ラ・ロシュフコー『箴言集』武藤剛史 訳

道徳的考察

37 過ちを犯した人たちをわれわれが叱責するのは、善意からというよりも、むしろ傲慢からである。われわれが彼らを叱るのは、彼らを改めさせるためというよりも、自分自身はそうした過ちを免れていることを彼らに納得させるためなのだ。
84 友人に騙されるより、友人を信用しないほうが、もっと恥ずかしい。
86 われわれの不信は、相手の裏切りを正当化する。

87 人間は、互いに騙され合っていなければ、長く付き合ってはいけないだろう。
91 どれほど大きな野心でも、それを達成することが絶対に不可能な状況下では、まったく野心らしく見えないものだ。
120 人が裏切るのは、たいていの場合、裏切ろうという明確な意志からというよりも、弱さのせいである。
122 自分の情念を抑えることができる場合もたしかにあるが、それは、われわれの意志が強いからというよりも、むしろ情念が弱いからである。
128 技巧を凝らしすぎるのはまがいの洗練である。真の洗練とは手堅い技巧である。
137 虚栄心をしゃべらせなければ、人は寡黙になる。
143 われわれが他人の長所を褒めそやすのは、純粋に他人の価値を評価してというよりも、むしろわれわれ自身の判断力を評価してもらいたいと思ってのことである。それゆえ、われわれが他者ひとを褒めているように見えるときでも、じつは自分を褒めてもらいたがっているのだ。
154 分別によってさえ矯正されないような欠点でも、運によって矯正されることがある。
158 お追従は、われわれの虚栄心によってしか通用しない贋金である。
202 偽紳士とは、自分の欠点を、他人にも、自分にも、隠してしまう者のことである。ほんとうの紳士とは、自分の欠点を知りつくしたうえで、それを素直に打ち明ける者のことである。

203 ほんとうの紳士とは、何も鼻にかけない者のことである。
206 紳士たちの視線にあえて自分をさらし続けること、それこそ紳士たる条件である。
231 自分ひとりだけ賢者であろうとするのは、狂愚以外の何ものでもない。

232 自分の苦悩について、どんな言い訳をしようとも、苦悩を引き起こすのは、たいていの場合、私欲や虚栄心にほかならない。
234 世に広く受け入れられている意見にさえ、頑固に反対し続ける人がいるが、それは彼が無知だからというよりも、むしろプライドが高いからである。正論派の上席はすでにふさがっているから、もはや先頭に立てないのが悔しいうえに、しんがりになるのは絶対にいやなのだ。
259 恋の喜びは愛することにある。それゆえ、恋において、人が幸福であるのは、自分が抱く情熱によってであって、自分が相手に抱かせる情熱によってではない。
267 よく調べもせずに、悪をたやすく信じるのは、傲慢と怠惰のせいである。人はたいてい、罪人捜しには熱心だが、罪そのものを詳しく調べようとはしない。
282 まるで真実そのものに見えるほど、うまく装われた虚偽があって、それに騙されずにいることが、むしろ判断を誤っているように思われてしまう場合さえある。
313 自分に起こったことを、ほんの細かい点にいたるまでよく覚えているというのに、その話を同じひとりの人に何度繰り返したか、さっぱり覚えていないとは、いったいどうしたことだろうか。
327 われわれが小さな欠点を打ち明けるのは、大きな欠点はないと思わせるためである。
339 われわれが幸や不幸を感じる度合いは、まさしく自己愛の大きさに比例している。
351 もう愛してはいなくとも、関係を断つにはずいぶん苦労する。
364 自分の妻についてあまりしゃべらないほうがよいことは、誰でも知っている。だが、自分についてはそれ以上にしゃべらないほうがよいことを知る者は少ない。
372 若者たちのほとんどは自分が自然のままだと思い込んでいるが、ほんとうは、礼儀知らずで下品なだけである。
375 凡庸な精神は、たいてい、自分の力にあまるものはすべてけなす。
377 洞察力の最大の盲点は、的に達しないことではなく、的を通り越してしまうことだ。

378 人はさかんに忠告を与えるが、具体的にどうすべきかはまったく教えない。
386 自分は間違っていることに耐えられないという人間にかぎって、しばしば間違いをしでかす。
421 才気よりも、信頼のほうが、会話を豊かにする。
424 われわれは、自分がじっさいに持っている欠点とは正反対の欠点を自慢したがる。それゆえ、気弱な人間は頑固であることを自慢する。
427 たいていの友人はわれわれを友情嫌いにさせる。たいていの信心家がわれわれを信心嫌いにさせるように。

428 われわれは、友人たちの欠点を、自分に差し障りのないかぎりは、かんたんに許してしまう。
431 自然らしく見られたいという欲求ほど、自然であることを妨げるものはない。

432 立派な行いを心から褒めることは、自分もその行いにいくぶんか加わることである。
437 ひとりの人間の価値は、彼の際立った資質によってではなく、そうした資質をいかにうまく使いこなしているかを見て判断すべきである。
439 もしわれわれが自分の欲しているものの実態を完全に知っているならば、それを激しく追い求めるようなことはほとんどあるまい。
442 われわれは、自分では直そうとは思わない欠点については、まるでそれが美点であるかのように自慢しようとする。

443 どんなに激しい情念でも、ときにはわれわれに一息つかせてくれるものだが、虚栄心だけは休みなくわれわれを駆り立てる。
446 恥や嫉妬の苦しみがかくも激しいのは、虚栄心が働かないため、その苦しみをこらえるすべがなくなるからである。

447 礼儀作法とは、あらゆる掟のなかでもっともゆるやかで、そのために誰もが従っている掟である。

448 実直な精神の持ち主にとって、精神のねじけた人間たちを導くよりは、彼らの言いなりになるほうが苦労は少ない。
451 頭のいい馬鹿ほど、始末の悪い馬鹿はいない。
453 重大事においては、チャンスを新たに作り出すことよりも、いま目の前にあるチャンスを生かすことに専心すべきである。
457 自分を偽ろうとするより、あるがままの自分を見せるほうが、得るところは多いだろうに。
467 われわれが自分の好みに反することをやってしまうのは、理性に従ってというよりも、虚栄心に駆られてである。
472 ほかの情念と同様、自尊心にも一風変わったところがある。人は、嫉妬していることを打ち明けるのを恥じるが、以前に嫉妬を抱いたこと、そして嫉妬できる人間であることは自慢する。
476 われわれの羨望はつねに、われわれが羨む人たちの幸福より長く続く。
488 われわれの気分が平静であったり、動揺したりするのは、生涯に何度か起こるだけの重大事件のせいというよりも、むしろ毎日起こるささいなことがうまくいくかいかないかにかかっている。
493 人間は、自分の欠点がまだ足りないと思っているらしい。彼らは、奇抜な資質をあれこれ気取ることで、欠点の数をさらに増やし、しかもそれらの欠点を大切に守り育てるものだから、最後には生まれつきの欠点と同じになってしまう、自分の力でゃどうにも直せなくなる。
504 以上、ふつう美徳とされるものの多くがじつはまやかしでしかないことを縷々るる語ってきたが、その締めくくりとして、死に対する超然たる態度と見えるものも、やはりまやかしにすぎないことについて、いささか述べておきたい。私が取り上げたいのは、来世への希望もなしに、ただ自分の力によって、死を平然と迎えられるとうそぶく異教徒たちの自己欺瞞ぎまんについてである。ひたすら死の恐怖に耐えるということと、死を侮ることとは、まったく違う。前者はごく普通のことであるが、後者はけっして本心ではないと私は思う。ところが、死ぬのは何でもないということを強く主張するあらゆる文章が書かれ、英雄はもとより、もっとも弱い人びとまでが、この意見を正当化すべく、無数の実例を提供してきたことはよく知られている。しかし私は、良識のある人なら誰もそんなことはけっして信じないだろうと思う。他者に、そして自分自身にも、それを説得しようと、誰もがあれほど躍起になっていること自体、その試みが容易ではないことをはっきり示している。たしかに人生にはうんざりすることが山ほどあるが、だからと言って、死を侮ってよいということにはけっしてならない。たとえ自死を選ぶ人たちでさえ、死を取るに足らないと考えているわけではない。彼らもまた死を恐れているのであって、もし死が、自分が選んだのとは別の形で襲ったとすれば、彼らもまた、ほかの人たちと同様、その死を拒絶することだろう。数多くの勇敢な人びとが発揮する勇気にもさまざまな違いがあり、またそれぞれの場合でむらもあるが、それは、彼らの想像力が死をさまざまな姿に思い描くからであり、また場合によって、その切迫感、恐怖感が大きくなったり、小さくなったりするからである。じっさい、ある物事を、まだ経験しないあいだは侮っていた人たちも、いざ経験したとたんに恐れるようになる、ということはよくある。それゆえ、死が不幸の最たるものであることを信じたくなければ、どんな状況であれ、死と向き合うことは、是が非でも避けるべきである。もっとも賢明で勇敢な人間とは、死と向き合うことを避けるべく、恥ずかしくない穏当な口実を見つける者のことである。とはいえ、死をあるがままに見ることのできる人は誰であれ、死とは恐るべきものであることを知っている。死の必然性こそ、哲学者たちの永遠の主題であった。誰もが死を免れない以上、喜んで死を迎えるべきであると彼らは信じていた。そのうえで、自分の命を永らえることができないものだから、せめて自分たちの名声を永久にとどめようとして、しかも消滅しないという保証もないものさえ消滅から救おうとして、彼らは万策をうくしたのである。しかしわれわれとしては、心の平静を保つためにも、死について思いつくことを何でもあけすけに自分に言って聞かせるというつまらないまねだけはしない、ということで満足しよう。そして、死を平然と迎えることができると信じ込ませようとするあの屁理屈へりくつよりも、自分の気質に期待しよう。毅然として死を迎える誇り、誰からも惜しまれるだろうという期待、名声を残したいという欲望、これで人生の悲惨さから逃れられ、もはや運の気まぐれに左右されないですむという安心感、それらは死の苦しみを緩和する薬であって、それをむげに否定すべきではない。しかしまた、それらの薬が万能であると信じるのもよろしくない。それらが万能だと信じるのは、ちょうど、戦争において、敵が射撃しているところに近づいていかねばならない兵士たちが、ただの生け垣に沿って進めば安心だと信じるようなものである。そんな生け垣は、遠くから見るかぎり、自分をすっかり隠してくれるように思われるが、いざ近づいてみると、たいして助けにはならないことが明らかになる。死というものが、それが近づいても、遠くから判断したときと同じ姿をしている、また、じっさいには脆弱ぜいじゃくでしかないわれわれの感情が、あらゆる試練のなかでももっとも過酷な試練である死に直面しても、少しも動じないほど強固である、などと信じるのは、われわれの思い上がりである。また、自己愛というものが、自己愛そのものを必然的に破壊してしまうはずの死をまったく取るに足らないとわれわれに思わせてくれるだろうと考えるのは、自己愛の効能の限度をよくわきまえないからである。そのうえ、臨機応変に解決策を見つけてくれると思われている理性ですら、死と直面したときにもすべてはわれわれが望むとおりになると納得させてくれるほど強力ではあり得ない。それどころか、理性は、たいていの場合、いざとなるとわれわれを裏切るのであり、死を侮る勇気を与えてくれるどころか、死がおぞましく、恐ろしいものであることをまざまざと見せつけることになるのだ。それゆえ、理性がわれわれのためにできるのは、せいぜいのところ、死から目をそらして、別のものを見るようにと忠告するくらいのことである。小カトーとプルトゥスは華々しい死を選んだ。一方、つい最近のことだが、ある従僕は、車裂きの刑に処せられるまえに、処刑台のうえで踊ることにささやかな慰みを見いだした。このように、彼らの動機はさまざまだが、そこから生じる結果は同じである。偉人たちと凡人たちのあいだにはスケールの違いがあるとはいえ、誰も彼もが最後には同じ顔色をして死を迎えるところをわれわれは数限りなく見てきたのであり、その違いと言えば、偉人たちに死を取るに足らぬものに思わせているのは名誉心であり、そのために死を直視せずにすんでいるのに対して、凡人の場合、それは知力の欠乏の結果にほかならず、そのおかげで、彼らは死の不幸がいかに大きいかを知らずにいられ、ほかのことを考える余裕が生まれるのである。

削除された箴言

1 自己愛とは、自分自身を愛する愛、またすべてを自分のためにだけ愛する愛である。自己愛ゆえに、人はみずからを偶像のごとく崇拝するし、また運よくその手段が与えられるなら、自分以外の人間を暴君のように支配する。自己愛は、自分のそとではけっして落ち着かないし、たとえ自分以外の何かに心を留めるとしても、それは、花に止まる蜜蜂のように、それらから自分の利益をせしめようという魂胆からでしかない。自己愛が抱く欲望ほどに激しいものはなく、その目論見もくろみほどに押し隠されたものはなく、そのふるまいほどに巧妙なものはない。自己愛の柔軟さはたとえようもなく、その変貌ぶりは変身のすべを上回り、その精緻せいちさは化学のそれを上回る。自己愛の深さは測れないし、その深淵しんえんは闇に閉ざされ、どんなに鋭い目でも見抜くことはできない。その闇のなかで、自己愛は誰にも見られないまま、自由自在、縦横無尽に動き回り、自分自身にさえ姿を現さずに、しかも自分自身さえ知らぬうちに、あまたの愛憎の念を抱き、養い育てる。自己愛は、そうした感情を怪物のようにグロテスクに育て上げてしまうので、それらが表に現れたときには、自分でも見違えるほどであり、自分が生みの親だと打ち明けることすらはばかられる。自分を覆い隠しているこの闇のせいで、自己愛のこっけいな思い込みがあれこれ生まれる。自分を見誤ったり、自分について無知であったり、粗野なことや馬鹿げたことをしでかしたりするのも、それゆえである。自己愛は、自分の感情が眠っているだけなのに、死んでいると思い込むし、ひとたび休息をとると、もう走る気がしなくなったように想像するし、十分堪能たんのうしたものはすべて食傷していると考えたりする。しかし、自分に自分を見えなくしているこの深い闇にもかかわらず、自己愛は、自分のそとにあるものは何でも完璧に見抜いてしまう。その点は、何でも鋭く見抜くが、自分だけは見ることができないわれわれの眼と同じである。じっさい、自分の利害が重大になる場面や自分が手掛けた大きな事業では、強い願望に駆られ、あらゆる注意力を集中して、自己愛はすべてを見、感じ、聞き、想像し、疑い、察し、見抜く。まるで、自己愛が抱く情熱のひとつひとつに特別の魔力が備わっているかのようだ。自己愛の執着心はあまりに根深く強いので、たとえば、大きな不幸が襲ってきそうになって、その執着を断ち切ろうとしても、どうにも断ち切れないのである。その一方で、何年ものあいだ、ほかのことはできたのに、これだけはできなかったということを、ほんのわずかな時間に、しかも何の苦もなく、やってのけることも、ときにはある。それゆえ、自己愛の欲望をかき立てているのは、対象物の美しさや価値そのものよりも、自分自身なのではないか、また、自己愛自身の好みのほうが対象物を引き立て、美化しているのではないか、さらには、自己愛が追いかけているのは自分の好みそのものなのではないか、自分の好むものに執着しているつもりでも、ほんとうは自分自身に執着しているのではないか、そんなふうに思われてくる。自己愛はまさに百面相であり、いばっていたかと思うと素直で従順になり、誠実かと思うとずるがしこくなり、情け深いかと思うと残酷になり、臆病かと思うと大胆になる。自己愛は、当人の気質が多様であるのに応じて、さまざまな傾向を持ち、名声や栄光を追い求めることもあれば、富や快楽を追い求めることもある。自己愛は、われわれの年齢に応じ、また運の成り行きに応じ、さらには経験に応じて、追い求めるものを変えていき、一度に複数のものを追い求める場合もあれば、ひとつだけに集中する場合もあるが、自己愛自身は、そんなことはいっこうに気にかけない。というのも、自己愛は、必要に応じて、あるいは気分に従って、ひとつに凝縮することもあれば、いくつかに分裂することもある。自己愛はたえず変化する。外部の原因によって変わるばかりでなく、自分の意志によっても、また自分の本性に応じても、無限に変わっていく。つまり自己愛は、その無節操、軽薄さ、浮気、新し物好き、飽きっぽさ、嫌気などによって、自分をつねに変えていくのである。自己愛は気まぐれであり、ときには、まったく自分の得にならないもの、むしろ損になるものですら、このうえなく熱心に、信じられないほど苦労して、手に入れようとする。要するに、自己愛が何かを追い求めるのは、自分がそれを欲するからであって、それ以外の理由はないのだ。自己愛は変人であり、しばしば、じつに取るに足らないものに夢中になるし、じつに陳腐なものに無上の喜びを見いだすし、じつにみじめったらしいものに有頂天になったりもする。自己愛は、人生のあらゆる局面、あらゆる状況下に出没する。いたるところに生きており、すべてを、どんなにささいなことでも、生きる糧にして、どんな場合にも、まったくの欠乏状態にさえ、適応する。自己愛と闘っている人びとの陣営にさえ加わり、彼らの目論見のなかにも忍び込む。じつに見あげたことだが、自己愛は彼らとともに自分自身を憎み、自分がいなくなることを願い、自分を破滅させるために努力さえする。要するに、自己愛は自分が存在し続けることしか眼中になく、存在することさえできるなら、自分の敵になってもよいとすら思っている。だから、自己愛がときにこのうえなく厳格な禁欲に加担し、大胆にも自分を滅ぼすべく、それと一致協力することがあったとしても、驚くには当たらない。というのも、自己愛は、あるところでは自分を滅ぼすとしても、それと同時に、別のところではちゃっかりと自分を復活させているのだ。自己愛が自分の快楽をきっぱり棄てたと思われているときにも、じつはそれを一時中断しただけであったり、別の快楽に変えたりしているにすぎない。また自己愛が打ち負かされ、自分から自己愛がすっかり消え失せたと思う人でさえ、みずからの敗北を勝ち誇っている自己愛をふたたび見いだす始末なのだ。以上が、自己愛のありのままの姿である。自己愛の生涯は大きく長い動揺にほかならず、そのありさまは海にたとえることができよう。たえず寄せては返す海の波こそ、自己愛があれこれと思い惑う永遠の思考運動の忠実な表現である。
10 不幸な人は、しばしば、自分が不幸に見えることにある種の喜びを覚えて、自分を慰める。

11 自分がこれからすることに責任を持つというのなら、自分の運にも責任を持たねばならないだろう。

12 われわれは、自分が、たった今、何を望んでいるのか、それすら正確には分からない。だとすれば、いったいどうしたら、将来において自分が望むであろうことに責任が持てると言えるだろうか。

13 愛は愛する者の魂を生き生きとさせる。ちょうど、魂が肉題に生気を与えるように。
20 他者ひとにも道理はあり得ると思わなくなったとき、すでに自分にも道理はないのだ。

21 古代の哲学者たち、とりわけセネカの教えは、人間のさまざまな罪を取り除くためのものではまったくなかった。むしろ彼らは、人間の傲慢を増長させるためにこそ、教え説いたのである。

22 世に賢人と呼ばれる人たちが賢明なのは、自分には無関係な事柄に関してだけであって、自分にもっとも切実にかかわる問題に直面すると、たいていの場合、まったく賢明ではなくなる。
35 われわれが自分の欠点を打ち明けるのも、もっぱら虚栄心によってなのである。
61 自分のうちに安らぎを見いだせない人間は、自分のそとにそれを探しても無駄である。
72 あまりに大げさな養生法で自分の健康を保とうとするのは、困った病気である。
74 自分の過ちを打ち明ける勇気があるならば、それについてくよくよ考える必要はない。

没後収録の箴言

9 神は、自然のなかにさまざまな木を植えたように、人間のなかにさまざまな才能を植え付けた。それゆえ、それぞれの才能は、それぞれの木と同様、まったく独自の特性と働きを持っている。どんなに立派な梨の木も、ごく普通のリンゴを実らせることはできないのと同様、どんなに優れた才能も、ごく普通の才能と同じ働きをすることはできない。それゆえにまた、自分のうちにその才能の種さえないのに、箴言を作りたいなどというのは、球根をひとつも植えていないのに、花壇にチューリップが咲いてほしいと願うのと同様、馬鹿げたことである。

10 人間は本来、今あるようなものとして造られているわけではない。その確かな証拠として、人間は理性的になればなるほど、自分の感情や性向のでたらめさ、卑しさ、そして退廃に、ひそかに赤面せざるを得なくなる。
12 死は恐るに足りないと信じ込ませるために、哲学者たちがあれほど躍起になっているところを見れば、死がいかに恐るべきものであるかがよく分かる。
16 われわれの身に起こる幸不幸が、われわれにどのような影響を与えるかは、その規模の大きさよりも、それを受け止めるわれわれの感受性に左右される。
30 人がある物事を褒めたり、けなしたりするのは、ほとんどの場合、それらを褒めたり、けなしたりするのが流行はやりだからである。
39 賢者を幸福にするにはほんの少しのもので足りるが、何ものも愚者を満足させることはできない。ほとんどの人間がみじめなのは、それゆえである。
41 最初の欲望を断ってしまうほうが、それに続くすべての欲望を満たすよりも、はるかにたやすい。
44 何かをむやみに欲しがるまえに、それをすでに持っている人間がどれほど幸福かを確かめたほうがよい。

45 真の友人はあらゆる財産のうちでも最高の宝でありながら、人がそれを得たいと願うことのもっとも少ない宝でもある。
50 賢者は、戦いに勝つよりも、戦いに加わらないことをよしとする。

51 本を研究するよりも、人間を研究することのほうが必要だろうに。

52 幸福も不幸も、たいてい、それをすでにありあまるほど持っている人間ばかりにやってくる。

53 人が自分を責めるのは、褒めてもらいたいからでしかない。
58 誰も好きになれない人間は、誰にも好かれない人間よりも、はるかに不幸である。
61 紳士たる資格は、特定の身分に限られたものではなく、あらゆる身分に開かれている。

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