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「二重人格」って本当に?

我々は、FFS理論を正しく学んでいただくために〝自己理解が出来ているか〟を確認するため「私が想う私」というエッセイを課題として書いてもらいます。
その中で、最近たまに出会うケースを紹介しましょう。
 
私「二重人格かもしれません」と書く人がいます。
その理由として
・誰とでも、物おじせずに明るく話をすることができる
・相手の様子を伺いながら慎重に距離を縮めていくことがある 同じ私なのに?
 
あるいは
・自由闊達に活動している
・事前に準備しないと不安になることが多い 同じ私なのに?
 
皆さん、どう思いますか? 
二重人格なのでしょうか? 二面性なのでしょうか? いや違うだろうと思いますか?
皆さんの中にも、「私も似たところがある」と感じた人もいるかもしれませんね。
 
 このケースは保全性の特徴である『枠組』の話なので、面談をしながら確認作業をしていきます。
 我々は、こう質問します。
「誰ともでも、と書かれていますが、それって、知り合い、そのお連れ、同じコミュニティーの人ではないですか?」
「様子を伺う時は、初対面の人で得体のしれない感じをしたからではないですか?」
皆さん、少し考えながら「確かにそうですね」と答えられます。
 
もう一つの事例では
「自由闊達に動くのは、経験したことや、その経験が活かせそうな範囲ではないですか?」
「事前に準備するのは、初めて取り組むこと。未知な経験では?」
皆さん、少し考えながら「確かにそうですね」なのです。
 
 つまり、保全性の人にとっての『枠組』のことなのです。
「枠組」には、『内』と『外』があります。「顔見知りや知人であったり、過去に経験したり学んだことは、安心、安全、大丈夫が担保できている状態」は『内』なのです。〝誰かわからない〟〝何かわからない〟〝先行きが見えない〟のは『外』なので不安です。当然、慎重になってしまうのです。
 この枠組は、本人が自ら作っているのですが、〝それが当たり前〟なので、指摘されないと『枠を設けている』と認識されないのです。その結果、枠の内と外での行動の違いを「別人格」「二面性」と捉えてしまうのです。たまに「オフィシャルとプライベートの行動は違う」と説明するケースもあります。
 
では、なぜ認識されにくいのでしょうか?
それは、これまで日常的に積み上げてきた結果であり、〝当たり前〟〝普通のこと〟になっているからです。さらに苦手な人=(拡散性が高い異質な人)とは、あまり交流しないため、「枠組のない人を知らない」ことも要因の一つになりそうです。
 
 さて、拡散性の特徴に「行動に脈絡がない」ことから『分裂的』という説明を使いますが、本人が「二面性や多重人格」とは言いません。説明を聞いて「あっ、そんな感じ」で済むのです。枠そのものがないから、『内』も『外』もありません。そもそも『枠組』は煩わしいのです。枠の内に留めようとすると、それはストレッサーになるほどです。
 
日頃から何気なく使う言葉なのですが、個性を投影することをご理解ください。
 
「使う言葉」ネタなので、ついで気になっていることを。
自己紹介で「明るくて、オープンマインドで、楽天家」と表現する人がいますが、概ね、保全性の人です。伝わり方が悪かったのか、「拡散性だろう」と思っている人が多いようです。これは勘違いですね。
自分の興味・関心ですぐに動く俊敏性などはありますが、周囲の目を気にしないので、興味ない時は、何もせず、グウタラな感じです。「明るい」というよりも気分屋で躁鬱系。オープンマインドというよりも、何も気にしていなくて、開けっぴろげ。サービス精神はない感じです。
「受容・拡散の人」で、受容性が高い場合に、上記の自己紹介にあるような振る舞いをすることはありますが、拡散の特徴よりも受容のサービス精神が出る時でしょう。
 
まとめると、FFS理論は因子なので、表出している行動ではなく、〝行動の因〟を理解することが大切なのです。
一般的には、表出している行動で特徴を表そうとするから、勘違いされるのでしょう。
 
 
 小林博士の追記として
 人には大別すると3種類の”居場所“がある。柵の中、柵の外、出入り自由な柵沿いだ。
個性にあった居場所に居られれば、苦に潰される事は無いが、私達人間は例外なく“奴隷”である事には違いない。勿論、主人は38億年引き継がれている“遺伝子”に書き込まれている生命体としての“性、欲望”である。
欲望にも3種類ある。柵の中で安全に暮らしたい。柵に沿って安全に対して都合良く暮らしたい。柵の外で安全に暮らしたい。それが満たされて居ないと不安を感じる。安全という概念は、安心と同じ様に主観(欲望)の産物で個性により異なる。柵の外に居たいのに居られない。柵の内に居たいのに居られない。柵沿いで迷いながらいる。
如何なる個性の人間でも認知に不協和を起こして生き延びようとする場合がある。その原因は、多くの場合、習慣化である。しかし習慣化が許される環境と許されない環境がある。故に、自分の本性を知って、雑音に惑わされず、素直に生きるのが、長期的な幸せ、不安に潰されない世界があるのだ。