可哀想…は愛される?

「誰が悪いの?」
というキーワード

とある人物から
私が辛い事があった時、まあ、病気絡みのことなんだけど
愚痴ったら、これを言われて
ものすごく嫌だった
随分前のことになる

だけど
  とても役に立った…

その後、事あるごとにこの言葉が登場した

とても役に立つ問い掛け

他人のせいにしなくなる

病気は自分のせいではない

でも、病気を忌み嫌う心は自分発

病気そのものだけではなく
病気である自分のことも忌み嫌うようになってしまっていた

そこには自分の冷たさがある

同じ病気でも苦しみ方は変わるのだ

私の場合、必要以上に、自分を苦しめていないか?

それと同じで

自分の心を抉るようなものに

わざわざ意識、つまり"氣"を

向けてはいないか?

 何故そうする?

  何の為に?

苦しい事が好きなのか?

哀しい物語に惹かれるのか?

それもある

子供の頃から切ない物語が好き

これって一体、何なのだろう

「可哀想な私」を愛して欲しいという気持ちがあると

自分を可哀想にしてしまう、無意識に

これって実は、怖い事なんだよ

不幸に向かってしまうじゃないか

でも私には、この癖があるんだよ

根深いところに

これが私の、多分根が暗い部分の原因

 可哀想は愛される

って深く信じ込んでいる

明るく能天気な人は
一見愛されているようで
深くは愛されていない

感覚的にそう信じてしまっている

これ、不幸に向いている癖なら
やめたいな

多分、幼児期からの刷り込みなんだよ

今、閃いた

私の子供は愛されている、物凄く

暗くない、可哀想でもない
天真爛漫な感じ

あれでいいんだ

私のは拗れてる

この事、昔から気になっていたんだ…

私が変われる鍵がここにあるか🗝

同時に、氣念象の鍵にもなり得るか

悲しさ、苦しさ、闇の部分を共感し合いたかったんだ

表の私とは逆に

そうか
社会的にも封じられていた

昔はそういう事、よく話した
本音を

今は嘘ではないけど
本音は言わない約束みたいになってる

世の中全体がそう

いい事だけど
ずっとそれだと
バランス崩れてしまう

天秤⚖️が倒れる

ダムが決壊する

崩壊寸前だったような気がする

自分に起こる事は必然

幸せって、一筋縄ではいかないんだな

思っていた程、簡単ではないよ

一見、不幸そうな人の方が
深い意味では幸せってこともあるかもしれない…

いや、「かも知れない」じゃないよ
そうなんだよ

深いところからが大事なんだ

いずれはそれが表に出てくるんだから

どんなに長い年月を経たとしても、いずれ…

だから
深いところを大事にしよう

            ひょんるん