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バッハ平均律クラヴィーアとリヒテル

2010/05/10記

中学時代にはじめてBachの平均律を知った。それはリヒテルだった。

その世界は、その時期の私には名付けようもないものだった。忽ちのうちにその神妙かつ幽玄なる世界に、心は占拠された。当時の音楽評論家たちが言うような、単なる「ロマンチック」な世界であり、演奏であるなどとは、あの頃ですら到底思えなかった。

まもなく死というものに直面する時期が到来した。(父親のであったが)

私の平均律に対するのめり込みは、いよいよ通常のものでは無くなった。ここには、心の慰安・平安を求めえた…。

だが当初、第2巻の方に顕著な一種地に足をつけたような意味性・世界観というのは、主に第1巻の方で顕著であった瞑想性、短調に於ては無常感、超脱しつつ沈潜し、沈潜するかと思えば柔らかに喚起させられるかのようなえもいわれぬ魂の語りともいうべき世界に較べ、まだまだ解り難いものだった。ただ2巻の多くには、1巻にはなかった独特の‘開け’のようなものを感じさせる、という予感のようなものだけはあった…。長調と短調の間に生じる差異―己を取り巻きつつ己を促し、したがって己の希う処のものが、現前するかにみえつつも永遠に訪れない事のもたらす、明るみと無明性との間のギャップ―、というものが、比較的2巻には少なく、言ってみれば“why”・“否”ではなく、そうあらしめられている己の在りようへの“然り”と、“主体であること”(統合作用を受肉しこれを運動化する当体であること)への意識―これは晩年フーガの技法に於て、祈りの介在余地もない程により確かで生まなものとなるのだが、いずれにしてもバッハの場合、この主体・神の働きかけを映現する当体というものが、己ひとりのみならず複数のvoiceに拠っている―、そしてただそうした在りように即するのみといった心身脱落の開示性のようなもの(それこそは、或る種の悟りでもあろう)が基底にあることも、実に曖昧にではあるが、体感的には理解できた。

第1・2巻を通して、その物語っている世界、意味性とは何かについて――その浮上と沈潜、平安、緊迫する拮抗と調和。暗示性とあかるみ、激烈さと沈静、諦念、かと思えば天上的浄福と歓喜踊躍の無窮動性。かと思えばまた一音一音打ち付けるような楔の連打、非連続の連続と、或る種の不条理の感覚、求心力と遠心力のバランス、“空”じられたかの人間の、坦々たる日常性への還帰、etcetc...それもこれも含め総じて感じられる、バッハ特有の、世界“という”広大無辺なる無関心と運動性の持続。無慈悲と表裏一体の慈愛。――そうしたものらの‘物-語り’を、動機づけるものが、いったい「何」であるのかを、思春期を通し、思えばずっと探し続けていた…。

大学時代、聖歌隊入隊とそこでのカントールによる適確な指導、また最初に練習したのが「マタイ受難曲」であったという偶然が、曲がりなりにも、バッハの世界の何たるかを知る、の解明に、ますます心強いヒントを与えてくれた気がする。

芸術表現の世界で、広い意味における宗教“性”に出会い、また知った。また、学問の上でキリスト教と、またのちに禅を垣間見る。仏-基の邂逅、接点、などというメジャーではなかったが確実な学問的動向も素人なりに探る中、その宗教哲学に於ける主体と超越の関係、また超越と内在、即非と往還関係への学問的探究(禅的世界)などを知り、―またそこでの自己と他者とのえもいわれぬ諸契機にみちた関係を知り―その感動に触れたとき、音楽という運動体、ことにバッハ音楽のイマージュが、これと合致した。

そうした自分自身の歩みをみちびいてくれていたのが、父を亡くした時から支えてくれたリヒテルの平均律だったということを、理解した。

半音階的音楽とは、文学的形而上学的に云い替えるなら、いわば反省的音楽である…。反省的とは何か。省察的、という面をも多分に含むが、模索的であり、ひょっとすると懐疑的ですらあり、同時に他者・社会・世界への批判的まなざしであると言えるだろう。

バッハの宗教性とは、すでにこのことの予告的裏返しであり、裏返しとしての、一種 *黙秘権の行使のようなものであった。ベートーヴェンの精神性とは、この批判的な姿勢を基に真理に見合わぬ様相を呈するあらゆる世の中のありようと対決すべく、バッハのまなざしよりもっと個の座にじかに降り、大地に足を付けた自己として直接状況と関わり、これを真正直に地で行くところのものであった。それが為に晩年の、殊にピアノソナタと弦楽4重奏作品は精神の破綻すれすれなまでの緊張の持続と至高な諦念にみち、断片的であるが或る種バッハ的運動性やまなざしに近づいた。だが、それとともにバルトーク,ウェーベルンらのような12音音階~無調へと進む現代音楽に直結する道を十二分に示しもした…。

*黙秘権の行使は、謂わば特権的である。特権的…そうであるためには、内実としては構造的・構築的、また語っていく形態としては動態―これは不可避である―であっても、語る姿勢としては静止的(滅度的場“からの”発語)にならざるをえない。ただその際、バッハはけして己が神に成り代わって、否なりすまして、発語していない。それどころか表現者としての己自身が神の働きかけの具現体であるがゆえに、その己の生み出した運動体の全てを神の働きの具現体として神に捧げている。それはそうと、バッハは、(彼自身の実人生ではともかく)少なくとも表現の位相つまり“音楽上”のスタンスとして、情況に関わりその中に積極的に身を投じる(=受動性を引き受ける)―ベートーヴェンの音楽のように―ということは、おそらくしていない。 彼は、人類の問題を<解決>しようとしなかった。が、あらかじめ総てを“知っていた”。(バッハの音楽は黙秘権の行使であると思うのは、そのためである。)

バッハの驚異は、自然=必然性の合一と精神性の無辺な深さにある。構造性と生命性と精神性とがひとつになっているところにある。構造性とは、対位法の厳格さ緊密さ精緻さ多様さであり、そうした数理学的とすら言える必然性の構築物が、音楽という<偶然=必然>的なものとして合一的に存在しうることの不可思議を伴って存する。生命性とは、絶え間ない生成の現場でのみ立ち会える、有機体の自律運動性であり、まれな無窮動性であり、旋律の自存性としてのうごめきとともに緊密な連鎖を帯びる共同体としてのうごめきである。

精神性とは(広義に於る)宗教性であるといってもよいが、端的に長調の悠久性天上性であるかと思えばまた短調の底無しの深遠さである、と言えるが、主に短調に於て区別して言えば、第一巻ではおおむね主に瞑想性であり、―殊にリヒテルのピアノ演奏によって空間へと刻々放たれる余韻によれば―虚無であり空であり無であり、禅的に言う空智である。また第2巻に多く見られるのは―こちらは演奏者や楽器による印象の差異が生じにくく思われるが―精神的開示性、日常と天上が不一不二となった禅的に言う実慧の境地。地に足のついた空、でありその空じられた当体=無的主体の生活圏への還帰である。……相当する観念としては、である。

要約的に言ってしまえばこういうことになる。

第1巻(おおむね)…空智:色即是空 ―――世俗→空へ(至「悟」・己を包む促しに応じる自己の相)
第2巻(おおむね)…実慧:空即是色 ―――空→世俗へ(空=涅槃に“住まわず”。『受肉せる』空相(=自己)の生死的世界への帰還。開け
尚デリダなどで言われる、非現前性・非対象性・非同期性といったじつに的を得た言葉を借りて言えば、1巻は前の二つに主体の比重がかかり、2巻に於いては非同期性(より高度な、運動体としてのフーガの構造の透徹・生命世界の再現)に、より重心が置かれた発語であるといえよう。1巻と2巻の境地は丸きり切断されているのでなく、主体と超越という、同じ構造に於かれても、表現主体の発語する相面・座の置き方で表現内容とニュアンスも変化するものとみる。無論、第2巻にも1巻の多くの作品が書かれたのと同じ年代の作品なども所々に置かれている――以後何度となく手を加えられたものもあるらしいが――わけであるから、おおむねそう言える、という事である。

リヒテルの平均律は、総じてこうしたバッハの宗教性を見事に現成させていると言えるだろう。ただ、2巻の演奏スタイルには、1巻に於いて支配的な*非現前性と非対象性に居る自己のスタンスが尾を引き、**涅槃に“住する”かの如くと言えなくもないし、それが2巻の多くの作品に特有の滅度的主体の《開示性》を損なっている面があるとも言いうる。

*…これに関しては2000年に発売されたリヒテル平均律ライブ録音(録音1973年インスブルック)にて、2巻の多くの作品に於る、演奏スタンスの大幅な変更が見られる。このライブではリヒテルは最初のCD(LD)録音時のように稀有な世界を提示し得た1巻の沈潜的なスタンスをそのまま2巻に於いても延長する、といった姿勢(謂わば真摯で生真面目な固定観念といっていいかも知れぬ)をほぼ脱し、2巻特有の開示的・明示的、時には坑穿的ですらある世界をそのまま生かす吹っ切れた演奏をしていると言える。
**…尤も、涅槃に住するかの如くと言ってもそれは仏教で言う大我などの、‘尊大で罪のある自我の在りよう’ではなく――というのも此処にはなりすましは無い(付け加えるならばこれが尊大で危険なもの、真の意味で罪なものとなるのは、この「状態」以上に、むしろこの座からの発語がイデオロギー装置と同化して-もしくはさせられて-個が普遍と※《故意に同一化》させられたまま政治化・社会化される場合である)――ただたんに非現前性・非対象性の世界に於ける或る不透明さ、そこにて実存がおのずと包まれる暗示性の膜の中でその響きと祈り・瞑想性を反芻する、涅槃の余韻を噛みしめるというだけのものに思われる。
だからそれが畢竟ロマンティシズムではないかといえばそうかも知れぬが、ではそのロマンティシズムをそもそもバッハの音楽自身が持っていなかったのかといえば、1巻では2巻に比して実際多くの曲が(演奏者・楽器の違いを問わず)その様相を呈していた――バッハという実存に於いてまだ天・地が作用的「一」を遂げ切っていない、したがって即する、というよりは寧ろ希いとか促しとか祈りとかいったものの余地が介入しやすいのである――し、そもそも祈りとか救いといったアトモスフェールや概念さえ、それ自身そうした高度なロマンティシズムの醸成を伴うとも、言えるのである。
したがってもし、リヒテルの位相は、或る種のロマンティシズムに在る、という述定にはあえて甘んじるとしてもなお、彼の平均律録音の公開当時からしばらくの間この演奏に対して浴びせられていた安易な意味での「ロマンティック」のフェーズとは、およそ違うと断っておきたい。またロマンティシズムと呼ぶにせよ、それはかの冷戦下において、父親がソ連当局によりスパイ容疑で銃殺される、であればこそ自分の中のドイツを堅持しようとする、などリヒテルという個人の中に影を落とす全体と個との間に生じる相克の問題、埋めがたい不条理中の不条理を、この身を以て体験した(#モンサンジョン著「リヒテル」)リヒテル自身の実人生を察してみれば、その個がせめてそうした「ロマンティシズム」に、また願わくば或る種のトランス状態の持続に、救いと浄化を見いだそう,として何が悪いのであろうか?とも、さし当たっては言っておきたい。
※個が普遍と《故意に同一化》…個と普遍のまったき同一はありえない。もしそうありうるならそもそも宗教性自体が無くなるのである。何故なら宗教性の発生とは個が普遍と絶対に“同化できない不条理”の発生と、ひとつの構造だからである。

ついでに言っておけば、そうした不断に醸成されかねない高度な意味でのロマンティシズムをすらその生起手前で拒否し、つまりそういう広義な意味での宗教‘性’をも排したうえで、バッハ音楽の運動体を担う有機性・律動性・無窮動性・また個々の音の実存性を存分に引き出し、持続せる緊張としての遊戯を実現したのがグールドの平均律である。そしてもし尚、あえて発する、そこに“究極の宗教性”はもはや無いのか、という問いには、存るともいえるし、無いともいえる。もし存るというならば、つまりその宗教性は、生命科学や宇宙物理学などがそれ自身持っている宗教性のフェーズと、酷似しているとも言えよう。


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バッハ平均律の長調に於いてはその境位の多くは典雅であるか清冽であかるく、天と地の「一」性を、またゆらぎよりもたしかさを、またものの輪郭を覚えやすくもある。が短調に於いては事象の輪郭が曖昧で、もののあはれ・うつろい・無常を感じやすい。世の中に実在していると思えるものは偶の現象であり、ほんとうのところ“実”とは形象となって現れてこないものの方にあるのでないかという考えが一部の哲学や仏教などにはあるようだが、劇的感情や高揚する精神などを直かに表現せず音楽のエッセンスとその有機的動態をそのまま結晶化させたに近いバッハの短調作品には、たしかに空性やうつろいを通した無常感の滲出するものが多い。音の消失しやすさ(生滅、すなわち生-死的存在表現の相応しさ)とその霊妙な余韻効果を生かしたピアノ演奏に拠ればなおさらであるとすると、この点に於いて傑出しており殆ど前人未踏の境地を達成しているのがスヴャトスラフ・リヒテルの平均律、ことに第1巻であることは間違いない。

もし、短調作品に於いてもなお、明確なものの輪郭を表せしめんとなれば、たとえ今のこの形姿は仮有にすぎぬかもしれずとも何某かの秩序をここにこうして受肉せる具現体たちの姿々をそこに成就-再現させること、そうして刻々明滅する生命秩序の“構築性と動態それ自身を描き切る”、ということになる。平均律第2巻に於ける短調の多くは事実そのようにして存る。同じ短調であっても第1巻より総じて第2巻の短調のほうに、ものの輪郭の明快で、非-暗示的なものの多いのは、ケーテン時代以降、フーガという形式をより充実した有機的運動の構築物に仕立てるとともに(このこととも不可分であるが)バッハ自身のスタンスが、sacrifice謂わば天に呼び出され応じに行く(空智)というよりは、もはや diligent service 地上に居たまま天との「一」を果たしている自己の“相面”(全てではない)、及び語り部としての位相(実慧)、謂わば「然り」であることによる精励勤勉(運動性によって可能な限りの、絶対他者即絶対自者の相面)を、‘ 前面に押し出している ’ためであろう。

勿論、人間が相対者である以上、矛盾面(天地が即「一」と成り切らない側面)は必ず残る。普遍と個の間にはかならずや虚無があんぐりと孔腔(くち)を開けている。そうした或る種の疑義すらそこはかとなく漂うかの不条理感、また1巻にはなかった或る種の告発的激しさとなって―バッハ自身が意図しようとしまいと―短調の音楽表現として現れ出ているし、またおそらくは半ば意識的にも、―あくまで形式的秩序を完璧に保ちながらも―バッハは或る種の楔を打ち込んでいるとみえる(それらの同音連打や、16分音符の間断なき叩打は、のちにピアノという楽器が登場・進化するにつれ、アタッカーや深めの打鍵による坑穿的なスタカートなどとして表現されることによって、より強靱で先鋭的な意味を帯びるに至る、といえるだろう)。

音の並びそのものに、そうしたより直截な実存性を感じるのは、たとえばcis-moll BWV 873fuga(4番)、d-moll BWV 875fuga(6番)、e-moll BWV 879fuga(10番)―これらは後のベートーヴェンやシューマンのスタンスにもかなり直かに繋がる―、f-moll BWV 881fuga(12番)、g-moll BWV 885のfuga(16番)、a-moll BWV 889fuga(20番)―このふたつは実存的位相にとってはじつに示唆的な音列を含む作品で、16番fuga冒頭の3音、20番fuga冒頭の4音は、これとパラレルなままヘンデルメサイア第2部受苦「打たれし主の瘕に我ら・・・1741」の重々しいコーラス部分にも現れるし、後にはモーツァルトのレクイエム・キリエなどにも現れる―など。

これらの短調fugaは、1巻の頃に比しより確実なる短調の成立を見る時期を迎えたことも相まって、短三和音での終止、前古典派への移行時期としてのソナタ形式導入と云った表現形式上の兆候以上の変化を、おそらくバッハ音楽に与えており、それが晩年フーガの技法のより深遠な実存的曲調となって姿を現すことは今更言うを待たない。


この続きは、平均律演奏におけるリヒテル、アファナシェフ、グールドへの私の共感点と理解(演奏解釈)、という内容で、別記事にて記します


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