは違った種類の問いである。トルストイは自分のキリスト教において、人生の意味に関する問題の答えを見つけたと感じた。それから、これを人々に教えることが彼の天職となった。彼の晩年の物語や説話──特に一八七二年から一九〇三や二三年に書かれ、まとめて『二十三の説話』という表題で出版された短い寓話──は、文学を通して道徳を教えようという、彼の努力の産物である。これらの説話は、卑しい人々についてのきわめて単純な寓話であり、人間の主要な徳と悪徳とを非常に直接的な、時として感動的な方法で例示する。こういったものとして、それは、キルケゴールが「間接的伝達」ということで意味したものの、美しい例証である。その役割は、誰もがとりいれることのできる人生の道としてのキリスト教を、教えることである。またそれは、キリスト教的生き方を遵守すると、キリスト教の教義を形式的に信仰することと、時として衝突することがある、と力説する。
 最後に、その著書『芸術とは何か』においてトルストイは、芸術に関する彼自身の理論を詳述し、彼の多くの同時代人の、芸術の耽美主義と秘教的な性格を批判した。耽美主義に対する彼の攻撃は、この芸術が上流階級のための緩和剤になったにすぎない、という考えに基づいていた。上流階級はキリスト教に対する信仰を失ったので、美──すなわち、形式のみによる満足や喜び──が「よい」芸術と「悪い」芸術の唯一の基準となっていた。それゆえ芸術は、世俗化することによって、その本来の機能、すなわち人生の意味について芸術家が見てとったものを伝達することから、身を引いたのである。同時に、上流階級に援助された、芸術の専門家かたぎと学者風とは、芸術を庶民から遠ざけることになった。その結果が、非道徳的な芸術、その社会的義務を忘れた芸術であった。階級の利害のしもべとなった時、芸術は単に娯楽の問題になった。芸術家にとっては、これは、もはや誠実さが要求されないことを意味した。誠実さが失われると、芸術家の生み出しうるものは、もはや庶民には語りかけることのない、秘教的な作品であった。そして、トルストイの努力のすべては、晩年においては、この趨勢をうちくだくことに向けられた。要するに、『芸術とは何か』は、耽美主義に対する彼の論争を理論のレベルで表現し、一方『説話』は、宗教によって鼓吹された、庶民的な芸術を復権させるための、彼の実践的な仕事の一例である。
 カントの批判哲学からトルストイの物語にいたる歴史の連続性は、完全でもないし直接的でもないが、ある種の論理的な展開はある。それはショーペンハウアーによって引き起こされ、キルケゴールによって完成されたもので、その最終的成果は、今になって分かったことであるが(ミネルヴァの梟は宵闇にだけ飛び立つのである)、トルストイの『説話』に最もよく示されている。そのすべての、さまざまな活動領域における、理性の限界を示す試みとして始まったことが、理性が価値の王国で妥当することを、端的に否定する結果に終わった。したがって、理性の範囲に対して限界を設定しようとする試みは、結局のところ、価値、道徳および人生の意味は、合理的思考の限界を超えたところにおいてのみ、心情の領域内で、間接的な手段によってのみ、語ることができるという主張になったのである。結果的には道徳に対する態度がすべて異なっていたにもかかわらず──キルケゴールは純粋に個人主義的であり、トルストイは集団的である──事実の世界における「知的基礎づけ」を、道徳に与えようとするすべての試み──それが伝統的な道徳の公認の慣例にせよ、その他何であるにせよ──を、厳しく拒絶する点では、彼らはいずれも同じであった。自分たちが生きた社会の価値から、集団として遠ざかっていた同世代のウィーンの思想家、芸術家および社会評論家にとって、このような発展にかかわりあった人々がすべて、この点において、魅力をもったのは当然であった。それゆえこの時点で、世紀の転換期にあった、ウィーンの文化的状況に、特にカール・クラウスに、そして、社会的・芸術的「批判」および事実と価値の「創造的分離」に関してクラウスと態度を共有した人々に、眼を向けよう。彼らの見解を見ると、クラウス派は、カント以後の哲学者が展開した方向を自然に受けいれたし、すべてのカント以後の哲学者のなかでは、アルトゥル・ショーペンハウアー──彼は、その警句を使った辛辣さと洗練された文体で、学問上ならびに職業上の哲学の仲間から際立っていた──が、一八九〇年代のウィーンでは最も広く読まれ、また影響力のある哲学者であった。ほどなくして彼は、セーレン・キルケゴールのおかげで人気を博した。一方、パウル・エンゲルマンが伝えるように、小説家からモラリストに変身したトルストイの著作、特にその決定的なエッセイ『芸術とは何か』に対しても、同じように強い関心が払われた。そしてこのエッセイは、当時流行の耽美主義の信用を効果的に破壊し、人間の交わりの主要な経路としての芸術に対する関心をよみがえらせたのである。
 このような歴史の再構成を背景として、われわれは今や、第一次世界大戦直前の数年間、ウィーンにおいて、思想や芸術などすべての分野の人々が直面した、一般的な知的な問題──彼らにとっては、哲学の中心的な問題そのものとして現れるのも当然な問題───を同定することができる。前に述べたことであるが、一九〇〇年までに、既に言語についての包括的な批判の機は熟していたのである。そしてこの批判は、(例えば)論理学と音楽、詩と建築、それに絵画と物理学で既によく知られている、表現とコミュニケーションの既定の手段についての、よりいっそう限定された特定の批判を、哲学的な観点から集め、一般化するためのものである。そのような哲学的な批判はおそらく、事実と価値の分離を特定の分野の境界をはるかに超えた哲学的必然性として確認し、かつ正当化しなければならない。マウトナーはその『批判』によって、そのような一般的な哲学的分析を供給する最初の試みを行ったのであり、その結果、ある点までは、十分強い印象を与えた。その唯名論的な原理の細部を探究した結果、彼の最終的な言語批判は、ショーペンハウアー、キルケゴールおよびトルストイが共通にもっていた、倫理的な立場の核心──すなわち「人生の意味」は合理的な論争事ではなく、「知的な基礎づけ」を与えることができず、本質的に「神秘的な」ことであるという見解──を、確実に支えることになった。しかしそれは、法外な代価を支払って、この命題を支持したにすぎない。なぜなら、マウトナーの議論によれば、知識の可能な対象でなくなるのは、「人生の意味」だけにとどまらなかったからだ。彼の原理はまた、科学と論理学においてさえ、世界についての比喩的な記述以外に、いかなる本物の知識の、可能性をも否定することを、彼に余儀なくさせたのである。
 しかしながら、マウトナーがこの結論に到達した道は、批判をまぬがれなかった。言語の範囲と限界を内側から、本質的にカント的な仕方ではっきりと描く代わりに、彼はマッハの例にならっていた。つまり、彼の分析の基礎を、当の主題にとっては外側にある、一般的な原理に置き、したがって運命に人質をあずけたのだ。では、常に進行過程にある論理学と科学を犠牲にすることなく、同じ終着点に到達できるような、これに取って代わる道があったであろうか。その可能な例は、既にヘルツとボルツマンの仕事に見られた。これらの人々は、物理科学における体系的な理論の論理的分節化と経験的適用が、どのようにして、世界についての、マウトナーの具象的叙述とは全く異なったその言葉の意味において、直接的な具象的叙述を──すなわち、正しく適用されると世界について真の確実な知識を生み出すことができる数学的モデル──を与えるかを示していたのである。そしてその上、彼らは、カントの根本的な反形而上学的要求を満足するよのであうな仕方で──すなわち、物理理論の言語の限界を完全に「内側から」描いて──それを行ったのだ。
 それゆえ、前もってヘルツやボルツマンを知った上で、キルケゴールとトルストイの倫理的な立場に近づく人にとっては彼らのおかげで、科学理論の記述的な言語が現実の物理学の研究において、どのようにして「描写的」用法を獲得するかを見た人にとっては次のような問いをたてることは、簡単な、ただの一ステップにすぎなかった。

 「ヘルツとボルツマンが、既に理論物理学の言語に対して行ったことを、言語一般に対して行う方法が何かあるか。すなわち、〈語りうる〉ことの範囲と限界をもっぱら内側から描き、その結果、記述的言語一般が、描写のヘルツの意味での具象的叙述を、すべての事実の数学的モデルという形式で与えるために、どのようにして用いられるかが示され、かつまた同時に、すべての倫理的争点の〈超越的〉性格──この争点が〈間接的伝達〉による以外にないのは、このためである──が分析の副産物として現れるような、なんらかの方法が存在はするか」

 一八八〇年代の後半以来、ウィーンにおいて社会的、芸術的、科学的および哲学的論争の共通の関心事であった決定的な問題が、この問いにおいて、ついに、一つにはっきりと焦点がしぼられる。哲学的には、われわれが本章で学んだように、この問いが、世紀末ウィーンの文化的論争全体を要約する。そして、これらの要求をすべて満足するような、完全に一般的な言語批判──マウトナーよりもいっそう厳密で、マウトナーほど論駁されないもの──を生み出した者は、誰にせよ、この時代の中心的で最も緊急な知的な問題を一挙に解決するのに成功した、と感じるのは当然のことである。
第六章 『論考』再考──倫理の証文──

すべての哲学は言語批判である。
もちろん、マウトナーの意味ではない。
『論考』四・〇〇三一

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 『論考』の再解釈を始めるにあたり、『論考』のなすべき急務がウィトゲンシュタインの教育と文化的背景からどのようにして生じてきたかを示す最良の方法は、彼とルートヴィヒ・フィッカーおよび、インスブルックで刊行されたフィッカーの雑誌『ブレナー』のまわりに集まった、若い前衛的知識人との関連を考察することである。よりいっそう限定すれば、テオドール・ヘッカーの仕事との関連を考察することである。ウィトゲンシュタインは『論考』における自分自身の課題を、ヘッカーの仕事とはっきりと同一視したのである。
 ヘッカーの著述家としての経歴は、大部分キルケゴールの名を広めることに捧げられ、おかげで実際この名は、人の知るところとなった。彼が最初のモノグラフ『セーレン・キルケゴールと内面性の哲学』を出した時には、キルケゴールはまだほとんど知られていなかった。したがって、二十世紀の新しいキルケゴール・ブームが、解説者としてのヘッカーの活動に負うところは決して少なくない。この最初のモノグラフにおいて、ヘッカーは、なかんずくキルケゴールとマウトナーを直接かつ率直に対照して、それを、真の「言語批判」とその模造品の違いであるとした。いささか不公平であるが、彼はマウトナーを、その生活が哲学によって何の影響も受けない、机上の懐疑論者であると簡単に片付けてしまう。ヘッカーの見るところでは、マウトナーは、懐疑主義を実存的な心構えとしてではなく、単に知的なテーゼとして採用したのであり、それゆえ、パスカルよりもデカルトと共通するところが多かった。これとは対照的に、キルケゴールの懐疑論は実存的であり、不安でいっぱいだった。こういうわけで、キルケゴールがいかに本物の懐疑論者であり、また本物の言語批判者であったかを明確に述べることで、ヘッカーは、ウィトゲンシュタインの注意を、再び次のような問題へ向けさせたのかもしれない。その問題というのは、マウトナーの言語批判では未解決のままにされておかれたか、あるいはもっと重大なことであるが、全く提起できなかった問題のことである。
 しかしながら、やがてキルケゴールが見いだしたように、これらの問いそのものは、原理的に解答が不可能なのだ。人生の問題、人間存在の問題が、キルケゴールの思索の、唯一の対象である。それにもかかわらず、彼自身の道具である理性が、結果として生じる人生の逆説に、解決を見いだすことは全く不可能である。理性はキルケゴールを逆説へ導くだけである。それに打ち勝つには信仰が必要なのだ。これが「主体的な」思想家の課題である。それは、理性を超えながら、再び人生と思想を統合するような、より高次の真理に到達することである。主体的真理──生そのものである真理、道徳的真理──は、事実を記述する言葉では伝達不可能である。主体的な思想家は、価値を所有し教えようとするのであるが、彼はソクラテスの、あの知的態度を装わねばならない。アイロニー、風刺、喜劇そして論争が、「間接的伝達」の道具であり、したがって、この目的に対する手段である。ヘッカーが語るところによれば、真の言語批判は、マウトナーの流儀で言葉を学ぶことにあるのではなく、言語を、実用的に役に立つ道具から、人々の生活を変革するような精神の道具へ変換させることである。この意味において、ヘッカーは、キルケゴールを「言語哲学者」として紹介したのであり、そしてキルケゴールは、トルストイと同じように、芸術を、人間が精神の王国へ接近するための手段とみなしたのである。
 ヘッカーは、同時代の人々の中に、そのような主体的な思想家を一人見いだした。

「おそらく、誰にも気づかれずに精神生活を送り、今日のたいていの物書きよりも無限にそれに近づくことのできる人間が一人いる。この人の前で彼らが自分たちの名誉を証明できる可能性は、本当は二つしかない。沈黙と卑下である。ためらうことなく、事実、一つの名前が直ちに私の心に浮かぶ。それはカール・クラウスである」

 ヘッカーの見解によれば、クラウスはキルケゴールの名前さえ知らなかったが、キルケゴールの真の弟子であった。なぜなら、クラウスはその風刺と論争において、キルケゴールの仕事を継承したのだから。クラウスは、キルケゴールと同じく、倫理学がモラルの科学ではなく、また幾何学や化学のような知識の一分野でもないことを、十分すぎるほど熟知していた。倫理は事実とはなんの関係もない。その基礎は確信の主体性であり、その領域は科学の領域ではなく、逆説的なものの領域なのである。クラウスは更に、芸術作品における形式と内容の統一は、絶対に欠くのべからざるものであるという点で、キルケゴールと一致した。美的形式と倫理的内容は、同一の硬貨の表と裏である。何が価値をもっているかは、善良な人だけが知っているのであり、この人だけがそれを伝えることができる。どれほど科学的な知識があっても、それで人間は善良になれるわけではない。ヘッカーは、キルケゴールとクラウスの倫理観に立って、「道徳科学モラル・サイエンス」(精神科学)という概念は名辞矛盾であると主張する。倫理は逆説的なものに根ざし、そして逆説的なものの科学はありえない。アフォリズムだけが、倫理的なものを直接表現するのにたえられる。こうして、ヘッカーの言語批判に対する理想は、クラウスのアフォリズムと彼の論争に見られるわけだが、クラウスはキルケゴールの生まれ変わりであった。
 しかしながら、たとえヘッカーの見るところ、カール・クラウスがキルケゴール的「言語批判」の最善の実践的解説者を代表しても、それは、マウトナーの分析が残した問題、つまり一方ではヘルツとボルツマンを、他方ではキルケゴールとトルストイを、いわば調停するという問題の解決にはならなかった。ヘルツとボルツマンの物理学できたえられた技術者として、ウィトゲンシュタインは、マウトナーのような人間の哲学的懐疑論にもかかわらず、「描写」言語が不可能でないことを十分知っていた。少なくとも物理学においては、自然現象を具象的叙述(bildliche Darstellung)で有意味に表現することは可能であった。ただし、この「具象的叙述」という語句をヘルツの意味に根本的に解釈し直すことができれば、という条件付きである。このことの証明は、物理学者が理論的なものであると語るその同じ原理が、また機械の製造で実際に応用されるという事実そのものにあった。その当時、熱心なヘルツ主義者であったウィトゲンシュタインは、画像(Bild)ないしは「モデル」の形式での叙述が、力学において可能であることを知っていた。実際、力学が、人間の他の知識から区別され、物理学の最も基礎的分野とみなされるのは、そのの確実性によるのであるが、これは、物理学者が力学的現象の「モデル」を構成する過程で、それらの現象に押し当てる、数学的構造の結果なのである。
 その上、このような表現には、その適用可能性の範囲が大部分、その数学的形式によって決定される、という意味で、自己限定的であるという利点がある。それゆえ、数学的画像という形式において、世界についての「事実」を伝えるのに、すなわち世界の「表現」を与えるのに、十分一義的で、構造のはっきりした言語の分野が、少なくとも一つ存在した。つまり、力学の言語である。この言語が一義的であり、その結果として多義性を免れうるのは、その数学的構造、その形式の、直接的な結果である。この形式は経験から生まれたものではない。けれどもまた、任意であの約束や定義の産物でもなかった。むしろ、それは経験を経済的に整理するために、経験に押しつけられたものである。──そして、こういう特色が、マッハがヘルツの『原理』を称賛した理由であった。──こうして、ウィトゲンシュタインがじかに知ることができたように、知識につでいてのマウトナーの考え方は、数学的モデルという形式を用いた力学言語の、ヘルツ的表現からたちどころに挑戦を受けたのである。そして、もしこれに対応する──しかし、すべてを包括するような──「言語の数学」を確立することさえできれば、その時には、ヘルツが力学批判を変換できたのと同じような方法で、言語一般の本性と限界を、「内側から」説明する「言語批判」を遂行することが可能であろう。ここでヘルツの方法というのは、マッハやマウトナーが行ったような、力学の概念の心理的歴史的展開を研究することではなく、その数学的構造を考察して、力学批判に、哲学的に安全な基礎を与えるもののことである。
 「力学の原理」に関するヘルツ自身の論説の中心的な課題は、このようにして、今ウィトゲンシュタインが従事している課題と奇妙な類似をなしていた。ヘルツがかかわっていたことは、ニュートン力学という古典理論が、どのようにして公理と演繹の数学体系を形成できるか、かつまたそれと全く同時に、すべての論理的に考えられる世界とは対照的な、自然という現実の世界をどのようにして記述できるかを、説明することであった。そして、これが、その後ウィトゲンシュタインが『論考』の命題六・三四から六・三六一一で、珍しく長いパッセージをあてることになった論題である。ヘルツの議論はこうである。そのような数学的計算が分節化される、形式的な段階と、その結果生じる公理体系が現実の経験において適用される、経験的ないしは実際的な段階とを十分注意して区別しさえすれば、その問いはおのずと答えられるだろう。その上、こういう区別をたてれば、多くの不毛で混乱した形而上学的な論争は未然に防がれるだろう。その論争は、例えば「力の本質的性質」に関するものであるが、それらは十九世紀の物理科学の発展を損ない、妨害していたのである。
 前述したように、もしウィトゲンシュタインが、言語についての包括的な「モデル」理論を確立しようとするなら、完全に一般的な言葉でその形式的な構造を説明できるような、同じような「言語の数学」が必要になる。この点で、彼はおのずとフレーゲとラッセルの仕事に向かったのであろう。なぜなら、ラッセルの初期の著作における哲学的プログラムは、たちどころに、一般化された形式でのヘルツの問題を解決する手段を供給するもの、と読めるからである。今、はっきりと定義された形式的モデルに基づいて、ラッセルが提起したような言語を再構成し、こうして、命題の真の形式を表現できる「命題計算」に到達したものとしよう。すると、その結果として生まれた形式的体系を用いれば、言語の内的構造がそれに対応する構造、実在の世界の「対象」が「事実」へと連結する構造をどのようにして表現するかを示す(show)ことができるであろう。したがって、命題の真の論理形式はしばしば、自然言語の、誤解を招きやすい文法的な外観で隠されている──そして、この真の形式は、『プリンキピア・マテマティカ』の論理的記号で表現すると最もよくとらえられる──というラッセルの主張は、ウィトゲンシュタインに本質的な手がかりを与えた。「命題計算」を言語の形式的なモデルとして使うと、以前のマウトナーの努力が招いた非難を回避するような、新しい種類の言語批判を構築することが可能であろう。こういうわけで、ウィトゲンシュタインは、自分自身の仕事をマウトナーのそれと対比するのであるが、その際彼は、「みかけ上のアペアレント」論理形式と「本当リアルの」論理形式という、ラッセルの新しい区別に訴えるのである。

 「すべての哲学は〈言語批判〉である(もちろん、マウトナーの意味においてではないが)。命題のみかけ上の論理形式が、その本当の論理形式である必要がないことを示すのに貢献したのは、ラッセルであった」

 こうして、ラッセルとフレーゲの論理的記号体系は、ウィトゲンシュタインにとって手段であり、彼は今やそれを用いて、ヘルツとキルケゴールの双方を公平に取り扱うことができるような、一般化された言語批判を提供することができたのだ。特に、ラッセルの「命題計算」は、マウトナーの知らなかったものであり、まさしくウィトゲンシュタインが必要とした「言語の論理」を、彼に与えてくれた。ラッセルとフレーゲは、数学の基礎に関する論理を再検討した時、マウトナーの、論理嫌いの特徴となっているたぐいの、「心理的還元主義」に対し強力な反論にとりかかっていた。特にフレーゲは、この反心理主義的な仕事に多くの努力を費やしたし、「概念表記」に関する彼のモノグラフは、数理論理学を体系化する最初の試みであった。そして、ホワイトヘッドとラッセルの『プリンキピア・マテマティカ』は、そのような体系の整然とした概説を提供してくれた。それゆえ、ウィトゲンシュタインが探し求めた新しい「言語計算」に対する基礎が、ここにおいて与えられたのである。
 マウトナーの議論は、基本的に唯名論的なので、言語の限界を、言語についての理論によってを論証しようとしたものだ。したがって、そこには循環の要素が含まれていた。この点で、それは、力学の概念についての、心理学的理論に基づくマッハの力学批判に似ていた。ヘルツの力学批判の的は、マッハのものより、はるかに鋭いものであった。なぜなら、彼は、現に使われている通りの力学概念の構造に、はっきりと焦点を合わせることができたから。彼の立場に立てば、力学の本性と限界は、この学問の内側から自ずと理解できるのであった。彼は、力学についての理論に避難するには及ばなかった。すなわち、力学概念の構造がひとたび解明されるや、力学的説明の限界は明らかであり、それ以上の論証は必要ではなかったのだ。モデル(画像)は、端的にそれ自身の適用の限界を示した。ウィトゲンシュタインは、命題計算を自由に使って、これに対応する循環を除去することができたが、この循環は、マウトナーが認めていたように、初期の批判を特色づけていたものである。このようにして、言語の本性と限界はその構造によって説明できた。言語の限界は自明なものとなり、わざわざはっきり述べるにはおよばなかったのである。これらのことが、いわゆる「言語の絵画理論ピクチュア」がもつ長所である、とウィトゲンシュタインが主張するものにほかならない。

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 ウィトゲンシュタインが着手していた問題は、本書の仮説によれば、次の二つのことを同時に示すことができるような、一般的な言語批判を構築することであった。第一に、論理学と科学には日常言語内において果たすべき固有の役割があり、この言語によって、物理現象の数学的モデルに類似した、世界についての表現がもたらされること。第二に、「倫理、価値それに人生の意味」に関する問いは、この記述的言語の限界の外にあるので、せいぜいある種の神秘的な洞察の対象となるにすぎないが、それは、「間接的」あるいは詩的な伝達によって伝えることができること、の二つである。この課題の最初の部分は、物理科学の言語における画像叙述についての、ヘルツの分析を拡張することによって完遂されたのだが、その際、フレーゲとラッセルの命題計算が、この拡張のための枠組みとして利用された。二番目のほうは、否定的な側面を除けば、言葉だけではほとんど成し遂げられないだろう。パウル・エンゲルマンはこう語る。

「われわれの語ることのできることが、人生において重要なことのすべてである、と考えるのが実証主義であり、そしてこれが実証主義の本質である。これに対しウィトゲンシュタインの熱烈な信念によれば人間生活において本当に重要なことは彼の見解ではまさしくそれについてはわれわれが沈黙しなければならないことなのである。彼が、さほど重要でないものの境界〔すなわち、日常言語の範囲と限界〕を定めるのに莫大な努力を費やしている時、彼が細心すぎるほど精確に調べているのは、あの小島の海岸線ではなく、やはり、大海の境界なのである」

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 倫理に「知的な基礎」を与えようとする試みはすべて廃棄しなければならない、というウィトゲンシュタインの確信が変わらなかったことは、後のワイスマンやシュリックとの対談で再び明らかである。例えば一九三〇年の十二月、彼は哲学的倫理学に対するシュリックのアプローチを批判して、ワイスマンに次のように語っている。

 「シュリックは、神学的な倫理学には、善の本質について解釈が二つあるという。表面的な解釈によれば、善がよいものであるのは、神がそれを欲するからである。より深い解釈によれば、神が善を欲するのは、それがよいものであるからだという。わたしの考えでは、最初の解釈のほうがより深い解釈である。つまり、神が命じ給うものがよいのである。というのは、この解釈は、〈なぜ〉それが善であるかという、なんらかの種類の説明を求めようとする道筋をふさいでしまうからである。これに対し、二番目の解釈は皮相で、合理主義的な解釈である。それは善いものについて、さらにそれ以上の、なんらかの基礎づけを与えることができる〈かのように〉考えているのである」

 少し後で、彼はショーペンハウアーの言葉を引用している。「道徳を説くことは難しく、それに知的な正当化を与えることは不可能である」。
 ちょうどほぼ一年前(一九二九年の十二月)、ウィトゲンシュタインは自分自身の見解とカントやキルケゴールの見解との結びつきを明確にしているが、またこの対談で彼は、G・E・ムーアのような、職業的な哲学者の哲学的倫理学を「むだ口」として非難した。このくだりは、後にその一部が死後印刷された『倫理学講義』に含まれているが、ここで詳しく引用するに価する。

 「ハイデガーが存在不安で何を意味しているか、わたしにはよく理解できる。人間には、言語の限界に突き当たろうとする衝動がある。例えば、いやしくも何かが存在するということの不思議さを、考えてみよう。この不思議さは、問いの形で表現することはできないし、それに対する答えもない。それについてわれわれが語ることのできることは、どれもアプリオリにナンセンスであるにすぎない。それにもかかわらず、われわれは言語の限界に突き当たる。キルケゴールもまた、この突き当たるということを見てとったのであり、そして全く同じような仕方で、これを逆説に突き当たることとして示したのである。この、言語の限界にに突き当たることが倫理である。倫理についてのすべてのむだロ、──すなわち、それが科学であるかどうか、価値は存在するかどうか、善は定義できるかどうか等々──をやめることが非常に大事なのだと思う。事の性質上、表現されず、また決して表現されることのできないことを語る方法を、人々は倫理学において永遠に探し求めている。われわれはアプリオリに知っているのであるが、善の定義によって与えることのできるもの、それは、誤解以外の何ものでもありえない…..…」

 しかしながら、繰り返していうが、これは、「語ることのできない」ことを倫理学において表現しようとする試みは、全面的に廃棄されねばならないといっているのではない。ただ、そこに含まれている論点の、真の特性を過度に知的なものにしたり、間違って表現することは、ぜひとも回避しなければならない、というだけである。
 おそらく、『論考』を理解する上で、欠くことのできない最も重要なことは、その哲学──モデル理論、フレーゲとラッセルの批判等々──と、ウィトゲンシュタインがそこで詳しく述べている世界観との区別を把握することである。彼の哲学の目標は、叙述の本性と限界に関する問題を解決することである。彼の世界観は、示すことしかできないものの領域は、それを語ることを試みる人々から保護しなければならない、という信念の表明である。『論考』の哲学は、詩が命題から成るものでないことを、命題の本性そのものから示そうとする企てである。この世界観においては、詩が、人生の意味を表現する領域であり、それゆえ詩は、事実についての言葉では記述できない領域である。
 価値を世界に導入するのは、理性ではなく、意志である。「わたしは、いの一番に〈意志〉を善と悪の担い手と呼ぶ」。世界──事実の総体──の、意志に対する関係は、ウィトゲンシュタインの見解では、ショーペンハウアーの表象としての世界が意志としての世界に対してもっている関係とほぼ同じであり、また、殻のにんに対する関係や、フェノメノンのヌーメノンに対する関係と似たものである。

 「もし意志を働かせること──よいことにせよ悪いことにせよ──が世界を変えるとしてにも、それは世界の限界を変えるだけであって、事実ではない。つまり、言語によって表現できるものが変わるのではない。要するに、その結果として、世界が全く別な世界となるのでなければならない。いわば、世界が増減するのでなければならない」

 科学においてわれわれが知りたいと思っているのは「事実」であるが、人生の問題においては、"事実"は重要ではない。人生においては、大事なことは他人の苦悩に感応できる能力である。それは正義の感情である。『論考』の哲学は、いかにして「知識」が可能であるかを示すことに向けられている。しかし、その世界観においては、この知識は二次的な役制へ退けられる。感情を伝達するものが、人生において主要な役割をもつのであり、それは詩や寓話である。パウル・エンゲルマンが語っているように、トルストイの『説話』が特にウィトゲンシュタインに感銘を与えたのは、この点においてである。また初期のアメリカの西部劇映画も彼に感銘を与えたのだが、彼は西部劇を寓話や道徳とみなしたのである。これらの寓話は、人間の内面性にまで及び、したがってファンタジーに触れる手段であり、これこそが価値の源泉なのだ。
 要約。本書の『論考』解釈はこうである。『論考』は、フレーゲとラッセルからいくつかの論理的道具を譲り受け、それを、マウトナー自身が以前に取り組んでいた問題へ、すなわち、完全に一般的で哲学的な言葉で言語批判を提出するという問題へ適用したものである。しかしながら、マウトナーが哲学的懐疑論に終わっていたところで、ウィトゲンシュタインはこの論理的枠組みを用いて、次のことを示すことができた。ヘルツは「数学的モデル」を中心にして科学的知識の説明を組み立てていたが、それと同じ種類の方法で、通常の、事実に関する、あるいは記述的な言語が、その字義通りの明白な意味を(たとえ比喩的にせよ)獲得するものと考えられる、妥当な範囲を示すことができたということである。けれども、この批判全体の根本的な点は、結局、価値についてのすべての問いが、そのような事実に関する通常の、あるいは記述的な言語の範囲の外にある、という倫理的な点を強調することであった。このように倫理を強調することから出発することによって、われわれは、ウィトゲンシュタインが育った、より大きい、ウィーンの、文化的な状況に立ち帰ることができるのであり、そして、もしわれわれが正しければ、この状況が彼自身の問題と、なすべき急務を定めるのに、実質的な役割を演じたのである。
 エンゲルマンがいうには、『論考』はきわめてウィーン的な文化の産物である。哲学に対するウィトゲンシュタインの関係は、文学に対するクラウスの関係や美術および建築に対するロースの関係と同じであった。今では、こういういい方が、どれほど事態を精確に特色づけているかを理解できる。ウィトゲンシュタインの言語批判は、『論考』に表されている限りでは、実際──彼自身が主張したように──批判の半分である。彼が書かなかった半分(「重要な、この二番目の部分」)は、カール・クラウスの著作の全体を含むものだ。合理主義的倫理学と形而上学がウィトゲンシュタインに映じた姿は、文芸論説欄がクラウスに映じたものと同じである。それは概念の怪物であり、これは、本質的に異なったものをごちゃまぜにするだけである。事実とファンタジーが、文芸論説欄において芸術的粗悪品を生み出すのと同じように、形而上学においては、科学と詩がつがいになって、概念の雑種を生み出すのだ。美術においては、装飾と実用がつがいになって、大戦前の多くの家に満ちあふれていたような、醜悪で役に立たないものを生み出す。音楽においては、劇的効果の追求が、楽想そのものに固有な論理に取って代わった。作曲の原理は、別の種類の音に似た効果を作り出すのに応用され、そのために、作曲という真の芸術がつい見失われていたのだ。
 こういうひずみのすべては、本質的になんの関連もないが一緒に結びつけると互いに破壊しあうような、そういう要素が折り重なった結果である。社会は、そのような常軌を逸した産物を大目にみるだけでなく、それを要求もしたので、なんらかの芸術についての批判は、暗に文化および社会全体の批判となるのであった。ウィトゲンシュタインの『論考』は、これらの批判のうちで、最も抽象的な批判であり、それゆえ、最も理解しにくいものであった。それにもかかわらず、エンゲルマンが主張したように、それは、言語、コミュニケーションおよび社会についての、二十世紀のウィーン人による批判の中で、一つの中心的、かつ本質的な要素であった。
 そういうわけで、『論考』は、このようなウィーン的な脈絡で見ると、理性とファンタジーの領域を区別するための、理論的な基礎を提供しようとする試みなのであり、今世紀初頭の二、三十年、ウィーン人の社会批判はこれに基づいていた。このように理解すると、ウィトゲンシュタインによる事実と価値の根本的な分離は、自然科学の領域を道徳の領域から区別しようとする一連の努力の、終着点であるとみることができる。この区別はカントに始まり、ショーペンハウアーによって研ぎすまされ、そしてキルケゴールにおいて絶対的なものとなっていった。ウィトゲンシュタインは、カントと同じく、同時に、科学の道具としての言語の適切さをマウトナーの懐疑主義から守ることにもかかわっていた。命題のモデル理論は、ウィトゲンシュタインが科学の言語に確実な基礎を与えることができた、その土台となったのであるが、一方、言語が語ることと、それが示すこと、すなわち「より高次な」こととの間の絶対的な区別も、これによって立てられたのだ。
 この解釈によると、『論考』はあるタイプの言語神秘主義の表明になり、それは、芸術だけが人生の意味を表現できるということを根拠にして、人間生活における中心的な重要さを、芸術に付与する。芸術家だけが道徳的真理を表現でき、芸術家だけが人生において最も大事なものを教えることができる。芸術は伝道である。一八九〇年代の耽美主義者のように、形式だけにかかずらうことは、芸術を曲解することである。それゆえ『論考』は、トルストイの『芸術とは何か』と同様、それに固有の仕方で、徹底して、芸術のための芸術を非難する。事実、ウィトゲンシュタインにとって、『論考』の言外の意味は、トルストイのエッセイよりも、はるかに遠くまで及んでいた。なぜなら、『論考』の意味は、言語と他の表現手段に関する、完全に一般的な理解に基づくものであったからだ。
 要するに、『論考』の著者の主要な関心事は、人生の営みに関する領域が、思弁の領域から侵害されるのを防ぐことであった。彼は、ファンタジーを理性の侵入から守り、自発的な感情が理論的な扱いによって窒息するのを防ごうとしたのである。理性は、それがよき人の理性であるとき、善に対する道具であるにすぎないことを、彼もクラウスと同様に承知していた。よき人が善良なのは、彼が理性的であることの作用ではなく、彼がファンタジーの生に参与していることの作用なのである。よき人にとっては、倫理とは生き方であって、命題の体系ではない。エンゲルマンが述べているように、「倫理の命題は存在しない。倫理的な行為があるだけだ」。こうして『論考』は、倫理に関するすべての形式の理性的な体系──人間の行為を理性に基づかせようとする倫理学の理論──をいの一番に攻撃した。もちろん、道徳は理性に反するといっているのではない。道徳の基礎づけはどこか別のところにある、といっているだけである。したがってカントとは正反対に、ショーペンハウアーとキルケゴールは共に、道徳の基礎を「正義の感情」に見いだすのであって、「妥当な理性」に見いだしているのではない。
 理性をファンタジーから、物理学者の数学的な表現を詩人の比喩から、そして、直接的な記述的な言語を間接的な伝達から分離した時、ウィトゲンシュタインは、「哲学の問題」を解決したと確信したのである。モデル理論は、世界についての知識がいかにして可能であるかを説明した。この理論の数学的(論理学的)基礎は、命題の構造そのものが、いかにしてその限界を示すか、すなわち、命題の構造がいかにして科学的(合理的)研究の限界を決定するかを説明した。モデル理論は、「人生の意味」が語ることのできるものの領域の外にあることを、言外に意味していた。すなわち、「人生の意味」は、問題といわれるべきことではなく、謎というのが正しい。なぜなら、それを解くとか、それに答えるとかいうような、問いが存在しないからだ。したがってるモデル理論は、人生の意味は理性のカテゴリーで議論できるような論題ではないという、キルケゴールの考えを補強するのである。
 主体的な真理は、寓話、論争、アイロニーそれに風刺によって、わずかに間接的に伝達できるだけである。これが、「世界を正しく見る」ようになる、唯一の方法である。倫理が教えられるのは、議論によってではなく、道徳的な行いの手本を示すことによってである。これは芸術の課題である。この課題はトルストイの後期の『説話』で果たされているが、それは、真に宗教的な人がどんな生き方をしているかを示すことによって、宗教とは何であるかを説明しているのである。人生の意味は、トルストイにとってと同様、ウィトゲンシュタインにとっても、アカデミックな問題ではなかった。それは、理性によっては答えられなかったし、また答えることはできないであろう。なぜならそれは、人の生き方によってのみ解かれるものなのだから。ウィトゲンシュタインにとっては、こういったすべてのことが、モデル理論に暗に含まれていたのである。そして、この理論により──マウトナーの懐疑論を論駁し──ついに、科学に客観性を取りもどすことができたし、一方では、倫理の主体性を確立することができたのである。
 もし『論考』の世界観が本質的にクラウスの世界観であるなら、ウィトゲンシュタインの哲学観もまた、クラウス的な哲学観である。もしクラウスの著作がポレミカルであるなら、ウィトゲンシュタインの哲学もまた、然りである。

 「哲学の正しい方法は、実際、次のようなものであろう。語ることのできること以外は何も語らないこと、すなわち、自然科学の命題──すなわち、哲学とはなんの関係もないことしか語らぬことであり、もし誰かが形而上学的なことを語ろうとしている時にはいつでも、その人が自分の命題中のいくつかの記号に意味を与え損なっていることを、その人に証明してやることである。これはその人にとっては満足のゆかないものであろう──彼は、われわれが哲学を教えているのだという感じをもたないだろう──が、この方法こそが、唯一の厳密に正しい方法であろう」

 哲学の課題は、一群の教説をでっち上げることではなく、まさしく、それを絶えず見張っていることである。自然科学の命題以外には、いかなる有意味な命題も全く存在しえない。メタ言語は存在しない。論理学は意味をもたずズインロース、哲学は無意味ウンズインである。しかしここにも、いくぶんクラウス的なアイロニーがある。なぜなら、ウィトゲンシュタインは、この「無意味」は、重要でないどころの話ではない、と考えているからである。
 『論考』に対する反論に共通した議論は、語ることのできることを超越しようとして、『論考』をもまた失敗するに違いないから、結局『論考』は矛盾に終わるというものである。確かに、本書全体の終わりから二番目のアフォリズムである六・五四のような言明を目のあたりにすると、アカデミックな哲学者が、これ以外の結論に達することは困難であろう。

 「わたしの命題は、次のような仕方で解明に役立つ。わたしのいっていることを理解する人は、それを階段として利用し、登り越えると、わたしの命題が、結局は無意味であることが分かる。(いわば、彼は梯子をよじ登った後で、それを投げ捨てねばならないのである。)後その人はわたしの命題を乗り越えねばならない。そうすれば世界を正しく見るであろう」

 ウィトゲンシュクインをラッセルの信奉者とみる人にとっては、これらの言明が逆説的で挫折とみえるのは、避けられないことであった。代わりに、クラウスの洞察力に魅せられた思想家が書き表したアフォリズムの書からとったものとみれば、そのような言明は、それほど驚くべきものではない。「アフォリズムは、決して真理そのものではない。それは半面の真理か、あるいは一倍半の真理かのいずれかである」と、クラウスはいわなかっただろうか。こうして、ウィトゲンシュタインの命題は、科学的な性質の言明でもなければ、メタ言語的なものでもない。そうではなく、一般的な批判を述べることで、同時に世界観を伝えるアフォリズムなのである。つまり、ウィトゲンシュタインの命題は、クラウス的な伝言メッセージを伝えるための、クラウス的な媒体ミディアムである。
 これらのアフォリズムの意味がひとたび把握されるや、それらはもはや必要ない。価値は、議論すべきことではなく、それに基づいて行為すべきものであることをいったん理解すると、われわれはもはや『論考』を必要としない。なぜなら『論考』自身が、人間の精神を無力にし、束縛するたぐいの合理主義に対する論争を意図したものだから。こういう合理主義は、理性的な思弁にふさわしい領域を、ファンタジーの領域から区別できなかった結果である。そして、領域の限界を立証する唯一の方法がアフォリズムによる方法だったのであり、これによって、事実と価値の領域がいかにして区別さるべきかが示されたのである。
 その結果が、七十五ページの神秘的な小冊子である。そしてこれは、「そこに表明されているがな思想を既に自分自身で考えたことのある」人を除いては、きわめて理解しにくいのではなかろうか、とウィトゲンシュタイン自身が、心配していたものなのだ。(この心配が、どれほど速やかに、かつ完全に現実のものになったかは、次の章で見ることにしよう。)本書の出版後ウィトゲンシュタインが、自分のいわんとすることを理解したものは誰もいないし、バートランド・ラッセルは誤解の最たるものである、と強く言うことはあっても、なぜウィトゲンシュタインは自分の書物についてほとんど何も語らなかったのか、その理由の説明も幾分かこの言明によって与えられる。『論理哲学論考』の著者と同じ思想をもつためには、人は世紀末ウィーンの環境で生きていなければならなかったであろう。しかしそれ以上に、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン自身が第一次世界大戦中に経験していたことを、体験していなければならなかったであろう。なぜなら、これらの思想──それはクラウスとロース、ヘルツとフレーゲ、ショーペンハウアー、キルケゴール、それにトルストイに由来するものであった──が、人間ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインという、一つの全体に統一されたのは、この戦争中のことだったからである。
 それらの経験とはまさしくどんなものであったかは、まだ十分に明らかにされていない。おそらく、それは彼のトラークル訪問に始まるものであろう。ウィトゲンシュタインは、ルートヴィヒ・フィッカーを介して彼を支援していた。ウィトゲンシュタインはクラコフの野戦病院で彼を捜し出したが、この病院に着くや、この才能豊かな若い詩人が、わずか三日前に自殺したのを知った。一体ウィトゲンシュタインは、このとき何を感じとることができただろうか。この決定的な期間中トルストイが、フレーゲと同様に、彼の思想において大きな位置を占めていたことは確かである。ウィトゲンシュタインの仲間の兵士は、彼に「福音書の男」というあだ名をつけていたというのも、彼は決まってトルストイの『福音書要義』をたずさえていたからだ。ウィトゲンシュタインは、ラッセルに宛てた手紙の中で、この本を手に入れたことに触れているし、また、この本が「自分の生命を救った」とも語った。要するに、全体としてみると、『論考』は、世界についての極度に個人的な見解、そのような、全く異なる要素をまとめ上げる際、多くの典拠から作り上げられたために、それだけいっそう個人的で創造的な見解、を表現したものである。そのような複雑な状況から生まれた一群のアフォリズムが容易には理解できないものであったことは、明らかである。事実、ラッセルのような背景と心性を備えた人間には、ウィトゲンシュタインにとって最も意義のある多くのことが、全く理解できなかったのもやむをえないことである。
 ここに、今でもルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインのイメージにつきまとう、「奇人の天才」という神話の源がある。そして、この神話は、『論考』に鼓舞されたと思われるユージン・グーセンスのオーボエ・コンサートや、エリザベス・ルーチアンの「ウィトゲンシュタイン聖歌」『論理哲学論考抄録』というような、奇妙なものを生み出したのであり、同様にまた、ウィトゲンシュタインの著作に基づくと称する彫刻や詩まで生まれたのである。これらのすべては、専門的哲学者でない一般の読者が、一九二〇年代と三〇年代に『論考』に見いだした秘教的なものの反映であり、また──一九六〇年代と七〇年代に見いだした──これと同種の、しかしラッセルや論理実証主義とは全く異質のものの反映である。とはいえ、ウィトゲンシュタインがラッセルの序文と同様、こういったものともなんら関係がなかったであろうことは、今や明らかであろう。それは、シェーンベルクが、旧来の音楽をマスターする前に、「新しい音楽」を学ぼうとして彼の所へやってきた学生を、断固として顧みなかったのと同じである。
 こういったすべての誤解を前にして、彼はなぜ沈黙していたのか──こういう問いが残る。この反応を十分に説明するには、おそらく、彼の人間性の発展全体を明らかにしてくれるような、性格分析的伝記を書く必要があるだろう。そのような解釈は、『論考』の著者の実存主義的な態度にふさわしいだろう。『あれかこれか』の著者が、自分の著作について学問的な注釈を書くことができなかったように、『論考』の著者も、自分の書物を他の誰にも説明することはできなかったのだろう。実際、ウィトゲンシュタインの心を理解するようになって、われわれが近づきうるぎりぎりの点は、この時点で、カール・クラウスのアフォリズムを思い出すことである。

 「なぜ多くの人が物を書くのか。物を書かないような人格を十分に備えていないからだ」
第七章 人間ウィトゲンシュタインと第二の思想

言語の限界の突き当るのか? いや、言語は決して鳥籠ではない。
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
一九三〇年十二月十七日

 この人にしてこの書物あり。もし『論考』の伝言メッセージがクラウス的なものであるとするなら、ウィトゲンシュタインの人生もクラウス的なものであった。一九四〇年代のケンブリッジでは、ウィトゲンシュタインの異常な性格と型破りの行動は、彼の哲学とは無関係なものと見られたし、それどころか、彼がわれわれに教えねばならない真理の、純粋な、泉のごとき明晰さと透明さから、注意をそらすものとまで見られたのである。今振り返ってみると、これは誤りであった。哲学者と人間の間に、そのような分裂はなかった。最初から、ウィトゲンシュタインの哲学的反省は、なかんずく、完全な人格のまさしく一つの表現であった。だから、もし彼の議論の核心に入りこ彼むのが困難であったとしたならば、それは、特にわれわれがを十分に理解しなかったからである。
 われわれは彼を理解していた、などと考えられる理由はおそらく何もないであろう。一九一九年以前のウィーンと一九四六─四七年のケンブリッジの間には、あまりにも多くの時間や歴史、それに文化の障害があった。イギリスの知識人や芸術家は、時々、自分たちが顧みられず、無視され、さらには物笑いにされていると感じることがあった。しかし、彼らは決して、それぞれのと仕事の世界から完全に「締め出された」のでもなければ、彼らと対立する価値をもった文化と社会に奉仕するのを余儀なくされたのでもない。この点において、彼らは、絶対的な疎外を免れていたのであり、他方クラウスやウィトゲンシュタインのような、全く非妥協的で、厳しい性格の人物は、そこから生まれたのだ。そのため、彼らは、普段はずっと気軽に遊び回ることができたのだが、またウィトゲンシュタイン家の人々やD・H・ローレンス家の人々から、その浅薄さと、世界についての的はずれの言行を非難されることにもなったのである。かわりにイギリス人は、「もし二つの悪のうち、より小さいものを選ばねばならないなら、わたしはどちらも選ばない」というきわめてクラウス的な言葉を、いつも、相当にいや味なもったいぶりであり、うぬぼれであるとみなしていた。
 けれども、ウィトゲンシュタインについて、彼のイギリスの学生やその仲間が誤解していたまさしくそのものは、たいていはスタイル(style)の問題であった。疎外された知識人は、いつの世代でも、因習にとらわれた世俗的価値を拒絶するのに、自分たちに固有の方法を見いだすものである。ある時には、若者はあごひげや、肩までのびる髪の毛をはやし、すべての形式的な規律を官憲主義的であるとして拒否し、規制のない自由な「生活スタイル」を好む。また、倫理とモラルに関する問いを、すべて美的趣味の問題とみなし、「万事あるままにしておく」ことを自慢して、ひねくれる。別の時には、これとは対照的に、長髪やあごひげ自体が、完全に「くそまじめ」に見える。十九世紀末葉の著名な医師、実業家それに学士院会員は、頭には大きな毛皮をかぶり、顔いっぱいにあごひげをはやして、人を迷わせるほど、自信ありげな満足したまなざしを生徒や子供たちに注ぐのであった。一方、オーストリア自身についていえば、いたる所で、皇帝フランツ・ヨーゼフの半ば白くなった短いほおひげがあらゆる官庁の壁からじっと見下ろしていたのである。その結果は、(今では分かりきったことであるが)断定できた。けばけばしいがらくたや、無意味なエチケットで充満した文化において、節度と誠実さを貫き通そうとしていた反抗的な若者たちは、他のすべてのブルジョワのぜいたく物と一緒に、顔の毛も拒絶したのである。彼らにとって、口ひげと短いほおひげは、ビロードのスモーキング・ジャケットや変わり模様のネクタイと同じように、単なる虚飾にすぎなかった。まじめで冷静な人間には、きれいに剃ったあごと開襟シャツが必要だったのである。彼らにとっては、芸術的な事態が道徳的反省と判断の問題となるのであって、モラルが美的趣味の問題となるのではなかった。現社会の、恣意的な独裁主義に取って代わるべき正しい道筋は、アナーキズムではなく自己鍛練であった。人間は、神の前に自分自身の責任で、自分自身の人生を制御しなければならない。少なくとも、自分自身で「善を理解」して、つまり、善は(トルストイがいっているように)めいめいの心に「疑いの余地なく啓示され」る、「理性によっては到達できない知識」であることを理解して、自分自身の生活を支配しなければならないのである。
 それゆえ、一九二〇年代の世代の基本的な抱負や理想は、外面に現れるところでは、結局、ヒッピーの世代とは変わるところがなかった。もし二十世紀初頭のドイツやオーストリアの青年が、彼らの父親たちの一九一四年以前の文化や社会の道徳的誠実さを問うとしたら──すべての生活と美徳は、独裁体制の枠組みからはずれていたのだが、その独裁体制の永久化を、見たところ終わりなきフランツ・ヨーゼフの治世のうちに見いだして──一九一四─一九一八年の苦悩と流血は、自分たちの運命感情を単に強めるだけである。これは実際、人類最期の日々だったのである。十九世紀末葉の世俗的なブルジョワ社会は自滅を招いていたし、生き残った者は、自分たちの過去に対するすべての道徳的義務を免れた。今や再出発の時であった。救いがもたらされるのは、服装、礼儀作法、趣味それにスタイルを、新たに簡素にすることによってのみであろう。(一九二〇年代の合衆国では、髪をうんと長くしているよりも、坊主刈りにしているほうが、厄介な急進派であるという理由で、放校処分を受けやすかったのである。)
 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン自身は、彼らよりも先に生まれたので、この世代に属さなかった。けれども彼が、彼らの価値の多くを共有していたことは明らかである。事実、これらの価値そのものが、クラウス、ロースそれにウィトゲンシュタインのような人々を模範にして作られたのだ。ウィトゲンシュタイン自身にとっては、兵役時代──最初はロシア戦線、後にはイタリア戦線だった──は精神的自問の時代であり、また充足した時でもあった。彼の軍隊生活──その多くは現役であった──は、それほど忙しいものではなかったらしく、彼もまた、『論考』を組み立てる最終段階にあった。『論考』は明らかに、一九一八年の夏中に完成していた。彼は軍隊生活において仲間の兵士や市民と親しくなったが、こういうことは、彼がウィーンの大金持ちの末息子であった時にも、また、これ以降にもなかったことである。ここでも、他の場合と同じように、トルストイの『アンナ・カレーニナ』のコンスタンチン・レーヴィンが思い出される。彼コンスタンチンは、家庭生活と人間的親切さの土壌を耕すという実際的な、日常の仕事に、正直にかつ誠実に専心する人に対し、「人生の意味」がその生活においてのみ現れるのを、見てとるのである。
 音楽、美術それに文学における無意味な装飾やむだは、クラウスやロースのような人の心を、道徳的な嫌悪感でいっぱいにしたであろう。社会の因習や個人的な関係が儀礼化されると、ウィトゲンシュタインはそれらに対して、本当にいや気がさしたのである。初めてケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジの特別研究員フェローに選ばれた時、彼は、どうしても上席で食事をする気になれなかった。それは、特別研究員の食事の量が多いとか、上等なものが出るとかいうこととは、特に関係がなかった。また、学部学生に混じりたいという庶民的な希望から発したものでもなかなもった。上席そのものが食堂のメイン・フロアーよりも六インチほど高い壇上にあるという象徴的な事態が、彼にはむしろいやだったのである。そこで、カレッジは、しばらくの間、彼だけを独りにして、低い階の小さなトランプ用テーブルで食事を出すことに同意した。(後に、彼は食堂ではほとんど食事をしなかった。)彼がひどく不快に感じたのは、社会的因習の不自然さだけではなかった。どちらかといえば、知的な生活の不自然さのほうがもっとひどかった。
 彼は、「人間に役立つ」仕事──特に筋肉労働──だけが、尊厳と価値をもつという意見をトルストイから学んだ。彼は短期間ロシアを訪れたが、ソヴィエト社会が西ヨーロッパの社会よりも彼の趣味にあったことを示唆するものは何もない。一方、彼は誰にもまして、キブツ体制の内部に、高潔さとその全き成就を見いだそうとしているという印象を与えたが、この印象も偶然的なものではなかった。一八八〇年代と一八九〇年代に、最初のユダヤ人の集団農場がパレスチナに作られた時、キブツ運動のエートスと社会的イデオロギーは、ゴードンという名の新しいロシアの移民によって整えられ、詳しく説明されたのであるが、ゴードン自身、トルストイの直接の弟子であり、信奉者だったのである。
 「人間に役立つ」仕事に対するウィトゲンシュタインの敬服ぶりを思い起こすと、いささか驚くべきものがある。一九四六年かあるいは一九四七年初頭のある日、ドロシー・ムーア──彼女はG・E・ムーアの妻で、ムーアはケンブリッジ大学の哲学の教授職のウィトゲンシュタインの前任者であった──が、ヒーストンにあるシーヴァース・ジャム工場にパート・タイムの仕事で出かけようとして、カースル・ヒルを自転車で押している時、散歩に出かけるウィトゲンシュタインに出会った。彼は、どこへ出かけるのかと彼女にたずねた。そして──後に彼女が話したところによれば───抽象的なことに関してはイギリスで最も知的な哲学者の妻が、工場の椅子に腰をおろして「本当の」仕事をするのに出かけようとしているのを見て、ウィトゲンシュタインはかつて見せたことがないほど、喜んだのであった。知的な活動、特にアカデミックな活動は、「本当の」仕事だとも、人間に役立つ仕事だともいえないという彼の信念は、もちろん彼自身が哲学をしているということにも及んだ。彼らの個人的な意志決定に影響を及ぼしうるほど自分にきわめて近しかった学生たちが、アカデミックな哲学に職を求めるのを、彼は強く思いとどまらせた。おそらくこの話はこれだけでは、学生たちが彼の教訓のポイントを誤解していたことを示すだけであろう。彼は、その代わり、例えばドルーリーのように、学生たちが医学に従事することを勧めたし、あるいは少なくとも、──彼らが学問をしなければならない時には──例えば、W・H・ワトソンのように、物理学のような、重要な分野に行くことを勧めたのである。もし彼自身が哲学を続けるとしたら、彼はこういっただろう。自分は「それ以外のどれにも適していない」し、いずれにせよ「自分自身を除いては、誰にも危害を加えていない」から、と。知的世界の、不潔きわまる馬小屋を誰かが洗い落とさねばならなかったのであり、この知の下水処理という課題を遂行する運命にあったのが、たまたま彼だったのである。
 自分自身の哲学に対するウィトゲンシュタインの態度に、ほとんどニヒリズムに等しい矛盾を見いだした者もいる。けれども、繰り返しになるが、この反論は事態の核心を見損じている。ウィトゲンシュタインの観点は、本物の実証主義的な観点から生まれたもので、自己否定的である、という批判を受けたことがある。これは、例えば、いわゆる「検証原理」がそれ自身「検証不可能」であるとして、一九二〇年代の終わりと一九三〇年代に繰り返し非難されたのと、同じ論法である。しかし、恥ずべきことであり、合理主義的なものであるとしてウィトゲンシュタインが拒否したのは、ある種の哲学活動だけである。もっとも、アカデミックな哲学が、特にその種の傾向を帯びていたことは明らかであるが。(この点で、改めてショーペンハウアーとキルケゴールが思い出される。)それは、「事実に関する研究と概念に関する研究との区別を抹消する〈すなわち、混同する〉」たぐいの哲学である。この種の主知主義的な議論は、救いを請け合わないという点で、「無意味」であった。けれども、これと並んで、別なタイプの哲学的な議論も存在したのである。それは、キルケゴールやトルストイのような人物に見られるもので、直接的な日常言語では述べることのできない、深い人間的真理を──「間接的」な仕方ではあるが──伝えよがうと努力するたぐいのものである。こうして、言語の限界に突き当たろうとする人間の傾向は、(ムーアの場合のように)哲学的なむだ話──これは概念に関する論点と経験に関する論点を混同する──へ導くか、あるいはそれに代わって(キルケゴールのごとく)、言葉では本質的にいい表すことのできないことを分節化しようという、宗教的な試みに導き入れるかのいずれかである。これらの二種類の哲学は、一見したところ区別しにくいかもしれない。ウィトゲンシュタインが、ケンブリッジでの最後の年の、ある招待日に語っていることであるが、

 「われわれは、時折、他人の書斎へ行き、本や論文がそこいら中に散らかっているのを見て、ためらわずに、〈何と散らかっていること、本当に、この部屋は片付けなくちゃならない〉ということがある。けれども、別の時には、これと同じような部屋に入って、ぐるっと見回した後で、このままにしておかなくてはいけない、と決心することもある。この場合には、ほこりでさえもその占めるべき場所があるのだ、ということを悟るのである」

 いずれにせよ、「哲学する」という活動は、ウィトゲンシュタインの人生において、唯一のことではなかったし、おそらくは、中心的なことでもなかったであろう。彼のケンブリッジ大学の同僚は、最初に述べたように、彼を、たまたまウィーンからやってきた「天才哲学者」とみなした。クラウスやシェーンベルクと比較してみると、彼はむしろ、たまたまその才能が特に哲学を通して表現された、クラウスのいう「完全な人間」の一人であることが分かる。一九一八年から一九一九年にかけて『論考』を完成するや、彼は、なすべきことはみななし遂げた、と感じた。だから、彼は哲学をやめたのである。哲学をやめてしまうと、彼の異様な創造力は、別の方向に向かう必要があった。彼は一九一九年から一九二〇年の学年を、クントマン通り──これは六年後、 彼が、全く別の立場で立ちもどることになる通りである──のウィーン教員養成大学で過ごし、それから、辞令一式を受けとって、小学校の教師になった。学校当局や生徒の両親は扱いにくかったが、彼は現場の仕事に身を投じた。彼は特に数学教育で、きわめて著しい効果をあげたようである。
 後に、気分がすっかりふさいで教師を続けられなくなった時、彼はしばらく園丁の仕事をしたが、やがて姉のマルガレーテ・ストンボロウに招かれて、クントマン通りに建てる彼女の家の設計をした。彼の態度は全く専門家気質に反するもので、彼はこの仕事を、自分自身に特有の頭脳明晰さと、機能感覚に対するいっそう適切な挑戦と受けとり、それに立ち向かった。(ロースが繰り返しいっていたように、建築設計は全く機能に奉仕するものである。「意味は用法である」。)最初は、彼は若い友人パウル・エンゲルマンと共同して働いた。エンゲルマン自身、建築の訓練をつんでいたのである。しかし、またたく間にウィトゲンシュタインは、自分一人で責任がとれるようになり、彼らが共同して行った結果である設計の大部分──特に、この家のインテリアの細部──は全く彼自身の考案であった。最近の建築評論家が、クントマン通りのこの家について、次のように書いている。

 「学会や建築事務所は、この建物に固くるしい定説も秘法も見いだすことはない。ガラス板をはった、柱のないコーナーや帯状の窓は、その細部をまねしようとしても無益である。公式や陳腐なきまり文句ではなく、哲学……。
 この建物が重要なのは、第一に、それが限界を超えようとする一例だからであり、第二に、(非専門家による侵食〉がどれほど豊かなものでありうるかを、それが実証しているからであり、そして第三に、主に同業の仲間うちで設定される仕事の限界を、それが問うているからである。哲学者ウィトゲンシュタインは建築家であった」

 この言葉はまたしてもクラウス的なものである。職業間の制度上の障壁は、哲学自身のなんらかの知的な障壁と同様に、異様な創造力に対して恣意的な制限を加えるのに役立つことがある。建築にたずさわろうが音楽にたずさわろうが、教師になろうが、物書きになろうが、その人格と異能ぶりが、これらのすべての、相異なる手段と技術を通して──芸術家としてであれ、モラリストとしてであれ、あるいは同時にその両者としてであれ──表現されたのは、同一の個人ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインにおいてであった。

〔…〕

 こうして、青年時代に、まずヘルツの力学とボルツマンの熱力学に熟達し、引き続き二十代で記号論理学の発展に指導的役割を演じ、三十歳の時には哲学を放棄して、他の、人間的により価値のある仕事についた、人間的で教養のあるあの同じウィーン人、あの同じ哲学者は、五十歳にはその聴き手に向かって、次のことを勧説することに己れの天分を見いだしたのである。われわれの言語が実際的な機能をもつとき、子供が行為の標準的なパターンを実際に学ぶ(あるいはそれとは別な仕方で学ぶかもしれない)その仕方と、これらの実際的な機能をはっきりと心にとめておけないために起こる、形而上学的混乱をよりいっそう注意深く反省するように、というのである。とはいえ、見かけ上の変化にもかかわらず、彼の知的な、長い冒険の旅は、ただ一つの、不変の羅針盤の方位に沿って進められた。われわれが、汝自身を知れ、というソクラテスの命令に従うことができるのは、自己理解の範囲と限界を理解するようになった時だけである。そして、その意味は、なによりもまず、言語の正確な範囲と限界を認識することであり、言語は人知の主要な道具なのである。
 ウィトゲンシュタインが哲学を始めた時、彼は既に知的な問題と倫理宗教的な問題に専念していた。前者はカントとショーペンハウアーによる超越論的研究に由来するものであり、後者はトルストイが受け継ぎ、キルケゴールが絶やさないでおいたものである。彼が専念していた二種類の問題が一つになって、彼の注意は言語表現の範囲と限界に集中した。そして、この問題に対する彼の関心は、その後いくつかの異なる形式をとった。まず第一に、応用数学の青年学徒の頃、彼はヘルツとボルツマンのアイディアを一般化して、この「超越論的」問題を解決しようと思った。次いで彼は、フレーゲとラッセルの新しい論理学に、一つの道具──と記号体系を見いとだし、これによって言語一般の範囲と限界を説明できると信じた。その成果が『論理哲学論考』であった。何年かの中断の後、再び哲学にもどった時、彼が今や悟ったことは、数学においても、より奥行の深い問題に際して考えなければならないのは、数学的計算の内的分節化ではなく、そのような計算が、ある外的な関連を獲得する規則に適合した振舞いである、ということであった。(これが、彼とワイスマンおよびシュリックとの対談の要旨である。)そして最後に、G・E・ムーアの手本に支配されていた、ケンブリッジの哲学的状況にもどり、彼は更にもう一度、その分析を一般化したのであるが、その狙いは次のことを示すことであった。どんなものにせよ──数学的であると同様に、言語的である───記号表現の意味、範囲および限界が、われわれがそれをより広い行為の脈絡に結びつける、その関係にどのように依存するかを示す、というものであった。
 それゆえ、後期のウィトゲンシュタインにとっては、いかなる言表の「意味」も、当の表現が慣習として用いられる範囲内での、規則に適合した、記号を使用する活動(「言語ゲーム」)によって決定される。そして、これらの記号を使用する活動が、その意義を引き出すのは、今度は、より広範な活動様式(「生活形式」)からである。記号を使用する活動は、後者の活動に埋めこまれており、またそれを構成する一要素なのである。こうして、ウィトゲンシュタインの最初の、「超越論的」問題の最終解決は、「生活形式」が「言語ゲーム」にとって理にかなった脈絡を創り出す、多様なすべての道筋を理解し、そして、これらの道筋が、今度は語りうることの範囲と境界をどのようにして定めるかを理解する、ということになるのである。
 ウィトゲンシュタインの思想における連続性は、彼が全生涯を通して堅持していた、ハインリヒ・ヘルツに対する忠誠心と称賛のうちに反映されている。「超越論的」問題を解決するのにどのような進歩がありうるのかを、彼は最初に、ヘルツの例から学んだのである。彼は一九四〇年代の終わりに、哲学的な混乱についての、模範的な第一級の叙述であるという理由から、ヘルツに立ちもどった。つまり、ヘルツの『力学の原理』の、序文の一節に立ちもどるのであるが、ヘルツはここで、電気の本性に関する、十九世紀の論争に横たわっている混乱を診断している。

 「金の本性は何か、あるいは速度の本性は何か、というように、人はなぜ尋ねないのだろうか。金の本性は、速度の本性よりも、われわれにはよく知られているのだろうか。抽象的な概念や言葉で、物の本性を完全に叙述できるであろうか。確かにそれはできない。相違は次のようなものではないかと思う。われわれは〈速度〉や〈金〉という術語と一緒に、数多くの関係を他の術語に結びつける。そして、これらのすべての関係には、われわれの感情をそこねるような矛盾は見いだせない。それゆえ、われわれは満足して、それ以上の問いを出さない。しかし、われわれは、〈力〉や〈電気〉という術語の周囲に、それらの間だけで完全に調和できる以上の、関係を積み上げてきた。これにははっきりしないところがあり、事態を整理したいと思う。われわれの混乱した希望は、力や電気の本性についての混乱した問いに表れている。しかしわれわれが欲しいのは、本当は、この問いについての答えではない。この問いが答えられるのは、多くの、新しい関係や関連を見いだすことによってではなく、既知の関係や関連の間に存在する矛盾を取り除き、こうしておそらく、それらの数を減らすことによってである。これらの困難な矛盾が取り除かれた時には力の本性についての問いが答えられなくなってしまうのではなくわれわれの心はもはやいらだつことはないので不当な問いを立てなくなるのである

〔…〕

 では、この二分法の背景に一体何があったのだろうか。われわれは、その背後にあるウィトゲンシュタインの思想の、なお一層深い、ある層に突入できるだろうか。哲学の理論としては、すべての事実問題からの価値のあの分離が、行きつく極限であることは明らかである。しかし、ウィトゲンシュタイン個人にとっては、他の何ものにも還元できないあの対比には何か別なものが横たわっていたかもしれない、ということを示すヒントが──特にエンゲルマンへの手紙に──存在するのである。これらのヒントは、心理学的な方向かあるいは社会学的な方向かの、二つの方向のいずれかに追求できるかもしれない。すなわち、もっと先へ進むと、われわれはウィトゲンシュタイン自身の個人的体質か、あるいは彼の精神形成の歴史的背景のいずれかを、もっと詳しく見ることになるかもしれないのだ。心理学的にいえば、まず最初にこれだけはいえる。事実の領域を価値の領域から分離するための、これ以上のなんらかの正当化を原則としてウィトゲンシュタインが引き続き提出できたかどうかは別にして、彼はそれらの間に、いかなる効果的な調和も自分自身の生活では造り出せなかった、ということである。例えば、エンゲルマンへの手紙で、彼は何度か、自殺についての考えを伝えている。彼は繰り返し、自分自身の「品性の欠如」彼のについて、自虐的な調子で書いている。また彼は、気分的な圧迫をにおわせているが、それは彼がにとって、鎮静することも昇華させることも困難であった。一九二〇年十月二十日の手紙で、彼はこう書いている。

 「とうとうわたしは小学校の先生になりました。わたしは、トラッテンバッハという美しくて小さな所で働いています。……学校の仕事はうまくいっています。実際、わたしにはそれがとても必要なのです、さもないと、地獄のすべての悪魔がゆっくりと侵入してきます。どれほど、あなたと会い、あなたと話をしたいことか。いろいろなことがありました。わたしは何度か、とても痛い手術を受けましたが、経過は良好でした。つまり、今でも時々手足が一本足りないような感じがするのです。しかし、手足が少々足りなくても、残っているのが健全ならば、かえっていいのです」
第八章 専門家気質と文化──現代の自殺──

詩人にさからって信仰形式統一令を持ちこまないことにしよう。
コールリッジ

 このような一般的な点を心にとめておいて、前にもどって、再びウィトゲンシュタインの哲学的意図をみよう。一九二〇年代以降一九六〇年代の中頃にいたるまで、彼の見解と方法を取り巻いていた多義性には、知的な側面と同様に、職業的な側面があった。『論理哲学論考』で導入された哲学の技術は、一九二〇年以後は、ウィーンの論理実証主義者とケンブリッジの哲学的分析家に引き継がれた。そしてこれらの技術は、技術上の熟練と教説の集積の中で中心的位置を獲得し、これを中心にして、「職業的哲学」という、新しく専門化されたアカデミックな企てが生じていたのである。
 このような職業的哲学の概念が、まさしくどれほど新しいものであったかを強調することが、この時点では必要である。もちろん中世以来、哲学の教育と議論は大学のカリキュラムで重要な位置を占めていた。しかしこの学科の範囲は、通常、自然科学や人文科学の範囲と重複するものとみられていたので、その結果、哲学は他の学科と並んで、また一緒に学ばれてきたのである。例えば、地誌研究者、微生物学者それにロマンス語の文法学者には、学会組織がある。だが、それと同じような、専門的な哲学者の、堅く結びついた自治集団の創設を正当化するような、一群の哲学的な技術という観念は、今日にいたっても、わずか五十年の歴史しかもっていない。そして、こういう観念に対するウィトゲンシュタイン自身の態度は、彼の哲学的後継者の態度と、さらには彼の信奉者であると自称する人々の態度とも、鋭い対照を見せていたが、それは、シェーンベルクやロースの態度がそれぞれの信奉者の態度と鋭い対照を示したのと同じである。
 ウィトゲンシュタインは『論考』において自分自身何を達成したとみていたのか、という問いを立てると仮定しよう。すなわち、こう問うてみるとしよう。ウィトゲンシュタインは、以前の哲学的な技術を切り落とし、それに取って代わることを意図した、新しい哲学的技術を意識的に開発していたのであろうか。それともむしろ彼の意図は、いかなる技術的な哲学観にせよ、その因習へ追随することから、人々を解放することであったのだろうか。もしこう尋ねるなら、答えは明らかである。クラウスにとってと同様にウィトゲンシュタインにとっても、その論争的な批判のすべては、知性の解放という点にあったのである。もちろん、ウィーン学団の哲学者も、この同じ解放の役割をになって登場してきたのだが、彼らの場合は、政治やその他の分野における「進歩」思想に特有の解放であった。つまりそれは、自分自身がドグマそのものを免れているのではなく、新しいドグマで古いドグマと戦うようなたぐいのものなのである。ウィーンの実証主主義者は、確かに、反形而上学的であった。しかし、形而上学に対する彼らの反対は、ヒュームのそれと同じく、彼らの敵手の一般的な哲学原理と同様に、恣意的で、一般的な哲学原理によって支えられたのであった。他方、ウィトゲンシュタインの反形而上学的アプローチは、純粋に非教説的(nondoctrinal)であった。一九一八年と一九四八年の間に、彼の哲学の実際の方法がその他の点でどれほど変わったとしても、彼の根本的な予備学は決して変わらなかった。すなわち、これである。

 「語りうること以外のことは何も語らぬこと……、それから、誰かほかの人が、形而上学の的なことを語りたいと思っている時はいつでも、彼が自分の命題の中の記号に意味を与えそこなっていることを、彼に説明してやること」

 確かに、ウィトゲンシュタインは後期において、言語表現に「意味が与えられ」ていないことを説明する際に何が関係しているかについて、考え方を変えた。けれども、人々が無意味な混乱をに陥りがちな点で言語の限界を監督するという、その哲学の基本的な仕事は変わっていなかった。また、この境界線を維持することがなぜ重要であるのか、その理由もやはり前と同じであった。それは、これらのことが真に問題になる領域で──人間的情緒の真摯な表現と創造的ファンタジ的ーの自由な行使における──明瞭な思想と正しい感情に、無用な強制が課されるのを見張ることであった。事実、この点において哲学的解放は、この言葉のクラウスの意味におけるファンタジーの生活の、いかなる正しい理解にとっても必須条件であった。ウィトゲンシュタインは、ケンブリッジ大学の同僚がウィリアム・ブレイクについて書いたものを読んだ後で、こう批評しているのを聞いたことがある。「彼にブレイクが理解できる、などとどうして何某が考えるのだろうか。そう、彼は哲学すら分からないのだ」。
 ウィトゲンシュタインが、ウィーン学団の哲学者と初めて会った時、彼がタゴールの詩を読むといい張ったとすれば、これはその当時は、純粋に論争を意図した、高度にクラウス的な行為だったのである。なぜならそれは、哲学の技術はせいぜい目的──人間の心の解放──に対する手段にすぎないことを宣言するに等しく、その結果彼は、トルストイやタゴールのような著述家が扱った、本当に深遠で、有意義な争点に直面できるからである。このようにして、ウィトゲンシュタインは、『論考』の新しい技術を自律的で自尊心のある、アカデミックな学科の基礎を与えるものとして評価するような、「技術的」なあるいは「専門的」な哲学の概念から、明らかに自分自身を切り離したのである。この点において、彼と論理実証主義者との不一致は、知的なものであるのみならず、社会学的なものでもあった。無調和主義の作曲家やバウハウス派の建築家と同じように、実証主義者は、古い正統派の慣行を単に新しいものと取り替えていたにすぎず、また哲学的解放の手段として提出されていた観念を、一組の、新しい擬似数学的な哲学原理へ変形していたのである。
 ウィトゲンシュタインは、技術者としての訓練を積んでいたので、それにふさわしい場所では、もちろん数学計算には反対してはいない。しかし、応用数学は何か適用されねばならないものであった。つまり、応用数学は、そこで使われる計算が形式的に欠点がないだけでなく、それらの形式的な精巧さに加えて、実際に仕事をすることも示さねばならなかった。ウィーンの現代風の哲学スタイルが、外部との関連や応用についての要求を少しも考慮することなく、あまりにもしばしば、もっぱら自分たち自身のために、精巧な形式的体系を展開したのは明らかである。このようにしてそれらは、歯車列車に取り付けられてはいるが、力学的にはなんの作用もしない、遊んでいる車輪のようなものに、チェスのクィーンの上におかれてはいるが、駒を動かすルールになんの影響も与えないペーパー・クラウンのようなものになったのである。
 またウィトゲンシュタインは、G・E・ムーアとそのケンブリッジの同僚によって一九三〇年代に展開された分析哲学にも、さらに第二次大戦後オックスフォードでつちかわれた「言語的」な哲学にも、なんの用もなかった。そうこうするうちに、彼はG・E・ムーア個人を尊敬するようになったが、それはムーアの人柄が質朴で純真なことと、後になってムーアが行った、知的なことについての質問の完璧さのせいである。ケンブリッジで過ごした最後の数年間に、ウィトゲンシュタインの著作が精妙さと弁別力を一段と増したとすれば、その多くは、実際、彼がムーアと交わした長い談話の影響によるものであるといえる。しかし、ウィトゲンシュタインが、哲学の問題と方法について、分析哲学者と見解を共有したと考えることは全く誤りであろう。分析哲学者が実際に行った哲学を見ると、彼らは、いわば哲学の基本「現象」を表すような、一群の明自に認識できる技術的な争点が存在すると仮定したのである。そして彼らは、自分たちの課題は、改良された技術によってこれらの争点を取り扱う、更に建設的で包括的な解決あるいは「理論」を、いかにして提供できるかを示すことである、と規定したのである。(ウィトゲンシュタインは、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの彼の同僚C・D・ブロードについて、こう批評した。「可哀そうに、ブロードは哲学を抽象的なものの物理学と思っている」。)
 例えば、他人の心や科学的な実体、あるいは感覚所与から物的対象を論理的に構成することについての、よりいっそう精巧な「理論」を考案すること、といったような仕事は全体として、ウィトゲンシュタインの眼には、まがいものの技術の、心得違いの収集物に映じたのであり、これもまた、哲学の手段とその目的の混同であった。一九四五年以後のイギリスの、多くの仲間の哲学者からウィトゲンシュタインを分かつものは、何を優先させるかについての相違にあったが、オックスフォードの分析家J・L・オースティンの批評がそれをうまくとらえている。言語の用法に関する、彼の骨の折れる説明が、つまらないものに思われるという反論をしりぞける中で、オースティンは、哲学的な問いは重要な問いであるかどうかという問いが、それ自身重要な問いであるなどと、これまで一度も確信したことはなかった、と応戦した。専門的な哲学者は、純粋な科学者と同じように、技術的には「やさしい」、解決の機が熟している問題──それらが外部にとって重要であろうが重要でなかろうが──に取り組むことから始めるべきである。純粋哲学は他のものに優先する。そして、その結果を後に、実際問題に適用するに十分ふさわしい時期が来るだろう。こうして、ウィトゲンシュタインのいるケンブリッジから一九四〇年代の終わりのオックスフォードの言語分析者の許へ行くと、哲学はその主要動機をどういうわけか失っている、と感じられるのだった。ウィトゲンシュタインの話を個人的に聞いた者は誰でも、心の自由な動きに対する知的な障害を取り除こうとして苦闘している、哲学的に深い思想家に気づくのだった。一方、オックスフォードでは、見たところ同じ技術が最も巧妙に用いられていたが、なんら深いは目的もなければ、明瞭に哲学的な目的もなかった。それは、本物の時計を子供の時計の文字盤と交換するようなものであった。文字盤は、一見同じでも、時間を告げはしないのである。

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