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「対話」(ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ/河出書房新社)を読んで

2010.12.01 Wednesday 
2010年9月~11月にTwitterで呟いたことを織り交ぜつつ記したもの。

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  • 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない(宮澤賢治:農民芸術概論綱要)

  • 内なるそして外なる平和への願い(Bitte und innern und aussern Frieden)(ベートーヴェン)

  • 自分のやっていることが最善で、それ以外のすべては無だということを、惨めな思いをしているたくさんの人たちに思い込ませようとする偏狭さを、ぼくは心の底から憎む。ひとつの美によって人間は一生の間感動を受けるということは正しい。だがこの感動の照り返しはすべての他の人々をも明るく照らすはずだ。(シューベルト)

  • 作動配列とは共-機能作用(co-fonctionnement)であり、「共感」であり、共生である。(ドゥルーズ「対話」p85)

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ジル・ドゥルーズの「対話」を読んだ(クレール・パルネとの共著/河出書房新社)。これを読んで、私が共鳴しつつも振り返っておきたいポイントは主に二つだったように思う(両者は同じ事柄で通底するが)。それは主に、

  1. ドゥルーズ=ガタリによる解釈および解釈症批判・シニフィアン批判と、

  2. 同じく彼らによる弁証法,構築(的),自発性etc..といった言葉の強烈な回避願望?

    1. (とはいえそれらは、それらの言葉が示す内容そのものに関してではなく、むしろ「言葉使い」・その倒錯した「既成-観念」に対するアレルギーのように映る。何故なら<実質的・内容的には>彼らの思想はこれらの言葉が “本来” 指し示していたはずの思考方向や内容をたんに受容するどころかむしろこれへこれへと私たちを積極的に促しているのだから)

とに、分けられる。

■以下、しばしばドゥルーズをD、ドゥルーズ=ガタリをD=Gと略。


<< 第1点:「解釈」批判(権威化形骸化した精神分析を代表的に例示)と「解釈症」(フランス的知性)批判 >>


解釈することと解釈症の、生きた表現(彼らの言葉では欲望-逃走=生成)に及ぼす弊害――これはじつは、解釈「することそれ自身」へよりも、解釈の「方法」、向かい方の間違い、或いはまた「解釈」をするwissen(知)の射程範囲が狭すぎることetc..の問題に関して指摘されるほうが望ましいと私は捉えるが――の問題は幾つかの重要な点で繋がっていると思われる。非常に精鋭な指摘がある。まず、Dの挙げる「解釈」の弊害の要旨は何かを、自分なりに記してみると、このようになるのではないか。

解釈しようとする知の陥穽の問題は、以下の視点に分けられるものの、つまりは同じ一つの問題の、側面の違いに過ぎない。あえて記すと、

ひとつには、「精神から」生身の「人間への」理解がいつも、状況から離れてしまうことにおおきく由来するだろう。つまり、条件法としての、人間の或るありのままの姿から離れてしまうことに由来するだろう。(この時、この ありのまま、の言葉の意味は、状況から<抽出された>純粋事実としてのありのままではなく、ただたんにこれ以外ではない現実、もしくはこれ以外にはありえなさ・ここから以外には出発することの出来なさとしてのありのまま、であることに注意しよう。つまりそれは、たとえば*シューベルトの言う「ある<べき>ままにではなく、そうであるままに受けとらなければならない」ところのもの、Dの言う「此性」である。)と同時に、これは同じ事柄の裏表だが、(予め限定された)シニフィエから出発し、予め想定されたシニフィアン(!?)にそって事実(!?)へと逆行する点である。この際、逆行は、生の解決・救済を意味せず、逆に当嵌・封じ込めを意味する。

*シューベルトはこう言っている。「精神は、支配者であるべき性質のものだ。人間は、あるべきままにではなく、そうであるままに受けとらなければならない。」すなわち真に人間的-生成的なものとは、まず<べき/であるはず>のほうから<である>に向けられる=あてはめられる、ことに抗議するのだ。

もうひとつは、解釈の志向性が、自己-状況すなわち外/間(~とともに;通常自我には不可視な側面ないし暗示的運動を多く含む)へと向かわず、自己自身(自己同一性:一対一対応)の固定的・静的-線的解釈もしくは結果論的解釈へと向かうことである。これこそが、典型的な解釈症(Dの言う、ナルシシズム的審判、過剰に批判的すぎる知性云々)そのものの問題となると思われる。これは解釈症の問題としてDの言葉を適宜引用しつつ感想を述べたい。

……………………

この問題は、ひと言で言って精神=知の性癖にある。精神がとかく、(現働化しつつある生成の動態に対し)1)静的な自己同一化を志向しがちであり、同時に2)「完全可視化=明証化を志向し、かつ結果論的」に捉えがちであることとも重なる。このうち特に、「静的・自己同一化」性向は、疑似シニフィアン-疑似シニフィエの<一対一対応>(上記)と解釈症(下記)に、また「完全可視化性向・結果論的性向」は、解釈症の批判精神の過剰さにも、シニフィエからシニフィアンへの<逆行>(上記)にも、濃密に繋がるであろう。とはいえどれも不可分の問題ではある。

実例を見てみよう。Dが挙げつつ批判している、不本意な知の作業の代表例として、精神分析における「解釈」が言表の形成を妨げる仕方。

p128 (精神分析家たちが)不定的な者の背後に、隠された限定的なもの、所有詞、人称代名詞が存在するよう望んで憚らない(表象をひとつだけに限定しようとする)。(またフロイト自身も)状況をまったく考慮に入れない。…切片をひとつに抽出…その契機をひとつ抽出するだけで十分…欲望の集合を壊し、※1現働状態にある生成を壊し、それらに代えて過度に表象的な関係のアナロジーを置く…いかなる(患者の)現実的-欲望もすでに消失してしまっている。それに代置されるのが、ひとつのコードであり、言表の象徴的な超コード化…

「対話」ジル・ドゥルーズ クレール・パルネ 江川隆男 訳 河出書房新社

これが患者を無視し、虚構の主体を造る=解釈、のだという。

注)※1…がじつは “ これ ” こそが本来の意味のシニフィアン(線的に遡られない生身の-状況づけられた或る生成=志向的体験)というところのものである?! したがってD=Gが一貫して精鋭に批判するところのシニフィアンとは、既成の体系的知(~であるはず・~であるべき)から逆行的に生の現実(~にある・~である)へと挿入される形骸化したシニフィアンのことであるようだ。こうした権威化した疑似シニフィアンはしばしば代表的-抽出的シニフィエ(これまた形骸化された表象的なもの=表象代理、生から抽出され遊離したwissenの型と言ってもよいが)から意図的-限定(固定)的に、また線的に、逆行される知性の “ 向き ” にかんする典型的で重大な陥穽のひとつと、されなければならない問題だとたしかに思う。

逆行的…精神・思考の陥りやすい、人間性に対して非本来的な向き、と私自身は捉える。(cf:シューベルトの言葉)

そして、精神分析が言表の形成を妨げる仕方を、実例(ハンス坊や)を挙げつつ語っている。(多少、省略・意訳)

p128 幼少期のブロック、ハンスの馬への生成のブロック、ひとつの生成を印づけることとしての不定法、逃走線、あるいは脱領土化の運動、をまったく考慮に入れない。…現働状態にある生成を壊し、それらに代えて過度に想像的な類似(馬-僕のパパ)や過度に表象的な関係のアナロジー(後脚で蹴る=セックスをする)を置く

シニフィアンス(意味形成性)が解釈に取って代わり、シニフィアンがシニフィエに取って代わり、分析者の沈黙がその人の註釈に取って代わった…硬直化

「対話」ジル・ドゥルーズ クレール・パルネ 江川隆男 訳 河出書房新社

フロイトの体系自身が孕む問題――すなわちあまりに「性」化された体系の傾向性の問題と、そればかりでなく、そもそも患者自身が状況から引き離され、抽出された情報の断片を以て(例えば男根なら男根と)或るひとつに「表象代理」<化>されることの持つ危険の、ふたつ――に触れなければならないだろう。

そのうちひとつ目については、私たちが性的な存在でもある以上、物事にはたしかに「性」性というものの反映するのはたしかだとは思うが、その帯びる傾向があまりに性に偏ったものである、ということ自身の持つ問題にみえる。(郵便的の記事でも少し触れた。)がここでは深入りしない。

もうひとつは、――今回非常に惹かれた点だが―― 表象代理化とその体系が私たちへと向かってくる思考回路・思考の方向の問題である。これは社会的・政治的な意味でも多局面に当て嵌まる問題だが、精神分析を土台にしたまま述べると、すなわち知の体系なり地図が作り上げられると、その一端出来あがった思考から、生身の人間へと降りて来て当て嵌められる、という仕方にある。一度定型化・権威化したその表象代理と思考とが、生身の人間へと持ち運ばれ・填め込まれた結果、人それぞれが、“ まったく ” 違った仕方、もしくは隣人のケースとは “ 絶妙に-しかし-決定的に ” 異なった仕方で、各々に自律的な問題を抱えている、その個々が<状況づけられた>処遇を、まったく無視されるのであっては、まさしくその「状況づけられ方」に於いて何らかの異常を発している患者への理解は、たしかに到底成り立たない。

(権威化された)解釈が陥りやすい方法の誤謬(解釈症の問題にも共通する)とは、まずいきなりシニフィエを限定し(生から抽出されたwissen;「最初の」解釈投与)、そこから線型的に状況へと(その際の状況!?も、じつは形骸化させられ結果論的で異様に明証化された視野に拘束されてしまっているのだが)逆行するという思考パターンの問題である。Dの言うとおり、それは健全な実験精神に逆らうし、生のリアリティ・現働化しつつある生成を決定的な仕方で破壊する。

そもそも患者(苦しみ)が救われるとは、十分な<対話>もなしに、用意されていた解釈(wissenとしての体系的成果の一部;既成シニフィエ)を当て嵌められることではなく、その個々の<状況ごと理解>され、患者ががんじがらめにされていたその<状況ごと-且つそこに属していた自分の分身とともに-炙り出される>ことに他ならず、人間の救済とは、その<隠れていた問題が、「患者自身の生の内的同意とともに、患者の縛り付けられていた状況ごと」露わになる=条件法が-形姿と-なって-現れる>ことに他ならない、と思われるからである。
生まの経験:生成(含、自己回復)にとって、シニフィエとは「自分のいない外に」予め出来上がっているもの=あてがわれるもの ではけしてない。(外/間;志向的体験なしに「自分の中のみに」予め出来上がっているものでもないが。)

言い換えると、私たちを救出する側のシニフィアンが予めそれ自身の内容を出来るだけ持たず(鏡のようでありつつ透明に近く)、私たちの生と生成が属させられ-形勢されつつあるシニフィアンへと「オーバーラップ」することにより救い出される、ということになるだろう。このオーバーラップが、部分的であるよりは、より全的で患者の向きに沿い重なり合う度合いが大きいほど、すぐれた救済(平等に漂う注意:デリダ)であるとも、言えるのかも知れない。(!ただ、この点に関しては、wissenの投入を排している間、救い手-分析者の側にはシニフィアンの現成が無い=シニフィアンそれ自体が存在しない=つまり、広い意味での「理解-解釈(相対性);志向的体験」そのものが “ 介在しない ” 、のではないということに 個人的には、あくまでも注意したい。*救う側は救う側で或る内容を秘めたシニフィアンを帯びることは人間である以上避けられないからである。これはフロイト自身も言っているはずである。)このスタンスは相対「主義」や不可知論ではなく、ニヒリズムでもなく、むしろその逆である。にも拘わらず、可能な限り平等に漂うためには、外のシニフィアン、場合によっては実験的ポジシオンの交換さえも可能な逆のシニフィアンも、持続的に内包しうる程のダイナミズムを、分析者のシニフィアンがおそらく有つのでなければならない)。

*…「存在論的、郵便的(東浩紀、著)」p284-5:分析者と被分析者とのあいだにはつねに「転移」が生じる。したがって必然的に、「分析治療の見通しに影響を与え、また抵抗という仕方で治療を困難にする諸契機においては、分析者の固有性もまたある場所を占め」ることとなる。つまり分析者の人格が被分析者の症状に影響し、またそこから影響されるという循環…第二に分析者は、被分析者のエスにもまた踏み込まねば…被分析者のエス(当時の術語では無意識)が、分析者が自分自身のエスを対話に介入させることではじめて操作可能となるということを幾度も強調…「いかなる精神分析医も、自分自身のコンプレックスや内的抵抗が許容するかぎりでのみ分析を進める」ことが出来る

存在論的、郵便的(東浩紀 著)

それと精神の性向として同時に大きな問題は、自己同一性へのつよい志向と思われる。言い換えれば一対一対応の性向。「状況づけられた」自己の問題から、あるいは「状況づけられた」不可視の部分自己-他者、自己-社会の問題から遊離した自己自身を、精神というものは見出しがちである。精神つまり「~であるべき・~であるはず・~でなければならない」をモットーとするものは、つい<それを>鏡に映し出し、またその思う通りに解釈しようとするのである。これは人間の生まな在りように逆行する。解釈の更新とは、生成の当体がマイノリティであることを自動的に余儀なくさせられる無名主体(へ)の<変様(容)=Metamorphose>である。が解釈の更新がエクリチュールの非人称性へと解放されず、自己同一性の側、すなわち(表現の扱い手そのものがもっとも誤解しやすい)自己自身へと、向かい空転する、このからくり。本来むかうはずであった自己-状況すなわち 外/間 の視座、すなわち「~とともに」の地平。これはそれ自身、暗示的運動性にみち、日常的自我(同一性・明証的一対一対応を好む)には不可視な側面があるだけに、エクリチュールという非人称性へと投げ出されるはずの生成/表現の当体にとってもやはりその生成のあり方が日常的性向もしくはエゴイズム・ナルシシズムの性向に近づくほど自己同一性の側に還帰しやすく、ともすれば踏み外しやすい領域となりうる。

Dはこう言っている。

p14 魅力が生に非人称的な、個人に優越する力能を与えるのと同時に、文体はエクリチュールに外部の、書かれるものを逸脱した目的を与える。

p79 実を言えば、書くことはそれ自身のうちに自らの目的をもっていない。それはひとえに生が個人的な何かではないからである。あるいは、エクリチュールの目的とは生を非個人的な力能の状態に運んでいくことである、と言ったほうがよいかもしれない。

それ自身が本来、「個人的な何かではない」処のものであったはずの生成。あるいは、「エクリチュールの目的とは生を非個人的な力能の状態に運んでいくことである」がゆえに、非人称性を帯びているはずの生成。が、生成の当体がたまたま<この>身体に、この身体に於ける精神に物理的に(日常的自我の自覚の上だけでも)閉ざされるかに見える以上、生成はつい、その翻りと旋回を以てはからずも己自身に還帰し己自身を充填しようとする(ただ、これは知の問題、知だけの問題なのだろうか。この志向は、理知性・精神だけが帯びやすいのでなく、欲望=wollen=無意識も同様であり<うる>ことを証明した哲学者はいないのだろうか。解釈-知を奪ったあとの生成-欲望それ自身に、この同じからくりが生じ得ないのかどうか。もしそうだとすると、私たちは結局生成・生そのものの根源を、何処に置いたらよいのか。この辺りはDの言説に沿って後述することになると思う)。それはともかく、たしかに私たちは世界の意味とその(準-)全体を、<己のうちに>実現しようとしてしまいがちであり、その非人称性を実現しえた他ならぬこの代弁者を見よ、ということが目的化し自己権威化してしまう認識の罠、といったものがあり得る。


こうしたことを踏まえた上でなお、「状況づけられた」生命、「状況における」人間(その分身としての自己や他己、勿論、潜在領野に飛沫化している分身をも含む)を、状況ごと理解すること・条件法ごと理解すること(むしろ「どんな!」条件法に即しているのか、そのものを理解しようとすること)を以て、社会という共同体・共感体・ネットワークへと返すべく解釈するかぎりにおいて、また生から遊離しない知-解釈であるかぎりにおいて、<解釈する知の働きそのものを否定>すべきではない、というのが私の意見ではあるが…。

Dの思想は、ニーチェの影響が深いとされる、ニーチェは、「事実は存在しないのであり、ただ解釈が存在するだけだ」と言う。がそれはむしろ当然の事柄である。実際、あるのはただ私たちによる世界への解釈、世界という解釈である。が、それで何を言いたいのか…。それ(結局普遍ではない)を指摘することが、だから解釈など無効である、ということになるのだろうか。また、解釈し、知り尽くし、世界を一端整理しようとする行為は、人間の弱さとニヒリズムから生ずる、というニーチェの人間「解釈」を受け容れるにしても、それを以て状況を、世界の成り立ちや有りようを、出来るかぎりよく知ろうとすること・また「整理することそのものに」罪がある、ということになるのだろうか。というよりは、一度整理されたものが利用される仕方のほう、つまり整理した本人によって世界の排他的代弁者となる形に陥ることと、それを無批判に踏襲したまま人々が使用し権威化する態度、また生まの人生・人間・歴史への<適用の仕方>のほうに、罪があるのではないのだろうか。それともう一つ問題なのは、(近代的)知が、世界について語るものが解釈にすぎぬとしてかりに知=解釈を無効とするか、もしくは禁じる場合、では残された知以外の領域(知と完全に綺麗に分離される知以外の領域なるものが存在しうるかどうかも疑問だが?、仮にあるとして)によって表現される処のものならば、一切の解釈(性)を帯びないのか、ということも問題として残る。つまり知的解釈を排した 生成/表現(Dが言う処の、理解しようとせず、現状を把握=解釈 することもない生成)が、その非人称性の有り様が、世界への「解釈性」を一切帯びないでいられるのかという問題。それも一種の(ひとつの生成という)解釈ではないのか、という問題である。私見では、生成/表現に於ても(或る生成による世界という)解釈となるのだし、またその生成/表現には、何らかの形で知的なものが介在・反映せざるを得ない(厳密には知と生成は精緻に絡み合い切り離せないし、絡み合うことを禁じることも出来ない――ローベルト・シューマンもしくはベートーヴェン)、という事になると思う。また、それでよい(=生成に何らかの責任を持とうとする以上、自然である)のだとも思うが。

それはともかく、一端この著書に戻るとして、実際読んでいて興味深かったことは、以下のような点である。さらに具体的に見ていきたい。

D=Gが、精神分析を、ひとつの端的な舞台とし、指摘していた問題提起により、いずれも彼らの時代の精神分析の実態が、もっとも反『弁証法』的な――この反『弁証法』的の意味は、D=G、またデリダなどがしばしば用いるヘーゲル弁証法(線形的・逆行的で結果論的に整理され全可視化・明証化されたそれ)やマルクス唯物弁証法(<最終的には>下部構造が上部構造を規定する、としてその体系を<閉じた>ことにじつに端的に現れている)のような形骸化・イデオロギー化した弁証法、疑似弁証法の方を指している――思考と同様の誤謬をおかしていたことを知る。と同時に、同著書においてD(D=G)の促している方向とは、おおむね、本来的意味での、永遠に開かれた(=態度として開かれ、個別の生成のケースとしては一端閉じられるがまた再開される)、逆行しない、生まの弁証法(これは後述することになる)的思考と方法に、重なる方向であるといえるだろう。ほんらい人間が行う「解釈」というものは何か、それがドゥルーズやデリダらの鋭く指摘しているような反-弁証法的思考でありつづけては本末転倒である、と思われるだけに、私としても拙なる感想を付しておきたい部分となった。

Dは説く。

p64 解釈なしに、状況を理解することなく愛することができるようになれ。
p78 あなたの秘密はあなたの顔とあなたの眼につねに見られる。顔を失え。記憶なしに、幻想なしに、解釈なしに、現状を把握することなしに愛することができるようになれ。ときには枯渇し、氷結しあるいは氾濫し、ときには合流しあるいは分岐する、そんな諸々の流れだけがあればいい。

と。

が、他方では表現=生成について、こう言っている。

p 不明 それはひとつの作動配列アジャンスマン、言表行為の作動配列なのである。ひとつの文体とは、自分自身の言語(自国語)において吃るようになることである。…そのように吃ることの必然性がなければならない…自らの発話(パロール)において吃るのではなく、言語活動(ランガージュ)それ自身で吃るのである。自分自身のラング(言語)において外国人のようであること。逃走線を描くこと。

このように、表現=生成する自己の中の異邦人を、そして吃りを、Dは評価する。ところでそもそも吃りとは何であろうか。思うに、吃りこそは解釈――状況-自己(の分身)関係の振り返りをかねた意味の――見知らぬもの=他所を、此処に招き込む、またはその反対に此処をさらなる他所・他の位相へと渡す――ずらしであり、メタモルフォーゼである。解釈は、ニーチェ=ドゥルーズ的にいえば、「弱さ(世界を知ろうとする近代的知の欲望の起源は弱さ・ニヒリズムである、というのが彼らのスタンス)」であると言えるのだろうが、じつはそれとともに「誠実さ」としての現れである、と捉えたい。こういうとDとDを「よく知る人々」は笑うのかもしれないが、自己の中の異邦人・吃りは、(パロールに於いてもランガージュに於いても)「解釈」志向の<誠実さという側面>としての現れであろう(シューマン=ホロヴィッツ。VORT-DAはその起源なのか?或いは最も端的なあらわれなのか…)。そして吃りはなによりも、好むと好まざるとに拘わらずこの世に生まれて来、そうであればこそ否応なしに他者のただなかに生かされてある以上、そうした「非連続」の連続の運動を余儀なくされる他者との接近戦・ゲリラ戦(**P88/江川隆男氏解説部分 p236 哲学とは「折衝・交渉;pourparler」であるとのくだり、 Dの言葉。)のただ中で、少しでもよく生きようとするための<状況-自己>理解の余地を顕すもの(生成の軌道の描く<非連続の連続>における「非連続」の正体・意味の発現現場)以外の何ものでもないからだ。

**… 哲学は、私たち各人のうちでの他の諸権力に対する折衝であり、自己自身のうちにすでに浸入している諸権力との戦いなき戦争、ゲリラ戦である。この意味において哲学は一つの接近戦である。哲学は、諸権力を構成せず、諸権力と混同されないが、しかし自己自身のうちで諸権力との真の接近戦をなすものである。それは、到達不可能なほど遠くの、それら諸権力の中枢や源泉に、もっとも破壊力のある非物体的な武器を仕掛ける意志をもった接近戦であるだろう。(補筆)

「p11 理解すべき何ものもなければ、解釈すべき何ものもない」、とD=Gは言うが、吃りこそは謂わば、状況理解の反映だろう。保留――別の生成への余地と方向性をたえず予覚しつつ、準-外を孕みつつ、見えないものを現働化しようとすること。「非連続」の連続つまり吃り(時間軸の空間化?)とは、解釈の余地、ひとつ外での「此性」の、すなわち潜勢的なものの現勢化の “ 把持しなおし ”である。

ところで、では精神分析ののぞましい姿、患者の治療(すこやかな生成の現働化)とは、どうあればよいのだろうか。生成の邪魔をしない鉄則として、Dはこう言っている。

p126 ひとつの主体を表象しないこと。というのも、言表行為の主体は存在しないからである。そうではなく、ひとつの作動配列をプログラムすること。言表を超コード化しないこと。その反対に、言表がシニフィアンと称される布置の暴政の下で揺れ動かないようにすること。

和語にも――Dは、時に東洋を引き合いに出す――このような言い方がある「己を無にする(空しうする)」。西洋がともすると主体・主体と言いがちの処を、「構えず、虚心坦懐」「予断なし」に向き合う。そこでは世界は所謂対象ですらなくなる。書物を読解するのにも、(平たい言い方をあえてすれば)主観を交えずにその著書の文脈の流れだけをできるかぎり追っていくと、文脈とともに著者の負っていた状況すなわち「条件法ごと」見えてくる地点が現れる。そこで現働化してくるものが、その「生成者自身のシニフィアンでもある」という仕方で現れてくる(シニフィエなきシニフィアン、シニフィアンス)。つまりここで著者が何の地平を「前提に」しておりそこに於て何に抵抗し、何を守ろうとしているのかごと、理解できたりもする。もとい、理解するとは本来、また実際、そのようでなければならない。

が実は、それは必ずしも容易ではない。ことに、読み手の個人的事情が絡みやすい場合がそれだ。読み手自身の資質や、当座自分の抱えつつ押殺している問題に、その内容が偶然近かったり触れたりする場合には、ことさら顕著にその問題が立ち現れる。どうしても読み手の側の神経や志向性が敏感に反応するがゆえ、これを抑えるのは相当の熟達さが必要であって、十分な訓練を受けた大家ですら、時にはその案件に手慣れていること・他よりはるかに熟知している(近くにいる)ことを以てしてかえって陥りやすい罠さえ――その、「予断のなさ」を保証するものが不在であるだけに――ありうるといえる。まして素人に於てをや、ということなのではあろう?、今回実は私が心配している問題のひとつも、実際この障りに突き当たっているのかも知れない。というのは、D=G自身の言う、「理解すべきもの・解釈すべきものなど何もない(p11)」、という或る種の不自由さを帯びてみえるシニフィアンをどう相対化するかが問題となってしまう。すなわち生成を遂行する際、また生成を追う際に、解釈の余地が生じうる地点、つまり諸々に自律的な生成の遂行を余儀なくさせている処の、世の中に通底している <からくり=マジョリティの姿> が見えてくる地点と、さらにはそのからくりをこの際大いに利用しようといつも手ぐすね引いて待機している人々の目論見の、見えてくる地点。その怖ろしさゆえ、動態においても或る程度俯瞰的な視座から、脱主体的生成をなしつつある当体銘々の責任に於いてその実験的解析の地平を失わないようにしたいという思い、逆に言うと諸生成の経験がタコツボに終わらないようにという注意を、尊重したいのだが、「解釈するな・現状を把握することなく」生成せよ、と言われてはそれが禁じられてしまう。

勿論、D=Gが解釈するな、実験せよ、というにはそれに足る十分な理由と正しさがある。彼らは体系化(閉じられた-「樹」系)を回避する。その体系的知が陥りがちの性癖も、逆行などの形で先述した。ただだから、ツリー化をば差し控えるとしても、また実際それが彼らの言うように今度は地図化;プログラム化された場合でも、その記録装置の<<適用者ないし敷衍者>>として振る舞う「代理」を何らかの仕方で通す方途が無くならない以上、また派閥化などを含めそのように方向づけるシステム自身が無くならない以上は、元の木阿弥という危険性がある。つまり上述したこの思考の向きと質の問題が克服されぬかぎりは、いくら語りの座標軸を歴史→地理へと移行したり、表象を樹→草、体系→プログラムへと代えて行くにしろ、また論理的な言語から暗号的言語へと移行するにしろ、畢竟いたちごっこと言葉狩りになってしまうだろう。

だから言ったのだ、解釈するなと。と言われるかも知れない。が、すると今度は、結局それ自身を私たち人間社会が乗り越えるのは、はたして解釈する「な」に拠ってなのだろうか、という根本的問いが生じる。むしろ、より健全な解釈を求めよう・よりすこやかな解釈の「生かし方」を求めよう、とし「解釈は施しつつも、この生に於ては、誰にも取って代わられぬ生成者たれ、共感体のなかでの生成者たれ」と言われるのが、望ましいのではないかと思えてならない。というのは、こういうことだ…。何を最も重要な問題として考えるのか。知の功罪を問うて、知識人自身が知(伝達可能な手段を用いる知)を否定し放棄した時、我が意を得たりと喜ぶ人々がいないだろうか(彼らこそはそもそも、私たちの最大の敵ではなかったのだろうか)。そのことに拠って蒙る損失は、計り知れないのではないだろうか。また過去に我々はそれに似た過ちを侵してこなかっただろうか。システム(逆行する知-思考のシステム)に支配される不合理からも、システムを操るマジョリティ=権力装置の魔の手からも、私たちマイノリティの生成が逃れるためには、不可視な状況をあえて把握する権利を捨てないことが、むしろ重要なのではないだろうか。各々において責任ある「解釈をしよう」とすることを<以て成功する>だろう、とまではかりに、言い切れぬにしても、せめて(もっと広く深い意味での)知を働かせること=状況を理解し解釈を試みること、それなくして、システムを操る権力装置にいい所取りをされるのだけは、かろうじて回避できるようにしたい、ということだ。これもまた、後述する。とにかく「狭い知性」による反弁証法的なシステムの運行の行き詰まりにより、知が知を放棄し、それを以て<代弁装置-権力装置に好都合に利用され>、私たちの社会を支配されないこと。少なくともそんな無念な仕方で、意図的に抽出されたシニフィエ(代理象徴者)が、この現実の政治-社会に於て個々の生成者の生へと逆行してこないこと。それを希うのみということだ。

たとえば先の精神分析の場合で言えば、自分でもよく見えていなかった、「状況づけられ方」を知らされること、己を状況づけているもの、己自身にもまだ見えていない処のものが、それに束縛されていた自分の<分身/処遇>ごと見えてくる(=到来)ようになること。それを援助してくれるのが、そもそも精神治療のはずであるのに、これを無視した形でただたんに機械的にシニフィエを「挿填」されないことが、患者にとっては大事だと言ったが、ましてやそのシニフィエ=表象代理が、社会のイデオロギー装置に取って代わられたとしたら?…そう思うだけで、ぞっとする。私たちの「知」とは、本来そのような不幸に我々が陥らないよう、危険を回避できるためのものでは無かったのだろうか。少なくともそのことに貢献できなくて、よいのだろうか…。また生成自身も、そのような状況理解と無関係でばかりいられるのか。もし「知」では貢献できないし、これまでも出来なかったというなら、それは知(解釈)そのものが罰され破棄されるべきなのではなく、知の有りよう・射程範囲の狭さ・解釈の「仕方、向き」の問題ではなかったのか、という問いが、やはりつよく残る。いわば生まな人間の経験自身が一つの表象代理に取って代わられぬようにすること が、とまれ、重要になってくる。

さて、たしかにDの列挙するこの、解釈の陥りがちな性癖と弊害。形骸化し逆行する弁証法;非本来的知。これを回避するためにこそ、私たちは結局 「外/間」 「~と共にある」の地平を述べなくてはならなくなる。が実のところ、この形勢と地平こそは、本来的意味の「解釈」の地平ではないのだろうか。Dが評価する処!の「吃り」=『と、と、と』。もしくは 現勢状態のさなかにある時間軸の空間化、という名の “省み” 。そういう交錯を織り込んだ、我々の生という、時間の流れ。たとえばローベルト・シューマンの音楽――Dはシューマニアーナであったらしいが――etc..それらはまさに「理解-解釈」たるもののすぐれた具現体では、ないのだろうか。


さて、もうひとつ、Dがフランスの知識人に端的に見られる としている、解釈症の問題について触れたい。これはじつは上記と重なる面も大いに有るが、Dの把握によると、解釈症は、生成/表現において最も大事な実験精神を縮減させる、という。大いに肯け、卓見が随所に見られる。

これを私としては、こう捉えたい。先にも触れてきたように精神が、現働化しつつある生成に関し、つい統一性・完全可視化(まったき明証化)を志向しがちであること、また(同じことだが)結果論的-逆行的に物事を見、批判しがちであること。これはじつは、解釈症の問題にもつながる。批判精神の強すぎること(スタティック・整理癖、全可視化スタンス)が生きる上での愛を欠き、実験しつつ前進する精神を失うこと。とともにこれは、精神の(自己)同一性志向、一対一対応志向、ナルシシズムの問題等にも繋がる。精神がそうした性向を帯びるのに対し、逆に生成とは、あくまでも動態であり、つねに暗示的・不可視的状況下にあり、位相が錯綜し、つねに実験せざるを得ないこと。このギャップに、人間の生・生成が晒され引き裂かれる、という危険が事実ある。

フランス人の知的すぎる解釈症について、Dはこう述べる。示唆に富み非常に興味深かった。該当箇所以下。

p76 ローレンスは、フランスの文学全体を貫いているように彼にみえるもの、すなわち「不潔で小さな秘密」への偏執を告発していた。登場人物と著者はつねに小さな秘密をもっており、この秘密が解釈することへの偏執に滋養を与えるというのである。…「シニフィアン」なるものが発明されて以来、物事はうまくいかなくなった。言語を解釈する代わりに、言語が私たちを解釈し始め、そして自分自身を解釈しはじめたのである。意味形成性(シニフィアンス)と解釈症(解釈せずにはいられない性質)は大地における二つの病気であり、専制君主と司祭のカップルである。
p78 あなたの秘密はあなたの顔とあなたの眼につねに見られる。顔を失え。記憶なしに、幻想なしに、解釈なしに、現状を把握することなしに愛することができるようになれ。ときには枯渇し、氷結しあるいは氾濫し、ときには合流しあるいは分岐する、そんな諸々の流れだけがあればいい。

p79 逃走するとは、現実を生産し、生を創造し、武器を見つけることである。一般に、生が個人的な何かに縮減され、作品が自らの目的をそれ自身のうちに見出すとみなされるのは、同じ間違った運動においてである。…フランス文学は宣言、イデオロギー、エクリチュールの理論に満ち溢れており、また同時に、人と人との争い、調整の調整、神経症的な心遣い、ナルシシズム的な審判に満ち溢れている。…フランス文学はしばしば神経症の最も恥知らずな讃辞である。…それは下劣だ。それはつねに世間の最善なる意図に収まっている。生が矮小化されればされるほど、作品は偉大なものにみえるようになっていくわけだ。こうして作品を貫く生の力能を見ようとする大胆さが失われる。何もかもが前もって押し潰されてしまっているのだ。作品が提起する究極目的としてのおおきなシニフィアンを賦活し、生が想定する便法としての想像的な小さなシニフィエや幻想を賦活するのは、去勢におけるのと同じルサンチマンであり、同じ嗜好である。ローレンスはフランス文学を、治癒し難いほどに知性的であり、観念論的かつ理想主義的であり、本質的に批判的であり、生の創造者であるよりもむしろ生の批判者であると言って非難していた。文学におけるフランスのナショナリズム、それは判断し判断されることへの凄まじい偏執がこの文学を貫いているということだ。フランスの作家と彼らの登場人物の中にはあまりにもヒステリックな人が多い。憎み、愛されたいと望むのだが、愛し、賞賛する能力をまったく欠いている。実を言えば、書くことはそれ自身のうちに自らの目的をもっていない。それはひとえに生が個人的な何かではないからである。あるいは、エクリチュールの目的とは生を非個人的な力能の状態に運んでいくことである、と言ったほうがよいかもしれない。

解釈の更新とは、生成の当体がマイノリティであることを自動的に余儀なくさせられる無名主体の変容でありながら、同時に、これを隙あらば中断させ封殺しようとするマジョリティ(繰り返すが表現者の純粋な欲望を自動的に-余儀なくマイノリティにさせる処のマジョリティというのが、つねにすでに存在しているのであって、この政治性こそが最も問題である)が形成される仕組み・不思議と決まって素描される描線の罠と、想定しうるあらゆるパターン(つねにその民族国家と時代に相応しい新しい形姿を纏いやって来る)を検知し解明し、これに挑みこの危険を乗り越えようとする「開かれた知」的試みでもある、としよう。が、解釈の更新がエクリチュールの非人称性へと解放されず、表現/生成の当体の自己同一性の側、すなわち(表現の扱い手そのものがもっとも誤解しやすい)自己自身へと向かうとき、解釈症は起こりうる。解釈症とはいいかえれば、生のリアリティ(他者の存在する場、炸裂可能性=意味の出現可能性)を閉ざした場に他ならない。未来にむけての時間が閉ざされており流れの凝結している状態であって、この問題はナルシシズム・エゴイズムとも濃密に絡み合うし、表現の場合にはヒロイズムとも絡みうる。またエゴイズムの場合殊に、私見では、生成の質とも不可分ともなるのであろう(D自身は強度=質、としているが)。

ただ、ではだからといってこのからくりの克服のためには、一切解釈するな(知の破棄)、というのが正しいのであろうか、というのがまたしても問題になってくる。かえって注視されない自己への異常な憧れ、観察しようとする自我への憎しみと強烈な解放願望から、その精神は萎縮し空転するか錯乱してしまうだろう。だいいちそれでは逆に「この人を見よ」的なエゴイズム・ナルシシズム・ヒロイズムの固執からも自律的になれない、という皮肉な精神のからくりをすら感じる。観察しようとする自我への憎しみ・放棄願望は、じつは代理者願望的なエゴイズム・ナルシシズムの魔的固執ともおそらく不可分であるし、後述する自己破壊の問題とも通じるであろう。


ともかく、観察され解釈されることそのものから逃亡しようとするその姿も、精神による身体の支配と同様に、まったく自然でない。私たちのありのままの姿とは、むしろ、自己を生々しく不透明だったあの状況へ、生成へのリアリティへと返されることでかえって自然と得られるのだ。気づきの自我の介入を禁じれば禁じるほど、気づきから注視へ、注視から監視へ、批判へ、懲罰へと滋養(!?)される自我のそのからくり。そうした偏執から解放されるには、つまり無心(たんなるわれわれという準-事実)に近づけるには、――馬鹿馬鹿しい言い方をするようだが――不可視性にみちた生の状況へ、生まの “ 状況のリアリティ ” へと一端返されることである(遡行)。がしかもそれは、ただたんに「もとへと返す」のではない。未来がどうなるか解らないなりに、今は前の状況と自己の関係をひとつ外から(自己をも他己をも或る種の分身として)俯瞰ないし観照しうるのだから、その視座から、状況のありようを責任を持って解釈しつつ進もう、というべきではないのだろうか。解釈することの一つの大きな問題は、解釈「していること」自身より、「状況をでなく自己自身を」解釈していることが問題なのであり、自己が自己自身によって状況(自己-他己)との関係から<抽出>され、シニフィアン-シニフィエの空転状態とされていること、つまり生まに「状況づけられていない事」そのものが問題である。解釈が、「状況への」判断となっていないことのほうが、問題である。前術の問題とも重なるが、解釈自身を放棄すると、生成のマイノリティが状況(多くの場合マジョリティ・権力・イデオロギー装置・ファシズムへの陥穽等の危険を孕む)との関わりからどう自由に振る舞いうるのか、これをどう克服しうるのか、を、その生成/表現 に於て責任をもって選択しえなくなることは、一層問題である。また、その克服の仕方を、どう他者に伝えれば、それを社会システムとして(たとえ問題によってはその来るべき時代の到来そのものは、まだまだ先であろうにしても)共有しやすくなるのかを伝える権能さえも、これにより放棄することになりはしないだろうか。

解釈が、本来向かうはずの、動態である自己-状況(自己-他己の間・外)にではなく、スタティックに既成の自己自身へと向かうとき、解釈は解釈症になる、ということ。これを確認した上で、かえって不安になるのがこのような点である。つまり精神にそわない身体的存在を、精神が支配者として抑圧し、抹殺さえするのが私達に危険をもたらすと同様に、今度は精神(意志的精神)が精神(理知)に異様な懲罰をくわえ、これを放棄しようとすること。(スピノザの姿勢はこれとも異なるはずである。ニーチェはどうだったのだろうか?全ての知は解釈にすぎぬ、という処から、知=禁 解釈=禁 という仕方で、彼ははたして解釈を「禁じた」のだろうか?これを抹殺することはじつはむずかしいが…。逆らうこと・憎悪するを以てして解放されるかにみえるが、鳥もちにかかるだけである)これを志向してしまってはいないだろうか。これ、つまり解釈すること=鏡に映し出そうとする自我の働きそのものをいたづらに禁じ抹殺することも、同様に我々を過度に傷つける。何某かの危険から(繰り返すがここにはじつは根拠がある)我々を守るべく注視する自我、振り返る自我を、あまりに敵視することが、今度は人を無監視状態への憧憬という慟哭、つまり狂気へと、誘ってしまう。日常的実践の問題としては座禅を組むことで乗り越えようとする人もいるだろうが、表現の場などでこれを貫通させることは容易でないし、専制やファシズムを含む権力装置(それは、表現者の外からも、内からも!やって来る)へと吸収される危険の問題からしても、表現においてそうした一切の危険を回避しつつ、同時に監視ないし意味付与する自我に一切侵されないというのは事実上不可能と言える。だから問題はあくまでも、意味付与ないし観照のあり方と向かい方である。それがスタティックな自己同一性に基づいているのでなく、既成の表象代理(べき)から生-生成(である=となる)へと一方的に挿入されるのでもなく、状況自身と、それを形勢しつつある力・作用の全容へと向かいつつ同時にそれ自身を外化する態度を保つものであれば、少なくとも不健全ではないのである。

むしろ表現/生成者は、このような点に気をつけるべきかも知れない。今はマイノリティであるところの或る表現が、社会-大衆化によってマジョリティとなったあかつきにも、危険をはらまない質のものであるかどうか。その出自が、既成の秩序やイデオロギー・「薄汚い」権威道徳への復讐心から、あわよくば他の生をも奪還しようとする力能に動機づけられた生きる意志ではないように…。気になるのはいつもこの点である。


ところで自己解釈はナルシシズムの問題を喚起させる。

ナルシシズムとは何かを、たとえばシューベルトには、よく考えさせられる…。鏡。ただひたひたと容赦ない対面と直視が彼にはある(その縁から変幻自在な水鏡へと移るにせよ)。だがそこから出てきた言葉は「私は美しい」でも「この人を見よ」でもなく、美しいのは授かった才能と信念から生まれる音楽。ありのままの人間の姿とその純浄な変容とがあるだけだ。だから彼の彼の鏡像とは、ユニゾンの場合でさえナルシシズムというよりはむしろ、分析者と被分析者の間の転移であるかのようだ。かれの音楽には無意識から洩れてエクリチュールの影を媒介し殆ど他者と見まがうほどの相貌を帯びて再来した分身による、その膜の外もしくは準-外からの、振り返りざまの意味付与(シューマンのような)はあまり、登場しないといってよい。無意識から自我、超自我への距離が短く強靱で密度が濃く、息苦しいほどに漏洩が少なく?、むしろ無意識の膜に観照する理知性が張り付いており、力能の均斉がとれ凝縮されている。そのため、変容の発生のためのリズムに、さして大胆なバネ=跳躍力も登場の必要がないほどである。彼の音楽にはモーツァルトとはまた違った意味で「3度」のもたらす自発性の効果がおおきいが、水鏡を帯びるにしたがい、その輪郭はたちどころに曖昧になり、魔的もしくは霊的吸引力をおびる。時には凄絶でさえある反復強迫にみちたその音楽は、あまりに生の直接性・根源に位置したままでいるために、隠喩の手垢すらついていない。

それはともかく、話を元に戻せば、生成におけるそうした<傾注・理解のスタイル>は、意味付与型か、観照型かなど、人の資質による相異の問題もあるのでともかくとすれば、おそらくひとついえることは、「この生成に於るナルシシズムのからくりの克服」そのものを、むしろ表現に盛り込むことにより、これを共有し、ともによりよき生成へと参与しようと…。そういう生成もありうると。そしてより健全な――自滅しない・破綻しない――生成へと向かおうと。

D自身、マジョリティというものをこう把握している。以下、引用。

p25(ハイデガー問題のくだり)思考が人々に向かって、<私のことを真剣に考えなくていい、というのは私があなたたちに代わって思考し、私があなたたちに見合ったものを、諸々の規範と規則を、ひとつのイメージを与えるからです。あなたたちは、「それは私に関係ない、重要なことではない、哲学者たちや彼らの純粋な理論に関係することだ」と言えば言うほど、そうした規則や起案に従うようになっていくのです>と言うとき、それが思考の権力機構の効果であるということにまったくならないわけではない。 哲学史は哲学において、そして思考においてさえも、つねに権力のエージェントであった。

こう言われる時、それはただしい。だが哲学史(偏狭な知の範囲)だけでなく、もっとやっかいなのは、社会体制・政治権力こそが好んでそう言う(「私たちが代弁者だ。任せなさい」と言う)こと、つまり我々ひとりひとりに考えさせない、ということである。自分自身の目で見、肌で感じ、足で歩いて行こう――それは何も理解し解釈しない、まして現状を把握しない、のではなく(実のところ、人間にとってこれほど「不」自由な、不安に満ちた状況はない)、むしろ逆に自分自身で考えよう――とする人々、もしくは自分ひとりで考えざるを得ないほど追放された人々、いずれにせよ(その判断がほんとうに正しいか間違っているか、あるいは後で振り返って正しかったか間違っていたかはともかく)理解・解釈・判断<する>ことによって「かろうじて生きて行ける」人々、「精一杯意志的で・自由であろうとする」人々である。彼らが身を挺して避けたいのは、「真剣に考えなくていい、というのは私があなたたちに<代わって>思考し、イメージを与えてやるのだから」という人たちと装置の罠であるにちがいない。


状況ごとの生(人間)理解、とは、逆に「マジョリティ理解」とも不可分であろう。むしろマイノリティである生が、本来如何にあるべきかをよく知るにも、マジョリティとはいかなるものかをよく知ることが必要だが、それはどちらかというと、こういう理由からだ。権力装置にとって、哲学者らが率先して「だからいっそ解釈するな・知を働かせるな」と言ってくれるその言い分ほど、大衆操作するにおいて好都合なものはない、ということ。この立場に立って、哲学と哲学史を考え直してみることがおそらく急務である。

マイノリティの生成にあたり知が悪い影響を及ぼし「うる」ことを以て、精鋭に知そのものを否定すること(不可知論でも相対主義でもアナーキズムでも何でもよいけれども)は、はからずも 権力装置を肥やしよろこばせることに、何より貢献する。この点を見落とすとき、昨今の哲学および哲学史の意義は本末転倒になるだろう。

知を利用する権力装置は、不断に相貌を変えてやってくる。私たちはよく「歴史を語り継げ、<あの>戦争を忘れるな」、というけれども、権力装置は、二度と昔と同じ姿、同じ仕方では現れない。つねに新しく、親しみやすい形姿を纏いやって来る。つまりマジョリティ(権力+それに乗じる大衆)がつねに、いかなる仕方でマイノリティの生成の生命線(Dの表現では、折衝的=政治的であろうとすること)を奪おうと企み、手ぐすね引いているか、どんな仕方で自律的生の封殺へとアプローチしてくると考えられるか、そこには或る共通した老獪にして執拗なる装置が隠されているだろうが、これを<統合的に>探究しえないか、という、新しい解釈への希望を、やはり諦めるわけにはいかない。勿論それは、文献(至上主義)としてのではなく、人間理解(学)としての解釈(学)への。と同時にそれは、この自己自身も、いかにして自由なマイノリティから疲弊したマジョリティへの変貌を遂げてしまいかねぬかへの探究とも重なるけれども。

じっさいD自身、解釈・解釈症を禁じつつも、生成(=逃走)の過程に於いて、こうも言う。

ファシズムから逃走しつつ、私たちは逃走線の上でファシストの凝結を再び見出す。すべてから逃走しつつ、どうしたら…私たちの権力形成を…パパ-ママを再構成しないでいられるのか。逃走線が…純然たる自己破壊の運動と混同されないようにするためには、どうしたらよいのか。

と。

その危機をファシズムと、または自己破壊と、察知し、理解し、この危険からみづからの生成の軌道を死守しなければならなくなる…。いわば、「私(主体)」と言う権能を奪われているその領域で責任を取らされるようなものである。が――にもかかわらず――(状況-自己/他者-自己への)「理解-解釈」の正しい位置、理性のもとよりの役割と持ち場はここにあるはずなのである…。理性にそんな働きなど出来るか、と問われるかもしれないが、たとえ理性がこの場を去ったところで、我々の生がこれらへと陥る危険性そのものも無くなりはしない(Dのいう、「ファシズムから逃走しつつ、私たちは逃走線の上でファシストの凝結を再び見出す。すべてから逃走しつつ、どうしたら…私たちの権力形成を…しないでいられるのか。」の問いそれ自身、理性を罰したところで無くなりはしない。というのは、私たちが物事をみずから理解し判断しないようになることを望む者達が居る、そのからくりが無くならないからだ)。むしろ理性が立ち会っていなければ、喚笛(ホイッスル)すら鳴らせない…。とはいうが、畢竟理性が警告したところで、マジョリティの巨大さと狡猾さには勝てまい、われわれは実際いつも敗北してきたではないか。キリスト教的欺瞞;神の代理者、ファシズム、ホロコースト、スターリニズムetcetc..、と言われるかもしれないが、だからこそ私たちは、これらの経験を個人的な経験、或る民族固有の経験・或る国家固有の経験に、タコツボに、終わらせてはいけないのではないだろうか。むしろ共有のために、諸々の表現を自由に確保すると同時にそれら表現の集積と伝達の地平、さらなる実験的解析の地平を、提示しておく必要があると言えないのだろうか。

おそらくこのことは、Dに手厳しく(自己?)批判されるところの、フランス文学・哲学ないしフランス国民が、何故こうも「*治癒し難いほどに知性的(ローレンス)」に成らざるを得なかったか、を語っているともいえるだろう。彼らが何故これほどにまで批判精神に富み、解釈症にまで陥ったか、その敵は何だったのか。フランス人が、他国民に比しより優れていた敏感さと視座。理知を、神経過敏なほど発達させなければならなかった背景。すなわち反帝国主義、反イデオロギー、反ファシズム。反覇権主義(反-他国領土侵犯、反フロンティア精神? 但、ナポレオンを除く)…総じて封殺的状況に対する感覚の鋭さ。彼らの敵はだから、本来生成者をおのずとマイノリティにせしめるところの、多様な意味に於るマジョリティであり、権力装置・代弁装置ではあった。知的批判精神が、実際おそらくもっとも向かおうとしていたはずのもの、また実際向かうべきであったのは、マジョリティ-権力装置の、誕生の地平及びそれへの分析なのだろう。


さて、解釈症に陥るに足るだけのそうした危険にみちた背景についてはともかく、健全な生成/表現、というものそれ自体を考える場合、Dの言うように、実験精神について、考えないわけにはいかない。解釈症を発する背景と、解釈症の罪・表現に及ぼす阻害と損失は、あくまでも分けて考えなければならない。

たしかに生成が健全でダイナミックに行われるためには、実験精神の旺盛であることが必須である。というより、それ以外に前進のしようがない。解釈症を併発している心においては、生き延びるための基本的な自己肯定すら欠いており、実験精神の大胆さが損なわれるだろうことは想像に難くない。表現者と解釈者、両刀使いにならなければならない、などと同一次元に於て言うのもたしかに非常な困難と精神的危険が伴う。

Dの捉える、よく生きるとは、たくましい生成とはどういう事か。哲学に於いては経験主義、文学に於いてはフランス文学と対照的な英米文学の例などを挙げつつ、Dはこう言いたいように思われる。自我の(徒らな)発達は、生に対し批判的な態度(愛の欠如)に陥り、生の力能・生産性・実験精神を欠き、生を矮小化し、<大胆さ>を縮減させがちである。「幻想なしに、(自己)解釈なしに、現状を把握することなしに愛することができるようになれ。」と言う言葉の正しさが、たしかにある。それはたとえば、ともするとあまりに批判的精神の卓抜なために生成的力能と神経の萎縮しがちなシューマンの音楽にも言えることで、この批判精神・解釈能力の発達した人間が、同時に生成者として要求されるある種の<大胆さ>を表現当体に呼び戻すためには、想像を絶する負担がかかりがちな所があるに違いない。
本書の文体からも、みずからがフランス人の潔癖症と異常なほどの繊細さを併せ持つとさえ思われるDの口から発されるこの言葉は、むしろ大胆にも良心的というべきだろう。この意味を汲み取るとき、彼を繊細さという武器を放擲し開き直ったアナーキストだとか、みづからの潔癖さゆえに自暴自棄な不可知論者だなどと片づけるわけには毛頭行くまい。

実験的であることを強くDは推奨する。たしかに、無意識に任せて(そこでは自我意識がいちいち介入せず)実験的に色々吐き出させるのはいいことなのだろう、また結局それしかないだろう。とりあえず無意識を基本的に肯定し跋扈させておくこと。ただこれが地理的か歴史的かは、その人間の無意識・潜在意識の質に任せれば良く、どちらかにイデオロギー化しなくともよいのではと思うが。おのずと、一度その無意識による軌道=時空の軸を、意識が、反省ないし観照という形で「空間化」を行うこととなるだろう(それが、D=Gの行った地図・プログラムの作成に当たるように思われる?だから彼らは「解釈」(学)が本来やるはずであった位相の仕事を、実践していることになる)。

がひとつだけ気になることは、実験精神によって遂行されるその生成/表現の、質の尺度である。D自身は、質を「強度」でのみ表す。が、私にとっては、その生成の質の根源を問わなくてよいのかという疑問が残る。いかなる根底から発された生成であるのか。愛と、生きる意志=力というけれども、それは他者をも生かす・共生する意志(Dのいう「と」・「とともに」)で表現されているのか、それとも自己のみを愛し生かす(願わくば他は黙らせるor封殺する意志「おれが非人称という名で代わりに語っているのだからお前たちは語らなくてよい」)で表現されているのか。そして(繰り返すが)その生成に関し理知が、状況理解-解釈が、ほんとうに介在しなくてもよいのか。ともすると己から生成される軌道そのものが外や間を失ってマジョリティへの生成を含みつつあるのではないか、といった事を意識=理性がチェックしなくてもよいのか…。己の無意識-潜在意識の描く生成が、他己の自律性と自発性を同時に尊重し、外・間に開かれているような質のものかをチェックしなくてもよいのか。むしろここ(生の最も深く根源的領域)で、あえてD的に言い換えれば表現の強度の「質」が、生の根源の名に於ても、同時に(同じ次元から!)道徳の名に於ても、問われるのは仕方がないのではないだろうか。専制権力から真の意味で自由な生成を守ることのためには、諸々の生成自身を外のマジョリティとの折衝からも、同時に此処から生み出す生成の内なるマジョリティ(超越性もしくは非人称性という名のもとでの自己唯一絶対化、という罠)との折衝からも、おそらくそれは問われなければならない。そういう「非連続」の連続的な意味で、意識すなわち「と-ともにある」を肯定する自己(セルフ)=本来的理性からの意味付与ないし観照を受けることすらも、否定する(解釈するな・現状を把握することなく愛せ)というのは、やはり自然でない。この代弁主義の鳥もちを乗り越えないかぎり、執拗なるファシズムが再び形成される危険を遠ざけることは出来ないのではないだろうか…。生成当体の責任に於ても、社会全体の責任に於ても。

<< 第2点:構築性・自発性否定から肯定への箇所。文脈は次第にこれの肯定へ向かっていくのである >>


この点に関しては、非常に重要だと捉えてはいるが、簡便に記したい。

本書パルネとの対談の冒頭では、Dは 生成とは最も知覚しえないもの…「歴史ではない」、生成に於ける表現(文体)とは生の様態(生活様式)と同じように、「構築ではない」というのだけれども(p10)、他方では、否 読み進むに従い、「 諸々の形態の展開と諸々の主体の形成とに同時に関わる平面[*これは<組織体>と命名可能な平面である…Rei注]は、(お望みとあらば)構造的<かつ>発生的 であり 構成主義的 である、とする(p150)。また私たちの生=欲望を形勢する内在平面について(これを<自然>平面とも呼ぶことができるが)、ここでは自然-人為という区別なく…むしろ自然こそ(内在平面のすべての)人為を用いて構築されなければならない当のものである」、とさえ言い切るに至る(p152)。これは非常に意味深く、興味深いことである。

(所々、重要なDの論理について、※を施し、これらについての私の感想・意見は [※…] で記した。)

引用分を整理する。はじめのうち、Dの表現はこのようである。

p10 文体は生の様態(生活様式)と同じように、構築ではない。文体において、生成とは語でも、文章でも、リズムでも、文彩でもない。生において、生成とは歴史でも、原理でも、結果でもない。

そして次第に、このように移っていく。


p140 欲望はひとつの主体の内部にあるのでも、また対象をめざすのでもない。欲望が厳密に内在するのは、自らが前もって存在しない平面であり、構築しなければならず、微粒子が放出され、流れが結合し合う平面である。欲望が存在するのは、そのような領野の拡張が、そのような流れの増殖が、そのような微粒子の放出が存在する限りに於いてである。ひとつの主体を想定するどころか、欲望は、誰かが<私>と言う能力を剥奪されている地点でしか獲得され得ない。

p141 <あなたがそれを構築することに成功しなければ、あなたがそれをつくる術を知っていなければ、あなたは欲望することはない>、と。同時に次のことを言わなければならないだろう、すなわち、<存立平面はそれだけでつくられるが、しかしそれを見る術を知りなさい。そしてあなたは存立平面をつくらなければならない、それをつくる術を知らなければならない、※自ら全責任を負って、正しい方向を取らなければならない>

[※このとき、「解釈すべきなにものもない・現状を把握することなく…」というのとおのずから矛盾する。「不完全」「未整理」でもいいから、暗示性・不透明性に取り巻かれながらも一度準-空間化されること・(他者性を抱えながら、他者性に取り巻かれながら)或程度の見通しを持つこと、動態のさなかで外への可能性を保有しつつ俯瞰・観照することなしには、成しつつある生成に責任を負った方向の選択は出来ない]

p143 二つの平面を、平面の二つのタイプを区別しなければならないだろう。
○一方…<組織体>と命名可能な平面(=超越平面?、法則の平面)
諸々の形態の展開と諸々の主体の形成とに同時に関わる平面。(お望みとあらば)※構造的<かつ>発生的。いずれにせよ、相補的な次元、もうひとつ余分な隠された次元を、意のままにすることができる。というのは、それがそれ自身のために与えられるのではなく、つねにそれが組織するものから出発して結論され、推論され、帰納されねばならないから。例、音楽において、作曲の原理がそれによって与えられるものとの直接に知覚・聴取可能な関係の中で与えられるのではないのと同じ。したがって<自然>の、or<無意識>の深奥に埋めて隠すことによって、最大限の内在が貸し与えられるときでさえ、この平面は超越平面であり、人間or神の精神の中にある一種の意図である。このような平面は、それが諸々の形式・ジャンル・モチーフを組織し展開する限りで、そして諸々の主体・人物・性格・感情を割り当て進化させる限りで(=つまり諸々の形式を調和させ諸々の主体を教育する限りで)、<法則>の平面である。

[※上記が真の意味での弁証法的展開でなくして何であろうか。。勿論、この運動は同時にここに生のリアリティを感じる当体;Dの言う「此性」なしには生成なされえないが]

他方…<此性>を知る平面(=存立平面、内在平面?)
上記(前述の一方の平面)の事にまったく従事しない別の平面。運動と静止・速さと遅さの関係、(相対的に)形成されていない諸要素の間の関係、流れによって運ばれる分子・微粒子の間の関係しか知らない平面であり、また諸々の主体を知らず、むしろ諸々の「此性」と呼ばれるものを知っている。実際、あらゆる個体化はひとつの主体or事物の様態にも生起しない。一時間(一日・一季節・一気候・一年or数年・気温の一度・一強度・※相互に構成し合う諸々の強度)は形成された事物や形成された主体の個体性とは混同されない完璧な個体性をもっている。

[※これが、弁証法的展開を動機づけまた動機づけられる、諸要素の自存性・自律性でなくて何だろう]

p150 あらゆる作動配列は欲望を可能にする平面を構築することによって、欲望を表現し、欲望をつくるのであり、また欲望を可能にすることによって、欲望を実現するのである。欲望は特権的な人たちだけのものではない。それはまた、一度なされた革命の成功のためだけのものでもない。欲望は、それ自身において内在的な革命のプロセスである。欲望は構成主義的であって、自発性信奉主義的ではまったくない。

p150 グループであれ個人であれ、各々が自らの生と企てを誘う内在平面を構築するのだ。これが唯一の重要なことである…
欲望の唯一の※自発性とはそんなものだ。すなわち、抑圧され、搾取され、屈従させられ、隷従させられたくないということ。

[※それだけで十分なのだ、自発性信奉主義でなくとも…!だってこれが自発性そのものなのだから。自発性とは、生成者が人間である以上、すなわち意識であるにしろ生(欲望の当体)であるにしろ、物自体を掴むことは出来ず、まして物自体になることもできぬ<相対者>である以上、どうしても構築的なものであり、構成(主義)的にならざるをえない。それで十分なのである…。]

Dの言うとおり、生(欲望)は、権力保持者・特権的な人間だけのものではなく人間すべてのものであるから、誰にも代弁されることなく全ての人間において個別になされ、そのおのおの自律した歴史を繰り返されなければならない。と同時にそういうひとつの同じ構造において、通底させられている;閉じられることのない理解可能性。ドゥルーズ=スピノザの言う、「外」と「間」という関係の成り立ち。

p152 子供においてさえ、諸々の作動配列からなる諸々の政治しかない。あらゆるものは政治的である。プログラム(ダイアグラムや平面)しかなく、記憶や幻想さえもない。生成とブロック(幼少期・女性・動物性への。生成への現働的ブロック)しかない。…相互に交叉・結合・妨害し合う様々な線によって、内在平面の上でしかじかの作動配列を構成する様々な線によってつくられる…その内在平面は、当の平面を合成するそれらの作動配列に先立って、その平面を描くそれらの抽象線に先立って存在するのではない。私たちはつねに、その平面の内在性を示すために、それを<自然>平面と呼ぶことができるが、自然-人為という区別がここで関与している訳ではまったくない。その一方が他方に比し自然的である、といった幾つかのレヴェルを共存させる欲望が存するというわけではない。自然こそ内在平面のすべての人為を用いて構築されなければならない当のものである。

p155 欲望-快楽-欠如の間のこうした既成の同盟を断ち切るために、私たちは多くの曖昧さをもった、突飛な人為性を通過せざるを得ないのだ。…欲望の作動配列の日付を書き込むこと、それは歴史をつくることではない。それは歴史に表現と内容の座標軸を、諸々の生成という不定法・冠詞・此性を、与えることである(※あるいは、歴史をつくるとは、そうしたことなのか)。

[※ →然り]

つまり、Dが、自然-自発性の有効的に働こうとする観念を避けようとして、自然と人為とがいかに区別し難いかを語るほど、つまり自然がいかに人為的であるかを語るほど、われわれを動かす力がわれわれの歩みとともに<構築的>であること(構築されなければならないものであるか)を語っているのが興味深い。(p149~150前後,ことにp152)

この問題を、こうも言い換えることが出来るだろう。

理性的なもの<とされているもの>の陥穽指摘と理性全否定とを区別しなければならない。旧来でいう、二元論的な思考法、物自体を見出し得たと錯覚する等の性癖を持つ知と、より統覚的で広義な意味での理知性(以てこれを自発性、真の意味での弁証法、Dの言うところの「構造的・発生的」「構築されなければならないもの」であり「構成主義的である処の欲望 p150」と捉え直したい)とを区別しなければならない。

これはデリダに関しても当てはまる気がするが、知的なもの・解釈(学)から、すなわち世界や意味を知ろうとすることから距離を取ろうとすることと、弁証法から、または構築的で自発的なもの・歴史(時間的なもの)の勢成・シニフィアン(orという言葉)から<距離を取ろうとするのは何故か>、をやはり考えさせられざるを得ない。彼らが捉えているのは殆ど意図的にといっていい程、形骸化したほうの知・我々の現実の知より非常に矮小化された知の形態であって、本来的知のほうでない。近代知性批判はいいしその弊害を考えるともっともな話でもあるのだが、マイノリティの側に要求する知の質に神経質になるあまり、つねにすでにあるマジョリティ、権力装置+大衆のカップルの狡猾さ、知を放棄した者を立ちどころに餌食にする社会的存在と、彼らの本能に対する警戒を怠らないで欲しい、繰り返すが敵をきちんと見定めて欲しいというのが正直なところである。そうでさえあれば、本来の意味に於ける弁証法的思考、構築的で自発的なもの・歴史(時間的なもの)の勢成をなおざりにはできないはずであり、他の思想潮流との同盟関係・協力関係の強化へと、そのスタンスも移行するはずである。知の質に対する精鋭さが、言葉狩り・結果論的に出来上がった観念・言葉遣い・知のカラクリに対する過剰反応に陥り、以て結局、事の優先順位と条件法を忘れた思考の陥穽?にはまることになるのを、まずもって避けた方がいいのでは?という動機から、この感想を書いた。


<< 結論的なこと >>


認識の形式からおのずと専制的マジョリティを形成しうるからといって理知性の介入を避けようとするもの、ひいては近代的理知性――カントも物自体(Ding an sich)は認識できない、としているし、その手前のデカルトでも、近代理性特有の二元論的・機械論的性癖を帯びつつも、主旨としては実験的他者性排除を通じかえってその思考に於る不透明性・不確定性を受認することで(懐疑するかぎりでのみ我が在る。懐疑をやめてしまうとたちまち、懐疑する限りに於いて在る我も、なくなる、という論法)事実上独我論(自分自身に懐疑を向けぬまま我のみが正しく我のみが確実である)を乗り越えている。他者の知や過去の知を否定するばかりでなく、ここから「尊重すべき」事は、みなそれぞれの仕方で、封建的で形骸化した既成秩序や外的権威としてふるまう道徳、また既成事実といったものを精一杯懐疑し、ここ(絶対者の名を借りた支配的人間)から自律的であろうとそれぞれの仕方で闘っていた、という姿勢である。近代的知を罰するものが見落としがちなのは、理知性介在無しの生=欲望もまた(理知性とは違う仕方であれ)その生成によって世界への「解釈(相対性)」を免れられない、という点だ。そして同時に、それでよい、という点だ。だから、永遠に開かれる。理知性・認識を、生から遠ざけさえすれば、それで、生そのものが<解釈>を免れたことになるのではないが、生成もまた、世界への・世界という或る<解釈>を、その人なりの生成の描き方を通して<帯びる>。また、知的解釈からの監視・反省をば免れようと(これもDのいうフランス人的な意味での解釈症とは違うとしても、それも一種の脱解釈という解釈偏執症であろう)知的介入を抹殺してみたところで、生成の内外に執拗に襲来する<「危険」を免れぬ事>も、いっこうに変わらない。いずれにせよ、いずれに対しても、生きる力の<質>が問われることになる。理知性は理知性の働かせ方とも不可分な出自の質(=動機・イデオロギー性の有無)を問われるし、欲望(無意識-潜在意識)は欲望として・生きる意志としてのその出自の質=根源(愛と共生か排他性か)を問われる。

理知性(宗教・形而上学・社会倫理という形をとったニヒリズムとルサンチマン)のからくり。これを根拠にした、理知性とその道徳臭への憎悪がたとえばニーチェにはあるが、こんどは<その>ニーチェ的憎悪=ニヒリズム・ルサンチマンを以てしても、誤った働き方をする理知性からはかえって免れない。<形骸化した>理知性の働きのほうを理知性(弁証法)と呼び、この抑圧と空転の罠から解放されるために跋扈=能動化することが、むしろ生きる意志としての欲望の質さえ悪化(エゴイズムヒロイズムニヒリズムを混入)させることが心配される。むしろ理知性を本来的な形へ、自然な働きへと返すことによりこの空転性からおのずと解放されるほうがよい。「と」「とともに」の発想はすぐれている。東洋的な「即」とも通じる気がする。Dの思想に於てはおそらく、主にスピノザが由来なのだろう。これが理知性と無意識-潜在意識(欲望)の本源であるとき、両者がひとりでに(自律的・自発的に)働くだろうと思う。

(生の)積極的な力能と肯定(於:第二章第二部) と、そうしてその「質」が問われなければならないとDは説くが、その生成が共感を基底としているか、エゴイズム・ヒロイズムを基底としているかでその質は変わる。その根源は愛なのか、他(外)への憎しみなのかを以てその質は変わる。既成の知・形骸化した知として現れる弱さのニヒリズムへの、憎しみとしての強さのニヒリズムが、生成の基底であるとしたら、その生成の強度は共感・共生に支えられつづけるのだろうか。いったい生成とは逃走なのだろうか…。スピノザの逃走、とDは言うが、スピノザは自由を求めたけれども、彼の動機そのものは逃走のニュアンスよりむしろ自発性である(結果として権力からは逃走するが)。強さのニヒリズムは何から逃走しているのか。退廃した、既成の権力からに見えるが、じつは自己自身の影であるということは、あり得ないのだろうか…。

Dは出会いをこう言っている。

p9 出会いは、二つの項が相互に何の関係もないために共通でないのだが、しかし両者の間にあり、それ自身の方向をもった唯一の生成であり、ひとつの生成のブロックであり、ひとつの非平行的な進化である。これこそ二重の捕獲であり、雀蜂<と>蘭…モーツァルトの音楽には鳥への生成(別なところで。模倣ではなく生成があるのだと。)…※それは両者の間に、両者の外にあり、別の方向に流れる何かなのである。出会うこと、それは見出すこと…つねに「外」と「間」をつくり出す…。

[※出会い、共感・共生は、すなわち生成は、極と極の間、Aの外でもありBの外でもあるような「間」・関係の中でのみ、なりたつ。自が他(内から外)に対して働き掛けるときにAをAとして(同時にBをBとして)成り立たせる何か、その「場」。そこに、自発性と自律性(ひとと成り)も生じると言っていいのではないだろうか。]

再掲。

p14 魅力が生に非人称的な、個人に優越する力能を与えるのと同時に、文体はエクリチュールに外部の、書かれるものを逸脱した目的を与える。

こういうとき、この非人称性において、次のことも成り立っているはずである、すなわち自発性と自律性。ここでは極としての個性の反照・宿りが非人称性のどこかに、現れているはずなのである。現代哲学は全体にこの点を見失いがちのように思う。生成/表現 の強度の中に占める純度の貢献は、その質にとってじつは計り知れないように思う。生きる力が主に自己をみたすものか、むしろそれをも超えたものへ超えたものへとむかっていたかは、やはりひとつ大きく問われるのかもしれない。
昇華されればされるほど、孤独が深まっていったあとがうかがえるが、親密さも深まる。誰のものでもあって誰のものでもなくなるからだろう。にもかかわらず、えもいわれぬそのひとと成りが漂っているのを知るのは、味わい深い。目に見える貌を失ったところに、大気となり澄ました貌が浮かびあがる。

生成とは…二重の捕獲・非平行的な進化の反自然的現象である(p9)という場合、Dが例示するように雀蜂と蘭との間、音楽と鳥との間の生成というばかりでなくだけでなく、『潜在的なものの現働的なもの』(同書付録、p233~)との間の二重の捕獲ともいえる場合があるように思う。解釈(自我)が、解釈症に陥らず自滅回避・エゴイズム克服・マジョリティによる抑圧(権力への利用)からの逃走/挑戦の為の静視役・意味付与役を兼ねた範囲で、無意識の発動を妨げない自発・自律的な運動をなしうるということ。たしかに難しく負担のかかる作業ではあるが。

解釈することの行き過ぎを制する態度はありえても、解釈を<一切無化>することへと努力するよりは、<別の>解釈可能性とその共有へと開かれた態度であること、つまり歴史への、地理への、人間への、社会への、それぞれに違う視点、違う解釈軌道がつねにあり得るという「開かれた提示」をする、という態度に移行するのがより自然であり、人間の実態により即しているのではないだろうか?
同時にこの態度はかならずしも、解釈をするのでない意識の位相=無意識 を圧迫するばかりではないはずである。たしかに自我が解釈症(反省症)になることにより無意識の自由で強靱な働きを萎縮させる危険性をつねに孕んではいるし、表現者としては自我(意識)と無意識、解釈者であると「同時に」実験者であれと言ってしまうと、それは実際、生成に過度の負担を与える。が、もし自我に、生成に於て、いつかは「理解」という瞬間(=或る地点で己の時空の軌道を、いつか振り返る位相)に出会いうるのであり、そこで我々は見通し(風通し)がよくなる、救済=解放、という希望をも――たとえ一時的にせよ――与えられるのだと言い聞かせられるならば、これを以て、きわめて自覚的に、「大胆な実験者」という権能を無意識を含めた生の全体に与え鼓舞する、とも言いうる。かといって生成も、省み(状況への解釈)を免れるすべもないのであって、Dも言うように<自ら全責任を負って、正しい方向を取らなければならない p141>。その生成に於る、省みとメタモルフォーゼのあり方は、シューベルトのような対面水鏡となるにせよ、シューマン的ずらしと受肉作用――しそこない=憧憬を含め――を帯びるにせよ、ベートーヴェン的な意味で状況判断への熟達さと同時に重厚なる俊敏さを呈するにせよ、生きた意味をまとい、生成に多面的な表情と機能を発揮させることとなるのであろう。

「自分の生を他の誰かに移す」「…とともに」存在。「彼らとともに感じること、彼らの精神と彼らの肉体の振動を通りすがりに捉えること」  (ドゥルーズ=スピノザ)
実際、これが生成であるには勿論、同時に本来の「理性の働き」もなくしてありうるだろうか。そしてこれこそが、生が理性を肯定し理性が生を肯定する仕方、すなわち弁証法でなくて何なのだろうか。マルキシズムの陥穽、ヘーゲルの陥穽はこれの逆を志向し、体系を閉ざし、「イデオロギー化」することを以て、かえって他者の自律性を、あるいはものごとの他の側面のもつ自律性を奪っていた。(マルクス理論に関しては、資本主義自身のみずからの窮極的行き詰まりにより、或面でのその指摘の正しさが皮肉にも立証されはじめているが。)
だがこんにち、新しい意味において大事なことは、経済的側面に限らず私達の当座の真の敵は、つねに新しい相貌を纏ってやって来る既成権力の見えない力であり、親密さをまといつつ未来に到来すべく今も待機しつづけている、<現実の政治>であるだろう。

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