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Das Wohltemperirte Clavierについて――リヒテル、グールド、アファナシェフ-2


2003年04月13日(日)~04月14日(月)

第10番:
prel&fuga

アファナシェフのこのprelの演奏は非常に密度が濃い。
これに関してはグールドもリヒテルもすばらしいが、アファナシェフの演奏は、彼自身の第2巻の演奏の中でも最も充実しているもののひとつであろう。

prelとfuga、ともに古典的・理知的な造型と厳しい弁証法の構築性に支えられてはいるが、内面的には持続する緊張感とかなりの激烈さを伴った曲であり、その両義性はベートーヴェンをすでに予感させる。

バッハと彼との違いは、先日も述べたように、音の語り部として、発語する主体の位相の問題であり、情況対自己に於る、態勢の差異、自我の身の置き所のみ、といった所である。

グールドの演奏は、そんなバッハという主体の帯びる多義性のなかで、やはりかならず第一にその音楽的生命を尊重する。つまり生きた音の運動体としての(宇宙秩序とも遺伝子情報ともおぼしきほどの‘精緻な構造’によって支えられ、不断に生き返り生き延びる生命体の、)生命力と、その自発性の勢力――律動の必然性――の貫徹、といった側面を如実に、完璧に表現する。それは2声インヴェンション風prelから3声fugaにわたって一貫している。

彼の演奏の特徴である、こうした必然性の強靱さ、圧倒的な説得力、また生命体としての完全無欠さは、曲のもつ内面的な烈しさ、その凄絶さと、これのもつ意味――これらの依拠する所の精神性、また、もたらす意味――云々などということへの掘り下げを、殆どもう聞き手に要求させないのである。


この前奏曲のクーラント的様式美と、内省的響きを湛えながらも翌fugaの厳しさ・激烈さを予感させる緊張感をも表現するのはリヒテルである。高度な緊張感と同時に典雅さをも帯びためくるめく第1声部と、時どきにスタカートの跳躍的な効果をもたらしつつも、これを追いかける第2声部。

彼のprelの響きは、たしかにこのprelの持つこういった様式美にも相応しげの、やや内省的な余韻を帯びてはいるが、タッチと表現は時として突き刺すように鋭く、その魂の行く手としてある同fugaの世界を意識した緊張感にみちている。

そしてfugaの演奏に突入するや、この世界が第15、20番fugaなどを予告するバッハの中でも特別な、しかしバッハ自身にとってもその後の音楽史への影響力にとっても、極めて本質的な、相克と尊厳にみちた世界のはじまりであり、表徴的存在であることをひたすら痛感させる。

アファナシェフの演奏は、最も均斉がとれている。
その均斉とは何か。たんにバッハ音楽の構造的要素の均衡と秩序の力学関係の忠実な再現、などというものではあるまい。

彼の演奏はかなり端正で、厳しく様式美的な側面をも表現してはいるが、同時に高度な、厚みを帯びた緊張感を保持し、打鍵も鋭くかつ‘深い’ことが、非常に効果的にこの曲のもつ激烈な精神性の「層」をも表現している。
同時にここにある主題の展開の近代的な自発性・自由さ、時にはえもいわれぬ典雅さ――バッハのこうした側面とはいったい何であるか。意識の暗い淵を告発する際にも垣間見える、否持続しうるこうした冷徹なる崇高さ…(22~24小節、そして長調と化す25~40小節の昇華作用)――を表現することにも、成功している。

prelにも見られる*激烈さと冷徹さの同居;暗部と典雅さの同居。
*…prel 展開部?)第39~70小節:この辺りの音楽的展開にみられるバッハの摩訶不思議な崇高さには、特筆すべきものがある。

この辺りは、prelにせよfugaにせよ、リヒテルでもやはり非常によく表現されているが、リヒテルの場合、烈しさそのものが、<同時に>冷徹さを内包するものであるという意味性よりは、激烈さのさなかに聖なる声を聞く、というようなニュアンスに近いものがあるかも知れぬ。


2003年04月15日 (火)

第11番:
prel
前奏曲にはめずらしく、たなびく雲のごときたおやかな進行は、なんと5声部によっている。

が、リヒテルの演奏ではその、特に和音として顕われる5声体の厚みといったものの表現は、極力避けられ、天を泳ぎそよぐ羽衣のような無重量感のほうを、2本の主な織り糸の絡みとして優先させ、この織地を時折絞める5本糸の精緻な重なりを、極力目立たせぬよう注意を払っているように思える。
勿論タイによって前音からつなげられた音もその5糸の一部に含まれており、こうした無言の音も含有した縦重なりの関係を、まるでビーズ細工の連鎖のようにあらためて音として打ち直し、つぶさに強調するグールドと、リヒテルの奏法とはおのづから対照的なものがある。

グールドの演奏は、バッハの長調に特有の天上的な音の織地というよりは、むしろ闊達な遺伝子情報さながらの神秘的かつ地上的躍動感に満ち、その性質をそのままfugaの、生命の軽快な清浄感にみちた世界につなげている。

アファナシェフには、ここに於てもよい意味での中庸があり、この辺り彼の演奏は非常に充実している。
アファナシェフの主体2声と和音5声との均斉の取り方は、宙空を舞う羽衣の織り地というよりはむしろ神殿の彫刻装飾のように硬質・静質*なものであり、襞の多いレリーフの動勢のような質感をなしている。一定の量塊性を帯びた質感と、現実空間――彫る、またつぶさに視、追従するetc.といった時間性を抱する営為の含蓄――を感じさせるといえる。

*…グールドのように運動の中に入り込み、みづからも刻々と運動を生み出す、という性質でない

2003年04月16日 (水)

第11番:
fuga

第2巻の長調fugaの中でも最も無邪気な遊戯性を帯びた曲のひとつである。がリヒテルで聞く場合、ここには最高度に無碍な宗教性が湛えられている。
何らかの教義に偏らない、芸術の位相に於る真に「宗教的」、とは、しばしば無碍であり、また自在さである。
ただリヒテルのはまだ内省性という大気圏の中に呼吸する無碍のようにも聞こえる。
ライプツィヒ時代のバッハ、第2巻のバッハとは、思索や反省、求道的自己というフィルターをも突破した、それ自身としてはもはや思考者の座には立たない自己*から、音楽が発されており、それが自発自展してゆくという特徴がある。
*…それは思考や思索性を含まないのではなく、悉くに反映されてはいるが、発語の主体としては地上性そのものに もはや全一的に即した次元にいるのである。

そうした面でリヒテルの「第2巻」の演奏、殊に長調に於る<無碍>の世界は、自我の膜を脱した自己の座の表現を欠いている面があるかも知れない。
がこの無窮動性の表現はどの演奏より清浄さを湛えており、この音楽そのものの持つ希有な気品を映現させているのも事実なのである。

拍子は6/16である。6/16ということは3/8である。
この曲の内在律には3拍子と2拍子が同時に伏在する。
・(16分音符×3)単位が2つ=2拍子、
・(8分音符単位)が3つ=3拍子*
という具合である。
*…後者は(16分音符×2)×3、に拠る

グールドは、この曲を急速な2拍子で割っている。
(勿論、性質上急速であればある程、2拍子として認識され易いといえる。)
この演奏から、譜面を追わない聴き手が2拍子と同居する3拍子をも引き出すのは、おそらく至難の業であろう。
がグールド自身が何よりこの無碍自在さのさなかに居り、勿論急速な刻々のテンポの中で冷徹に己の動きを見極めてはいるが、何よりこれを呼吸し戯れている。

アファナシェフをただ漠然と聞く時、何故このテンポなのか、また何故、一瞬の休止符ともつかぬ保留(溜め)の息遣いを所々に置くのか、訝られるかも知れない。が、よく聞くと彼はこの複層する内在律を刻み分けつつ小節毎によく統合させ、追認しつつ進行しているのである。
が、この曲に関して言えばそれが生きた律動性を阻んでいる、という程ではないし、曲自身の持つ遊戯性を消してもいない。むしろその止まりがちな呼吸を、スタカートの弾力とともに適度の舞踊性(パスピエ)に巧く還元していると言えなくもない。

2003年04月17日 (木)

第12番:
prel

fugaとともに3声体で、通常のバッハにみられる宗教的ロマンティシズムの情感とは幾らか異なった、より地上的哀愁を帯びた旋律線、ソナタ形式を思わせる繰り返しなど、すでにモーツァルト色の濃い作品である。
古典的な掛留音を無視する程その色彩は際だつ。

そうした近代的?情感は、リヒテルに於てもっとも表出されていると云える。とはいえリヒテルの場合、モーツァルト的短調の気分を可能な限り透明度の高い天上的な悲哀に保ってはいるのだけれども。
がこの種の純一な音楽を発する主体の位相は、もはや殆ど超越的であることに第一義の重きを置いてはおらず、所謂<自我>の位相、たんなる地上の人間であることをもあえて厭わないかとさえ想わされる。

が、グールドにとって、こうした情感は関係がなさそうである。彼はあくまでも音の躍動と3声部にわたる旋律線の上下降の螺旋的な相互追従の運動を突っ走っていく。典型的にモーツァルト型にも聞こえる1・2声部の動き――*5~9小節、17~21小節など――も、じつは未だ(16分音符×4)という定型による 1-5-3-5や3-5-1-5運動(例えばホトハトetc.)でなく、2~4拍目は1声部に属する16分音符×3の動きであるが、最初の音符のみ2声部、しかも8分音符指定である点*など、その1拍目をグールドは彼独特のスタカートによる跳躍力を持たせるなどしており、相変わらず律動性への厳密な追求がみられる。

*…1-3-5-3/5-3-1-3運動が所謂モーツァルト型(16分音符×4)の、ひとつの声部のみに任された平明な進行になるのは、38小節移行である。それ以前は
1声部目…(16分休符)+16分音符+16分音符+16分音符
2声部目…8分音符+(8分休符)
という2声部間の組合せである。
(尚35小節以降は、これと同じ事が2&3声部の間で行われる)

グールドはこの2つの型の違いをよく奏じわけている。

ゆったりと弾いていながらも、このprelが色々な意味で近代的であることを、かえって感じさせないのはアファナシェフの演奏である。
彼はこの音楽を、むしろ2巻の他の短調作品――最も典型的には16・20番fuga――に要求されるような精鋭打鍵を同様に要求する作品のように、扱っている。それら(16や20番)と同等か少なくともそれに準ずる鋭さで、当prelにも例の打鍵を用いているのである。
それは勿論全体的にではなく、ソナタ形式による<繰返し>の前半はレガトで優しく、後半は鋭く、という仕方である。いわばこの曲の持つ両面性――至純な悲哀を帯びた地上性とやや峻厳ですらある宗教性――を交互に引き出している恰好である。

たしかにそうした理解も、この曲には可能である。
アファナシェフはやや懐疑的に、時に挑発的・告発的にさえこの曲を扱っている。すなわち指定通りのmfというよりはpで忍び行く前半、また繰り返し後にやや峻く突き刺すようなとタッチのf~ffで行く後半、いずれにせよ人間の暗部をバッハを通して見透かしたような進行をみせる…。
これは典型的な半音階進行型の曲ではないが、彼の奏法がその色彩を強める作用を伴っているのである。が、おそらくそれは成功している。彼の演奏の懐疑性と告発性の側面が、かえってこの曲の帯びる近代的側面への傾注によって損なわれがちなバッハ的底深い宗教性と或る種の格調をすら確保しているのである。
アファナシェフの演奏は、時代的には前-近代のバッハが、それ以降の近代(の芽生え)を予告していながら、同時にこれを――その懐疑の深刻さと、語る主体の全一性の面で――内包しつつ超えてしまっている、か 少なくともすっかり見透していたということを、暗示する。
その姿勢はそのままfuga演奏へと導かれる。

2003年04月18日 (金)
第12番:
fuga

アファナシェフの12番prel~fugaに渡る演奏を契機に、このfugaの実存性や、不条理な暗部を透かすバッハの人間存在に対する視線、等々について考えながら、またスピード感溢れるグールドの演奏、深く内省的なリヒテルの演奏をも聞き直すと、やはりどんなテンポやアクサン、響きを通しても、バッハの人間を視る眼差しというものが何か一貫して感じられるように思われる。

その時私の頭にあるのは、単に聖書の中の意味深い物語(それが史実にせよ、神話にせよ)としてのペテロやユダのこと、“Herr, bin ich's?”と思わず問うた者たちのこと、十字架を背負い息絶え絶えにゴルゴダの丘へと登るイエスの心情と祈り、といった時空の限定された世界のことのみではない…。

こういう音楽を聞いて時折悩まされるのは、バッハがそもそも宗教の外はおろか、キリスト教の外、あの時期のルッター派らの教義や聖書の教えの枠の外に、出たことのない人間である(?!)ということへの、根本的疑問に迄、およそ考えが至ってしまうことだ。
懐疑主義、破壊主義(戦争・“テロリズム”)、ニヒリズム(それと通じるところある相対主義、不可知論的思考と感情)、またこれらとは別に、*科学的(天文学、物理学、生物学etc.諸々)なものの見方、或いはたんに“ニュートラルに”ものを見つめようとする人々の姿勢etcetc...ひいては、無神論等々…、、、

(*科学的なものの見方…本来、こうした科学的スタンスというものが宗教の枠の「外」に置かれたと言うこと自身、、人間の思考の進展にとって、また何より宗教自身にとって自殺行為であり、おそらく真の宗教「性」の確立にもとるものであった。が事実として当時~近・現代の、いわゆる「宗教」と言われるものの歩みとは、そのようなものであった。)

バッハは一体あれらの音楽を、こうした彼の時代以後の近~現代への我われの歩みといったものを予め知っていたかのようなスタンスで創り出した、否、ともに体験した人間として創造したかのようにすら、思われはじめるということである。

ともするとバッハの中にはニヒリズムすれすれや*無神論により近しいものすらあったのではないか――
(*…原罪・贖罪etc.の発想の無効性、また、広く世界と自己、主体と超越との関係に於て<人格>神の存在や観念を通すことを拒否する、禅などの他宗教の可能性、そして科学的精神etc...つまりキリスト教にとっての他者性を含め、宗教の存在そのものをも相対化しうる視座である)――とも思わせる程、バッハの暗部を見つめる眼というものは透徹しており、同時に底深い慈恵に充ちている。スケールの巨きなものである…。

それでいて尚かつそれらを何らかの形で克服・超脱したかのような浄福感、清澄さ、生産性――生の本源的な律動性・*弁証法的対話構築性etc.――そうしたものを、現代に生きるものとして感じてしまうのである。

(*…ここでいう弁証法的とは――私の場合いつもそうだが――、形而上学史上の狭義な意味に於るそれではない。むしろ実存主義と現象学以降のポストモダニズム的な意味での不可知論的相対主義をも相対化=「脱」する<構築>的運動性を、意味するものとして‘真に弁証法的’なものをとらえる。)

勿論、バッハに関する諸々の資料によれば、少なくとも日常の生活に於て、また言語の次元に於て、自覚的にそうした教義なり宗教の枠の外へ出る探究をするなり、思索をしていたという推測は、今のところ出来ない。彼はやはり敬虔であった。

が、彼の生み出した音楽そのものはどうなのだろうか。その‘合理’性・真正さ・また構築性は、或る文化圏内に生きていた、○○教徒としての彼、また生活者としての彼の自覚的・意識的レベルとスケールを超えて居たのではないだろうか…。
所謂言語と、音楽言語との差異等々ということにさえ、考えが及んでしまう。

私は、バッハの音楽を宗教から切り離すことには賛成していない。が、そこで言う 宗教 とか 宗教性 といったものを、彼自身の居た時代と空間、亦彼の自覚下という極めて狭い枠の中のそれとしてのみ捉えすぎるのにも、やはり賛成できないのである。
彼と、彼の創造したものとの間に有りうる乖離を、その範囲を、私たちは一体どう捉えるべきなのであろうか。

が少なくとも、こういう事は云えるであろう。
バッハの音楽が宗教と出会っていたことは音楽そのものの浄化のために有意義だった。が宗教にとっても、バッハの音楽と出会ったことはその純正さと意義の拡がりのために幸運だったに違いない。
バッハの宗教「性」、またバッハの「音楽」のもつリアリティとは、そういう究極的種類のものである。

Soli Deo Gloria(ただ神にのみ栄光あれ)

こうバッハが言う時、彼が曲を通して語りえたその「神」とは――神と“言われる処のもの”、その教説と時空を超えた通底力とは――、まさしくそうした次元のものである。


Afanassiev's Bach―― Gould,Richter,&Afanassiev (平均律クラヴィア)


2003年04月20日 (日)

第13番:
prel

バッハに於る「フランス風」はしばしば極上のうつくしさに輝く。ミサ曲ロ短調などもそうであろう。

このprelの美質は、弾いていても、また誰のを聞いていても、無限に心地よいものがある。世俗のいやな事どもを忘れさせる。
昔何かの資料で、バッハもずいぶんとケンカ早かったと読んだ記憶があるが、そうした憤怒を何度となく、己自身の淀みなく澄明な作品、その創造行為の中で、癒しまた浄化させえたに違いない。

先日、バッハがキリスト教の枠外に出たことがないとは思えぬ程、彼の作品は透徹したナチュラルな精神と超越作用があると記したが、ひょっとすると彼の作品に見出せる、底知れぬ程の実存性の深さ、人間の暗部に対する眼差しが<養われた>大きな要因となったものには、彼の日常に於る‘人間同士’のやりとりがあったであろうとは推測される。
たとえ信仰を持つ者の間でも、何かと憂慮すべき、また唾棄すべき確執があったに違いない。
バッハも、同じ信仰の下にある者、同じ神に仕える者、その役職と立場に居るはずの者達との間で、実存者としてはずいぶんと不本意な思いをしたことだろう。神に仕え、神「について語る」人間たちの間ですら起こる確執…。(まぁ、それはたとえ信仰の外に出たところで――無神論について語ろうが革命について語ろうが、芸術について語ろうが学問について語ろうが、――畢竟どんな高尚な?またどんな絶対的で唯一無二で真実なるものに就て語る世界に於ても、結局のところ起こりうる問題のようではあるが。また、こうしたものばかりでなく、ごくごく些末な次元の事柄についても人生の上ではさまざまな衝突があったであろう。)

そうした体験が、かえって人間そのものを見つめる明徹な眼差しをバッハに否応なく養わせたのに違いない。そして彼はますます神「をあがめ」神「について語る」<者たち>にではなく、ただ神のみに栄光あれという信条を、音楽として形象化することに徹し、またその作品の真正さを高めていったのであろうと思われる…。

グールドの演奏は非常に心地よい。彼は大きく分けて3つの音型を非常に的確に描いている。

a)付点8分音符+(32分音符×3)連音符+*付点8分音符+16分音符(または休符)×2の型。
 ※これに準ずる、付点8分音符+32分音符×2+(付点8分音符+16分音符)×2 も含む

b)(付点8分音符+16分音符)×3

c)(16分音符×4)×3

但:※印はa)の準と捉えることもできるしb)の準と捉えることもできる。両者の複合と捉えてもよいかも知れない。

とはいえグールドは時折8分音符を16分で処理したり、逆に16分音符を8分に延ばしたりする。このprelでも第一小節目の最後の音符(16分)を、手前の16分休符の分と合わせて8分音符として処理している。が8分音符の長さとしては全く的確なので、それでもよいかという気分になる…(笑)

リヒテルはリトルネロ風なものを得意とするようである。
殊に前小節最後尾から3小節のb)型に架けられたスラーのフレージング、c)型に相当する4~5小節、2小節間にわたるスラーのフレージングは至極なめらかである。がそのなめらかさの中に、上記各型の付点の効果が及ぼす‘推進力’をも、もっとも天然自然な形で生じさせる。

彼の楽譜は――私のはグールドやアファナシェフのと同様そうなっていないが――上でいうa)型の相当する1小節の、*(2度目)付点8分音符に前打音をつけている。この効果は美しく、序曲風な開始に清冽な華を添えている。(15小節に、同様の前打音形式が再現する。これは多分どの楽譜でもそうであろう。また44小節にも前打音)

アファナシェフの演奏は、やはりどちらかというと硬質である。当prelより一層なでやかな第11番prel&fugaに於てさえ、すでにそうであって、彫像装飾のような一定の量塊性を帯びていた。がそうした姿勢はfugaの捉え方とともに一貫しており、彼の中では必然的なつながりを保っているのである。
限りなくすべらかでなめらかで軽快etc.といった風ではないが、バッハの短調に見られる透徹した暗部への視線と対応するような浄化作用を、一定の形式美の中にも感受することが出来る気がする。バッハの深刻さの側面を――これと不離一体であるが――浄化さすような構築美の典雅さがそのスタティクなタッチの中にはあり、それはガヴォットの闊達な自在さの中に構築的-立体的な精神を見出すfugaへとひきつがれる。

2003年04月21日 (月)

第13番:
fuga

このfugaには、マタイに近い要素がある…。

先週、受難節で鈴木雅明氏率いるBCJのマタイ演奏が公演されていたが、この折にちなんでCS放送で氏の一昨年の名演が流れており、この演奏に耳を傾けながら、改めて宗教音楽とかバッハの音楽に就て考えてみる機会に恵まれた。そうした事が自ずと関係して聞こえるのか、或いはアファナシェフの奏法が、余計にそうした素因のみを耳につきやすくさせるのか...等々考えもしたが、改めて聞きなおすと、この曲そのものも、マタイの幾つかの部分に通じる性質を帯びているように、思う。

勿論、平均律の他の曲、また平均律以外のバッハの作品にもマタイの何れかに通ずるエッセンス、近似した曲想などがあるかどうか等も、何れ考える余地がある。
が一応、今気がついた時点で記しておきたい。

省みれば当fugaのみならず、それはprelから当てはまるようで、このprelに最も近いもののひとつは――長/短調の別を無視するなら――アルトアリア61('Konnen Tranen meiner Wangen nichts erlangen')と思われる。

また<装飾>を控えめにした、謂わばこの前奏曲の短調としての前身を、マタイのソプラノ&アルト33アリアに見ることが可能かも知れない(:Duet='So ist mein Jesus nun gefangen' この、唱部分よりはむしろ前奏部分に似ている(唱部分では冒頭よりMond und Lichts ist vor Schmerzen~の部分に似ている)

またリズムの特徴をもう少しなめらかなものに変換すれば、バスアリア51(‘Gebt mir meinen Jesum wieder')などにも通じる。

fugaも、装飾音符を悉く外せば、旋律線そのものはエヴァンゲリストの何気ない幾つかのフレーズなどにも通じる。
――例えば、(27)Evangelist=‘Und ging hin ein we-nig,fiel nieder auf sein An-gesicht,und be-te-te,und sprach'(殊に後半und be-te-te,und sprachの旋律線の、半音階を細かく脱-着する動き)
(67)Evangelist=‘Und da sie an die Stat-te ka-men,mit Na-men Gol-gatha'
バスの75アリア(‘Mache dich,mein herze,rein’…但:この3/4を4/4に還元する)など。

合唱の部分では、‘群衆'の役割を担うコーラス部分の多くが、このprelもしくはfugaに近い空気感を持つように聞こえるが、何と言っても67Evangelistの朗詠から導かれるコーラス部分、'Der du den Tempel Gottes~Andern hater gehorfen ist er der Konig Israels,“so stei-ge”_er nun vom Kreuz...'の旋律線が、4~5小節;8~9小節などを筆頭に何度となく繰り返される5-↓7-↓7-↓6音型(例えばトロロイ)などを聞くと、その変奏パターンとして彷彿する。最も近しい部分はこの後のso wollen wir ihm glauben, Er hat Gott ver-trau-et,der er-loseihn nun...である。が、この合唱全体のもつ、調としても可変的、また長~短調への中間色的な気分が非常に似たニュアンスを醸す。

最終曲76Chorusなども、同一根の変奏曲にまとめられそうな気もしてくる…。(※これはprelにとってもfugaにとっても親類関係にある)

同様にfugaも、14番コーラス ‘Wo willst du…das Osterlamm’や、あの不思議なアルトレシタチヴォ‘Ach Golgatha...’に――ここに特徴的な半音階性をやや減じた場合の旋律線として――、非常に近い性質を帯びている。

導音からの開始など、意外性を持ち合わせたfugaではあるが、案外おおもとはコラール16‘Ich bin's ich sollte bussen'(賛美歌41=‘O Welt,Ich Muss':1536)
辺りの路線から生じた主題ではないか、などとも思えてくる。

※もしくは以下らとの混合
31‘Was mein Gott will das _ g'scheh all zeit'
48‘Bin ich gleich von dir gewichen'
(これらのコラールは殆ど同根と見ることも可能のように思う)

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番外:
例えば、これはおそらくマタイに限らずバッハのどんなカンタータの中にも出てきそうな、ごくごく何気ない一節であるが、
(22)Evangelist=‘Petrus aber antwortete,und sprach zu ihm’
これなども、じつに色々な楽曲へと応用できるエッセンスを持っているように思える。
当prelとfuga両主題にも応用が可能である。他の色々な楽曲にも変化が可能であろう。
これを当prelの開始のように3連音符含みのファンファレ形式をとる別の旋律にするとシューマン交響的エチュドの一節(第14曲Etude8)になる。
シューマンのこの交響的楽曲は、所々ベートーヴェン的ダイナミズムをも帯びているが、原基的には音の飛びかたなどやはり意外にバッハ-コラール風である。

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がこうしてみると、やはり当prelとfugaの間には、表面上から思う以上に濃密な関係があるのかも知れない


2003年04月22日 (火)
12番:
fuga

何か重要なものを未だ忘れているような気がした…
このprelとfugaの、高い声部の動きに対する低い声部(第3)の動きである。。この関係性。

おそらくこれと思う、バスアリア(66=Komm, susses Kreuz)の、バスの主旋律と、ダガンバによる伴奏部分の呼応。この関係は類似している。

prelで言うと、勿論、66番アリアはガンバのぎくしゃくとした特質に合わせたように付点が施されており、――3/4と4/4の差異はあるけれども――他方一昨日触れたb)型でも同様の付点がある。
またアリア5小節目の32分音符×8型は、prel-c)型を連想(3/4なので16分音符×3となるが)させ、アリア6小節などの3連音符はprel3連音符=a)型を想起させる。

fugaにも似ている。この典雅で平明なfugaの進行に、付点で振幅をあたえればよいのである(3~4小節,7~8小節)。やはり同根な変奏曲の関係になるといえる。
バッハには互いにこうした関係を結べるテーマなり主題の展開法がたしかに多いとは思うのだが、マタイの中でなされるこうした連音符やトリールの格調を与えつつも惹起や導音による変則的開始をとるパターン、また長~短調をいぶかしげに行き来する可塑的領域部分などのニュアンスが、こうしたことを想起させるのである。

2003年04月23日 (水)
第13番:
prel&fuga
バッハは平均律第1巻を1722年に完成させた。
その後第2巻との間には20年もの隔たりがあると言われる。
幾つかの資料によると、バッハはマタイ受難曲の楽譜を1729年に仕上げ31年に出版されている。自筆総譜は51歳になって仕上げたりもしていたそうだが、学生時代に使用していた、私の手元のマタイ譜にはやはりComposed in 1729とある。ライプツィヒ時代初期に属する。つまりバッハはライプツィヒ時代のはじまりを、ヨハネ受難曲とともにこの壮大な宗教音楽に、費やしていたのだ。それ以後彼は教会音楽への熱意を失ったとする資料もあり、世俗カンタータの作曲へと傾倒(ライプツィヒ第2期)、そののち再びケーテン時代をも思わせる鍵盤音楽作曲期が再来する(35年~)。平均律2巻もこの時期で、それは6曲パルティータ、イタリア協奏曲、フランス組曲、オルガンミサ、ゴルトベルグ、などと続々と鍵盤音楽が作曲された時でもある。

とはいえ平均律第2巻がひとつに纏められるその時の幅はかなり広範、かつ成立年代が作品によりまちまちで、基になった主題そのものに関して言えば、24曲作品の中には第1巻(ケーテン)時代かそれ以前に既に記されていたものさえ幾つかある――ただし、原型はこうした時期のものであっても、その処理と拡大等はライプツィヒ時代の熟達した手による為、重厚なものに発展させられるのであるが――とされる。
調べてみると一部の資料では、この13番嬰ヘ長調prel&fugaは、その様式的特徴からあきらかにライプツィヒ時代に手がけられたろうとは、分析されている(バロック協奏曲と同系列の様式的特徴)。
その上で、この13番は――バッハのfugaの手法と形式というのは、元来極めて多彩ではあるが――かなり自由な書法によるとするものが多い。
(それというのもfugaの主題も導音から開始し、しかもトリール付きである。)

が、察するに同じライプツィヒ時代とはいえ、その初期に纏められたマタイ受難曲よりは、何れにせよずいぶん後に手稿されたとは、思われる。

昨日までに触れなかったマタイのある一節に、私には随分と自由な楽想に、思われるものがある。

それは51曲ユダの自殺のシーンで、バスアリアがト長調で<われに返せ わがイエズをば>を唱う箇所である。裏切り者に対し、バッハは意外な程明るく、肯うように抛擲的な、書法を用いていると思えてならない。それは罪を犯した存在の悔恨を次の時代へと解き放つような楽想である。
この効果の担い手は、バス独唱の旋律以上に前奏及び伴奏のヴァイオリンの動きにある。

このvn前奏部の動き。実はこの主題は総てを通してprelの音型に近い(調性も近いので余計に判りやすい)。
が、これを敢えて、前半=第1~4小節まで、中盤=第5~6小節、後半=第7~12小節と分けると、
前半及後半は、(導音をはぶいた)13番fugaの線に呼応する(尚、短調にすればほぼ2巻最終=第24曲fugaの旋律線の動きにも、呼応する。)

また中盤は特に13番prel(上下降の対称で特徴的な32分音符が見出せる)により近い。が、fugaと呼応しないでもない。
fugaは、このユダのフレーズに特徴的な細かな32分音符の音列を、8分に引き延ばしより平明にすると、3~4小節(ハロハニホヘトホ)の線に近づく――当然、同型線が7~8小節など後に、何度も繰り返される――。
勿論、線の動きはユダのシーンのほうが解放的・上昇的、prelやfugaのほうはより下降的乃至構築的(格調優先)である。

後半の、7小節=16分音符;ロニトニロニロニ/ロホトホハホロホ...の線は、prelでは同じ16分音符;ロニトイ/ロトニロ/トロイト(但:#省く)と3拍子で刻まれる。
これらを通し、すくなくとも変奏曲の同根関係程度には近いと云える気がする。

他にも、昨日も書いたものと重なるが、これは自分自身唱った経験からも思うのだが――非常に厳しい緊張感の持続を要求されるものの、曲想そのものとしてはかなり<自由な>感覚を抱かせる合唱部分が幾つもある。コラールを除いた殆ど総ての合唱部分(群衆の叫びが多いのだが)にそれは当てはまる気がする。旋律の線が唱いにくいほど自在に動き、ときには意表をつく程古典音楽の形式などというものを感じさせない躍動的なものに思われた。
(こうしてささやかな日記を記して来て思うに、形式の確立者でもあると同時に自ら形式を脱する者でもあったであろうというのは、ベートーヴェンと同様、私のバッハ観になってきているのだが)。
コラール以外の合唱部分は次のようなものである。

7=Wozu dienet dieser Unrat,Wozu Wozu...

14=Wo,Wo,Wo willst du, dass wir dir bereiten das Osterlamm...

43=Weis-sa-ge, uns, Christe, werists, der dich schlug...

49=Was ge het uns das an...

59=Lass ihn Kreuzigen

*59=Sein Blut kom-me uber uns und unsre Kinder, und uns unsre Kinder...

62=Ge-gru-sset,Ge-gru-sset_seist_du,ge gru-sset_seist du,Juden-Konig!

67=Der du den Tempel Gottes zer brichst,und bau---est ihn in drei-en Ta-gen,hilf_ihn in drei-en Ta-gen,hilf_dir sel-ber.Bist du Got---tes Sohn,so steig_her-ab vom Kreuz.

~Andern hater gehorfen ist er der Konig Israels,“so stei-ge”_er nun vom Kreuz...'
so wollen wir ihm glauben, Er hat Gott ver-trau-et,der er-lose ihn nun,lu-stet's ihn ;denn er hat ge-sagt ich bin Gottes Sohn'

71=Der ru-fet den Elias.

73=Wahrich,die-ser ist Got-tes Sohn_ge-we-sen.

*76=Herr,wir haben ge-dacht, dass die--ser Ver-fuhrer sprach,da er noch le-be-te:
Ich will nach drei-en ta-gen wie-der auf erste-hen ...
Auf da sa nicht seine Junger Kommen...denn der er-- ste.
などである。(以上第1合唱のみ)

これらの多くは実のところ、シーンとしては非常に凄絶な罵りの箇所(73迄。73が扇の要、怒号から懺悔と信仰への転換点になる)であるのだが、激情に任せるにはあまりの緊張感の持続を要求される傍ら、謂わば存在の根幹から、不思議な程フリーな放擲的感情がほとばしるのである。まして<罵り>~げに神の子なりき=73以後の、或る程度長い一節=76では、浄化されるように解放的な高揚感と音の運動の中でこそ味わう、えも云われぬ自由さがある。

私が合唱の一部にいて,とくに解き放たれるような快感を味わったのは
57:Sein Blut kom-me(殊に24~33小節辺り)、と昨日触れた67と、77――それは同時に最も唱い難い箇所、でもあるのだが――、
やはり何と言っても77の解き放たれた感覚は先に触れたユダのバスアリアに近いものがある。

バッハは、正義を描くために悪人は悪人として処理するというのでなく、逆に或る時点まではイエスを否定する‘群衆’の 罵りの一節さえ、このようにそれ相応のリアリティ…否、というよりは寧ろこの立場に置かれていた者たちが<あの時>持ったであろう精一杯の実存性と、そのリアリティをこそ、もり込み、表現させたのであろう。それがその後の‘群衆’の実存の転換性にも存分に生きてくるのである...

少なくとも唱い手にとって、これらの一節の音楽の破格の自由さ、また自発性は、そのような種類のものである。
こうした一連の合唱の叫びの中にある、高度な緊張感の持続の快感、とともに意表をつく音の飛びかた、調性と長・短調の間をたゆたう変幻自在さ、それらのもたらすfreeな高揚感は忘れがたい。

これらの殆どどれをとっても、13番fugaの音の運動が持つ特有の自由さと何か底深いところで共通するものを聞く気がする…
一見これといった付点や装飾音符も連音符もない平明さの中に‘漂う’つねに脱-定型、脱-形式的な動きが、こうしたマタイの旋律線の醸す自由な、時には唐突な躍動、或いはまたいぶかしい大気、といったものに、似た要素を持つと感じざるを得ないのである…。

2003年04月24日 (木)
第14番:
prel&fuga

リヒテルはこの静謐な嬰ヘ短調を、悠久の時間の流れともおぼしき大河の流れのように坦々と弾いている。ここに於ても、preとfugaの間にある関係性が意識される。
どちらも人声によって長いアリアのように奏されるのが相応しい気がするような、主題の旋律線の長さであり、その神の息のごとく長大な音楽性、また或る種の無常観は、にべなく確かなスタカートで逐一を存立させられるようなグールドの奏法――時にはトリールすら用いながら単刀直入な打鍵を貫いていく――を通しても、変わることがない。
尤も、prelに関して云えば、グールドにしては――打鍵は単刀直入なものの――かなりゆったりした感覚にはなる。

ともするとその内省性は、第一巻24番短調fugaの世界を――開始も同音型――彷彿させもするが、音楽的処理はむしろ3voci.3重fugaであって、フーガの技法の中の3重fugaをすら同時に想起させる精巧さである。
1】冒頭に生じる第一主題(1~3小節;以下同型がつづく)。
及び、巧妙な*媒介地帯となる11~20小節。

*…これに関して
a)11~12小節の第1声部、
b)13~14小節の第2声部、
c)14~15小節の1声部、
d)特に重要な16~20小節の3声部。

2】これらのうち、( a 及び d ;殊に d )を契機に生じる第二主題(21小節~)。

3】以後両主題が対位的進行をみせつつ第三主題(36小節~第2声部;37小節~第1声部;38小節~第3声部、と1小節間隔にずれつつ、遁走する。)

この第三主題出現時、同時に先程媒介地帯であったもの( b & c 部分=8分音符×4音型)が再び、今度は8分音符×2×2音型で、2声部によるこの1・2両主題の進行とともに現れる。この媒介地帯は、第3主題の契機を(縮小形の変容形を与える)担っていると思われる。

さてアファナシェフの演奏であるが、テンポ、タッチ、響き、ニュアンス(理解・表現)、すべての面で聞く者に適正感を与えるのではないだろうか。
レガトという風でもなくノンレガトという風でもなく、音の延びが非常に適当であると思われる。
諸声部の構造も如実に分かるが、それを殊更強調するという風でもない。
fugaに関してグールドは速く弾き、リヒテルはゆっくりしている(彼らの奏法であればそれが相応のテンポであるが)。この曲そのものの持つ質からすると、私にはアファナシェフのがこの場合最も適っているという風に思える。
(私のテンポ感覚では、アファナシェフのテンポ~アファナシェフとリヒテルの間のテンポが範囲と思われる)

2003年04月25日 (金)
第15番:
prel&fuga

まるで第一巻に登場するようなprelである。
戯れるように弾きやすい2声部でもあり、初心者でも手を着けやすく楽しい前奏曲であろう。
fugaも、分散和音が長い尾を引くようにばらけて出来たという様な楽しげなものであり、それがコーダで再びみるみるうちに分散和音に集結する、という具合の戯れもある。こうした快活な躍動感と遊戯性にみちた作品はグールドが急速かつ明確に処理するのを得意とする所でもあろう。

リヒテルはまるでリュートを弾くような微細なタッチで奏している。リヒテルの喜歓躍踊の無窮動性表現と弾力、その透明感の現出は、比類がない。

アファナシェフのこのfugaは、2巻全曲の中でももっとも優れたひとつなのではないだろうか。fugaというよりは前奏曲風でもあり、たしかにライプツィヒ期のバッハとしては単純な主題を扱うfugaではあるが、意外なほどゆっくりと、丹念なテンポを択っており、軽快さなどというものとは殆どかけ離れた流れを現出させているにも拘わらず、音楽そのものは非常に生き生きとしている。
それは躍動感というよりはむしろケーテン時代の貴重な再来ともいうべき種類の厳粛な典雅さの構築である。しかも第1巻のアファナシェフからは表現されていなかった理想的世界が現出している…。(テンポの急速を要求する作品に於て、敢えてリヒテル以上に緩いテンポで奏した場合、第1巻では必ずしも成功していなかったと思われる)

硬質なタッチと柔らかい響きの調和が醸す空気感は、透明度も高く、現代最先端の演奏家にしてはめずらしい程の適度な宗教性をも感じさせる。
こうした演奏を聞くと、このprel&fugaの存在は、次16番からいよいよ幕を開けるライプツィヒ期バッハの深遠峻厳なる世界の屹立を前に、ただずむことをゆるされた、静謐なオアシスのようにも感じられる。

2巻中盤のアファナシェフの演奏は、非常に充実しているといえる。

2003年05月07日(水)

第16番:
prel&fuga

いつかグルダがコンサートの際、電子オルガンでこの前奏曲とフーガを演奏したのをTVで見た覚えがある。パイプオルガンにこだわらぬという所がグルダらしいが、演奏は現代的ではありつつもかなり重厚なもので、グルダのバッハに対する敬意が偲ばれた。グルダはピアノによる平均律録音の際にもオルガンタッチを彷彿させるような奏法をしているように思われる。そのピアノ録音でも、この演奏はバッハの楔打鍵の楽想の本質を射当てた演奏であった。
オルガンのような楽器でも、またオルガンを彷彿するピアノ演奏に於ても、楔打鍵の峻厳なる本質のようなものは如実に現されている上に、作品の荘厳さというものも表現されるものなのである...

リヒテルによる当prel&fugaの演奏はすばらしい。
一部の穏やかさ(prel・fugaともに曲の終わりが弱音になるのである)を除けば、私自身が巧みな表現者でありえた場合この曲に対して望むのと、殆ど全く同じ表現であるとさえ言えそうである。
その演奏は鋭く深く、バッハのこの時期の充実した峻厳さ――激烈さと冷徹さとが同一の自己の内部に顕現する…それはひとりの怒り、告発し、表明する個としての自己と、それを宇宙のように無限大の視座から俯瞰する包摂的主体との不即不離であり、空と実との一体である――がよく表されている。
第一巻の時代に於て内省的、不条理を携えられた自我の無常観としてあったものは、第二巻では殆ど壮観な自己表明、或る種の告発にも近いものとなっている(それは逆説めくが、悟達の境地がいよいよ真正になって来た証ともいえるかもしれないのであるが)。
そういう側面を引き出すのに、曲の終わりまで強く深い楔打鍵を貫くことが必要になるのでないかと思われるのだが、リヒテルはそうはしていない。

グールドには深刻さはない。
prelもLargo指定とsempre legatoを彼にしてはよく守っており、めずらしい程ゆったりと演奏してもいる。fugaに於てもゆったりとした厳粛さを以て演奏に望んでいる。勿論彼らしいスタカートによる跳躍性は所々に顔を出すが、意外にねばりづよい、オルガンタッチを想わせる打鍵の息の長さも効果的に聞かせている。
がprelに関していえば、彼は装飾音符、モルデントを多様している(前打音、複前打音と聞こえる物、逆ターンも含む)。
勿論この曲想そのものに、付点リズムと装飾音符が支配的の側面はある。が、グールドの場合、殊に開始には頻出する。
それがグールドの用いている譜通りなのか、彼自身の遊戯性から生じる所なのか分からない。が開始早々の2小節にはごくごく頻繁であるのに、その後にはその規則性からして当然再来しそうなモルデント箇所にそれが顔を出さなくなるので、やや気まぐれにも思われる?。
何れにせよそのリズミカルな効果が、この曲の同時にもつ、殊に同音連打に於て如実に露わになる自我の告発性や憤怒――それは勿論ベートーヴェンの到来を予告する――といったものの質を、それ程深刻なものには感じさせない。

がfugaではさすがに重厚感の中にある精神的な重さ、深淵といったものは、グールドの演奏を如何に純粋音楽の表明と捉えたところで、おのづから表現されざるを得ないようである。グールドの本来有する打鍵の深み・重厚感も、この曲の音楽的かつ精神的ポリフォニーというものを尊重することになっているといえる。


アファナシェフも、リヒテルと同様、prelに於てもfugaに於ても、曲の終わりを至極ゆったりとし、同時に打鍵をも弱めていくことにより終息感を表現している。その点に於ては、逆をやってほしかった、それにより曲の有つ驚異的な緊張感を持続を現出してほしかった(その面を最も表現しているのはグールドである)、というのが個人的な感想ではある。
が、グールドと同様、そのねばりづよい、オルガンタッチを想わせる打鍵の息の長さも、いつもながらバッハの音楽の特質を効果的に聞かせている。

だが最も驚くのは、アファナシェフの演奏を聞いていると、このprel&fugaがともにピアノの「ハンマー」の性質に実に相応しい音楽性を有していることに気付かされる点である。これは明らかに彼の時代の楽器の制約性を遙かに超えた‘音楽’の出現であるとともに、‘表現’のレベル、すなわち自我と精神という側面に於いても、ベートーヴェン的存在の十分な予告ですらあろう。
バッハ、特にライプツィヒ時代のこうしたバッハを聞くと、ベートーヴェンの出現は或る意味、黙約の成就であったとさえ思われてくる…。
アファナシェフの演奏――曲への姿勢、また適度な鋭さと深さ、長さを有するタッチは、たしかにバッハ音楽のそうした側面を、最も端的に表していると言えそうである。


2003年05月08日 (木)

第16番(つづき):
prel

きのう、16番fugaに典型的に見られる、この時期バッハ音楽の精神論、自己対世界、自我対超越論に殆ど終始してしまい、音楽上のことに触れられなかった点が幾つかあったので附記しておきたい。

ひとつはこのfugaがまぎれもなく精巧な音楽であって、二重対位法といえる点である。
とはいえこのことに敢えて触れざるを得ないのは、昨日記したあの自己内位相の不即不離、また世界に身を挺する主体としてのバッハの自覚、それと超越との関係に於けるあの 相即 ともあい通じると、想われるからである。

この曲の冷徹さを喚起するのは、実存の楔を連打し地に打ち込む主題や、対位句の16分音符進行による細やかな告発・鼓舞との3・5・7度複奏でかもす怜悧な凄絶さばかりではない。そうした告発する自我を支え、また俯瞰しつつも天へと力強く導くかのような、唐突な副主題?(17小節中盤~)の牽引力も大きく――これはちょうどマタイ冒頭の大合唱に於て時折突出する天使の声の如き第二合唱部の役割にも似ている。勿論、この曲のそれのほうがより厳格で構築的な性質である――、その相乗効果がこの曲の尊厳と緊張感を高めることに成功している。
とはいえこの複主題?自身、峻厳なる第一主題の開始の音型と、直前の16小節に登場する、対位句(16分音符×4)×3による 2121音型(ロイロイ/トヘトヘ/ホニホニ)との関係が、恐らく必然的に惹起するものでもある。

ところでこの曲は3/4であるが、バッハはわざわざ開始に四分休符を置いて、第2拍目を第1音にしている。そのことは、逆に言えばバッハが如何にあの象徴的な楔の<連打>――6つの同音(第4小節,第8小節,12小節etc...)に、曲の基準を置いているかを示すことに他ならないとは想うのだが、単純に音楽的進行として聞いている印象からすると、第一拍目に第一音を置いても、不思議と同じくらいぴったりとくる。
(というのは、むしろ連打の側に基準を置かず、第1&2主題そのもののもつ律動性をそのまま尊重したrythmeの数え方、アクサンの取り方をして聞いた場合であるが。)

実のところ、それはどの演奏家のを聞いても抱く印象である。
つまりこのfugaに於るバッハの生きた律動は矛盾する2種の律動のじつに精巧な掛け合わせから誕生しているのである。

2003年05月09日 (金)

第17番:
prel

リヒテルはこのリトルネロ形式を、ごくおだやかに、殆ど20番prelのパストラレと同等のたおやかさで弾いている。勿論曲の性質上、パストラレにしては闊達なものではあるが、リヒテルの奏法により現出されるこの世界は、いかにも典雅で軽快というよりは、むしろ悟達の境地にして表しうる、息の長い絶対不可侵の尊厳と無窮動の無碍な安らぎにみちた世界を、ごく淡々と示している、という風である。ベートーヴェン晩年のピアノソナタの長大なコーダの昇華性すら彷彿する。
前奏曲にしては、その主題の発展は、古典的な形式の上での巧みな無窮動の創出という域を超え、すでにロマン派の息のかかったかの如き自由な意志を持つ生き物のような自在さに充ちている。(同じ事が同fugaにも云える。)

グールドの演奏では殆どバッハと後期ベートーヴェンの差異さえあまり感じられない程である。
もっとも彼のベートーヴェン後期Pソナタの演奏そのものが、所謂バックハウスの様な意味でのベートーヴェン的な演奏でないので余計なのかも知れぬが。(グールドのベートーヴェン後期演奏録音は貴重なのだろうか、私は昔知人にカセットテープを借りて聞いた事がある程度で記憶に過ぎないが。もしかすると今は何らかの形で出回っているかも知れない)
いかに長調の、浄化性の高い前奏曲であろうとfugaであろうと変わらずに通底するバッハ後期の音楽性のうち、わけてもその主題の<動き>と、精密な対唱による<発展>の持つ‘緊張感の持続’という側面を、殆どじわじわと熱狂的なカタルシスを鼓舞しつつ、もっとも高度に感じさせるのが、グールドの特質である。

アファナシェフの場合、fugaばかりか、リトルネッロの前奏曲からしてすでにゆったりとしている。悠久世界がはじめから現出する。その打鍵には古典音楽に、またバッハの音楽につきもののビートがなく、内面的な出来事などに容赦のない着々たる進行などというものを感じさせる風でもない。
がそれは、緩慢な感じを与えるものではけしてない。10小節や、25~33小節、36~37小節、また殊に67~68小節などに顕著なアラルガンドやカランド、スモルツァンドともいうべき奏法を聞くと得心がいくが、彼は古典音楽としてこのprelを扱っているという感じがない。また、バッハの典型的な後期様式を、とかバッハを、弾いているという感じすら与えない程である。
その奏法は古典音楽とかベートーヴェン以降のロマン派音楽、などといった境域の差異を感じさせるものでないのである…。
それは、ちょうどグールドとは全く対照的な奏法に於ても、やはり感じさせられる所、ということであろう。

が、(であるからこそというべきか)そこには――逆説めくけれども――アファナシェフの、バッハというあまりに巨きな包括的主体とその創意に対する限りない敬意のようなものを感じるのである。

2003年05月10日 (土)

第17番:

fuga

リヒテルの平均律はロマンチックであると言われるらしい。たしかに真理の探究だとか精神性だとかいう言葉にもすぐさまアイロニカルに反応する程に不可知論に侵された現代では、大戦であまりの不条理を味わわされたリヒテルの魂の投影としての、第1巻に見出される底深い内省性と求道性さえもが、単なる自己耽溺的なものと混同されて憚らないのである。

現代は、神と神を語るものとをきちんと区別し、神にのみ栄光あれとした、またそうすることで己自身の尊厳をも保って行ったバッハとその音楽をば礼賛するにも拘わらず、自分たち自身は、この混迷する時代情況の中で、相変わらず正義(or真理)そのもの(もしくは正義や真理を探究するニュートラルな姿勢と良心そのもの)と、正義や真理を「語って」挫折したものたち(イデオロギー)との区別をずるずると怠ることによって、あの世界大戦やマルキシズムの第一次?退廃以後、正義と真理の「お題目を掲げること」にすっかり自信喪失したまま相変わらずニヒリズムに浸りつづけるあまり、例えばリヒテルのような演奏に典型的に見られる真面目な真理への求道性と省察性といったものをロマンチシズムや自己閉塞とみなして牽制・揶揄する姿勢をくずさない。

不運にも、そういう皮相な時代にあって、あえてリヒテルの演奏を尊く感じることを憚らない私ではあったが、ただしばしば第二巻の演奏に関して言えば、時折彼には第一巻と二巻との間に横たわる差異について充分自覚的であるだろうかと自問する時が、正直あった。

が、少なくともこの17prel&fugaに於て端的に示されているように、これほどに高貴で典雅な長調作品に於ても、やはり第1巻に於る孤高の「空」性としてあろうとしたバッハと、第2巻に於る世界に身を挺した悟達の「実」性に居るバッハの差異というものは、自ずから反映されていることに、あらためて驚嘆せざるを得ない。
逆に言えば、リヒテルの演奏に於ても、リヒテル自身は殆ど無くなり、ただひたすら後期バッハの音楽そのものが鳴っているといえるのである。

このfugaは、素材としてはケーテン時代の息吹がそのままに息づいている。この p(微弱音)開始に於る第2声部、及び第1声部のふたつの典雅な高音域が醸す或る種の絶対性は、ちょうどヘンデルメサイア終曲のアーメンコーラスの、合唱から合唱への間奏部に出現する弦のみによる、微弱な高音域のみで示唆される、力強い構築性に‘裏付けられた’絶対性にも、相通ずるところがある。

が、そうした主題の特徴にも拘わらずその対位句の多様なやりとりによる発展処理は、ケーテン時代のそれを越えた、遺伝子のように(グールド)また「地」と一体でありつつ拡がり行く宇宙のように(アファナシェフ)永遠で巧みな自発自展な運動さながらの、‘神秘的と同時に率直’な開示性と、その運動を展開せしむる地平の確かさの、或る種何ものにも侵し難い尊厳、といったものを印象づける。
微弱の高音域で始まる主題の展開は、中~低音域にへとじつに広範にまたがるが、主題の提示とともにすぐに現れる第2主題ともおぼしき半音階進行の対位句と、主題との間に生じていく二重fugaが、規則的でありつつも、同時に自然-必然的な拡張性を以てひとりでに自発自展していくが如き対話性を、構築していくその精緻な対話処理は――16番fugaにも二重対位法が見られたが――、やはりフーガの技法の手腕をも彷彿させ、この時期のバッハの充実ぶりがうかがえるといえる。

アファナシェフのこの曲に対する姿勢はごく真率なもので、彼はこの曲に見出せるバッハの真理へのひたむきさ、真正さといったものを軽んじていない。その構築性の中で特に重要な役割を果たす主題同士の対話性の自然な拡張性と開示性というものを平明に語らせるという点で、最も適度の重厚さ・また適度の緊張感が、打鍵とテンポに伺えるのでないかと思う。


2003年05月18日 (日)
第18番:

prel

通常ならばこのガーランド風のリズミカルな軽快感は、もっと楽しげで舞踊的な音楽に姿を変えられるだろう。がバッハの手に掛かると、たとえリヒテルのように柔らかい余韻を帯びたp~ppの変化を丁寧な生かしたスタカートで奏でられても、和声の拮抗を露わにするグールドのように弾かれても、半音階進行のインヴェンションの緊張感は伝わる。ことに繰り返し記号以降のfからの音楽的緊張感は、第1声部、第2声部それぞれの動き、絡み、ともにぐんと高いものになり、地に足をつけて生きれば生きるほど、同時に後ろ盾の何もない存在としてただ世界に身を挺している自我のおののき、戦慄にも近いものが、律動の約束としっかりとした構成の背後に感じられる程である。リヒテルの演奏ではその戦慄がより内省的に実存の悲哀として表現されており、
グールドでは自ら半ば戯れつつも音列の意味性とその展開が及ぼす緊張感の高まりを、より直かに肌身に感じさせられるようになっている。

このprelのもつ音楽性は、リズムこそ付点もシンコペーションもなく規律的であるが、もしその点の変化と躍動さえ帯びればベートーヴェンやシューマンの音楽性に相通じる所のあるものだと思われる。

fuga
moderato e quietoとあり、旋律線としてはおだやかであるが、私見ではこのfugaの音列と運動の帯びる意味性及び緊張感からするとリヒテルのテンポはやや緩慢に感じられる。
グールドの演奏は徐々に*乖離性の広がる運動の緊張とその高まりの中を肌身で生きながら音楽の創造者とともに呼吸するといった感じである。

*...この音楽は高い声部はその緊張度が高まるとともにえもいわれぬ典雅さを増し、低い声部はその緊張度が高まるとともに存在の意味深長な力強さと重厚な不気味さを湛える。という不思議な構造を持つ。

アファナシェフでは始めの打鍵からしてその緊張感が伝わる。がその直後(第2小節)に登場する付点と前打音の第二主題が登場すると、その演奏は彼自身の某かの思い入れのようなが8分音符と次の前打音の間に微妙に入り込むようになり、その打鍵はそうした彼独特の呼吸の「溜め」が及ぼす或る一定の規則性のもとで、リズムの均斉が故意に破られている。
それは、ひたすら‘バッハを’聞く側にとって、やや余計なものにも感じられるが、彼とともに呼吸することにも専心する場合には納得のいくものであるとも言えるだろう。
が、ただ平明に弾いた際におのずから湧出する戦慄の気高さと意味深長さにまさるものは無いように思う。
fugaに関しては、淡々と奏じており、無名性が光る。

これも中盤に現れる第2主題が、第1主題とともに対立拮抗しつつ模索的対話を構成するとも思われる二重fugaの見事な作品であるが、第1主題自身のもつ模索性(2小節目に第2声部が登場する折に第1声部が奏ではじめる半音階進行)が、すでにこのやや懐疑にも近い模索性に富んだ第2主題の存在を予め孕んでおり、その61小節からの出現を必然的なものにしていると考えられるあろう。

2003年05月19日 (月)

第19番:

prel&fuga

リヒテルはごく柔らかく所謂パストラーレ風に弾いている。がこの牧歌性は、ヘンデル「メサイア」のあのパストラルの、「柔らかな天の光にあまねく照らされた地上」、まさしく‘地上そのもの’の母のようなゆたかさとは違い、どちらかというと天地合一的であり、その裏に観念とか思索、思弁性・形而上性(精神の運動)などの存在の裏打ちを、どうしても感じさせる。
天空から降りてきたものが地平のあらゆる事物と事象を裏付けつつ、合一化し遂げたかのような豊饒の性質は、やはりバッハならではのものである。
それは、リヒテルのようにどんなにたおやかに演奏したとしても、十二分に見い出せる性質なのだから、不思議である。

そうしてその「のどかな」形而上性はそのままfugaとなって結実するのである。
ここに於てパストラーレはスケルツォとも言うべき推進力とダイナミズムを携えた巧みな運動体となって再臨する。このfugaの運動性はベートーヴェンを想わせる。(殊に左手、第3声部の動き)

グールドは、そのパストラーレとは思えぬ程の躍動感に満ちた奏法――それは、一部の古典的トリールなどを省けば殆どベートーヴェンそのものにも聞こえる――は勿論のことながら、その譜も、他とは随分違った版のものをprelに於てもfugaに於ても用いているようである。
そして、それはグールドの奏法に非常に合っている。
もともと彼の奏法は弾力と前進力を感じさせ、それがこの曲にすでに内在するべートーヴェン的な要素――(四分音符+八分音符=タータ,タータ)の組合せ、次に現れる8分の3連音符×4での右左2声部間の掛け合いの仕方、また殊にoctvの上下向を含めた左手の弾力的運行、etetc..――を、何より体感的レヴェルで如実に物語っていくが、最も耳につくのは第14小節第1声部の2拍目「ロ音」の#をはずし、半音階性を削いでいる点である。
この効果は、バッハの音楽がよりベートーヴェン的なものに近づく為に非常に有効であると、思われる。
またこの際同時に他方で持続している左手のタイが、グールドの入念なタッチによって極めてオーケストラの通奏低音の如く奏功している。
これもまたバッハ的であるとともにベートーヴェン的であると言える。

またグールドの譜によると、逆に第22小節最後から2拍目の「ハ音」と、翌23小節の1拍目「ハ音」に無いはずの♭を掛けている。この選択は、どちらかというとパストラーレの情緒的性質を排除する傾向になると思われる。そのことが、この曲をよりベートーヴェンとそれ以降の音楽に、近しいものにしている...

バッハの楽譜には多くの版があるようだが、その違いは大抵は何れもバッハの範囲の中での一種のvariationである。がこの曲の場合、それらのほんの小さな差異はともすると一気に時代を超越する要素を内包して聞こえる。
(それは勿論、バッハ自身の超時代性を裏付けるものでもあるのだけれども。)

さてアファナシェフであるが、これは不思議である。
彼はきわめてprelの「パストラーレ風」に適った弾き方をしている。がそれは所謂パストラーレ「を」現出させる演奏なのかというと、非常に遠い所に位置してもいる。が、パストラーレ風(乃至形式感)をわきまえてはいる、という風な演奏である。

fugaにしても、prelの動機の、このfugaへの発展性というものを十分踏まえており、テンポとしてもprelの延長のようにかなりゆったりした選択をしているし、躍動感とかエネルギッシュな推進力といったものは最小限にしている、とでもいう風である。でありながら、この音楽のすでに内包している脱-古典性、いわばベートーヴェン性をば、非常に感じさせるのである。。。
音楽から、運動性というものを削いでしまい、殆ど裸木のように還元されたともいうべき真率な演奏に拠っても、音楽そのものからそうした脱-古典的性質が感じられるということであるし、それを証明しているようなものである。
アファナシェフのこの演奏は、アファナシェフという存在もそうであるが、演奏家とか、ピアノという楽器、打鍵、等々いう介在者さえも、――それは十分な配慮の上でか、図らずもなのかは知らないが――殆ど消し去ってしまうことに成功している。

2003年05月20日 (火)

第20番:

prel
これ程にまで厳格に規則的で絶対的整合性にみちた音楽が、広大な世界のただ中に、絶対者の後ろ盾も何もなしに在ることを余儀なくされた、とでも言うような、苦の音楽を描き出すということの愕き。

だが、これは 神のみに栄光あれ、と楽譜の終りに必ず記する作曲家の筆から出てくる音楽なのである…。
その苦の性質、また猜疑の性質というのは、謂わば殆どこの世に生を受けた神秘の喜びというものを根本から覆しかねぬ程の、底深い深刻さを秘めている。であればこそ、この音楽は、激烈なfugaとともにベートーヴェンとそれ以降の音楽、また或る意味シューマンの音楽に、直に通じるものがあるといえるのだが。
バッハはヨハネやマタイ受難曲などを書いて以降、急速に宗教音楽への情熱を失ったと、幾つかのものの本に記されているが、この種の音楽にまで至ると、信仰はおろか、殆ど神そのものという後ろ盾をも喪っているか、少なくとも当てにしていないという感さえある。
それはあたかも、神が居ること、もしくは居ないこと、は何れにせよ実存としての己にとって――少なくとも――「無効で」ある、と語っているかのような音楽である。
神を前提にしていないかのような音楽……。その苦しみ。

がそれは、ベートーヴェン以降の人間の音楽(それは他ならぬベートーヴェンが確立したのであるが)であれば理解できるとしても、それ以前にもしやバッハ自身がまるで神を前提にしていないかのような音楽を書ていたのか?となれば、些か驚嘆せざるを得ない。(と同時にそれがバッハらしさでもある。彼は音楽的情緒というものを極力廃し、ひたすらに厳格で法則的な音列を以て黙々とこれを語るのである。それだけに、尚「無」の切実さが増すとも言える...)

だがそれは言い換えれば、たとえ神を前提にしていなくとも、このように規則的な音楽の現出が可能であるということでもある。また、これ程までに徹頭徹尾厳格な音楽、殆ど幾何学的・遺伝子情報の如く巧妙に生物学的、とも言うべき音楽が、喜びよりもむしろこの上ない苦しみを表現している(しうる)ということでもある…。

そしてそれが最も不思議な点でもある。
(その不思議、とは、すなわちバッハ芸術に於る感動の極意である。)

この曲の不思議には、もうひとつの要因がある。
この精密な音楽は、規則性から生じているのか、音楽性から生じているのかという点である。
規則性の厳格さがこのレベルまでに至ると、そういう問いが発されてくるように思うのである。
曲の書き手がこの音楽を耳にした時、或いは楽譜を手にした時、どのように感じるであろうか。
私が読んだ限りでは、作曲者の創造性、某かの個性や偶有性が発生・介在しうるのは、せいぜい第20小節目(=繰り返し記号の以後3小節目)、29小節目(これは含めるべきか否か…)くらいのもので、あとは専ら法則の必然性に拠っている、とすら言えそうに思うのである。
が、その法則の行方(選択)はバッハ自身に拠っているのであり、またそもそもの開始、発想がバッハに拠っている、というこの絶対性は、ゆるぎのないものではあるのだが…。

2003年05月21日 (水)

第20番:

prel

64分休符と音符との差異を除けば、後半はきれいな反行形として始まる。
⌒型と√型、波打つような2パターンの音列進行と、octv.上下向+半音階進行(前半は完全下降、後半は完全上昇)、という3つの形式の統合と展開である。

このprelは版によってあまり差異がないように思われるが、これまで何人かの演奏家のものを聞いた限り、大きく分けて以下のような2種があるようだ。

A)4小節目冒頭第一声部二拍目のト音がナチュラルなものと#がかかるもの。
B)後半第2小節目(19小節)、最後音トに#がつくものとナチュラルまで下ろすもの。そして、
C)25小節最後音イがナチュラルのものと、♭をかけて変ロまで下ろすもの。

グールドはA)に#をかけ、B)に#をかけ、C)に♭をかけている。
リヒテルはA)ナチュラル、B)をナチュラル、だがC)には♭をかけて段差をつける。
アファナシェフでは、A)ナチュラル、B)に#をかけ、C)はナチュラルとしている。

=========
*…A)
この際、同小節最後音「へ」に、#をかける場合とナチュラルのままにする場合とがありうるだろうか。
(グールド、リヒテル、アファナシェフともかけている。もしここで掛けない場合、後半26小節と同型がすでにこの前半の開始早々から現れてしまうことになる。
また、グールドの譜の論理で行くと、前半は14小節でも、4小節と同様、第二拍のハ音に#が掛かるということも考えられてくる気がする。グールドはそうしていないが。
ただこの論理を突き詰めると、主題そのもの――開始第一音(=第二拍目)――からして、予め#が掛かっていなくてはならなくなる。それはあまりに意表をつくものである。)
==========

ところでこれらの違いが何を意味するだろうか。
#や ♭がかかることで、半音階性に意味の違いをもたらすとしても、それは黙秘的・徐行的な不安感を増すか、逆に意外性をもたらすかという差異であって、どちらも、そうしたほうが半音階性(形式の安定性)に適っているという見方が、できるのである。(その、帯びる性質は変わるが)
段差を帯びる方が、進行上素直に聞こえるという解釈もありうるし、その素直さがかえって不意をつくような意外性を帯びて感じられたりもするのである。
それは、打鍵の鋭さや弾力、強弱、全体のtoneなど演奏家の解釈・奏法によっても、もたらされる印象が変わるような気がする。

アファナシェフは面白いことをしている。

グールドの場合、じつにあっさりとしていて、前半後半ともに繰り返さないが――彼は全体に繰り返しをあまりやらない――、リヒテルは繰り返し部分でもはじめの奏法とそれ程たがわぬよう、神秘的に、黙々たる調子で忍びゆくように奏している。
がアファナシェフの場合、前半の同フレーズの繰り返しでは、はじめの時と打鍵も解釈も変わるのである。前半は所謂半音階性の黙秘性を生かした奏法であるが、後半はやや確信を持ってその懐疑性を強調する。というのか、いわばより確信を以て懐疑する、そうした己のスタンスにより確信を持ってあえて石橋をたたいて渡って行く、という調子である…。
そのスタンスが、ちょうどこの前触れともいうべきあの第14番fugaを反芻させつつ、それに輪をかけた激烈さを帯びる楔打鍵の、ダイナミズムと精鋭峻厳なる世界の出現を、より至当なものとするのである。

2003年05月22日 (木)

第20番:

fuga

私にとって、この曲を聞いて最も納得のいくのはリヒテルの演奏である。がアファナシェフも非常によい演奏をしていると思う。

グールドはいつも通りの弾力にみちた打鍵で走って行くが、特別爆走する風でもなく、また特別精鋭に・峻厳に弾こうという意図もないようである。

それはどちらかというとあっさりしており、リヒテルが非常に強調していた、第9~10小節目第3声部のアクサン――この第3声部に於る9小節目終りから2拍目(ト音:8分音符)と10小節ホ・イ・ロ(4分音符)、この4つの音は主題の再現で、開始の音列から6度下ろされている)――を、ことさら強調することもなく、全声部を平等に扱う程度どころか、それ以上に寧ろ第3声部を<ごく控えめに>処理している。
彼は主題の再現である第3声部を独立的に考えているというよりは、3声部とともにbackに退きつつ同時に進行するものとして扱っているように聞こえる。それらがひとつの副旋律を分節し合うようのがわかるように、絡みの作業として同次元(p~pp)で扱っているのである。

リヒテルは4分音符で繰り返し出現するこの強烈な主題の再現をすべて強調している。(1,3~4小節,6~7小節,9~10小節,12~13小節,17~18小節etcetc..)
がそれとともに、‘第2の次元’として8分音符で幾たびも再現される主題の縮小形を強調する。
(この縮小形は、主題の「後半フレーズ」としても解釈できるだろう。したがって曲の主題は4分音符系+8分音符系のsetとして開始から登場するのである)
リヒテルはこの主題とその縮小形の、独立的で度重なる出現を、重層性を帯びた波形の交差的ダイナミズムとしてとらえ、峻厳な楔打鍵で執拗に表すのである。

アファナシェフの場合、テンポが非常にゆっくりである。が、打鍵の精鋭さ・厳粛さ・深さと厚みなどは十分である。
したがって、パッショナートな性質はリヒテルよりも抑えられ、その憤怒は全-精神的なものというよりは、知的な部分により重きが置かれた感覚になる。
――勿論、全身全霊というものを感じさせる演奏なのだけれども――。

面白いことに、このようにゆったりとしたテンポで鋭いリズムが刻まれると、主題のもつ、極めてベートーヴェン的ともいえる減7度の跳躍性は、むしろ同時にクライスレリアナなどに典型的に現れるシューマニスティクな理知の暗躍性をも帯びて聞こえてくる。


2003年05月23日 (金)

第20番:
fuga

アファナシェフは、リヒテルと同様に主題前半の4分音符による減7度跳躍とともに、後半の8分音符減7度のアタッカもよく効かせている。
それら2種の減7度を全てにわたって効かせることは、これと対位句である32分音符から成る怒濤のようなもうひとつの波形との対照性をも聞き手に意識させることになるだろう。

アファナシェフの演奏は大抵、前進力といったものをひときわ感じさせるという種類のものではない。この場合も、テンポがじっくり・ゆっくりであるうえに、リズムに独特の溜め、立ち止まるような面がある。
それゆえこの32分の対位句にも、何よりもエネルギッシュな精鋭さを付与している、という感はない。その代わり、こうしたリズムの考え深さと、打鍵の全体にわたる厚み・深さの意味するところとの相乗効果により、この律動に非常に知的な感じと安定感を与えることに成功しているだろう。

バッハは情熱によって精神を進行させるといったタイプでは、たしかにあまりなかったかもしれない(日常、彼は案外短気で喧嘩早かったという記述を目にした覚えはあるが、それが音楽の創作上に必ずしもそのまま当てはまるとも云えないかも知れない)

バッハの音楽は音楽そのものの可能性としても懐が深く、相応する楽器の多様性はもとより、演奏という点からみてもかなり色々なパターンのものを成立可能にさせる所がある。
深刻なパッセージにも或る種の遊戯性があり、明哲な思考力を思わせるフレーズにも、同時にめくるめく生のリアリティが貫通しているように聞こえる。それだからグールドのように次々と生まれ出るてきぱきとした推進力に富んだ演奏も、実際十分可能なのである。

がアファナシェフは――これは第一巻からずっとあった志向性であるが――、大抵の場合バッハの律動を生の発現地点、すなわち現場の次元で処理していくというよりはむしろ知的な側面で捉え咀嚼しなおしているという風な演奏のように想われる。

だから、その表現するところのエネルギッシュ(energico)だとかパッショナートだとかいうものも、それがそのまま文字通りの意味に於ける戦いに通じるとか、まして狂気に通じるといったことはなさそうである。

がバッハが深い憤怒と絶望というものを十二分に知っていたであろうことは、その演奏からも感じることが出来る。

2003年05月25日 (日)
第21番:
prel&fuga

主題の旋律線の性質上、配置の順としてはやはりこちらが前奏曲であとのがfugaということになるだろうが、曲の構造からすると、むしろこのprelのほうがfugaのような貫禄と構成を持っているとも云える。逆に言えばfugaは、これだけのprelの後のものにしては簡素である(が曲としてはこの上なく清澄で、好きなものの一つだ)。

このfugaは第2巻の中で最も平安なもののひとつと云えるかも知れない。後期バッハにもこのような安息の世界があったのである。

がこのような優美な安息の中にもバッハの高貴さ、単に「地」というもの以上の何ものかを感じさせる。これに対しつつも不可分な天、とか「空(くう)」といったものの存在をである。(第二巻に於るバッハは宙に浮いた感覚が無いとはいえ。)


prel

呈示部、展開部、再現部がある。しかも呈示部には複相性がありことから、すでに殆どソナタ形式そのものであろう。
曲としては舞曲風(ジーグ)で、4拍進行でありながら2拍進行でもあり8拍進行でも12拍進行でもある。(表記は12/16)

が相変わらずグールドでは繰り返しがないし、舞曲風な演奏でも更々ない。
グールドにつねに存する或る種の遊戯性は、当然の事ながら、何々形式であるとか、舞曲風云々とは無縁のものである。
彼はいつも駆けていく。がそれでいながらバッハ音楽のもつ本質を象徴的に言い当てているのである。
彼は‘vivace’といったものを体現する。それはバッハ音楽の本質なのである。それを痛感させるのである。

リヒテルとアファナシェフは、この曲のソナタ形式としての性質を、踏まえた演奏をしている。
したがって、バッハ音楽以降の近代性をよく感じさせる。
特にアファナシェフは――彼はいつもそうであるようだが――繰り返しの前・後が同じようであったことがない。
しかもこの曲の場合、単に呈示部・展開部・再現部という3構造であるというより、その呈示部の息の長さの中に、生き物のように自律的に展開するものの力を感じさせられる。それはまず9小節(第1声部)の旋律線となって現れ、印象的な12小節のvividな線に変現し、そして主題の応用的再来を思わせる16小節後半~の旋律線として生まれ変わる。(そうした変幻さは展開部に移行しても通じている)
こうした発意、必然性、そして主題の息の長さは、ベートーヴェン得意の変奏曲のようなスタイルの自由さを、すでに備えている。

アファナシェフは相変わらずvivace、といったニュアンスからは遠いが、知性的な演奏により、こうした意味でのこの曲の近代性、脱-古典性のようなものを感じさせるといえるかも知れない。
特に76小節からますます顕著になるこの曲の少し風変わりな旋律線(どちらかというと非-音楽的な感覚――自然発生的音楽でなさ・謂わば形而上性)は、彼の演奏の帯びる性質に相応しいように思われる。

リヒテルの演奏はつねに適度にvividであり、思索性も備えている。vivaceでありながらdolce‘legato’である曲の性質をよく表し、殊に繰り返し記号以降が転回形である幾何学的な面白みを、内省性を削がぬままごく自然な形で印象づける。

2003年05月26日 (月)

第22番:
prel&fuga

prelもここに至ると構造が一層交錯し複雑化してくる。
インヴェンション形式のprelは8番、10番、19番、20番などと幾つかあり、後半はことに精巧になってくるようであるが、ここでは3声になり、しかも2声部がまさにインヴェンションとしての掛け合いで主題とその発展形を編み出す間に、他の声部から対唱部分が始まる。この応用的連鎖がじつに有機的に紡がれて曲を運んでいく。その様は3声fugaで処理されていると云える。prelとはいうものの構築性が高い。
fugaの構築性の壮大さにはわけても目を見張る。
主題はきわめて半音階性がつよく、対唱も2種と解釈できるかも知れない(第3小節型、第4小節後半型)そしてまた、主題、第一対唱、第二対唱それぞれの転回形があり、反行形がありその応用などが次々に生じながら、巧みに他の展開との掛け合いで登場する。ストレッタもある。

リヒテルはそうした構造上の精緻さというものを意図的に表出せずにこれらの曲の性格を如実に明かしている。
prelでは、その大悲というが如きに超越的なうつくしさを淡々と物語り、fugaではごくゆったりしたテンポで、内も外も、殆ど全ての境界線を無くしたかのように繰られていく、神の息のような長大な永遠性を物語る。

グールドは、prel3声インヴェンションの面白みと充実感を最も感じさせる奏法で駆け抜けて行くが、スタンスとして3声が全く平等に扱う中で、彼の打鍵の性質と左手の充実から、ごく自然に低音部(第3声部)のvividな上下行を、最もつよく印象づけるように思われる。15小節最後~16小節、18,20小節などに特徴的に現れる弾力的上昇の表現が見事である。
それと、まさしくベートーヴェンやロマン派の音楽を想起させる意外性にみちた処理、第3声部のタイ(曲の終り、75~77小節)を、際だって印象づけている。いつも思うが、彼は細かいパッセージの処理ばかりでなく、同音持続の処理がきわめて巧みである。
このタイは、予告的には実は曲の始まりから登場しており、それが第1・2声部にも交互に現れているのだが、もっとも決定的な仕方で75~7小節に結実するのであるが、グールドの急速なテンポと律動により、その仕組みがおのづと最も効果的に語られるという気がする。バッハ音楽の自由な必然性ともいうべきものの貫通が、端的に示される音楽性である。

fugaに於ても、それが息の長い4声インヴェンションのようなスタイルであって、prelとのつながりを持つことをつよく感じさせる。
バッハ自身が諸声部を全き平等の下に扱ったことは勿論だが、グールドもそのスタンスからおのずとそうした性質を体現していて、殊に75小節,82小節,91小節と、1/3小節~1/2小節ズレながら2声部が同型式進行をし、それが壮大かつ集約的にコーダ=98小節になって具現していく様を、きわめて有機的に表現している演奏といえる。

2003年05月27日 (火)

第22番:

prel&fuga

これらどちらの曲についても、アファナシェフの演奏は非常にいいのではないか。

私個人として、prelではリヒテルの演奏を最も好み、fugaではアファナシェフを好むが、曲の稀れな構築性を省みる時、アファナシェフの演奏は最も至当な所と云える気がする。

prelに関してはもう少し速くても(或いは律動性を生かしても)、いいような気がするが、曲想の掴みかた、表現のニュアンスと位相の高さ、適度な内省性と開示性、etc.など、妥当な感覚を抱く。
主題と2種の対唱と、それぞれの発展形が、非常によく意識されるような奏法をしているが、それが表現の第一義の主題とはなっていない、そういう自然な演奏となっている。

各小節を二つに分けるようなrythmeの刻み方をする――4分音符×4が、(4分音符×2)+(4分音符×2)という区切りで意識されるようなタッチである――のが、幾分か気になる所で、レガトで行くか、さもなくば全スタカートで行ったほうが割り切れるような気がするが、基本的な曲の把捉と構築性の表現に関しては申し分のない演奏ではないだろうか。
小節のタイも、グールドの処理に比しうる程大変美しく、同時にニュアンス的にはリヒテルのそれをも彷彿させる程にさりげなくかつ意味深長につながれていて、曲そのものの質の高さをよく感じさせている。

またfugaに関しては、彼がおそらく最も自覚的に、この22番fugaを第14番、そして第20番fugaとまさに同じ系列に属するものとして捉え、表現しているように聞こえる。思えばこのfugaは、あのごくあっさりした、日常の断片であるかの如き第2巻終曲のfugaを除けば、まさに最後の短調でもあるのだ。

楔のように峻厳な、いわゆる精鋭打鍵で扱っているのはアファナシェフだけである。この曲に関して云えばリヒテルと対照的な演奏でもある。

巧緻な構造の解明といった点に関しても、prelと同様、よく熟慮されたもので、昨日記したような強烈で鋭い主題と、そのさまざまな応用部分(転回形・反行形)、また2つの半音階進行形対唱とその応用部分(転回・反行)の上下行、ストレッタなどを、峻鋭な楔打鍵、或いは明快な区切りの打鍵の強調によって、非常によく浮き彫りにさせている。

2003年05月28日 (水)

第23番:

prel&fuga

自在さに満ち、快活なトッカータという感じである。快活ではあるが、‘軽’快 というよりはむしろ安定感のあるprelである。

全音階で上昇し(13度:一気にoctv昇り、トリールを交えつつ5度の上行音階)、以後全音階で6度下降する、じつに躍動的な動機が、次のこれを基調としつつやや半音階をも取り入れた格好で3度差ずつで合成した分散和音風な旋律を自然に喚起する、という仕組みでモティフが成り立っている。
こうした躍動感と自由さは、通常の和音で書かれた場所にも、まま分散和音を取り入れる傾向のあるグールドなどの 一見好みそうなタイプであるかも知れない。
がグールドは思ったほど急速には奏じておらず、駆け抜ける、というよりはむしろ彼にしてはおとなしい程じっくりと対処しているという印象を受ける。

このprelに対するリヒテルの演奏は、非常に律動感あふれ、上行音階の前進力と装飾音符の遊戯性にも富んでいる。第二巻終局場面にあえて置かれたこのような率直な歓喜を、素直に表現しているという風である。
その後のfugaを聞いて行くと ふと思うのだが、グールドの場合、fugaの演奏に重きが置かれているかも知れない。敢えてそっくり同じテンポと律動の下に、prelを置いておいたのでないかという印象も受ける。ということは、fugaの演奏は安息を表現するというには、彼らしくかなり速いものになっている。天体の運行をも想わせる、広大無辺で悠長なリヒテルの演奏とは対照的である。
が曲の構成は非常に解りやすく、雄大さを示すひとつの主題からの展開というよりは、むしろ主題を二つに分け、特にその後半の旋律(まず第3声部)が、主題の5度上での再現が第2声部に渡ると同時に、第3声部が展開させる次の旋律(第4小節以降)を直かに誘発するというからくり、及びその構造が4声部にわたって休みなく応用展開されていく、その遁走性をおのづから重視した表現となっている。

2003年05月29日 (木)

第23番:

prel&fuga

アファナシェフのprelは非常にゆるやかなテンポである。
躍動感だとか、楽想にみちる歓喜だのというものとはまったく異なった何かを、丹念に追っているという感じである。
グールドの演奏でも感じる所だが、殊にアファナシェフの演奏では、この曲の安定感が何よりもまず強く感じられる。ロ長調であるが、通常ハ長調が帯びるのとそれ程変わらぬ位の安定感、「地平」のニュアンスにすっぽりとはまった感覚にとらわれるのである。
24曲目は短調なので、思えばこれが最後の長調であるが、そうした位置にも相応しい安定感を持っているprelとfugaなのであり、彼らはその表現に成功していると云えるだろう。

アファナシェフもまた、みずからのfugaの速度に合わせたテンポでprelを扱っているのである。
私自身のテンポの適正感からすると、グールドのprelにその照準が合い、アファナシェフのfugaに照準が合う。

宇宙的な長大さとか悠大さといったものの表現はないが、曲の構造の開示性はアファナシェフに於てもグールドに於ても見事に表出されている。

蛇足だがアファナシェフのfugaの終わり方は、グールドのそれをありありと想わせる。

2003年05月30日 (金)

第24番:終曲

prel&fuga

よく、後期ライプツィヒ時代の作品には違いなかろうが、第1巻の終曲と較べると曲集の最後を飾るには軽妙であるとか、頂点の形成には壮大さに欠けるとか、言われるところのある24曲である。

たしかに曲の構造的という面からすればそうかも知れない。
があえてバッハはこの いかにも日常の断片のような曲をここに置いたのだと私は想う。
ことに20番以降、対位法の極意、scaleの壮大さと濃密さに於て、驚嘆にあまりある作品が続いてきた。前奏曲までもが、時にはfuga顔負けな程に何重も絡み合う構造の巧みさと精神の広大さを現出した。……それで十分なのである。

終曲は、それと較べればかなり小規模であるが、その曲趣のいかにも<断片的>面白みは、曲の創作に臨むバッハ、そして曲の終わりに神にのみ栄光あれと記すバッハを、というよりはむしろ、窓からふと部屋の中を覗くと朝のカフェを飲んでいたり、誰か家の者と何ということもない話をし、またいつもと変わらぬ新しい一日の始まりを迎えるバッハ、短調のトーンの中に 或る種の快活さすらのぞかせる、いわば素顔のバッハのようなものに出遭うかのようである...

繰り返すが、第一巻では禅でいう空智-実慧のうち、空智にバッハのスタンスがあり、第二巻、ライプツィヒ時代では主に実慧にスタンスがあると、(全体的把捉としては)想われる。
実慧とは、孤高の自己省察の果てに至る悟りの境位である。それは空性を‘忘れた’主体なのではなく、無碍自在・日常あるがままの姿が、即ち是「空」でもあり、逆に言えば空に即しつつも常に他者と向き合い出会われる{日常を生きて}いるのである。
無的主体とはいえ生活者を免れぬのであり、逆に言えば、考え深く感受性も鋭い人間には、人生 色いろな体験を重ねれば、生活者であるものにも反映する空性、というものが、否応なしに備わってあるのである。
バッハにとっても、おそらくそうした意味を込めて、神のみに栄光あらん、なのである…。

リヒテルの演奏には、端的にそれが現れている。
がこれはどの演奏家がどのようなテンポで弾いても、不思議と現出してくるもの、すなわち或る種の緊張感がただよいつつも、雑多で、同じ事の繰り返しの感のある軽妙な空気感、つまりは日常性が、不思議と漂ってくるということに関して、殆ど差異がない。
このprel&fugaの帯びる日常性は、そうした意味でやはり普遍的なものなのである。このように明日も明後日も同じ事が繰り返されていくのである…。

と同時にまた、このprel&fugaには、これまでの全てを字幕とともに振り返る、長い映画の終わりのような効果もあるのでないかと思っている。。。


音楽的には、prelはアレグロで、やはり2声インヴェンションと思われる。スタカート、スタカーシモなどの効果が大きく、殊に終盤に頻繁に現れる総休止符の効果などは次の時代の音楽さながらである。

fugaは短調にしては楽しげで、活気に満ち、アクサンとともに繋がれるタイやスタカートと休止符、8分音符+16分音符×4と、16分音符×6の組合せによる進行――これはprelの(8分音符+16分音符×2)と(16分音符×2+8分音符)の組合せと繰り返しのリズムに、関連がある――、またとくに主旋律が他方で奏でられている際の2・3声部の戯けたやりとり(30~36,39~41etc.この際2声部は主旋律を奏でる1声部との8分音符単位のやりとりを行いつつ3声部との16分音符単位のやりとりをも兼ねている)、また転じて1・2声部での躍動感あるやりとり(48~50etc.この場合1声部は主旋律を奏でつつ2声部の間髪を突くリズムのやりとりを行う)などは、トリールの多用ととともにロココ調の装飾性に富む。

アファナシェフの演奏も、やはり彼独特のリズムの刻みというものがあるが、軽妙で戯けた規律性のようなものは失っていない。またprel終盤の総休止符の持つ或る種の近代性を、よく表出していると思う。
fugaもゆっくりめではあるが、スタカートに於ては20番fugaなどにやや通じる打鍵(勿論それよりは柔らかいが)で一種の緊張感を出している。またその弾き方には逆説めくが楽しげな日常の悲哀のようなものが出ており、私にはとくに第2声部の趣が出ている50~55小節の半音階進行のインパクトが、他のリズミカルな小節とのコントラストとしても、或る意味で意表をつく悲哀の表現力として、強く印象に残る。


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