かつて部室で見かけた100年前の旅行記を追い求めて
大学に入った直後ほど、人から必要とされた時期はない。新入生というだけで各種サークルの先輩方にチヤホヤされ、やれ君はテニスに向いているだの、やれ君はボートに青春を捧げるべきだの、とにかく引っ張りだこである。自分には無限の才能が秘められているような気がして、僕は鼻の穴を膨らませながら意気揚々とキャンパスを歩く。どんな青春を送るかは、全て僕のさじ加減 ー 目の前には輝ける未来が待ち受けているのだ。
そうして5年後、僕は部室で寝転がってジャンプを読んでいた。平日の夕方だというのに、すっかりほろ酔い気分である。横では部員たちが『ときめきメモリアル』に熱中して奇声をあげていた。テーブルの上にはビールの空き缶が大量に転がっていて、ポタポタと水滴が垂れているが誰も見向きもしない。部長は窓から顔を出してゲーゲーと吐いていて、部室には汗と酒とゲロの匂いが充満していた。
目の前にあったはずの輝かしい未来はあまりにも眩しすぎて、前がよく見えなくなった僕はテニサーでもボート部でもなく、『太平洋倶楽部』という怪しい名前のサークルに入部していた。太平洋倶楽部は「バックパッカーサークル」を名乗る団体であったが、そもそもバックパッカーとは一人で海外旅行に出かける人々のことを指すので、サークルである意味は特にない。実際こうやって集まってみても、することといえば酒を飲むか、恋愛ゲームに興じるくらいである。
「詩織〜!」
8年生の先輩女子が画面に向かって叫んでいる。詩織とは「ときメモ」のメインキャラクターの一人で、先輩たちは毎回データを消去しては、いかに早く詩織を攻略できるかを競っているのである。果たしてここまで非生産的な学生生活を送れるものだろうか。もっとこう、ねえ?色々、ねえ?あるんじゃないの。
この世のあらゆるサークルからあぶれた人間の最後の砦とも言える太平洋倶楽部には、いかにも社会不適合者という面構えの人間たちが所属していた。授業には決して出ることなく、日の沈む頃に起き出してはノロノロと部室に集まってくる。部員は揃いも揃って留年を繰り返し、その留年率は230%とも言われていた。100%以上は2留以降を意味している。
いずれも旅行好きなのは確かだが、その旅行像は世間とは異なる。タイに行っては宿に引き篭るのが趣味の人もいたし、スーパーのレジ袋一つでインドに出かける人もいた。海外に行っても誰とも一言も喋らず、代わりにWindows付属のゲームばかり上達して帰国するソリティアの達人もいた。
一般的にイメージされるバックパッカーからキラキラ青春要素を全て引いた残りかす、旅と怠惰と厭世を支えに生きているような人間が集まっていた。かくいう僕もしっかりとそれにハマって、人より長い大学生活を、こうして人より長く寝転がって謳歌していたのだ。
ジャンプを閉じて、伸びをする。部室にある漫画はもうすべて読み尽くしてしまった。何か暇つぶしになるものはないかと、埃のかぶった本棚をごそごそ漁ると、一冊の古びた冊子を発見した。
表紙には手書きで「太平洋」と記されている。ページをめくるとびっしりと小さい文字で埋めつくされていた。カタカナを交えた難解な言葉遣いは明らかに異なる時代に書かれたものだ。その内容はどうやら旅行記のようで、消えかけた文面に「1902年」という数字が見えた。
そういえば聞いたことがある。このサークル、歴史だけはやたらと古くて、戦前から存在していたという。昔は随分まともな団体だったらしい。現に某企業の社長や某財閥のお偉いさん、学部長のN先生などもうちのサークル出身だという。
実はこの太平洋倶楽部は、かつては企業が学生に旅費を援助し、海外に送り込む機関だったようだ。代わりに学生たちは当時としては非常に珍しい旅行という形での海外訪問を、レポートにして報告していたらしい。もしかすると、この旅行記はその時の貴重な史料なのかもしれない。
それにしても、時間が経つとサークルも旅人もこうも変わってしまうのか。100年前、大志を抱いて海を渡った彼らが今の僕たちを見たら卒倒するであろう。その歴史のおかげで大した活動もしていないのにこうして広い部室を享受しているわけであるが、今の部員たちは感謝のカケラも持ち合わせていない。この100年前の旅行記だって、ジャンプと一緒にその辺に放置されていたのだから。
こういうものはどこかに提供したほうがいいんだろうかとか思いながら、留年生の僕にはそこまでの気力はない。せめてTwitterにでも記録しようかと、こんな呟きをしておいた。
いいねはつかない。僕はまた寝転がって、詩織詩織の大合唱の輪を見つめていた。2011年の秋のことだ。
◇
そして、2020年5月。太平洋倶楽部の平均値通りに大学を6年かけて卒業し、まともな社会人のふりにも慣れてきた僕は、複業として旅行記を書く仕事に就いていた。今になっても海外旅行に出かけるのは、言うまでもなく当時のサークルの影響である。人生何が身を助けるのかわからないものだ。
そんな折、facebookでメッセージが届いた。普段facebookでは知らない人からの連絡には答えないようにしている(人見知りだから)のだが、そこには懐かしい単語が含まれていて、思わず最後まで読んでしまった。野村さんというその女性は、僕の母校の一橋大学の先輩で、かつ大学の関係者らしい。メッセージには次のように書かれていた。
古い話で恐縮ですが岡田さんが2011-11-05のツイッターで太平洋俱楽部のことを書かれていました。1902年の古い記録もあるということでしたが、現状その記録はどうなったのか記憶にあられますか。
太平洋俱楽部のことを調べていて貴方のツイートが引っかかりました。もしご記憶にあったら、ご教示いただければ幸いです。
転がる缶ビールに部員の奇声、漂う汗とゲロの匂い。それまですっかり忘れていた、9年前の記憶が突然鮮明に蘇ってきた。インターネットというのはすごいもので、あの時何気なく呟いた一言が、こうして時空を超えて誰かに届くことがある。
詳しい事情を聞くに、野村さんは大学の150年史なる壮大な学史を編纂していて、そのために昔の情報を集めているらしい。その中でかつて僕の見かけた旅行記が、歴史に残る貴重な史料かもしれないというのだ。
僕はあの古びた冊子を思い出した。今になって思うと、あれは確かにそういうたぐいのものだったのかもしれない。そうとなれば責任重大である。旅行記を書くという今の自分の仕事とも重なって、あの時放り投げた一冊を、なんとしても入手したくなった。
しかしそうは言っても、誰に問い合わせればいいのか。後輩はもちろん、当時のサークル部員の連絡先もさっぱり知らない。さすがは大学随一の退廃的集団というだけあって、卒業後ほとんどの部員が消息不明になってしまったのだ。そもそも今あのサークルが存在しているかもわからない。僕は別ルートのツテを辿って、母校の現役生何人かに尋ねてみた。
ー 太平洋倶楽部ってサークルを知ってる?
「聞いたこともありません。」
終わった。全員から同じ返事がきた。やはり廃部になってしまったのだろうか。僕のいた頃から新歓活動すらしていなかったので、当然といえば当然である。しかし僕はもう少し食い下がることにした。
ー 自転車部の隣に部室があった気がするんだけど。
「そこは今、別のサークルが使っていますね。」
確定である。太平洋倶楽部は潰れた。諦めかけたあたりで、一人の現役生からこんな連絡がきた。
「自転車部に確認したところ、太平洋倶楽部と書かれた看板が廊下にあるらしいです。」
僕は当時部室に置かれていた木の看板を思い出した。「太平洋」と達筆で書かれたその看板は、堕落集団に似つかわしくない立派なものだった。
あの看板が残っているのだとすると、旅行記も一緒に保存されている可能性がある。現在その部室を使っているという別のサークルのホームページを見つけたので、ダメもとでコンタクトをはかってみた。すると代表の方から、すぐに丁寧な返信が届いた。
現在部室棟が閉鎖されているため直接の確認の手立てがありませんが、太平洋倶楽部の資料の一部は確かに部室に現存していると存じ上げております。私の記憶では具体的には小さな棚の一段分、十数冊ほどの資料があり、その中には戦前のものもあったかと思います。
それだ!
廃部になった太平洋倶楽部の冊子が、まだ部室に現存している。僕はすぐさま、学史を編纂している野村さんに連絡をとった。
しかしまだハードルがある。昨今の状況下で、部室はもちろん、大学のキャンパスが丸ごと閉鎖中なのだ。緊急事態宣言が解除されたら、すぐに大学に直訴して開けてもらいますと野村さんは言った。大変に頼もしい。旅行記をこの目で確かめたかった僕は、野村さんに同行を願いでた。
◇
そして6月下旬。野村さんは宣言通りに大学側と交渉し、部室に立ち入る許可を得ていた。僕も仕事の予定を調整し、母校のある東京都国立市へと向かう。
校門には「閉鎖中につき立ち入り禁止」と大きく書かれた標識が立っていて、恐る恐る中へ踏み込む。すると案の定、守衛のおじさんに止められた。長い長い詰問を経て、僕の名前がしっかりと大学の許可リストに入っていたことが確認された結果、晴れて校門をくぐることができた。懐かしのキャンパスには人っ子ひとり歩いておらず、不気味な静かさに包まれている。
野村さんとの待ち合わせ場所は図書館だった。どうやら僕が守衛のおじさんと揉めているうちに、すでに回収作業を済ませてしまったらしい。久しぶりに部室を見られると思っていたので残念だが、しかし重要なのは旅行記である。学生時代にも入ったことのない図書館の史料室にお邪魔し、野村さんと合流した。
「部室の前に、こんな看板が立ってたよ。」
野村さんは写真を見せてくれた。達筆の「太平洋」の看板のことかと思ったら、
太平洋クラブ改め、突然ガバチョ
なにこれ?
我らが愛した太平洋倶楽部は、どこかのタイミングで「突然ガバチョ」に改められていた。突然ガバチョってなんだ。現役生の彼が言っていた看板とは、これのことを指しているらしかった。
曲がりなりにも青春時代を過ごした場所が突然ガバチョに改められていたことにショックを受けたが、もう無くなったサークルのことを憂いても仕方ない。それよりも旅行記である。机の上に置かれた箱が、どうやらそれらしかった。野村さんがゆっくりと蓋を開ける。
すると、ボロボロの冊子が顔を出した。
これだ。
これはまさしく、僕がかつて部室で寝転がって読んでいた旅行記である。野村さんはにっこりと笑って、「貴重な文献がありそうだね」と言った。
表紙をめくると、目次の前に「太平洋倶樂部規則」というページがあった。団体のルールみたいなものが書かれているらしい。
本會ハ太平洋沿岸諸國ノ諸事情ヲ調査研究スルヲ以テ目的トス
やはりこのサークルは、調査研究を目的とした団体だったようだ。
- 會長ハ東京商科大樂長ヲ推戴ス
- 顧問ハ東京商科大樂教職員卒業生其他ノ名士ヲ仰ク
(注記:東京商科大学とは一橋大学の旧名)
なんとサークルの顧問は「卒業生の名士」、部長に至っては大学の学長が務めると記されている。これには驚いた。僕の知っている太平洋倶楽部には顧問なんていなかったし、部長は窓からゲロを吐いていた記憶しかない。
野村さんによると、どうやら戦前のそうそうたる名士たちがこの団体に関係していたらしい。だからこそ多額の資金力を持って、私的に学生を海外に送り込むことができたのだ。選ばれた学生たちは、きっと生粋のエリートだったに違いない。
さて肝心の中身を読み進めると、さすが「太平洋」倶楽部というだけあって、アメリカへの渡航について書かれたものが多い。ポイントは100年前に国からの派遣や留学ではなく、研究目的といえどあくまでプライベートな「旅」として海外を回っているということである。現に記された内容は論文というよりは、彼らの心情を描いた旅行記として読めるものだった。
旅行は人生のカンバスをいろどる絵具である。學生々活の最後を飾る思出にと思立つた北米旅行中に己の目に見己の耳に聞いた事柄を貧弱な頭で消化してこれから書き記して後日記念として見たいと思ふ。
基礎知識らしいものもない、まして参考にする書物もない。ほんとうの白紙の上にただ見た事聞いた事をああこう思ふままに書きつけて見るだけである。
『アメリカをみた記聞いた記』より
スマホどころか『地球の歩き方』が生まれるより遥か昔に海外を旅することには、相当の困難を伴っただろう。当時の学生たちは初めて見る異国に何を感じ、何を思ったのだろうか。アメリカに対する印象は各々違ったようである。
日本の都の夜を粧ふ燈を光の海に例へるならば、シアトルの夜に立ち並んだ建物にきらめく無数の燈は光の山といふべきで有らう。
此処に於ひて吾人はブロードウェイと銀座に日米両國の小売販売上に経済的な相違点を見出すのである。(中略)ブロードウェイの店舗経営方法の方が遥かに合理的である。
『シアトル市のブロードウェイと東京市の銀座』より
米國人の生活には詩がない。歌がない。あるにはあつても渋みも知らぬ詩であり歌である。(中略)例へて見れば米國人の美はコーヒーの味に似て、日本の美は緑茶の味に似て居る。
『アメリカをみた記聞いた記』より
いずれもアメリカという経済大国の姿に感心し、あるいは戸惑い、あるいは反発している様子が見受けられる。
同じだ、と僕は思った。
自分とは違う存在と出会うこと。すぐには理解できない環境に放り投げられること。そういうものに遭遇したときの戸惑い。動揺。それらがなんだか癖になって、僕はあの頃も、そして今でも旅に出るのだ。100年前の旅行記にも、若者たちのそういう心の動きが活き活きと描かれている気がした。
「旅」と題する投稿には、次のような文章が記されている。
自分は旅と云ふものを次の様に考へている。本然の自己に帰らせるものである。友人にしても學校では現はれなかつた様な性質がよく發揮される
わけのわからないものに出会ったときに、自分の本性が垣間見える。それは思ったより美しかったり、あるいは往々にして醜かったりする。名士の支援で渡ったエリートたちの旅も、居酒屋のバイト代で渡った留年生の旅も、その点については同様なのかもしれない。
ちなみに掘り出された資料集の中には、僕が在籍していた時の部室ノートも残っていた。その中には当時の僕の書き込みもあって、
新しいメガネをかいたい。 岡田
勝手に買え。あと字が汚すぎる。100年後にはこのノートにも価値が出るんだろうか。出ないなきっと。
◇
回収された資料は、(部室ノートも含めて)大学の図書館に保管されることになった。これから他の文献と照らし合わせて、価値のあるものは学史としてまとめられるという。
図書館を出て、キャンパスを歩く。静まりかえったその景色に、部室で朝まで飲んで、自転車を引いて帰った秋の日を思い出す。あの時もこんな風に誰もいなくて、冷たい空気が酔いを醒ましてくれるのが気持ちよかった。
キャンパスを出ようとした時、校門に向かって自転車を漕いでいる人を見かけた。野村さんはあっと声をあげて、その人に駆け寄っていく。知り合いだろうか。不思議なのは、僕もその人をどこかで見た気がすることだ。
「ほら、N先生だよ!」
野村さんが言う。N先生...そうだ、当時学部長だったN先生。あの太平洋倶楽部のOBだというN先生である。
「すごい偶然!」
野村さんは興奮気味だ。太平洋倶楽部の資料を捜しに訪れた閉鎖中のキャンパスで、ばったりとそのOBの代表格に出逢う。確かにできすぎた話である。できすぎた話なのであるが、なぜだか僕はそれが自然なことに思えた。
今では大学の副学長である先生に事情を話し、太平洋倶楽部の話に花を咲かせる。先生はこう言った。
「僕が学生だった頃はね。OBの企業からお金をもらって、学生を海外に送り込む仕組みはまだあったんだよ。だから毎年旅行記を、学生主体で冊子としてまとめていた。」
「でも、学生たちがあまりに奔放に旅をしているもんだから、ある時OBが怒っちゃってさ。旅行記の発刊を、とある企業が管轄する様になったの。企業主体の旅行記として生まれ変わったわけ。」
「そしたらその後バブルが崩壊して、その企業が潰れちゃって。それでその伝統が途絶えたんだよね。それから細々とサークル自体は続いてたみたいだけど、旅行記は無くなっちゃった。」
あれだけ大学の肝入り団体だった太平洋倶楽部がすっかり形を変えてしまったのには、そんな理由があったのだ。ずっと疑問に思っていた謎がここで解けるとは。先生は目を細めて言った。
「今思うと、もっと大人が学生を信じるべきだったんだよね。学生ならではの奔放さ、未熟さってものを受け入れるべきだった。それをできなかったから、太平洋倶楽部は潰れたんだと思うよ。」
夕日が大通りに影を落とす。マスクをつけた人々が帰路を急ぐ。まるで長い旅をしてきたような一日が終わった。頭に思い浮かぶのは、かつてふらりと海外に出かけて、何をするでもなく帰国して、あとは部室で寝転がっていた日々。あれも学生ならではの奔放さだったのだろうか。僕はもっと、あの頃の記憶を大切にするべきかもしれない。
国立駅から電車に乗ろうとしたとき、野村さんが思い出したように言った。
「この旅行記、実は以前も捜したことがあったの。でも部員とは連絡がつかないし、全然情報が出てこないから諦めた。それで最近ふとまた気になって調べたら、あなたのツイートが見つかって。そしたら旅行記は手に入るし、さらに先生にまで会えるなんて。」
「後世に残る史料っていうのは、史料自身が見つけて欲しいタイミングで見つかるんだと思う。だから全部の偶然がつながったんじゃないかな。」
中央線がゆっくりと動き出す。移りゆく景色をぼんやりと眺めながら、僕は書くこと、そして旅をすることについて考えていた。
100年前の学生が旅行記を書いたから、太平洋倶楽部という団体が存続した。その団体があったお陰で、僕は旅に出るようになった。そんな僕がインターネットに呟いたから、その旅行記を捜す偶然の旅が始まった。そしてその結果、100年前の旅の記録にまた出会えたのだ。
旅を書くことは、次の誰かの旅につながる。
オレンジ色の車両に揺られながら、僕は今日という日を文章に残しておくことに決めた。
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