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ハンナ・アレントbotから思うこと

自分用memo

創作のシステムはつねにそれからの逸脱とともにあるが逸脱を閉ざす事を以って物化――暫時終了――される 。

わたしという人間がおのずと世界から超出している、或いは取り残されてしまっているその不本意な距離を、法則が外から予告し測ってはならない。世界のなかでわたしは、収めつつある出逢った世界という ※経験を閉じる糸と、そこから逸れる糸との間 にいなければ、ものが逃げる。法則がわたしの背中を押して、その臨界線を閉ざすほうに加担してはならない。
(だが、いつかは終止符が打たれなければならない)

※…この不規則な運動性――携えたまま世界であろうとする意識は、(自己自身はおろか)他者・情況によっても罰されうる…しかも自己自身、こうしたものを含めた居心地の悪さを、ともすれば他者にあずけてしまいうる。

参与とは同時に消去-喪失であるが、何れにせよそういう訳でじぐざぐと、超出-欠損、現前-退隠の不規則な運動性を余儀なくされる。


葛藤のありかた

この記述の際、何を考えていたのか…。意識したいのは法則(技法)とこの主体との関係だった気もする。表現結果はまた、その彼方にある――これらの主観と一致しない――という見方もありうるかとは思うが。

つづる主体におよぼされる無慈悲なこの危険からみづからの生成の軌道を死守しなければならなくなるという予感。いわば、「私は…(主体)」と言う権能を奪われている領域のさなかで責任を取らされるようなものだ。が――にも拘わらず――状況-自己/他者-自己への「理解-解釈」の正しい位置、理性のもとよりの「※役割と持ち場はここにあるはずな」のである、といっておかなければならない、とでもいうようだ…。

※…捩れた意識の生起から、理性にそんな働きなど出来るか、と問われるかもしれなくとも、(では自分に言い返すが)たとえ理性がこの場を去ったところで、我々の生がこれらへと陥る危険性そのものも無くなりはしない以上


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ハンナ・アレントbotから思うこと

RT @hannaharendtbot 芸術作品も偉大な哲学体系も、厳密にいえば、純粋に思考の産物と呼ぶことはできない(略)というのは芸術家や著述する哲学者が中断して、その作品の物化のために変形しなければならないのは、まさにこの思考過程だからである。(『人間の条件』23)


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