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ゼミ・入院・卒業論文を書かないで卒業した話

要旨

 大学生の時、誰でも入れる落ちこぼれゼミに入り、トラブルがあり、卒業論文を書かないで卒業した。

独言

「ゼミってなんやねん」と私は言った。正確には「ゼミってなんやねん」と私は言った可能性がある。

 私はそもそも独り言が激しく、部屋で一人で過ごす際にはおおよそ独り言を発話しており、独り言を言っていない時には鼻歌を歌っており、鼻歌を歌っていない時には活動を停止している。大学2年、私は常々「ゼミってなんやねん」と思っており、思ったことは口に出してしまいがちであるため「ゼミってなんやねん」と部屋でひとりごちた可能性が極めて高い。

ゼミ?

 大学3年生になったらゼミとやらに入らなければならないらしいという噂は聞いていた。だが、まずゼミとは何なのか、どうやって入るのか、どのゼミに入るかをどういう基準で決めればいいのか、全くもってして不明であった。魔境だ。私はそもそも「受験の際に数学を使わなくていいほぼ唯一の国公立大学」という理由でその大学及び学部に進学したため、その大学及び学部に何の興味・関心もなかった。何の興味もないもののうちから何の興味もない何かを選び取ることは非常に難しい。

 例えば「「jaqts」と「菫コ繧ャ繧、繝ォ」と「ちょるんにぇヵす…ゎ」の中から一つ選んで下さい。その選択があなたの今後2年間を左右します」と言われたら困惑するだろう。なぜなら何が何だかわからないので選びようがないからである。当時の私はそういう気持ちだった。

 私は校内で唯一の友人に尋ねた。
「ゼミ、決めた?」
「ああ、山崎ゼミ」
「どんな感じ?」
「誰でも入れるらしいよ」
 というわけで私も山崎ゼミとやらに決めた。これはつまり友人が「ちょるんにぇヵす…ゎ」に入ったから私も「ちょるんにぇヵす…ゎ」に決めたということである。もしかしたら違う世界線では「菫コ繧ャ繧、繝ォ」を選んで今後2年間の大学生活が左右されていたかもしれない。あぶないところであった。

 大学2年の秋頃だっただろうか。「ちょるんにぇヵす…ゎ」に入るにあたって面接みたいなものがあった気がするが全く覚えていない。なぜなら何の興味もなかったからである。何の興味も向上心も持ち合わせていない私を受け入れてくれた「ちょるんにぇヵす…ゎ」は懐が広い。

安心

 これ以降は「ちょるんにぇヵす…ゎ」のような謎の文字列は出てこないので安心して読んでください。

余談

 後に聞いた話によると、それぞれのゼミには人気度みたいなものがあるらしく、一番人気のうちの一つのゼミは、朝は皆揃ってのジョギングが義務付けられ、勉強の要求が非常に高い向学心溢れる集団とのことであった。人気すぎて選抜だそうである。なぜ朝にジョギングをさせられる集団にそんなにも属したい人がたくさんいるのか私にはわからなかったが、彼らからすればなぜ誰でも入れる落ちおぼれゼミにわざわざ入りたい人がいるのかわからないかもしれないのでお互い様であった。

 春休みだったと思う。我が山崎ゼミにおいて、卒論の発表会みたいなものが開催された。先輩の発表を聞く会だそうだ。私はこれを迷わず欠席した。なぜならつまらなそうだったからである。後に聞いた話によると欠席者は私だけだったそうで、曰く、「これ以上につまらないイベントがあるとは考え難い」「地獄」「虚無」「永遠に終わらないんじゃないかと思った」「つまらなすぎて山崎先生が寝ていたのを俺はこの目で見た」とのことであった。

ゼミ

 大学3年生になり、いよいよゼミとやらが始まった。

入院

 その2ヶ月後、山崎先生が重大な病に倒れて長期入院、山崎先生が山崎ゼミを担当することが不可能となった。山崎ゼミのゼミ生は山崎ゼミのゼミ生としてのアイデンティティを失った。落ちこぼれゼミであるために最初からアイデンティティなんて高尚なものは持ち合わせていないのだが、山崎ゼミはおそらく山崎先生にありがたい教えを請うゼミであると思われ、山崎先生を失った今、この集団が何の集まりなのか誰にも説明することができなかった。結果から言うと、我々は卒業するまで山崎先生の顔を二度と見ることはなかった。一応存命ではあった。

 我々の手元には、ゼミに入ると同時に買わされた山崎先生の著書だけが残った。3,500円の高価な書物であった。後に聞いた話によると「俺すげー暇だったから読んだんだよ、あれ。いっやーつまんなくてさ、泣きながら読んだ。特に6章のダムのくだりが最高につまらなかった。時間の無駄。読まないほうがいい」とのことであった。

 また彼が言うには「俺『斜陽』読んでたんだよ。太宰治の。読んでたらいつの間にか斜めになってた」とのことであった。読者を謎の力で斜めに傾けてしまう小説があるとすれば、それは大変なことだ。

代打

 程なく、山崎先生のピンチヒッターとして若いイケメンが我々を指導することとなった。山崎先生は少なくとも若いイケメンでは全くなかったので、ギャップがすごかった。東京大学で研究をしている人とのことであり、もしや山崎先生よりも優秀な人なのではないか。地方都市の馬鹿大学の中にあるさらに落ちこぼれの馬鹿ゼミに突然に週一でわざわざ教えに来なければならない地獄・時間の無駄・虚無感は如何ほどであっただろうか。その時間を使って何らかの研究をするか、何らかの研究に邁進するための休暇に当てたほうがよっぽど我が国のためになると思われた。

 ただ、ノリの良い人で、我々の低俗な話にもしっかりと乗ってくれる懐の広さがあった。東京大学のイケメンのおかげで魔境と思われていたゼミとやらは結構楽しかった。山崎先生だったらおそらく魔境のままだっただろう。異なる世界線を選べて良かった。あぶないところであった。

 東京大学のイケメンは4年生になった我々を続けて指導することはなく、代わりに大学内のおじさんが指導することとなった。山崎先生は相変わらず病に伏せていたみたいだ。そのおじさんが教授なのか准教授なのかその辺のただのおじさんなのかは私にはわからなかった。少なくとも若いイケメンではなかったのでギャップがすごかった。

麻雀

 そのゼミでできた友人宅に入り浸り、連日、麻雀をしていた。3年生時の初夏だっただろうか。突発的に催されたゼミでの飲み会で私を含めた4人が最後までおり「4人か。麻雀やる?」「おーうちに麻雀牌あるよ」「じゃあ行こう」ということになった。私はその時点で麻雀のルールを全く知らなかった。

 それからは一人暮らしの「おーうちに麻雀牌あるよ」のアパートが年中無休24時間営業の雀荘になった。雀牌をジャラジャラする音はかなりうるさいらしく、上の部屋、隣の部屋から床ドン及び壁ドンが来ることもあった。しかし、数ヶ月経つと上の部屋、隣の部屋からも雀牌をジャラジャラする音が聞こえて来た。麻雀の影響力を舐めてはいけない。大学から近い学生アパートであったので当然の帰結かもしれない。

卒論

 大学4年生のメインイベントの一つは卒業論文であると思われるが、「卒論ってなんやねん」とおそらく私は言っていない。そのように推測される理由は2つある。

 1つは、上記の通り友人宅に入り浸っており、自宅で一人で過ごす時間がほぼなかったからである。大学2年までは自宅で一人で映画を見たり洗濯をしたりしていたので、麻雀が始まってから生活が一変した。私は独り言を自宅で一人でいる時にのみ発動させたいと考えている。なぜなら、人前で独り言をぶつぶつ発話する者は尋常でないからである。尋常でありたい。従って、「卒論ってなんやねん」と独り言を言った可能性は低い。

 もう1つは、そもそもの話だが、山崎先生が不在の山崎ゼミであったため正式に卒業論文を指導する者がおらず、「卒業論文を書かなくていい」ということになっていたからである。正確には「それっぽいレポートを提出すればいい。テーマは自由」とのことで、それを大学内の教授なのか准教授なのかその辺のただのおじさんなのかわからない人が一応添削みたいなことをし、取りまとめるということになった。卒論が消失した。奇跡だ。

 私は高校生の時、小論文模試を一文字も書かずに提出したことがある。怠けていたわけでも反抗していたわけでもない。ものすごく考えたが一文字も書けなかったのである。同じようなことが中学生の時にもあったように思う。教室内では皆がすらすらと小論文を書く鉛筆の音がポジティブに鳴っていた。すごいなぁ、と思った。小論文模試を一文字も書かずに提出した者は全校生徒で私だけだったみたいなので、強烈な劣等感があった。

 進学する大学を選ぶ際にも、当然ながら試験に小論文がないところを慎重に選んだ。後期日程ではどの大学も小論文を課していたと思われ、絶対に前期もしくは中期で合格する必要があった。絶対に小論文を書きたくないという強い気持ち・強い愛が私を前期で合格させた。

 小論文を書けない者が卒業論文なんて書けるわけないのである。私は大学に入学した瞬間から、それを書かないと卒業できないらしい卒業論文とやらを強烈に意識し、文章力の勉強、論理的思考力の獲得、卓越した読書、速読の実践、様々な論文の読み漁り、なんて全くするわけがなく、「あー卒論爆発しないかなー」と漠然と考えて映画を見たり洗濯をしたりしていた。

 すると、なんということだろう。卒論は爆発した。奇跡だ。神は死んだがこの世に奇跡はまだある。いや、もしかしたら、強い気持ちがあればどんな夢でも叶うのであり、これは私が「あー卒論爆発しないかなー」と強く願いながら映画を見たり洗濯をしたり麻雀をしたりしていた当然の帰結であるかもしれない。

卒業

 年中無休24時間営業の雀荘と化した友人宅で私を含めた4人が、卒論(レポート)と向き合っていた。

 そのうちの一人は、適当に見つけた2つのウェブサイトの文をそのままコピペし、自分で書いた「はじめに」と「おわりに」合わせて400文字程度を頭と尻にくっつけた卒論(レポート)を約1時間で仕上げた。

「いっやー疲れたなー。俺にも卒論って書けるんだな。信じられないよ。しかもこんなに早く完成するなんて。結構やるじゃん俺。え、みんなまだ終わってないの? さっさと終わらせて麻雀しようぜ」と彼は言った。彼はもはや斜めではなく真っ直ぐだったように思われた。

 卒論の極左とも言うべき1時間で仕上げたコピペが通るくらいなので、ゼミ生全ての卒業論文(レポート)が何の滞りもなく卒業するに足りる論文として認められ、我々は無事に卒業した。

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