中村文則『悪意の手記』

 その講義では実存主義と呼ばれる哲学者達を取り上げ、キルケゴール、ハイデガーときて、その日はニーチェだった。教授はニーチェの思想をねじ曲げながら、その頃流行っていた少年犯罪の問題と結びつけ「なぜ人を殺したらいけないのか」という、当時メディアでよく取り上げられていた問いを学生に与えていた。私はその議題に微かに緊張したが、傍観の態度で眺めていた。私に肉迫する問題だったが、目の前で繰り広げられている議論には、興味をひかれなかった。
「だって、人を殺したら駄目じゃないですか」
「だから、とうして駄目なのかな」
「じゃあ先生は、人を殺してもいいと思っているんですか」
「いや、先生じゃなくて、例えばある少年からそういう問いをされたら、という場面を想定しているんだよ」
「もしもその行為を是認してしまえば、人間が殺しあっていなくなってもいいということになってしまいますよ」
「殺しあって何が悪いのか、ということを聞いているんだよ」
「だから、人間が一人もいなくなりますよ」
「そうはならないだろう。この場面において殺すのは少年だけなのだから。もっと個人的に少年は聞いているんだよ。どうして気に入らない奴を殺したら駄目なんだ、ということを」
 教室が微かにざわついたが、どの学生もいつになく熱心で、明らかに議論を楽しんでいるようだった。教授は得意気な表情を浮かべ、故意に刺激の強い言葉を使い、喜んでいるように見えた。私は、教授の表情に酷く苛々した。今思えば、感情の起伏に乏しかったあの頃の私があそこまで苛々したのは、久し振りのことだったと思う。教室を出ようとした時、教授が私の名を呼んだ。意見を聞こうとしたのだ。私は教授を一瞬見たが、何も言わなかった。面倒だったのもあったが、それまで、私はこの授業はおろか他の場面においても、まともに誰とも口をきいたことがなかったのだ。
「どうして黙っている? 意見はないのか」
「ありません」
「なぜないのだ。議論を聞いていなかったのか?」
「議論? 聞いていました」
「なら何か意見があるだろう」
「ありません」
 教授は溜め息をつき、こちらをまじまじと見ていた。面倒な気分になり、そのまま帰ろうと思った。帰れば単位は取れなくなるが、元々大学に執着していなかった私には、どうでもいいことだった。席を立とうとした瞬間、まるでその時を待っていたかのように教授は口を開いた。
「これは重要な問題なんだよ。多発する少年犯罪は、大きな社会問題だ。君達のような次世代を担う人間がこのことを真剣に議論しないでどうする? 自分のことのように、考えてもらいたいもんだ」
 その時、私の中に強く障るものがあった。それは、自分でも異常に感じるほどの、不意なものだった。
「自分のことのように?」
「ん?」
「自分のことのようにだって?」
 私は、自分が興奮していることに気がついていた。うねるような感情の固まりが、突き上げる嘔吐のように外に出ようともがき、全てをぶちまけたいという、どうしようもないほどの衝動に、突如苛まれていた。私は、自分がこんなくだらない授業の最中に、ここまで真剣に、そしてここまで激しく感情が動いていることに驚いていた。しかし今になって思えば、この場面がくだらない授業だったからこそ、そして唐突だったからこそ、発作に苛まれたのだと思う。正面には驚きの表情を浮かべた教授がいて、周囲の学生も皆、突如おかしくなった男の顔を息を飲むように見つめていた。この場面で全てをぶちまけるのは滑稽で、脈絡のないものだったが、私はそれをどこかで強く望んでいたのだと思う。私は、度々この発作に苛まれることがあった。それは、いつもこれ以上ないほど自分を辱め、壊してやりたいという衝動を孕んでいた。気がつくと、その場で立ち上がっていた。
「いいか悪いかなんてのは人間が作った価値基準でしょう? その発言はその価値基準を無視した問いだから、何を答えたって言い返されるに決まってるじゃないですか。馬鹿馬鹿しい。駄目だという確固たる答えが出てきたとしても、じゃあ本当に駄目なことだから尚更やってみようっていう奴が出てくるに決まってる。違いますか? 逆に殺していいってことになったら、既に殺したことのある殺人者が救われるとでもいうんですか。なんだ、いいんだ、もう悩まなくていいんだって、そうなるとでもいうんですか、そんな簡単なことかよ、ふざけたことを言うな」
 私は独り言のように呟いていたが、教室中の全ての人間に聞こえているようだった。皆が私を凝視し、彼らの呼吸が聞こえるほど静まり返っていた。身体中の力が抜け、汗が次から次へと噴き出して流れた。早く教室から出なければならないと思ったが、硬直したように、いつまでも動けなかった。なおも喋り続けようとする自分を、抑えることができなかった。
「なぜ人間は人間を殺すとあんなにも動揺するのか、もっと言えば、動揺しない人間と動揺する人間の違いはどこにあるのか、どうして殺人の感触はああも絡みつくようにいつまでも残るのか、俺が知りたいことなど、誰も考えてなんかいやしない。幸せな人間が、机に座って悪人のことを語っているんだ。くだらない。俺もお前らも、みんなくだらないんだ。何が次世代だ、適当なことを言うなよ」

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