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ある朝、部屋で

張り手を食らって目が覚める。

先日1歳になった君が、笑顔で僕に覆いかぶさっている。時計をみると、朝7時。あと15分...とぼやきながら僕は寝返りを打つが、君は僕の腕を掴み、布団から引きずり出した。僕はおぼつかない足取りで、君に手を引かれながら、台所へ移動する。慌ただしい朝の始まりだ。

冷蔵庫を開き、どうしようかなあ、と考える。頭がまだ起きていない。君はベビーゲートの向こう側で、柵を握りしめてガシガシ揺らしている。早く朝飯をよこせ、と怒っているのだ。『プリズン・ブレイク』に出てくる、檻の中の過激な囚人みたいでちょっと怖い。
君が「マママ!マママ!」と叫んだので、僕はバナナを1本もぎった。マママ、とはバナナのことを意味しているのだ。最近言葉を覚え始めて、バナナのことをそう呼ぶようになった。ちなみに「パパ」とか「ママ」はまだ言わない。(だから君のママのことを「ママ」と書くのはまだ気恥ずかしくて、代わりにこの手紙では、僕がふだん呼んでいる通りに「アミさん」と名前で書かせてもらう。)

バナナの皮を剥いて渡すと、君は嬉しそうにかぶりついて、そのまま寝室へと駆けていった。直後に「う〜ん」とうなるアミさんの声が聞こえたから、どうやらまた張り手を食らわせたらしい。バナナはもっと、落ち着いて食べた方がいいと思う。食パンが焼けたので耳を取り除き、君に持っていくと、これも奪い取るように口へくわえた。右手でバナナ、左手で食パンを握りながら、交互にうまそうに食べている。

7時35分。時計を確認した僕は、すかさずテレビの電源を入れた。ちょうど、『シナぷしゅ』という子ども向け番組が始まる時刻だ。画面を見た君は、早速「オー!オー!」と言いながら、拳を振り上げて踊り出した。毎朝ここからの20分間は、朝のボーナスタイム。君のすべての注意がシナぷしゅに向けられる。僕らはその隙を狙って、自分たちの準備を進めるのだ。

アミさんは化粧台に向かい、僕は余った食パンの耳をかじりながら、スマホで仕事のチャットを確認する。なんだかできるビジネスマンみたいに書いてしまったが、実際は内容など読んでおらず、とりあえず既読を意味する「いいね!」を押して満足している。一年間の育休から復帰して、仕事にはもうすっかり馴染んだものの、早朝から働くのはまだ慣れない。
ついでに別のチャットも確認してみると、こちらには編集者から原稿の催促が来ていた。僕は会社員と兼業で、作家として旅行記とかを書いているのだ。といっても近ごろ旅行には行けないから、書くことなどない。同じく内容を読み飛ばし、心を込めて「いいね!」を押す。親指を立てた黄色の絵文字が、ピコピコと点滅した。

朝の仕事を終えて一息つこうと、食後の珈琲を淹れたところで、テレビからエンディング曲が聞こえてきた。まずい。番組が終わる。僕らは急いで君に駆け寄る。君はすでに朝食を平らげ、皮だけになったバナナを振り回して踊っていた。急げ急げ。エンドロールが流れている間に、僕らは共同作業で、君を立たせたままオムツを替える。ズボンをはかせ、服を脱がせ、体温を測る。まるでF1のピットインのような、連携とスピード感。よっしゃ完璧、準備万端で、さあ保育園へ行こう。

アミさんが抱っこ紐を装着し、君を抱き上げようとした。しかし君はその腕をかわし、逃走を図った。そして逃げながらバナナの皮を、廊下にぽいっと投げ捨てた。マリオカートにこんなアイテムがあったな、と僕は思う。もちろんアミさんが転ぶことはなく、玄関に追い詰められた君は、あえなく抱っこに御用となった。
抱っこ紐から抜け出そうともがきながら、君は目に涙を溜め、ドアを指さして「アココ!」と訴えている。アココとは「歩こう」という意味で、どうやら歩いて登園したいらしい。でも残念ながら、今日はもう時間がない。無事抱っこ紐に回収された君は、「アココ〜」と叫びながらドアの向こうに消えていった。頑張れ、君よ。夕方の迎えは僕の担当だから、終わったら一緒に歩いて帰ろう。

テレビを消すと、部屋は途端に静かになった。廊下にバナナの皮だけがべろんと落ちていた。僕はぬるくなった珈琲をすすりながら、君とバナナのことを思った。

君がはじめて手づかみで食べた果物は、バナナだった。小さな手で、小さなかけらを、小さな口に入れた瞬間、僕らは拍手で祝った。そのうち2口、3口と食べられるようになって、いまではすっかり君の大好物だ。皮さえ剥けばすぐ食べられて、栄養満点。なんて子にも親にも優しい食べ物か。君の食欲は日に日に増して、毎朝バナナにかぶりついては、みなぎるパワーの源としてきた。それにしても、いつの間に丸ごと一本も、ペロリと平らげるようになったのだろう。

君との毎日は、本当にあっという間だ。つい最近までお腹の中にいた気がするのに、君はもう歩けるし、話せるし、張り手もできる。バナナが皮だけになるたびに、君の身体はぎゅんぎゅんと育っていく。

アミさんの妊娠がわかってから、2020年末に君が生まれ、そして今日に至るまで、今朝みたいに慌ただしい時間が続いてきた。君は毎日笑って泣いて、僕とアミさんは毎日慌てて驚いた。一言ではとても表現できない、濃密で鮮烈な日々だった。

でも、君はまだ1歳だから、この時間を覚えておくことはできない。バナナの皮を振って踊った朝のことも、歩きたくて涙を溜めた朝のことも、きっとすベて忘れてしまうだろう。

だから僕は、この手紙を書こうと思う。僕らがどんなふうにして出会い、暮らしたのか。10年後か20年後か、いつか君が読めるようになったときのために、書き記していこうと思う。

1歳の君とバナナへ。


***


このnoteは、2022年9月に発売された書籍『1歳の君とバナナへ』の序章を無料公開したものです。

「君」が生まれるまでの一年間、そして生まれてからの一年間を手紙形式で描いています。

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