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君が生まれて、人生の主役は交代したか

「子どもが生まれると、人生の主役が交代する。」

そんな話を聞いた。正直に言って、君が生まれる前は不安を覚えていたし、カチコチに身構えていた。

「子どもが生まれたって、自分の人生の主役は自分自身だ。」

そんな話も聞いた。どっちだよ。辞書を引くと、主役とは「ストーリーの中心となり、物語を牽引していく人物」とある。つまり主役が交代するということは、君が僕の人生を牽引していくということだ。そんな気もしたし、やっぱり違う気もした。

生まれて2ヶ月くらいが経ったので、思うところを振り返ってみたい。

出産後、面会禁止の一週間を経て、母子ともに健康なまま退院した。育休に向けて仕事の引き継ぎに追われていた僕は、数日遅れて奥さんの実家へと向かう。これから一ヶ月、居候させてもらう予定だ。駅まで迎えに来てくれたお義父さんに「どうですか」と様子を尋ねると、「良いもんですね」と言った。後部座席から顔は見えなかったけど、その声から満面の笑みが伺えた。

家に到着、洗面所に直行、手洗いうがい。手首から指先まで、あらゆる菌を抹消すべく執念深くこする。手をタオルで拭いて、深呼吸した。待ちかねていた、対面の時だ。ドアの向こうには君がいて、でも病院のドアと違うところは、いつでも自分で開くことができる。意を決して、ドアノブを斜めに傾けた。

なんて小さいんだ、というのが第一印象だった。病院から写真が届いてはいたけど、実際に目にした君は奥さんの腕にすっぽりと包まれて、サイズが想像と全然違う。でもその小さな頭には髪の毛も、まつ毛も、スプーンくらいの拳には指がしっかりくっついていて、その一つ一つに爪が生えている。人間だ。とても小さな人間がいる。僕はその手のひらに、恐る恐る人差し指を添えた。「はじめまして」と挨拶をすると、君は指をぎゅっと握り締めて、最初の握手を交わしてくれた。

すんすんと匂いを嗅いでみる。なんだろう、なんともいえない香りがする。頭、口、首、手、お腹。どこを嗅いでも晴れた日の洗濯物みたいな、甘さ控えめのドーナッツみたいな、とにかく幸せな香りがする。やめられない。癖になりそう。まるで犬のように全身を嗅ぎまわしていたところ、君はおぎゃあおぎゃあと泣き出した。いいぞ。これはまさしく病院で、ドア越しに聞いた声だ。あれはつい一週間前のことなのに、なんだか随分と昔の出来事のように思える。赤ちゃんは、本当におぎゃあと泣くし、本当に顔が赤くなるんだなあ。これで君も立派な赤ちゃんだ。なんだかまた涙が出てきそうだけど、これから泣くのは当分、君の役割として譲ることにする。

初日から覚えることがたくさんあった。オムツを替えたあとは、しっかりギャザーを広げておくこと。腕でうまく頭を支えれば、抱っこ中でも片腕の自由がきくこと。どれだけ泣いていても、お風呂に入ればご機嫌になること。お湯に触れる瞬間は目を見開いて「エッ、エッ」と驚きのしゃっくりを発するけど、いざ浸かってしまえば恍惚の表情で天井を見上げている。

飲むことも出すことも、君はどちらも得意なようだ。

ゲップをすれば称賛、ウンチをすれば喝采を浴びる赤子という存在はすごいものだと感心するけど、それが君の本業だから胸を張っていい。
初めてオムツを替えるときはウンチという概念に怯えていたものの、母乳とミルクだけで精製されたそれはさほど臭いもなく、従来のウンチイメージを覆された。むしろお風呂に入っているとき、オムツを変えた直後など、こちらの想像を超えたタイミングでウンチをするものだから、そうきたかと毎回驚かされる。普段、自分がいかに固定概念に縛られているかを思い知った。風呂でウンチするくらいの発想を持ちたいものである。

飲むほうに関しても、いつもはふにゃふにゃと泣いている君も、空腹を覚えると断固とした声で主張して、それから母乳が枯れるまで飲み尽くす。たまに飲み過ぎてぺろっと戻してしまうこともあるが、それでもやけに満足げな顔で吐く。満腹よりも空腹に対して敏感な身体は、まず生き延びるための優先順位がはっきりしているのだなと思う。

ただ「出す」ことに比べると、「飲む」ことについては、僕が手伝える場面が思ったよりも少ない。最初は困ったらミルクをあげればいいと軽く考えていたけど、奥さんは母乳を3時間以上やらないと胸が張って、痛くてたまらないらしい。空腹に敏感な子どもと、母乳の残量に敏感な母。遺伝子に刻みこまれた母子のつながりに、少し羨ましさを感じたりする。

だからたまにミルクをあげる機会があると、僕は待ってましたと腕まくりをする。君はあらゆる哺乳瓶に対して貪欲に吸い付いてくるので、こちらとしても前のめりでそれに応じる。ぐいぐい引き寄せる力強い力には、君の生きようとする本能が伝わってきて嬉しい。いきなり裸一貫でわけのわからない場所に放り込まれて、毎日さぞかし大変なことだろう。まだ世界を楽しむ余裕はないかもしれないけど、飲んでいるときくらいはリラックスしてください。

部屋での日々は飛ぶように過ぎていって、生後一ヶ月の検診で、初めて一緒に外出する機会が訪れた。ずっと室内で寝転がっていた箱入りの君を、病院に連れていくのは大変に緊張する。その朝は早くに目が覚めて、普段食べない朝食をしっかり摂り、まだ慣れない抱っこ紐を装着した。首の座っていない君を縦に抱くのは慎重を要する。二人がかりで4箇所のベルトをカチリとはめて、ほっと一息をついた。でも今日はこれから、もっと色々な試練が待ち受けているに違いない。気合を入れて、病院へと向かった。

入り口で体温検査を受け、病棟に足を踏み入れる。チカチカ点灯する体温計を、君は興味深げに見つめていた。席間の距離をとるために貼られたバツ印を避けながら、受付にあるベンチに座る。ドキドキしながら順番を待っていると、じきに名前が呼ばれた。そうか、君の名前はもう公式に認められているんだな。自分のつけた名前を知らない誰かに呼ばれるのは、なんだかくすぐったい気持ちになる。一日かけて役所で手続きをした甲斐があった。

しかしここで、近づいてきた看護師さんが「あ」という顔をした。「二人での付き添いはできないんですよ」と言う。しまった。すっかり忘れていたけど、今はそういう時期だった。意気込んでいた僕は、途端にやることがなくなった。
君を奥さんにバトンタッチして、病院の外に出る。少なくとも1時間はかかるということで、周りを散歩することにした。この辺りの土地には明るくない。時間をつぶせるような場所が見あたらないので、適当な方角へと足を運んだ。

路地裏を曲がり、竹林を越え、国道沿いを進む。旅好きを自称している僕だけど、東京の外に出るのは、新婚旅行以来かもしれない。久しぶりに知らない土地を歩くのはとても楽しい。ちょっとした小旅行の気分である。平野の向こうまで広がる道を、どこまでも行ける気がする。

20分ほど歩いていると、途中で古びたラーメン屋がぽつんとあった。そんなにお腹は空いていないし、もうちょっと先まで歩いてみよう。そう思ったときに、ふと今ごろ君が、病院でどんな検査を受けているのだろうと想像した。そうしたらなんとなく、その場で立ち止まった。もう、このあたりでいいかな、と思った。
ついでにラーメンを食べることにして、剥げた赤いのれんをくぐる。内装は思ったよりも清潔で、おまけに醤油ベースのあっさりとしたスープが、やたらと僕の舌に合った。ダイエットを志す身でありながら、久しぶりに最後まで飲み干してしまった。これからたまには、こうやってこっそりラーメンを食べようと、小さな陰謀を企てた。

二ヶ月目に奥さんの実家を離れ、自宅での生活が始まった。君はだんだん僕らのことを目で追うようになり、三ヶ月が近づく頃にはついに「笑顔」という神業を習得した。メリーゴーラウンドのおもちゃがお気に入りで、スイッチを入れるときゃっきゃと笑う。ただ回るだけの機械に喜ぶ様子があまりにいじらしく、僕らのハートをズブリと射た。可愛い、可愛いという言葉を呪文のように二人で繰り返す日々。いい加減それ以外の単語のバリエーションはないかと辞書を引いてみたら、「らうたし」という古語が出てきた。「胸が締め付けられるほど愛おしい」という意味らしくて、まさしくこれじゃん!などとはしゃぎながら、らうたし、らうたし、と言ってみたりするけど、結局次の日にはまた「可愛い...」とため息をついている。

それにしても、ここ最近の君の変化は本当に凄まじい。もちろん物理的にもどんどん大きくなっていくけど、それ以上に毎日のように新しい仕草を覚えていく。泣き声ひとつとっても、最初はとにかく空腹時に泣き叫ぶだけだったのが、眠い時に泣いたり、抱っこを要求するために泣いたり。今では抱っこ中であったとしても、僕がスマホを眺めているとすぐにバレて、もっと集中しろといわんばかりに泣き始める。なんて成長だ。

で、そういうときはどんな小細工を弄するよりも、ただじっと目を合わせて、語りかけるのが良い。そうすると君はじきに泣き止んで、「あー」とか「うー」とか、それから「うねっ!」といった声を発する。言葉の萌芽である。どこまで僕のことを認識しているのか定かではないが、目の前の存在になにかを伝えようとする意思を感じる。僕もそれに対して「うねっ!」と応じて、そしたら君も「うねっ!」とまた返す。最近はもっぱら「うねっ!」が家庭内流行語大賞だ。

こういう変化に気づく度に、育休をとって良かったなとも思う。子どもの成長はよく一ヶ月単位で区切られるけど、日単位、いや時には同じ一日の中でも成長を遂げる。家に閉じこもってばかりの日々で、季節感覚も曜日感覚も失いつつあるけど、そういう小さな変化を捉える目は失いたくない。
ただ、よく考えるとそれが得意なのはむしろ君の方かもしれない。君はくるくる回るメリーゴーラウンドにも、チカチカ光る体温計にも楽しみを見出してしまう。僕らがうっかり通り過ぎてしまうような風景にも、目を見開いて驚いている。もし僕らもそうやって日々を過ごせたら、どんなに素敵だろうか。とはいえ君自身はそれをまだ覚えておくことができないから、代わりに記憶に焼きつけたいと思っている。

「子どもが生まれると、人生の主役が交代する。」

さて、実際のところ、どうだろうか。こうして振り返ってみると、確かに僕の生活は大きく変わった。毎週末のように泥酔していたのが(ほとんど)無くなったし、夜寝るのも、朝起きるのも随分と早くなった。「料理」という30年間逃げ続けてきた難題にも、悪戦苦闘中である。僕は奥さんと比べるとまだまだヒヨッコ親だから、毎日変わっていく君を見習って、これからも改めるべきことも山ほどある。これって、主役が交代したということなのか。それとも僕の人生は、やっぱり僕が主役であるべきだろうか。

その問答をやめたのは、ある晩のことだった。

寝ているときに、大きな地震があったのだ。長い揺れにはっと目が覚めて、気がついたら僕は君に覆いかぶさっていた。なにも意識せず、身体が勝手に動いていた。そのとき僕は、自分が本当に親になったのだと初めて強く自覚した。そして同時に、地震など気にも留めずにすやすや眠る君を見て、ただそれだけのことだ、とも思った。

僕の人生の主役は、いつまでも僕自身だ、とは言い切れない。だけど少なくとも、君は君の人生だけを生きて欲しい。僕の人生を君に押しつけるのは、全くもって本意ではない。泣いて、飲んで、出して、寝る。それらは僕ではなく、すべて君自身のために果たすべき仕事だ。だから寝ているときに変な奴が覆いかぶさってきても、構わずぐっすりと眠りつづければよい。そう考えたら、なんだか少し肩の力が抜けた気がした。

病院の外に出て、あの広い国道を歩いた日。以前の僕ならたぶん、時間なんて気にせず、ラーメン屋を脇目もふらずに通り過ぎて、足が棒になるまでどこまでも歩いただろう。だけど僕は、そこで立ち止まった。歩き続けるのをやめて、ラーメン屋の剥げたのれんをくぐった。その瞬間に、僕は何かを失ったわけでも、あるいは捨てたわけでもない。ただ新しい選択肢を見つけただけだ。そしてそれは時として、見たことのない景色へと僕を誘ってくれる。あの店で飲んだスープは、冷えた身体に深く染み渡った。

僕と君のそれぞれの人生は、ときに併走しながら、ときに混じり合いながら、国道のように平野を真っ直ぐに伸びていく。メリーゴーラウンドを楽しむ君の姿に僕が学ぶみたいに、逆に僕の姿を目にして、君が何かを思うこともあるだろう。それぞれの人生を過ごすなかで、記憶に残る接点をたくさんつくっていけたらいい。

とりあえず2ヶ月が経って、今のところはそういう気持ちでいる。ああ、そんな話を君とできるのが、待ち遠しくて仕方ない。とりあえず今は、「うねっ」と伝えてみよう。

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お知らせ:こちらのnoteが元になった書籍が、小学館から発売されました。『1歳の君とバナナへ』というタイトルで、一年間の育休をとって過ごした子どもとの日々を収録しています。このnoteと同じように、全文が子ども(君)に向けた手紙になっています。よければぜひ読んでみてください。

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