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歯痛日記2023年初夏

某月某日
朝起きると、歯が痛いのに気付いた。右下の最奥歯がかなり痛く、おそらくは痛みで目が覚めたのだと思われた。私は毎朝起床したらそうしているようにAKRacingのチェアに座り、いつもだったらコーヒーを淹れるところを、その日は動かずに座ったまま歯痛に集中した。痛みをあるがままに感じ、それがどのような痛みか、それは本当に痛みと呼べるものか、その痛みに対してどのように対処すべきかを丹念に分析した結果、「ロキソニンだ」と私は思った。ロキソニン以外に選択肢はないように思われた。私は薬箱、鞄、雑貨入れなどを捜索し、この部屋にはロキソニンがないことがはっきりと確認された。前回の歯痛からもう長い年月が経っていた。私は頭痛になることは滅多にないため、前回のロキソニンも歯痛に対して適用した。時刻は午前6時。徒歩5分の場所に24時間営業のドラッグストアがあったが、ロキソニンというのは薬剤師がいないと処方され得ないものである。午前6時は薬剤師がまだ寝ている時刻と推測された。無辜な薬剤師を早朝から叩き起こすわけにはいかないから、せめて10時頃まで待たなければならないだろう。私は荒波のように襲い来る歯痛に耐えた。爽やかな朝日が街を照らし、雀と思われる鳥はチュンチュンと鳴き、鳩と思われる鳥はホロッホーと鳴いていた。私と思われる人物は暗い部屋でさめざめ泣きそうだった。10時になって直ちにロキソニンを買いに行った。別に歯が死ぬほど痛いわけではないんですが、というような爽やかな顔をして「ロキソニンをください」と私は言った。薬剤師が「いろいろありますけど、どれがいいですかね」と言い、5種類くらいのロキソニンが私の眼前に並んだ。これは普通ので、これはこういう成分が入っているから胃に優しくて、これは女性がよく買っていきますね、これは即効性があって、などと薬剤師は丁寧に説明をしてくれた。一通り話を聞き、この普通のやつをください、と私は言い、代金を支払って帰宅した。ロキソニンを飲むと、10分ほどで歯痛は雲散霧消した。

某月某日
まだ歯が痛く、長期戦を覚悟した。ロキソニンを飲むと歯痛が雲散霧消するが、それから3時間くらい経つとまた歯が痛くなって来るのだった。痛いよりは痛くないほうがいいので、痛くなってきたらロキソニンを再び飲む。痛みが落ち着く。やがて痛くなる。人生はその繰り返しだ。ちなみにこれはおそらく医療関係者が推奨してない個人の感想レベルのライフハックだが、ロキソニンは一錠を半分に割って飲んでも効くのである。薬剤師曰く「一日に二錠以上飲まないでください」とのことで、しかし、一錠を半分に割ることで、我々は一日に四回ロキソニンを飲む機会を与えられる。神はサイコロを多めに振る。ちなみに、一錠を四分の一に割って飲むのを試したこともあったが、これは全く効果がなく歯が痛いままになるので、やめたほうがいい。

某月某日
歯が痛い箇所が大きく腫れ上がっているのが観測され、その腫れ上がりが邪魔をして口を大きく開けることができない事態となった。つまり、私はマクドナルドに行って何らかのスペシャルなハンバーガーをオーダーしたが、スペシャルなハンバーガーというのは往々にして分厚く、私の歯痛に起因するおちょぼ口では食べるのにきわめて難儀した。ワッパーとかガストバーガーとかだったら更に難儀していたと思われ、マクドナルドでよかった。

某月某日
私は歯痛に苛まれた際には、下記の文献を読んで歯痛について深く洞察し、精神を統一することにしている。

■「つめかみは」(別役実『もののけづくし』ハヤカワ文庫所収)
要旨:爪と髪と歯は古くから我々と共生関係にある妖怪であり、総称して「つめかみは」と呼ばれている。爪と髪と歯は我々自身のようでありながら、実は我々自身ではない。当然ながら、我々自身の痛みは我々自身が引き受けるのであり、歯の痛みというのも歯自身が引き受けて然るべきである。しかし、歯痛の痛みは歯自身ではなく事実上我々が引き受けているのであり、これは不当である。

■「歯痛」(別役実『当世病気道楽』ちくま文庫所収)
要旨:歯というのは、我々自身であるようで我々自身でない、独自の部位である。従って、その原因を作ったのは我々の責任だとしても、その痛みは歯自身が引き受けて然るべきであるにもかかわらず我々に痛みだけが純粋培養されて送り込まれてくるのであり、これは不当である。しかし、歯痛に耐えている時、人はみな孤独で、その中にこそ哲学が生まれ得る。歯痛を経験したことのない哲学者はいない。

■「正しい歯痛の痛がり方」(別役実『日々の暮し方』白水uブックス所収)
要旨:「正しい痛がり方」というのは「自然な痛がり方」のことである。「正しく痛がる」ためには、まずは誠実で責任感のある同情者を用意する。そいつの前でうめいて見せ、提案されたあらゆる治療を拒否し、この苦しみがどのようなものか同情者に説明させ、同情者の関心を引き続ける。関心がなくなったということは「正しい痛がり方」をしていないということだから、痛がり続けて関心を引き続けなければならない。「正しい痛がり方」というのは「正しい」という点に価値があるから、「間違った痛がり方」をした場合よりも、痛みはむしろ痛烈なものになる。

某月某日
歯が痛くて夜中に目覚めてロキソニンを飲む、というのが連日続き、寝不足であった。人に会い、歯が痛いんだ、と言うと、ロキソニンのちょっと高いなんとかってやつは飲んだらすぐに痛みが引く、というのを教えてもらった。

某月某日
さすがに歯が痛いのが長期的に続き、ロキソニンでは限界があるように思われ、歯医者に行くべきではないかと思い始めた。歯医者というのは、ただでさえ痛い歯痛をそれ以上の痛みという武力によって封殺する恐るべき場所だ。歯医者以上に恐ろしい場所を知らない。現代はブラックボックスの時代と言われるが、その端緒は歯医者にあるのではないかと私は考えている。歯医者が我々の歯に対して治療と称して武力行使をしている時、我々は我々の口腔内で一体何が行われているのか知る由もない。この文章では便宜上「歯医者」と記述しているが、それは歯科医院のことであり、誰かしらの歯医者個人に何らかの恨みがあるわけではない。そう言えば過日、近所を自転車で走っていると、最近オープンしたらしい大変に綺麗で設備も整っていそうな歯医者を発見した。最新の設備が整っている歯医者は痛くない、という見聞を私は各方面から得ていた。ウェブで調べると、そこは予防歯科に力を入れていて、対象者は「0〜2歳児とその家族」と記述されていた。歯医者における私の精神年齢は0歳児程度であり、対象内とも思われたが、それが脆弱な屁理屈でしかないと認識できる知性はかろうじてあった。インターネットという素晴らしき人類の集合知で改めて検索すると、自宅から徒歩2分の場所に評判の良い歯医者があるらしいことが判明した。私は既に半分に割ったロキソニンが効かなくなりつつある歯痛に耐えながら当該歯医者のウェブサイトにアクセスした。当院では患者とのコミュニケーションを大切にしています旨が記載され、にこやかで優しそうな院長がニコニコしていた。予約をしようと思った。ウェブサイトから予約できるようであり、予約のページにアクセスし、予約状況を見た。最短で2週間後であった。2週間後……? こんなに痛いのに……? と私は思った。絶望を通り越して無であった。無であるにもかかわらず歯の痛みは感じた。それが実存というやつか、と私はこれを書きながら思った。予約ページに「急患対応※激しい痛みを伴う方」という項目を見つけ、これは私のことだ……! と思った。人は、太宰治『人間失格』を読んで、これは私のことだ……! と思う人間と、アルベール・カミュ『異邦人』を読んで、これは私のことだ……! と思う人間の二種類にわけられるが、私は「急患対応※激しい痛みを伴う方」を読んで、これは私のことだ……! と思った。新たな文学を発見したかもしれないが、歯が痛くてそれどころではなかった。「急患対応※激しい痛みを伴う方」を選択して進むと、最短の予約で3週間後であった。え、急患とは……? と私は思い、ノートパソコンを静かに閉じた。ロキソニンを半分に割らずに飲んで横になった。文学は死んだ。

某月某日
私はかつて、都内のネットカフェを2ヶ月ほど転々としていたことがある。目に見えて減っていく貯金に怯えながら、何らかの仕事をしていたわけではないし誰と関わることもなかったため社会に所属しているという感覚が希薄で、日中はふらふらとその辺をうろつき、夜は適当なネットカフェに入って発泡酒を飲んで寝る、という自分の人生であるにもかかわらず、意志というものが全くない他人事のような放浪生活であった。それはそれでよかった。ある日、歯が痛くなった。激痛であった。どの部位かは忘れたがどこかの奥歯であった。なんでこんな時に、と私は思った。いま思えば、私の歯が痛みによって私に実存を与えたかったのかもしれないが、痛いよりは痛くないほうがよく、大きなお世話であった。放浪生活と歯医者への通院は両立しないと私の脳は判断したらしく、「歯医者に行く」という選択肢を私は認識しなかった。ロキソニンで歯痛が収まるというライフハックを知らなかった私はネットカフェでウェブ検索し、どうやら「今治水」というやつが奇跡的に歯痛を鎮痛するという情報を得、ドラッグストアに買いに行った。今治水というのは無色透明な液体で、激しく痛む患部に直接塗布するものである。すると立ちどころに痛みが引く。奇跡の水だ。これが効かなったら放浪生活をやめにして歯医者に通院してまともな人間になっていたかもしれず、あぶないところであった。

某月某日
歯痛は「はつう」ではなく「はいた」と読む。腹痛は「ふくつう」であり、頭痛は「ずつう」であり、腰痛は「ようつう」と読むにもかかわらず、歯痛は「はいた」と「痛」の部分が訓読みになっている。訓読みの美徳はそのわかりやすさにある。「そう」と言われても何を言っているのかさっぱりわからないが、「はしる」と言われたらすぐにその動作をイメージすることができる。同様にして「つう」よりも「いたい」「いたみ」の方がわかりやすい。おそらく、当初は歯痛も例に倣って「はつう」だったのである。ある時、痛烈な歯の痛みに襲われた国文学者が「はつう」という音読みにおける表現の限界を感じた。「大変だ、はつうなんだ」「え、はつうって歯のマニアか何かですか?(歯通)」などという他者との問答もあったかもしれない。そこで国文学者の権限によって「はつう」は「はいた」と読むことに定め、誰もがそれを「歯が痛いやつ」と瞬時に理解できるようになり、人間というのは優しさ、思いやり、共感能力を本質とする高度に社会的な動物だから、「大変だ、はいたなんだ」と聞けば「かわいそうに。大丈夫かい?」とその能力を遺憾なく発揮できるようになったのである。めでたしめでたし。

某月某日
やがて腫れが引いてきたのを感じ、それに伴って当該箇所の痛みも漸減していった。念のために前倒しで早めに買っておいたロキソニンは開封されることはなかった。これを書いている今となっては全く痛くない。我々は勝利した。美酒を買ってきて飲んだ。

何らかの物語において、登場人物に与えられている何らかの痛みや傷などは、その回復の過程がそのまま当該登場人物の成長と絡み合って表現されていることが多いように思う。私はこの度、歯痛を与えられてこの物語が始まった。しかしながら、リステリンで口をゆすぐ機会こそ増えたものの、歯医者に行くというアクションを起こすわけでもなくただただロキソニンで誤魔化して寝ていたのであり、それで歯が痛くなくなったら歯医者のことなどすっかり忘れて能天気に暮らしているのであり、全く成長していない。人生は物語ではない。成長しなくても歯痛は治る。今後も脈略のない生活が続いていき、やがてまた脈略なく歯が痛くなるだろう。

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