オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』

 ある日私は師範に尋ねた、「いったい射というのはどうして放されることができましょうか、もし“私が”しなければ」と。
「“それ”が射るのです」と彼は答えた。
「そのことは今まですでに二、三回承りました。ですから問い方を変えねばなりません。いったい私がどうして自分を忘れ、 放れを待つことができましょうか。もしも“私が”もはや決してそこに在ってはならないならば。」
「“それ”が満を持しているのです。」
「ではこの“それ”とは誰ですか。何ですか。」
「ひとたびこれがお分かりになった暁には、あなたはもはや私を必要としません。そしてもし私が、あなた自身の経験を省いて、 これを探り出す助けを仕様と思うならば、私はあらゆる教師の中で最悪のものとなり、教師仲間から追放されるに値するでしょう。 ですからもうその話はやめて、稽古しましょう。」
 幾週か過ぎ去ったが、私はほんの一歩も前進しなかった。その代り確かにこのことが少しも私の気にさわらないようになった。 いったい私は弓道にすっかり飽いてしまったのであろうか。私がこれを習得しようがしまいが、禅への通路を見出そうが見出すまいが―これらすべてのことは私には急に遠くの方へいってしまい、全く何でもなくなってしまったように思われたので、 そのことはもはや私を煩わさなくなったのである。
 たびたび私はこのことを師範に打ち明けようと決心した。しかしそう思って私が前に立つと、その勇気がなくなるのだった。 私は彼からはやっぱり、「尋ねないで稽古しなさい」という聞き飽きた返事の外は何も聞くことができないと確信していたから。 それで私は問うことをやめたのである。のみならず私は何よりも喜んで稽古をすらやめたであろう。もしも師範が、 あれほど容赦なく私を操縦する呼吸をのみ込んでいなかったならば。
 私はごくあたりまえにその日その日を過し、できるだけ立派に私の職務を果し、そしてついに、 私がこの数年来絶えず苦労して来たことの一切が、私に何でもなくなったということすら、もはや心にとめなくなった。
 その頃ある日のこと、私が一射すると、師範は丁重にお辞儀をして稽古を中断させた。私が面食らって彼をまじまじと見ていると、「今し方 “それ”が射ました」と彼は叫んだのであった。やっと彼のいう意味がのみ込めた時、 私は急にこみ上げてくる嬉しさを抑えることができなかった。
 「私がいったことは」と師範はたしなめた、「賛辞ではなくて断定に過ぎんのです。それはあなたに関係があってはならぬものです。 また私はあなたに向かってお辞儀したのでもありません、というのはあなたはこの射に全く責任がないからです。 この射ではあなたは完全に自己を忘れ、無心になって一杯に引き絞り、満を持していました。 その時射は熟した果物のようにあなたから落ちたのです。さあ何でもなかったように稽古を続けなさい。」
 かなりの時が経ってからようやく、時々また正しい射ができるようになった。 それを師範は無言のまま丁重にお辞儀をして顕彰するのであった。正しい射が私の作為なしにひとりでのように放たれるということが、 どうして起るのか、どうして、私のほとんど閉じられた右手が突然に開いて跳ね返るようになるのか。私はその当時も、 また今日でもこれを説明することができない。

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