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〜未来の華道の話をしよう〜

私には好きな言葉がある。

「まだ生まれていない世代の人生が今日あなたがとる行動によって大きく左右されるのです。」

もちろん自分の人生なんだから自分が納得するよう生きればいい。

自分さえ納得できない人生を生きる人も多いと思う。

自分の命は自分だけのものではない。

ただ、自分が今生きる為に、何世代もの先祖たちが人生をかけて生きてきたということを、真剣に自分ごととして捉えなければいけないと思う。

私は幸にも不幸にも華道家の一族に生まれた。華道家として次の時代に何が残せるか。


過去100年の華道について考える

華道の歴史を簡単にまとめると下記になる。

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古代〜飛鳥時代 アミニズムから供花へ

始まりは古代のアミニズム。花は茎を切ってもきちんと世話をすれば生きて花も咲かすことから、神が宿ると考えられていた。日本にも仏教の流れから今も仏前への供花として残っているのがそうである。

奈良時代〜 鑑賞対象へ

奈良時代に入ると、花は鑑賞の対象となる。万葉集を代表するように、生活の楽しみの一つとなっていく。

室町時代〜 文化としての華道

元々花を花瓶にさして嗜む文化はあったが、現在の華道としての型ができたじめたのがこの時代。京都六角堂を本拠地とする池坊が根源とされている。

江戸時代〜 庶民の嗜みへ

武家や公家など経済的に豊かな層から、町民、庶民の嗜みへと幅を広げていく。いわゆる民主化された時代。

明治時代〜 ジャポニズムの動き

日本国内で十分文化として成り立っていた華道は、ジャポニズムいわゆる欧米での日本ブームにより、「ikebana」として海外にも広まる。

大正時代〜 東洋思想としての華道

海外にも知られるようになると同時に、いけ方としての型だけでなく思想としての華道も考察されるようになる。英建築家のジョサイアコンドル や、独哲学者夫人のGLヘリゲルなどによって、禅としての華道、東洋思想としての華道が紐解かれていく。


未来の華道の話をしよう

私がしたいのは、未来の話。

床の間もなくなり、西洋風の建築や生活が溢れる現代の日本に華道が必要なのか。

華道は無くならない

前提として、華道は無くならない。華道は自然との関わりであり、自然との対話である。植物がこの世から無くならない限り、植物、自然との関わりは無くならないわけで、つまり華道は無くならないのである。

なくなるのは【】としての華道。

個人的体感として現代の華道は型に囚われた芸術としての華道でしかない。華道教室を通してお花のいけ方を教えるのみ。例え型を習得したとしても、内に残るのは綺麗にお花をいける技術のみである。綺麗に花をいけたければフラワーアレンジメント教室に通えばいい。本質はここではない。

自然に向き合う姿勢と、自分の内側へ向かう心

自然と向き合い、自然から学ぶ。そして人である自分の内側へ吸収する。


未来の華道

1:型はなくす

正直、型は必要ない。なぜなら型を覚えること自体に意味はないから。型に縛られると型の習得が目的となり本質を見誤る。これを避けないといけない。これは簡単なようで一番難しい。目に見えないと怖いからだ。

ただ最低限の型や基準は残す。ここも重要。

2:自然との対話

何も花をいけることだけが華道ではない。自然の山を歩くことも華道。街を歩いて変化を見ることだって華道かもしれない。部屋にこもってひたすら人のいけたいけ花を真似するより、外に出て自然に触れ小さな変化に目をやることの方がよっぽど勉強になる。

3:自然と人

自然は先生。自然から学ぶ。そして自分ごとにする。自然は内側の心に人としての核を持たせてくれる。

100日間花をいけるプロダクト。

まとめ

今までの変遷も現代の現状も踏まえ、今の華道のあり方から脱却する必要がある。もう文化だ伝統だ言っている場合ではない。

地球規模で進む環境破壊や社会問題にさえ華道は向き合わなければいけない。なぜなら華道は自然との関わりであり対話であるから。

華道家は自然と人との通訳でなければいけない。

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