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自分用メモ(ツイッターから)

これ(下部:シュタイナーbot)を読んで思い出したことには、仏教でも理事無碍と事事無碍があってどちらかというと後者が上位におかれる風潮が学んだ当時からあった、ということ。私としては理事と事事はともに現出せざるをえない感。同時にこれはステージやパースペクティヴの違いでもあると思う。

ただ(それぞれの帯びがちな傾向は一端置いておいて)シュタイナーが言う場所へ戻ると、神秘主義者は理事も事事も抜けた無碍そのものを魂の位相でのみ尊重して終わりがち、と言いたいのであって、それ自身、事実かも知れない。

空智は実惠があって完結する。実惠において理事と事事への分節(分離ではない)があるが、覚(レアライゼーション)における両者の智察のされ方も受容のされ方も機序からして別ではあるが何れにせよそれぞれの方途で光を向く、否 光となる(be=become)方法であることを確認したい。が何れにせよ「行動」が伴うことで合一可能だと思う。前者は受肉への意思・具体的な行動力それ自身の駆動によって、後者は現実化(実惠)の過程において不可避な主体(含:他者=他我、また共同体の構成主体)と状況との関係等々への機序理解、また理解し腹に落とす、という営みによって。

ルドルフ・シュタイナー
@R_Steiner_jp
神秘主義者たちは精神的なものが生きている理念世界の勝手が解らない人々だと私は思った。魂の満足を得るために理念なき内面に沈潜しようとするのは現実の精神性が欠如しているのだと私は感じた。それは光への道ではなく、精神的な闇への道だと私は思った。-自伝-

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