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ブルーシートの服について(1):非礼拝的なオーラ


先日書いたSFの題材、ブルーシートの服ついての長い解説です。同様なブルーシートのジャケットのビスポーク受け付けます。あなたの年収の1/300以上、一万円以上の任意の値段をいただきます。

なんでそんなものを作っているのか?もともと友人がブルーシートが好きだという話をしていて、面白いなと思ったのがきっかけです。僕はブルーシートが好きではない。多くの人はブルーシートが嫌いだろう。日本の景観を害している。ブルーシートが無ければ、日本の田園風景はもうちょっと美しくなるだろう。

ブルーシートって、なんでこんなクソみたいな青色をしているのだろう。メーカーのサイトに説明があった。

「帆布生地や綿布生地が黄色系統の見た目だったことから樹脂製のシートも当初はオレンジ色に着色されていました。
しかし1965年頃からオレンジ色に代わり青色が主流になっていきました。
その理由として青色が空や海の色に近く、景観に溶け込みやすい事や青色の顔料が他の顔料に比べ安価だった事が挙げられます。
こうして私たちの知るブルーシートは青色になったのです。」

「景観に溶け込みやすい」というのは言い訳じゃないだろうか。「青色の顔料が他の顔料に比べ安価だった」というのが大きいと思う。

ホームセンターに行けば深緑色、黒色、灰色などのタープも売っている。けれど青いのが一番安い。厚さについては、近くのホームセンターでは1000番と3000番が売られている。ネットでは他の厚さも買える。1000番はすぐ破けそうなほど薄いので、服には3000番を使っている。ブルーシートで服を作るようになって知ったのだけれど、ブルーシートの質感もメーカーによって異なる。家の近くにはアヤハディオとコーナンという2つのホームセンターがある。そこで売られているブルーシートは、材料はどちらも同じポリエチレンだけれど、ずいぶん違う。アヤハディオのブルーシートはコーナンのブルーシートより硬い。その点で、服をつくるのにはコーナンのブルーシートのほうが良いかもしれない。アヤハディオのはプラスチックっぽい、コーナンのはビニールっぽい。色はアヤハディオのほうが少し濃い。強度もアヤハディオのほうが高そうだ。アヤハディオのほうがコーナンのより織り目が均一。ただ、アヤハディオのは表面がつるつるしていて、ミシンで縫うときに送りが滑る(皮革用のミシンを使うとよいだろう)。コーナンのほうが滑りづらいのでミシンはかけやすい(けれどミシンの送りで傷がつくことがある)。これも今まで気づかなかったのだけれど、ブルーシートは白い繊維を織った上に青い層をかぶせている。なので傷がつくと白い繊維が露出する。ちょっとジーンズに似ている。デニム生地の場合、もともと白いのを青く染めた糸と、白い糸を織ってできていて、青く染められた糸の表面が使っていくうちに擦れて白くなっていく。特に皺の部分が白くなるから、いい感じのエイジングが生まれる。ブルーシートもそうなるといいのだけれど。

どうでもいい話がつづきました。ブルーシートの質感の違いなんて、きっとだれの関心も惹かない話題だろう。

その友人の話にもどると、ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」に影響を受けているという。機械で複製された芸術作品は、過去の芸術作品がもっていたようなオーラを欠いている(ドイツ語風の発音でアウラともいうけれど、ここではオーラと呼ぼう)。ベンヤミンはそれを肯定的にとらえようとした。その友人もオーラを欠いた、大衆のための、大量生産品が好きなのだ。ブルーシートは、その典型だ。

ベンヤミンが言うオーラというのは、唯一無二の、交換のきかないものにやどる、真正さだ。それは写真や映画といった複製においては失われる、という。

「歴史的証言力は物質的存続にもとづくものであるから、物質的存続が人間とは関係ないものとなった複製においては、事物の歴史的証言力も危ういものとならざるをえない。危ういものとなるのは、確かに、歴史的証言力だけかもしれない。しかし、そのように危うい状況に陥っているものは、実は、事物の権威なのである。」「ここで消え去ってゆくものを、オーラというが概念でとりまとめ、次のように言うこともできるだろう。芸術作品が技術的に複製可能となった時代に力を失っていくものは、芸術作品のオーラである、と。」

100年前のベンヤミンの時代には、写真や映画という複製技術の普及が、社会を、人々の知覚の仕方を変えつつあった。

「オーラの崩壊は、ある種の知覚のしるしである。その知覚は、「世界のうちにある同種のものに対する感覚」がきわめて発達しているため、複製という手段によって、一回的なものからさえも同種のものを引き出す。このようにして、理論の領域において統計の意義拡大というかたちで顕著になっているものが、直観の領域において現れているのである。現実を大衆に合わせること、また、大衆を現実に合わせることは、思考にとっても直観にとっても計り知れないほど影響をもつ過程なのである。」

一回性のある物事を、一般的で交換可能なものにする。遠くのもののコピーを手元におく。以前の芸術作品の持っていたような礼拝価値とそれにもとづく儀礼的機能は消えて、人々は気が散った状態で写真や映画のような作品を受容する。しかし、同時にまた新しい芸術は、それまでと違ってはるかに多くの大衆の参与を可能とするものでもあるとベンヤミンはいう。

現代では情報技術が、社会と人々の知覚の仕方を変えつつあるのだろう。だいたいは100年前と同じ方向の変化ではないかと思う。つまり、一回性を一般性に置き換える。最近の人だって観光地にいって同じような写真を撮ってインスタグラムにあげながら、「一回的なものからさえも同種のものを引き出す」。インターネットの発達で、だれもがインフルエンサーになれるかもしれない社会になった。そして、「今日の人間は誰でも、映画に出る要求を掲げることが可能である。」とベンヤミンは言っているけれど、それは結局YouTubeのようなものが登場する最近になってやっと実現したともいえる。
一回的なものを一般的な形式の個別的な現れとして理解しようとするというのは、近代がずっと試みてきたことである。ベンヤミンの時代は写真や映画が、それに即した知覚の仕方の変化をもたらす技術革新だった。それが今では情報技術が担っている。そんなに違いはないように思う。ただ昔の写真のネガや映画のフィルムがアナログでコード化されているのにたいして、現代の情報技術のデータはデジタルでコード化されているため劣化しにくい。またアルゴリズムを用いることで、特定の形ではなく無数のバリエーションを生成することができる。写真や映画なら同じものを皆が見ていたところが、Facebookのタイムラインやオンラインゲームはそれぞれ違う。だからといってそれは物質的存続にもとづく一回的なものではなく、同じアルゴリズムから生成された異なるバリエーションである。AIの研究は人間の意識や生命をアルゴリズムに置き換えようとしている。僕はそのようなことは不可能だと考えているけれど、そういう目標に向かっていることは疑いえない。100年前における「統計の意義拡大」の延長線上で、人々はごく狭い経験に基づいた自分の判断より、ビッグデータに基づいたAIの判断に信頼をおくようになるのだろう。
今回のパンデミックで、オンライン化は進んでいく。そこで一層、オーラのようなものが社会から失われていくのだろうか。結局、オンラインで通信できるもの、コピーできるものは、気が付かれないところで改変され偽装されているかもしれない。そこには「物質的存続」にもとづく「歴史的証言力」がない。「事物の権威」の失墜はさらにすすむのだろうか。

ベンヤミンの、芸術を大衆に開かれたものにしようという、共産主義的な方向性は好きだ。でも彼の文章を読んで納得できないのは、オーラというのもを少し狭く考えているところ。「ここで決定的なのは、芸術作品のこうしたオーラ的存在様式が、その儀式的機能から完全に切り離されることは決してないということである。」という点である。僕は、儀式的機能から切り離されたオーラがあって、それは人間の日常生活に必須であるように思う。実際、ベンヤミン自身が、「ある天気のよい午後、ゆったりと憩いながら、地平線にある山並みや、憩っている者に陰を作っている木の枝を眼で追うこと、それがこれらの山々や木の枝のオーラを呼吸するということである。」と書いているところで「呼吸」されているオーラは、権威と結びついた儀式的なものではない。その価値は礼拝的なものではない。礼拝的(カルト)という言葉を権威的儀礼的な意味ではなく、アニミズム的な感性という意味に捉えれるのなら、それは礼拝的といって良いかもしれないけれど。

子供のころ、ビックリマンチョコやミニ四駆やガン消しにオーラを感じていたように記憶している。今ではビンテージのジャケットや靴や時計や自転車なんかにオーラを感じている。それらは大量生産品だ。大量生産されたものにもオーラが宿っている。ビンテージのジャケットや靴や時計のばあい、時間と、その時間をとおした利用がオーラを生み出しているように思える。時間を経て、同じロットの製品が個別化し、交換不可能なものになっていく。他には例えば、プレゼント、お土産、記念品、カスタマイゼーションといったことによって、大量生産品がオーラを帯びるようになる。

ラトゥールが言うように、モノや人間とは、人間や人間以外の存在からなるネットワークだ。オーラはモノの輪郭にかたどられた内部から発せられるのではなく、モノをもたらしている関係性の網の目(そこには自然的なものと社会的なものが混在している)から生まれる。その関係性の網の目は、だれにとっても同じように読み取られるということはない(僕は裏蓋に"To Francis, Love,  Joan"と刻印されたBulovaの時計を持っているけれど、FrancisやJoanを知らない自分にとってと彼らにとってのその時計の持つ意味は全く異なる)。

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人工物のもつオーラを、「希少性」という意味にとられないように気を付けなくてはならない。市場において商品が価値を持つのは希少性ゆえだ。そしてビックリマンチョコのシールや、ビンテージの時計や自転車などの価値を、この希少性のレンズから捉えてしまうことがある(上の写真は僕の自転車。1950年代フランスManufrance社製Hirondelle。Cycloの希少なフロント変速機が付いている)。この自転車は100万円だといわれると、それだけでなにかオーラがあるように感じてしまうだろう(実際はそんなにしないですよ)。そして僕が残念ながらそういうものを「所有」することに喜びを覚えてしまうのは、そういった希少性ゆえの交換価値と無関係ではない礼拝価値によっている。

山並みや木の枝は、希少なわけではないし礼拝するようなものでもないが、一回性を持つ。それは所有することに意味がなく、貨幣価値では測れない価値をもつ。まさに「呼吸」される空気のように、生きるために必須の価値である。そのようなオーラは、モノがもつ生き生きとした感じと関わっている。それは複製技術や情報技術の到来によって忘れ去られるべき、過去の時代のものではないと信じている(モノが生きているという感覚については別の文章を書いている)。僕は山並みや木の枝のように、ありふれていながら、交換不可能な一回性をもち、生き生きしている、そういうモノのデザインに関心がある。ブランドものとか作家の作品とか工芸品は、どうしても市場における交換価値であったり、権威と結びついた礼拝価値に取り込まれてしまう。求めているのは礼拝的なオーラではなく、非礼拝的なオーラだ。ヴァナキュラーなもの(産業化、商品化されていないもの)や、DIYに関心があるのはそのへんのところがある。

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ブルーシートで服を作るときに考えたのは、どのようにブルーシートがそのような非礼拝的で生命的なオーラを取り戻すかということだった。大衆のための安物、誰からも見向きもされないものに生命を取り戻すこと。

表紙の写真が、出来上がったブルーシートのジャケット。それなりにオーラが出たかなと思う。ブルーシートは大量生産品だけれど、今回のブルーシートのジャケットは一品生産なので、それだけでもオーラが出てくる。それに、ブルーシートという一般的に服に用いられない材料で服が作られているという特異性もあるだろう。もしブルーシートで作られたジャケットがどこかのメーカーから一般的な商品として生産されていたら、それを手作りで一品生産したとしても、さほどのオーラはでないだろう。ジャケットのデザインも現代の一般的なジャケットとは少し異なる。パターンは1900年刊行の、The Modern Designerをもとに作成している。コートとして使うように大きめのサイズとし、女性用に肩幅は狭くした(表紙の写真。下の写真はそのあと追加で作ったもので、パターンはGrand Edition of Supreme Systemをもとに作成している)。

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物質的な面からいえば、何億年前かの植物が化石化したのが石油として掘り出されて、工場で精練され、シートに加工され、ホームセンターで売られ、それを僕が材料として買っている。そこにはオーラを生み出す要素は少ない。このジャケットにオーラをもたらしているのは、関係性の網の目の社会的な部分だろう。市場経済や専門性の領域からはなれて、システムの隙間で作られている。つまり一般化された商品やパッケージとしてではなく、なんだかよくわからないものとして作られている。この物質的な面と人間的な面は切り離すことはできない。石油文明が滅びたあとで人々が石油に哀愁をかんじるようになれば、ブルーシートがオーラを帯びるかもしれない(現代人がアセテートではなくセルロイドのメガネをありがたがるように)。ただしそのときこのブルーシートは劣化して朽ちているだろうけれど。

冒頭で述べたように、ブルーシートジャケットの注文を受け付けます。でも値段はきめていないのは、普通の商品として市場に回収されたくないからです。

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オーラを生み出すのは、それが作られるまでだけではなく、作られたあとの関係性の網の目でもある。

交換価値や礼拝価値の多くは、人が関わることで消えていく。ブランドものを買って中古にしたら安くなる。イニシャルを入れたらもっと安くなる。美術館の絵には触れてはならない。それらのモノは、店に並んでいる状態、美術館に収蔵されている状態で、もっとも完璧なのである。人々のモノへの関わりは、その完璧さを削ぐことしかできない。だから人々の関わりは、モノに与える影響を極小にするように、あらかじめ決められた仕方に限定される。

他方で、非礼拝的で生命的なオーラは、人が関わることで消えはしないし、むしろ強化される。ブルーシートの服は、着てみたくなるし、どんな時に着たらよいのか想像もかきたてる。汚れてもいいし、雑に扱える。

非礼拝的で生命的なオーラという考えには、イリイチのいう「自立共生的conviviality」という概念が近い。共に、生き生きしていること。独占されるのではなく、人々が関われるものであること。モノに非礼拝的で生命的なオーラを生むには、そのような「関わりしろ」のデザインが求められる。どこにでもあるけれど、一つしかない。何だかわからないけれど、人を寄せ付けないわけではない。不完全だけれど、美がある。劣化するけれど、丈夫で修理できる。雑だけれど、愛がある。使うのにスキルを要するけれど、慣れると気持ちよく使える。使い方がわかりにくいけれど、新しい使い方を発明できる。何も教えてくれないけれど、何かを見つけ出すことができる。そのようなところに、生き生きとしたオーラが生まれるようだ。

生き生きとしたオーラを生み出す関係性は、人間との関わりだけではなく、人間以外の存在との関わりの可能性でもある。そのあたりのことを次は考えたい。


参考文献
ヴァルター・ベンヤミン(山口裕之訳)『ベンヤミン・アンソロジー』河出文庫、2011
ブルーノ・ラトゥール(川村久美子訳)『虚構の「近代」』新評論、2008
イヴァン・イリッチ(大久保直幹訳)『エネルギーと公正』晶文社、1979








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