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『応答』の感想 #文学フリマ東京38

大玉代助氏 「僕たち」を抱きしめて さやわか論

『応答』という名称の同人誌に収録されている最初の文章に相応しく、明確に何かに「応答」している文章である。その「何か」というのは、本文によれば、「現在」にである。現在に応答するためにまず参照されるのが、「早稲田大学負けヒロイン研究会『Blue Rose』vol.3「特集:10年代」」と「米原将磨『批評なんて呼ばれて』」である。前者が10年代特集と謳いながらさやわか氏に言及していないこと、後者が批評家としてのさやわか氏に言及していることに着目し、大玉氏の2010年代におけるさやわか論が展開されていく。

誠に申し訳ないことに、私は批評なるものが何だかよくわかっていないし、本文に登場する固有名詞についても馴染みがないため、本文を全て読んだものの、期待されるレベルでの「応答」をすることは難しいように思う。だから、思ったことを率直に感想として書こうと思う。

私は、何が書かれているかよりも何が書かれていないかが重要だ、みたいな言説が好きだし、何らかの文章を読んで書かれていないことについて勝手に想像することもわりと好きである。本文は、「現在に「応答」」するための手がかりとしてのさやわか論となっているように思うが、本当にそうだろうか? もちろん嘘ではないにしろ、真意は他にあるのでは? その真意とは、想像するに「さやわか氏本人に対する応答」である。本文にはそのような直接的なことは一切書かれていないけれど(もちろん、「さやわか論」なわけだから敢えて書く必要はないにしろ)、書かれていないことが重要である可能性は十分にある。だから、「現在への応答」、拡大解釈すれば「上述の2つの同人誌への応答」はきっかけであり手段に過ぎない。この同人誌が会場限定50部発行という敢えて閉じた形式で頒布されたことも、何らかの認知的不協和の解消が働いた結果そうなったのではないか、と深読みすることも可能かもしれない。つまりこのさやわか論は「さやわか氏本人に届けたいような届けたくないようなラブレター」が真意なのではないかと解釈した。勝手な妄想です。

付け加えれば、この同人誌の末尾に掲載されている座談会における大玉氏の発言によれば、「(同人批評文化における同人誌は)クオリティもバラバラで。文章として読めるものが一、二本あればいいくらい(略)。で、『応答』に関しては、(略)クオリティをコントロールしながら、いいものだけを揃いたい(注:原文ママ)という気持ちで作りました」とある。あくまで個人的な世界の見方の話にはなるが、私は「人間の主観は、クオリティという客観的な指標を評価することができず、好きか嫌いかだけがそこにある」と考えている。つまり人が何かに対して「クオリティが高い」と言う時、それは「好きです」と同義であるということだ。『応答』は高クオリティを志向していることが先述の発言からもわかるし、とすれば、このさやわか論も高クオリティを志向して書かれているはずだ。高クオリティであるということは、「文章として読める」ことだと言っている。以上のことから読み取れそうなメッセージは、やはり取りも直さず「さやわかが好きです」なんなら「さやわかに読んでほしい」であり、つまりは「さやわか氏本人への応答」と解釈できる。勝手な妄想です。

あとは、俺ガイル考察集『レプリカ』vol.1 & vol.2 に所収されている大玉氏の文章に比べて圧倒的に可読性が高いように思った。可読性の高さというのは、相手に伝えたいという意志の発露であり、端的に言えば「思いやり・優しさ・愛」のことだと私は強く思っている。やはり座談会における大玉氏の発言によれば、「「愛している」のに、「愛している」という言葉では言い表せないくらい愛していても、それでも「愛してる」って言葉しかないんだったら「愛してる」って、何度も言った方がいい気持ちになってきました。沈黙でわかったようなふりをしたり、利口になったりするのでもなく、愚かでも言葉を、それでも何度も言っていくような反復」と言っており、何か明確な心境の変化があって可読性の高さに繋がっているように思いましたが、どうなんでしょう。

三澤蟻氏 言葉の海に揺らいで──九段理江と文学的「自閉」、あるいは

九段理江『悪い音楽』は、私にとってその異常なおもしろさに衝撃を受けた小説の一つである。

例えば、小説の冒頭部分の「私は溜息をつき、「あーあ」と言った」のところ。「「あーあ」と口から出た」ならわかる。しかし、「「あーあ」と言った」と記述されている。これは、「意図的に「あーあ」と言った」あるいは「後から思い返すに「あーあ」と言っていたから「「あーあ」と言った」と記述する他なく「「あーあ」と言った」と記述した」と解釈でき(本文によればどうやら後者の解釈が正しいと思われる)、いずれにしても「「あーあ」と言った」という記述自体に私は魅力を感じた。「魅力」というのは、言い換えれば「これはおもしろい小説に違いない……!」という予感のようなものである。そのすぐ後に「「ねぇ、これはどういう……あれなの?」と言った」という記述があり、その予感は殆ど確信に変わった。
本作のおもしろさについては枚挙に暇がないのだが、とりわけ、物語がクライマックスへと加速していく契機である「いや、これはさすがに笑う」という記述以降は、一文ごとに爆笑してしまい、スムーズに読み進めることができないほどであった。笑わそうとしてない感じで書かれているのが余計に可笑しかった。

この九段理江論は、私はですが、九段理江の小説がなぜおもしろい(笑える)のかを豊富な知識で語り尽くした貴重な資料だと思ったし、読む人によって様々な引っ掛かりのある魅力的な文章であると思う。野暮なことを言えば、この九段理江論の凄み&九段理江が今かなりホットな作家である、ということを考えれば、50部限定の同人誌で発表されるにはあまりにも惜しい、もっと開かれて欲しい、と率直に思う。

『東京都同情塔』の部分は『東京都同情塔』を読み終えたら必ず読もうと思います。

私事で僭越ですが、『悪い音楽』が好きならもしかしたら気に入るかもしれない小説をチョイスして感想を閉じようと思います。

|遠野遥『破局』
|石田夏穂『黄金比の縁』
|中村文則『遮光』
|羽田圭介『スクラップ・アンド・ビルド』
|青山七恵『ひとり日和』
|山下紘加『ドール』

才華氏 世界は「ひとつ」(で)しかない──時間、イメージ、言葉、フィクションなど無い──

救いの文章であることを意図して記述されていると思われる。きわめて明瞭な語彙によって書かれているが、それでもこの文章が(私の読解力・想像力などのいろいろな不足によって)何を言わんとしているのか一読してよくわからないので、少しでもわかれるように読み返しながらここで整理しようという試みである。

Q:誰に対するメッセージなのか
明確に誰かに何かを伝えたい文章であるということはわかる。「誰か」というのは明確な固有名を持った「誰か」ではなく、不特定多数みたいな「誰か」と思われる。本文及び座談会によれば「世界」(「現に在る」もの)への応答と書かれているが、「ほんとうには「世界」など存在しない」とも冒頭部分で書かれており、難解である。座談会では「なんでみんな「ひとつ」なのに、こんなにくだらない争いや競争を繰り広げているのだろうと、つねに思ってきました」と発言されており、「くだらない争いや競争を繰り広げている」人たちへのメッセージであると読み取ることができるだろうか。また、「みんな「ひとつ」なのに」の部分からは「世界=みんな」と(広義で)定義されているようであることがわかる。

Q:「世界は「ひとつ」(で)しかない」というのはどういうことか
本文には「卑近に言い換えれば、「どうせみんな死ぬ」と言えるだろうか」、座談会では「非常に単純化して言えば、何をしようが結局みんな死んで、無に帰っていくということ」、と明確に記述されている。

Q:そのメッセージを受け取る(本文の表現で言うと「インストールする」)と何がどうなるのか
これも明確に記述されており、本文では「「私」という消えゆく人称にできることは何か。(略)「ほんとうに」すべきことは何か」、座談会では「これをインストールすると、少しでも自分がほんとうにやりたいことやほんとうにやるべきことに向き合えると思うからです。そしてそういう人が一人でも増えれば、ほんの少し、「世界」が良くなる。本気でそう思っています」とある。

Q:なぜ「無い」のか
副題の「時間、イメージ、言葉、フィクションなど無い」というのは、つまり「時間、イメージ、言葉、フィクション」(=「世界」)は「ひとつ」ということだろう。なぜ「無い」のか。「ひとつ」だから(バラバラではなく「ひとつ」だから)、ということだと思われる。「時間」で言うと、過去も未来もなくて「いま・ここ」しかない(本文のテイストで付け加えると、ほんとうには「いま・ここ」すらない)、という感じでしょうか。

Q:以上をまとめると?
こうなるだろうか。「現状、まるで世界が「ひとつ」じゃない(=永遠に生き続けられると錯覚している(?))かのように各々が争ったり競争したりしている。でも、みんな「ひとつ」(=人はいつかどうせ死ぬ)である。「私」も「あなた」もどうせいつか死ぬ。この考え方をインストールすることで、自分がほんとうにやりたいことやほんとうにやるべきことに向き合えるようになるし、世界がほんの少し良くなる」。ですか?

感想:
座談会での三澤氏の発言「懸念として、これを読んで無事にOSがインストールされる人には、もともと素質や精神的な余裕があったのではないか、逆に「世界が「ひとつ」(で)しかない」ことに救われない人や絶望する人もいるのではないか(略)。「世界が「ひとつ」(で)しかない」が「虚無であるというわけではない」と言うための根拠なり条件なりが焦点になってくるのかなと」には共感した。個人的な体験で言うと、私は自分で同人誌的な冊子を2冊作ったことがあるのだが、その時には「人はどうせ死ぬんだからやりたいと思ったことはやろう」と自らに発破をかけてやったのをよく覚えている。しかし最近では、その「人はどうせ死ぬ」から感じ取る意味が変容しているようで、例えば、外出先でお腹が空いて何かを食べたいんだけど、「人はどうせ死ぬんだから別にいまここで特別な何かを食べなくてもいいか」という気分が根底にあるためか、食べたいものを求めて2時間くらい街をうろうろした後、全く何も選べないで空腹のまま帰宅することがよくある。もちろん、おそらく「意味」なんてないから、意味など考えずに「人はどうせ死ぬ」を「人はどうせ死ぬ」とそのまま捉えよ、というのが本文の趣旨のような気がするけれど、人間なので、なかなか難しい時もあるように思う。だから、「世界が「ひとつ」(で)しかない」は一人の人間にとっても気分に左右される諸刃の剣になり得るように思う。

「なんでみんなこんなにくだらない争いや競争を繰り広げているのだろう」というのはなんとなくわかる(いや、本当には他者の思考を「わかる」ことなどできないんですが、「わかる〜!」という軽い共感の意で)。私の友人に1日24時間ずっとお金を稼ぐことを考えていて、常に自慢話をし、常に何かと闘争し、常に何らかのマウントを取り続けているように観測される人物がいるのだが、おそらくは尋常でないストレスを自らに課しながら、未来に対して明確な目標があり、そこに向かって邁進しているように見える。その原動力は過去に存在するコンプレックスにあると私は睨んでいる。「人って死んだらどうなるのかな」と長い付き合いの中で大げさではなく20回以上は私に言ってきたりしている(私はいつも「どうにもならないよ、無でしょ」と応答しているが、いまいち納得していない様子である)。何をそんなに頑張って、常に周囲と比べて、価値基準を勝ち負けで測って、なんでそんなに自らの死後が気になるのだろう、といつも思う。

だけど、毎日エネルギッシュで、常に機嫌が良く、人生を楽しんでるように思う。これを書いているたった今、「明日から3日間福岡に行ってくるんだ!おみやげ買ってくるよ」とLINEがあった。エネルギッシュで機嫌が良く、楽しそうである。一方で私は「どうせ人はいつか死ぬからな」と空腹であるにもかかわらずお昼ごはんを食べるのを渋っている。酸辣湯麺を食べたい気がするが、別にいま食べなくてもいいか、と思っている。ここではないどこかに行きたい気がするが、別にいいか、と思って椅子に座り続けている。大きめのベッドを買おうかと思っているが、どうせいつか死ぬんだしこれから寝心地のいいベッド寝たところで何になるんだろう、とか考えている。当該人物は「人はどうせ死ぬんだから、今を楽しんだ者が勝ちだよ。俺にはたくさんの夢がある。だからたくさんの金が要る」と言っていた。「勝ち」という言葉と、金を稼ぎたい欲望にまみれたギラギラした感じに少し抵抗があったが、「人はどうせ死ぬんだから、今を存分に楽しんだ方がいい」という意見については、本当にそうだと思った。

「人はどうせ死ぬんだから、今を楽しんだ者が勝ちだよ。俺にはたくさんの夢がある。だからたくさんの金が要る」と「どうせいつか死ぬんだしこれから寝心地のいいベッド寝たところで何になるんだろう」と「世界が「ひとつ」(で)しかない」の間に、どれだけの差異があるのだろう、などということを思った。

とりあえずは重い腰を上げて、どこかのお店の美味しい酸辣湯麺を食べに行こうと思います。


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