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YAMATO String Quartet のベートーヴェン後期SQとシューベルトSQuintet D.956

2023/10/16
YAMATO String Quartet:石田泰尚 1vn/執行恒宏 2vn/榎戸崇浩 vl/阪田宏彰 vc/小川和久 vc(only Schubert D. 956) 

https://www.youtube.com/watch?v=PeuR-vhhotY

YAMATO弦楽四重奏団(シューベルトD956においては五重奏)による演奏。

twitterで昨夜ベートーヴェン最後期を聞いていて、今朝はシューベルト最晩年。

若者たちによる、徹底的な<死の語り>に 終始する録音。最初から最後まで ひたすら<死>についてしか語られていない。

14番の秀逸について何を語るべきか‥。
個人的なことを申し上げるが、篠崎マロ氏の 『ヨーゼフ・ヨアキム・ラフ論とその周辺:ロマン派論 』において今後展開する予定である、ベートーヴェンの後期と、アフターベートーヴェンへの展開、また付随的に狂気(の表現とその市民権)とは何か、について 往復書簡風に述べる回に、説明の多くは譲るとして、
大まかに此処で述べるならば、ベートーヴェンはその音楽に於て生涯一環して ”ひとつのこと” しか語っていないといってよく、それは「エリーゼ」コード――愛らしく唯一の恋人への思い――につねに励起され、各状況において相応しい意匠(的確な旋律の抽象度)を纏いながら展開されていくのであるが、そのエサンスの傑出した表出は、最後期のSQにおいて、ひときわ簡潔かつ暗黙的・素描的に、また弁証法的に追求されている。

そうしてもちろんのこと、13,15,14番(※制作順)と歳月を重ねる毎に、その人生の反芻における瞑想性と悟達の境地の深遠さは いやましてゆく。

しかしながら、内省の極限ともいうべき14番のベートーヴェンの悟達においてすら、「赦己」と言う点から傾聴すると、充分に自足的でないという側面をも、彼らSQは見事に看破し聴取しているようにみえる。
そのためか、その後に16番、そしてシューベルトのD956を置いている(?!)‥。

正直のところ、16番において言うならば、前作13,14,15番といった一連の燻銀的作品群に比し、これらの境地の遡懐を経たのち、敢えて尚語られるべき、それら以上の意味性や深みを、掴みかねていた私であった。
けれどもかれらの演奏に触れ、恥ずかしながらも作曲者が死を前にした瞑想と悟達の境地の末にこそ、ようやく到達しえた Humor:フモール(赦し/天国的遊戯性――むろん此処には、これ以上無い程「闇黒」の諧謔性が裏に張り付く)の表現が達成され、最後の独白による自己解放を果たし得ていることを知る。

しかしながら、この表現における人生終結部にして到達可能な境地の高さには、あらためて絶句する。

そして彼らのプログラムは、こうした悟達の遊戯としてのフモールが、ベートーヴェンと同時代、表裏関係に居つつも同時に殆ど同じそれを奇跡的に共有していった *唯一の伴走者シューベルトの、最後の独白において開示される諧謔性へと、さらに延伸させていく!

*‥‥唯一の伴走者:ベートーヴェンとまさしく同時代に!シューベルトとその作品群が存ったこと‥。およそ彼の存在なくしては、アフターベートーヴェンはありえなかったであろう。それはたんにグレイトD944交響曲の存在のみならず、シューベルトの存在とその意義全般にわたるというべきであるし、このことをも、彼らの演奏は主張しているようにも聞こえる。

しかし石田さんの率いるこの若い楽団は、死を迎えつつある人間・最愛の者を先に喪い自分も死を受容していく人間の心境、そして「死」の究極を、こんなに人間味あふれつつも人間を超越した位相から深くえぐり出してる。

現代に於いて、若くしてこれらに隣接し、導出できる熟達した心情と才能とは何か。

ところで、どちらかというと シューベルトから語られる《死》は、およそ「母胎」還帰性のある窒息死の様相が強めのため、安らかな呼吸と共に逝きたい祈念がある私には受け容れがたい要素がありがちだった。
シューベルトの、まるで<寝息のような死>は、それ自身至福の表現であるともいえ、子宮のなかの死であるといえば安息にもきこえるが、言い換えればそれは物化された死・非-霊的な死であり、肉の中に閉じ込められたままの死である、と思わされる演奏が多い(もちろん、他でもないこの表現に優れているピアニストやオーケストラの演奏は好きだし、その表現の力倆を以て評価したいと常に思っても居る)が、個人的にはそのような死を迎えることに抵抗があるためか、産業革命の申し子よろしき水銀中毒者の赤児のように酸欠めいた特有の窒息感を、つい敬遠してしまうのも事実である。
ところが、彼らの楽団のある種容赦のない明徹さ、また演奏の鋭利さにより、あっさりと 死「へと開放」されていくのを感じられるのである。
これは救済である。宇宙空間へと開放される自由!――母胎ではなく、宇宙への還帰‥‥。
今回これを、”徹頭徹尾シューベルト”の音楽に浸りながらにして、すんなりと受容することができた。

https://rei-natsuaki.net/ (夏秋レイ公式サイト~ヒーリングフォトアート・芸術論・音楽論・エッセイ・詩)

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