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美味しいのか美味しくないのかよくわからないラーメン屋の話

 そのラーメン屋は雑居ビルの1階にあった。2階以上部分がアパート、1階部分がテナントとなっている。テナント部分には当該ラーメン屋、何をしているのかよくわからないオフィス、何を売っているのかよくわからない画廊、何が何だかよくわからないスペース、などがあった。

 私は初めて行くお店を過剰に恐れる。店内がどうなっているのか外からわからないミステリアスなお店であればあるほどその傾向は強まる。そのブラックボックスとも言えるお店に入店し、もしかしたら満席の常連客全員に睨まれる可能性があるし、注文の仕方を間違えて店主に舌打ちをされる可能性がある。そのラーメン屋は店内がどうなっているのか外から全くわからないので抵抗があった。苦手だ。

 
 いつも買い物をするスーパーマーケットへ行く途中にそのラーメン屋はあった。気になりながらも店舗の前を往来・素通りを繰り返して数カ月後、いよいよ入店した。腹が減っていた。

 扉を開き、恐る恐る店内に入った。店内には店主が一人。中年の男性である。「いらっしゃいませぇー⤴」と小太りの体に似合わない甲高い声で店主は言った。座敷もあったが一人客はカウンターに座るべきだろう。店内に客は私一人だったので常連客に睨まれなくて良かった。

 薄暗い店内を見回してまず初めに気付いたことは、異様に汚いことであった。狭い店内。どこからか変な虫が勢いよく出現しても驚かない、そんな感じがした。調理用の鍋はきちんと洗っているのか? テーブルとメニュー表は脂ぎっていた。

 豚骨ラーメン屋であった。メニューには「豚骨ラーメン」と「豚骨醤油ラーメン」があった。どちらを注文したのかは全く覚えていない。なぜなら私は豚骨ラーメンと豚骨醤油ラーメンの違いがわからないからである。それでも店主に舌打ちをされなかったのは幸運なことであった。

 注文したラーメンが来た。見た目は一般の豚骨ラーメン屋で出てくるのと同じようなラーメンであった。私は豚骨ラーメン屋に来たらほぼ必ず替え玉を一度はするのだが、この店では替え玉をせずに完食して退店した。

 
 帰り道で考えた。このラーメンは美味しかったか?

 美味しいものは腹八分目でもこの機会を逃すべからず、更に食べたいという衝動に駆られるはずだと私は考えている。本能が替え玉をオーダーする。でも実際には替え玉をしなかった。ということは普通に考えれば「美味しくない」もしくは「普通」のラーメンだったと推測される。

 しかし厄介なのが、店内が汚いということであった。ラーメンは美味だったが、そのラーメン屋の環境が良くなく、私の本能が速やかに退店を希望したがために替え玉を注文することができなかったという考え方もできるだろう。その場合、ラーメンに罪はない。

 美味しいのか/美味しくないのか、はっきりとさせたかった。変な虫が出てきそうな店内であるにも関わらず、私はあのラーメン屋が気になって仕方なかった。食べて味をジャッジするという一連のストーリーが未完だったからである。

 そうだ、改めて食べに行こう、とある日思い付いた。

 
 もう一度、その扉は開かれる。私が入店すると「いらっしゃいませぇー⤴」と甲高い声で店主は言った。店主については、ラーメンが好きで好きでラーメン屋を開いたというよりは、組織や社会に適応するのが難しくて個人経営のラーメン屋の道を選んだ、というような印象を受けた。その点は共鳴できるところであったが、単なる私の推測に過ぎないため、どうでもいい話であった。

「豚骨ラーメン」と「豚骨醤油ラーメン」のどちらを注文したのかはやはり忘れた。前回来た時と同じものかもしれないし、そうでないかもしれない。脂ぎったメニュー表を睨みつけても何も思い出せなかった。変な虫がカサカサと出てこないことを祈りながらラーメンを待った。

 前回と違うところは、先客が店内の入り口付近のカウンターに鎮座していたために、店内の奥の方のカウンターに座ったことであった。店内の最奥にはお手洗いがあり、そこから何とも言えない匂いが私の場所に漂って来ていて強烈に不快だった。

 トイレのアンモニア臭と芳香剤が混じり合った独特の匂い。私は、この匂いは自然界にはなく、人類が誕生しなければ地球上に存在しなかったのではないかと考えている。

 店主が一人で切り盛りしているラーメン屋なので、完成したラーメンを店主が運んで来てくれる。「お待たせしましたぁ⤴」みたいなことを店主は言い、私は「いただきまぁす⤴」と元気に言ったつもりだが、トイレから流れてくる悪臭に困惑していたので、心中は「いただきまぁす⤵」という感じであった。

 完食し、替え玉をせずに退店した。店内にはもう一人客がおり、私よりもトイレに近いテーブル席、それはもうトイレの目と鼻の先と言っていい常軌を逸した場所でラーメンを啜っていた。どういう精神状態だったのか心配だ。

 
 当然ながら、美味しいのか美味しくないのかよくわからなかった。ラーメンに罪はない。ラーメンは美食を探求する人類の英知だが、トイレから漂う匂いはなぜそんなものが発明されたのかよくわからない人類の負の英知である。どちらの英知が勝利したのか、私には判別がつかなかった。判別がつく前に急いで退店したからである。

 あのラーメン屋は一体何なのか、もやもやした。トイレの匂いを嗅がせながら食事を提供する店を私は知らなかった。どちらかと言えば、それはサービスとしては良くない部類に入ると思われる。あんなラーメン屋のことはもう忘れろと思えば思うほど、あのラーメンが美味しいのか美味しくないのかまだジャッジできていないことがむしろ気になった。

 
 三度目の正直。「いらっしゃいませぇー⤴」と言う店主に対して、トイレの匂いが絶対に届かない場所に着席して何らかの豚骨ラーメンを注文した。変な虫は未だに出てこなかったので案外清潔なお店なのかなと思った。メニュー表は依然として脂ぎっていた。こってり豚骨ラーメン屋としての矜持を見せつけるような脂ぎり方であった。

 店主こだわりのラーメンが店主自らの手で運ばれてきた。「お待たせしましたぁ⤴」と店主は言い、私は「いただきまぁす⤴」と言った。変な虫が出てこないので店内が案外清潔であるかもしれないことが推測されたし、トイレの匂いも届かなかったので心中も穏やかで「いただきまぁす⤴⤴」という感じであった。

 ラーメンと真摯に向き合った。雑念はない。これまでとは違う。ラーメンの味、香りの全てを身を持って実直に体感した。確かに私はこの時、このラーメンを全身全霊で味わった。完食し、替え玉をせずに退店した。

 
 このラーメンは美味しかったか? 今なら完全にわかる。特に美味しくはなかった。結論が出たので私はこれ以降、このラーメン及びラーメン屋のことを気にせずに済んだ。

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