ショーペンハウアー『存在と苦悩』金森誠也=編訳

  表象と意志について


 表象としての世界

 すべてを認識し、何者からも認識されないものが主観である。かくて主観こそ世界の担い手であり、現象するものすべて、客観のすべてにとって、いたるところ、常に前提とされる条件である。なぜなら、常に存在するものは、単に主観にとってのみ存在するからである。なんぴとたりとも主観として存在するが、それはその人が認識するかぎりにおいてであって、その人が認識の対象になった場合はそのかぎりではない。しかしその人の肉体からして既に客観である。そこで、われわれがこの立場に立ったときには肉体は表象であると名づけることになる。なぜなら肉体は確かに直接の客観ではあるけれど、もろもろの客観のなかの一つの客観であり、客観を支配する法則に従属する。肉体はあらゆる直観の対象と同様に、これによって多様性が生ずるすべての認識形式のなかに、すなわち時間と空間のなかに存在する。だが、認識するものであってけっして認識されるものではない主観は、この認識形式の下にはない。主観については、むしろ多様性も、多様性から生まれる対立も、さらに統一もないということが前提される。われわれはけっして主観を認識しない。主観とはそもそも、認識されるものを認識するものにほかならない。
 また表象としての世界、われわれがいまこの点に立ってだけ観察している世界は、本質的、必然的に不可分の二つの部分より成る。その一つは客観であり、その形式は時間と空間であり、これを通じて多様性が生ずる。もう一つは主観であり、時間のなかにも空間のなかにも存在しない。なぜなら主観は、全く分割されることなく、表象するあらゆる存在のなかに存するからである。そのため、主観のなかのただ一つのものでも、存在する何百万もの主観と同様、完全に客観とともに、表象としての世界を形成する。だがこの唯一の主観が消滅すれば、表象としての世界はもはや存在しなくなる。この両者、主観と客観は不可分であり、思惟しいのなかでも不可分である。なぜなら、両者のうちのいずれもが、ただ他方によって、他に対してのみ意味を持ち、存在するからである。他方があるからこそ一方もあるのであって、他方がなくなれば、もう一方も消滅してしまう。両者は互いに直接境を接しており、客観が始まるところで主観は終わっている。両者の境界が共通であることは、あらゆる客観の一般形式、すなわち時間、空間、因果律が、客観の認識がなくとも、主観から出発して見出され、完全に認識されうること、カントの用語を借りれば、先天的ア・プリオリに、われわれの意識のなかに存することによって証明されている。これを発見したことはカントのおもな業績であり、しかもきわめて偉大なものである。だが私はこれに加えて、根拠律こそは、これらすべての、れによってア・プリオリに意識された客観の形式を、共通して表現するものであり、そのためわれわれが純粋にア・プリオリに知るところのものすべては、根拠律の内容にほかならず、これより生ずるもの、すなわちわれわれのすべてのア・プリオリに確実とされる認識は、根拠律のなかに表現されると主張するのである。根拠律についての私の論文のなかで、私は、それが何物であれ、あらゆる客観は根拠律に従属していること、すなわち客観は他のもろもろの客観と必然的な関係にあり、一方では制約されており、他方では制約するものであることを詳しく論じておいた。さらにいえることは、あらゆる客観のすべての存在は、それが客観、表象であって、それ以外の何物でもないかぎりにおいて、例の客観同士の必然的関係に帰着することである。すなわち、このような形式のなかに存在する以上、全く相対的なものである。これらについてももっと詳しく論じてみよう。私は先の論文で、さらに、根拠律が一般的に表現する例の必然的関係は、客観がそれぞれの可能性によって分類される種類に従い、他の形態をとって現われることを説いた。またこれによって、種類の正しい分類が保証されると述べた。私はあの論文のなかで述べたことを、すべて、既によく知られていることであり、読者諸君もじゅうぶんにのみこまれたことを前提として、話を進めてゆくことにする。あの論文のなかで私が詳しく述べなかったとするならば、この本のなかで、それ相応に論述しなくてはならない理屈になるからだ。
 本書の紹介ともなるべき例の論文によって、その形態がいかように千変万化の姿を見せようとも、根拠律の内容は完全に同一であることをはっきりと頭のなかに刻み込まれた人は、根拠律の深奥の本質を洞察どうさつするためには、その形態の最も単純なるものをかかるものとして認識することが、いかに重要であることかがわかったはずである。このため、われわれは時間を認識した。時間のなかで、瞬間が現われるのは、瞬間がそれに先行する瞬間、いわばおのれの父親を滅ぼすかぎりにおいてである。またいまの瞬間は、おのれ自身がすぐに滅ぼされることによってあるのである。(その内容が生む結果を度外視すれば)過去も未来も、まるで夢のようにはかないものであり、現在は両者を隔てる延長も持続もない境界線にすぎない。これと同様に、われわれは根拠律の他のすべての形態のむなしさ、はかなさを再認識し、時間と同じく空間も、そして空間と同様、空間と時間のなかにあるものすべて、原因から、あるいは動機から生ずるものすべてがそれと同じ種類のものとして存在する他のものによって、他のものに対してだけ相対的に存在していることがわかるのである。この種の考え方の本質の起源は古い。ヘラクレイトスはこのことを知り、事物が永遠の流れであることを嘆いた。プラトンは、これらの対象は常に生成するものであって、存在するものではないとみた。スピノザはこれをとわに存在し、持続する唯一の実体の単なる偶有性と名づけた。カントはかくて認識されたものを物自体に対する単なる現象であるとした。さらにインド人の古い知恵は、「死すべき者の目をおおうものは偽りのヴェール、すなわちマーヤーであり、マーヤーは死すべき者に存在するとも、存在しないともいえない世界を見せてくれるのである。なぜなら、マーヤーは夢のようなものでもあり、旅行者が遠方から見て水だと誤解した砂の上の太陽の輝きのようなものである。あるいは、ヘビとみまちがえるようなほうり出されたひものたぐいである」と言っている。(これらの比喩は、ヴェーダやプラーナのいたるところで説かれている。)これについて考えられ、語られたことすべては、われわれがいまここで観察したことにほかならない。すなわち、表象としての世界は根拠律に従属するということである。


 意志としての世界

 われわれは既に、事物の本質は、外部からではけっして把握されず、いかに絶えず努力したところで、映像と名まえがわかるだけのことであることをみてきた。このことは、城のまわりを巡り歩いても、入口がどこにあるかを発見できず、やむなく正面だけを写生する人の態度によく似ている。しかも、私以前の哲学者たちが歩んだのは、すべてこの道であった。単に私の表象としてだけ存在する世界、あるいは認識する主観の単なる表象としてだけ存在するこの世界からの派生物を、いくら探究し意味づけをしてみたところで、探究者が純粋に認識する主観にとどまるかぎりは(肉体のない、翼だけを持つ天使の頭であるかぎりは)、この世界の本来の姿に、実際に到達することはできない。しかし、探究者自身も、世界に根をおろしている。彼はすなわち個人として、そのなかにおかれている。すべての表象としての世界を制約する担い手としての彼の認識は、それでいて全く彼の肉体を通じて存在するのだが、この肉体の動きこそ、悟性にとってその世界を知る出発点となることは、周知のとおりである。この肉体としても、かかるものとしては、純粋に認識する主観にしてみれば、他のものと同様の表象の一つにすぎず、客観のなかの客観にほかならない。肉体の運動、行動も、このかぎりにおいては、他のすべての直観できる客観の変化と全く変わらず、その意味は全然別の方式で解明されないかぎり、異様かつ不可解なままで残されることになる。もしそうでなければ、人は、他の客観の変化を原因、刺激、動機などに還元するのと同様、おのれの行動も自然の法則の確実さをもって、出現した動機によって説明することができよう。だが、その人は動機の影響を、その人の眼前に現象する他の事物の作用とその原因との結合以上に詳しく理解できることはないであろう。その人は、おのれの肉体の現われとその行動についての自分にはわからない内的な本質を、力、性質もしくは性格と、好きなように名づけるであろう。そうかといって、その本質なるものについての洞察を深めるわけではない。しかしこのことは何がなんでもわからないという筋合いのものではない。むしろ個人として現われる認識の主観には、なぞのことばが与えられている。このことばは意志と呼ばれる。このことば、そしてこれだけが、その人に、おのれ自身の現象のかぎを与え、その意味を明らかにし、その人の本質、行為、運動の内的な営みを示してくれる。おのれと肉体との合一によって、個人として現われる認識の主観にしてみれば、この肉体は二つの全く違ったあり方で存在している。一つは、各種各様の直観における表象として、もろもろの客観のなかの一つの客観であって、客観に関する法則に従属するものとして与えられる。しかしながら、肉体は同時に全く違ったあり方で与えられている。すなわちなんぴとにも直接知られているもの、意志ということばが示すものとして与えられている。あらゆる者にとって真の意志の行動は、ただちに、必ず生起する肉体の運動となって現われてくる。意志の行動と肉体の行動は、客観的に認識された因果律によって縛られた二つの異なった状態ではない。この両者は原因と作用の関係にあるのではなく、全く同一のものであるが、ただ二つの全く異なったしかたで示される。一方は全く直接的に、他方は悟性のための直観のなかで示される。肉体の行動は、客観化された、すなわち直観のなかに登場した意志の行動にほかならない。さらにわれわれにとって理解されることは、このことが肉体のあらゆる運動についてもいえるのであって、動機に基づく運動ばかりでなく、単なる刺激によって生じた機械的な運動にもあてはまることである。そればかりではない。肉体はすべて客観化された、すなわち表象となった意志にほかならないことが判明する。これらの問題については、すべて本書のなかに、いっそう詳しく取り上げられ、さらに明白になってゆくことであろう。私は前節(『意志と表象としての世界』正編)や根拠律に関する論文のなかでは、ことさらに一面だけから物を見る立場(表象の立場)をとったために、肉体を直接の客観と呼んでいたが、他の面をも顧慮した本章では、肉体を意志の客観化と名づけることにする。そのため、ある意味では次のようにいうこともできる。意志は肉体のア・プリオリな認識であり、肉体は意志の後天的ア・ポステリオリな認識である。──
 将来のことについての決意は、人がいつかは欲求するであろうことについて、理性が単に考え出したことにすぎない。これは本来の意志の行動ではない。ただ実行することによってだけ、それまでは、まだまだ変わってゆく可能性もあった意向にすぎず、理性のなかで抽象的にだけ存在していた決意を裏づけるのである。反省のなかにおいてだけ欲求と行為は別物である。現実には両者は同一である。意志のすべての真の正しい直接的行動は、ただちに、しかも直接に現象する肉体の行動でもある。一方これに対応して、肉体に対するあらゆる作用は、ただちに直接意志に対する作用でもある。この作用が意志に反発するものであれば、苦痛といわれ、意志に適応したものであれば、快楽、快感などと呼ばれる。この両者の間のニュアンスは微妙である。しかし、苦痛と快楽を表象と呼ぶのは全く正しくない。苦痛や快楽はけっして表象でなく、意志の、その現象である肉体における直接の働きである。すなわち、肉体が受ける印象を強制的、瞬間的に欲したり欲しなかったりすることである。
  利己と加虐の心理について

〔…〕

 利己主義

 われわれは時間と空間を持っている。なぜなら、ただこの両者によって、また両者のなかでだけ個体化の原理と名づけられる同種のものの多様性が可能だからである。時間と空間は自然な、すなわち意志から生じた認識の本質的形式である。かくて世界のいたるところで、意志は個人個人の多様性のなかに現われる。だが、この多様性は物自体としての意志そのものではなく、ただ意志の現象に相当する。意志はその現象のすべてのなかに、全体として、分割されずに存在し、おのれのまわりに、おのれ自身の本質が無数に繰り返されているありさまを見出すのである。だが、真に現実のものであるおのれ自身の本質を、意志はただ直接おのれの内部にだけ発見する。そのために、万物はおのれのためにすべてがあること、おのれのためにすべてを所有する、少なくとも支配することを欲し、おのれにはむかうものを滅ぼそうとする。さらに、認識する存在にあっては、個人が認識する主観の担い手であり、この認識する主観こそが世界の担い手となる。すなわち、個人にとって彼の外にあるすべての自然は、他の個人をすべてひっくるめて、ただその個人の表象のなかに存在する。個人にしてみれば、これらすべての自然をただ彼の表象として単に間接的なるものとして、さらにはその人自身の本質と生存に依存するものとして意識する。それは個人にとって、その人の意識とともに世界は消滅するからだ。すなわち、その人の意識の消滅とともに、世界があろうとなかろうと、どうでもよいこと、区別しがたいこととなるのだ。あらゆる認識する個人は、また真実に生への意志、あるいは世界自体となる。さらに、表象としての世界を完全なものにしあげる条件は、マクロコスモス(大宇宙)と同様に評価すべきミクロコスモス(小宇宙)である。いついかなるところでも真実である自然自身が、個人に対し、この認識を単純にはっきりと直接与えてくる。これに関する認識は、あらゆる反省ともともと全く無縁である。このようにして得られた二つの必然的な規定からして、無限の世界では、きわめて卑小な、無と同然の小さな個人が、なおかつおのれを世界の中心点とするばかりか、おのれの存在と幸福を他のすべてのものに先がけて配慮し、さらに、大海中の一水滴にすぎないおのれ自身を多少なりとも長持ちさせるために、他人のすべてを犠牲にし、全世界を滅亡させることも意に介さないという自然の立場に立つことになる。この考え方が、自然の万物にとって本質的な利己主義である。しかしこの利己主義によって、意志のおのれ自身との内的闘争が恐るべき姿を現わす。利己主義がいかにして存在し、存続するかというと、それは大宇宙と小字宙が対立するからである。換言すれば、意志の客体化が個体化の原理の形を借りることにより、意志が無数の個人のなかに、同じ方法で、しかも(意志および表象の)両側面からはっきりと完全に現われるからである。あらゆる個人にとって、おのれ自身は完全な意志、完全な表象として直接与えられたものなのである。ところが、他の者はまずはただその人の表象として与えられているだけである。したがってその人にとっては、自分の存在や生存が他のすべてをあわせたものよりもたいせつになってくる。だれしも自分が死ぬときは、世界の終末だと思っている。一方自分と個人的なかかわりあいがないかぎり、知り合いの死を聞いてもほとんど無関心のまま過ごしてしまう。最高度に発達した意識、人間の意識のなかでは、認識する力や苦痛や喜びと同様、利己主義も最高の度合いに達し、利己主義から起こる個人同士の争いも、恐るべき姿を見せるようになる。このことは事の大小を問わず、いたるところで見受けられる。あるときは、大暴君、悪漢の生活や、皆殺し戦争のような恐るべき場面で、またあるときは、喜劇のテーマとなっており、ほかならぬラ・ロシュフコーが抽象的な形でとらえかつ表現したように、特にうぬぼれや虚栄心として登場する笑うべき場面で、この利己主義を見出すことができる。われわれはその姿を世界史のなかにも見出せるし、自分の経験からもよく知っている。だが、利己主義が最もはっきりと現われてくるのは、一部の人々がすべての法律や秩序から解き放された直後である。この場合には、ホッブスがその著『市民について』の第一章で巧妙に描いたように、すべての者に対するすべての者の戦いが、最もはっきりと示されることになる。各人は単に、自分が所有したい物を他人から奪おうとするばかりではない。自分の幸福をほんのちょっとふやそうとして、他人のすべての幸福や財産まで破壊しようとする者まで現われることがしばしばある。これこそ利己主義の最高の表現である。こうした点からすれば、利己主義の現われは、何の利益も得られないのに、ひたすらそれだけが目的で、他人を苦しめ危害を加えようと努める正真正銘の悪意によって凌駕りょうがされるだけである。この正真正銘の悪意については次節に述べることにするが、いまここで示した利己主義の源泉の解明を、拙著『道徳の基礎に関する懸賞論文』の第一八節と比較していただきたい。
 すべての生にとって本質的であり、不可避であることをわれわれが既に発見した苦しみの源泉は、エリス(不和の女神)として、現実に決まった形をとって現われてくる。これはすべての個人の戦いであり、生への意志がその深奥に蔵しており、個体化の原理によって、人目につく姿をとって現われる矛盾の表現である。このありさまを直接、はっきりとまのあたりに見るための残忍な手段は、動物同士を戦わせてみることである。こうして、根本的分裂が存在しているために、あらゆる対抗手段を構ずるにもかかわらず、苦しみの源泉が涸れることはない。
  意志の不滅について

〔…〕

 現在について

 われわれは生を受ける前の過去や死後の未来を探究する必要はなく、むしろ意志が現象する唯一の形式として現在を認識しなければならない。現在は意志からのがれることはなく、意志も確かに現在から離れ去りはしない。生をそのあるがままの姿で満足し、生を全面的に肯定する者は、確固たる信念に基づいて生を無限であるとみ、死の恐怖を迷妄であるとして退ける。「死は現在を消滅させる。現在の含まれない時間もある」といったつじつまのあわない恐怖は、ナンセンスであるとしてとりあわないのだ。この迷妄は、時間についての誤った考えであるが、一方空間についての誤った考えもある。だれでも自分がたまたま占めた地球上の地点を地球の上部にあり、それ以外の場所をすべて下部にあると空想する。これと同様、だれしも現在をおのれの個性に関連させ、これとともにすべての現在は消滅する、また過去や未来も現在なくしては存在しえないと考える。だが地球上のいたるところが上部であるように、すべての生の形式も現在である。さらに死がわれわれから現在を奪うからといって死を恐れるのは、幸いいまこそたまたまその上部にいるからよいものの、いつかは丸い地球からころげ落ちるのではないかと心配することよりも、賢明であるとはいえない。意志の客体化は本質的に現在の形式である。これは延長のない点として、無限の時間をまっ二つにたち切り、涼しい夕刻のない、絶えず続く昼間のように、てこでも動かず、どっかと腰をすえている。これはちょうど、一見夜のなかに沈むとはいえ、実は休みなく燃焼しつづけている太陽の真の姿に似ている。したがって、死をおのれの滅亡だとして恐れることは、太陽が夕方になって、「悲しいことだ。私は永遠の夜中に沈まなくてはならぬ」と嘆声をあげると想像するのとなんら変わりはない。
 また逆のことも言える。生を心から欲求し、生を肯定しながらも、生の重荷にうちひしがれた者は、その苦しみをいみきらい、とりわけ、おのれにふりかかる過酷な運命をもはや耐え忍ぼうとはしない。こうした人々は死による解放を期待しえず、自殺によって救われることもない。ただ偽りの光のなかに漂う暗い、冷たい冥土めいどが、まるで安全な港のように、誘いをかけてくれるだけである。大地は朝から夜へと回転し、個人は死んでゆく。だが太陽は、休みなく、永遠の昼間として燃焼する。一への意志にとって、生は確実そのものである。たとえ、時間のなかに発生しては消滅する、理念の現象である個人が、はかない夢にたとえられようとも、生の形式は終末なき現在である。こうした意味合いからしても、自殺は、無意味なばかげた行為に思われる。われわれの観察をさらに進めてゆけば、自殺はいっそう不利な光のなかに示されるようになるであろう。
  芸術について

〔…〕

 芸術の慰め

 すべての美と芸術が与えてくれる慰めを享受することや、生の苦しみを忘却させてくれる芸術家の熱情、こうしたものは、ほかの者には恵まれない天才の特権である。確かに天才は意識がはっきりしているため、それだけに異質な人々のなかにあって苦しみは大きく、寒々とした孤独に悩まされる。だが天才の特権はこの苦しみを償ってくれる。それというのは、これまで詳しく解明してきたとおり、生そのものは意志であり、生存自体は絶えざる苦悩であり、あるときは悲惨そのもの、あるときは恐怖に満たされている半面、同じ生でも表象としてだけとらえた場合は、すなわち純粋に鑑賞されたとき、あるいは芸術を通じて再現されたときは、苦痛に煩わされることなく、意義深い演劇を繰り広げてくれるという事情があるからにほかならない。このように世界を純粋に認識する側面を備え、かつそれをなんらかの芸術のなかに再現することは芸術家の本筋である。芸術家を魅了するのは、意志の客体化という芝居を見ることである。芸術家はこの芝居のかたわらにとどまり、飽くことなくこれをながめ、そして表現を通じてこれを繰り返すばかりではない。ときにはこの芝居を上演する費用を引き受けることもあろう。すなわち、芸術家自身が客体化し、常に苦悩のなかに停滞する意志そのものとなるだろう。芸術家にとっては、世界の本質を純粋に、真実に、しかも深く認識することだけが目的そのものなのである。芸術家は、その目的のかたわらにとどまることになる。そのために、芸術家は、後に示すような諦念に達した聖者の境地である意志の鎮静には至らない。芸術家はけっして解脱することなく、ただ一瞬間生から解き放されるだけである。それも、生から脱却する道を見出したからではなく、生のなかにもときたま慰めを見出すことができるということである。そうはいっても、慰めを生から得て、しだいに力を得た芸術家が、ついに、たわむれるように仕事をすることに飽き、きびしさをとらえることもある。こうした過程の象徴として、ラファエロの聖ツェチリエをながめることができる。
  歴史と文学について

〔…〕

 小説について

 小説は内面的生活を多く、これに比べて外面的生活を少なく書くにしたがって、ますます高級かつ気品のあるものとなる。またこの関係は、特徴的な目じるしとして、小説のすべての段階に、上はトリストラム・シャンディから下はきわめて粗雑で、アクションばかり多い騎士小説、盗賊小説に至るまであてはまる。トリストラム・シャンディには行為らしい行為がほとんどないといってもよいが、『新エロイーズ』や『ヴィルヘルム・マイスター』にも行為はきわめて少ないではないか! 『ドン・キホーテ』のなかでも行為は比較的少ないが、あるといっても、全く重要でない諧謔かいぎゃくめいたアクションばかりだ。この四つの小説がこのジャンルでは王冠である。さらに、ジャン・パウルの驚くべき小説を観察し、きわめて狭い外面的基礎の上に、非常に多くの内面的生活が繰り広げられているありさまを見てもらいたい。ウォルター・スコットの小説でさえも、内面的生活のほうが外面的生活よりも重要な地位を占めており、外面的生活が描かれているにしても、これは常に内面的生活を展開するための意図から出ているものである。一方くだらない小説では、外面的生活がそれ自身のために存在している。そもそも芸術は、外面的生活についてはできるだけ少量の消費をもってして、内面的生活をできるだけ強力に展開するところに意義がある。なぜなら内面的生活こそ、われわれの知性の本来の対象だからである。小説家の課題は大きなできごとを物語ることでなく、小さなできごとを興味深くさせることである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?