誘惑と締切
僕にとって年度末というのは、今年度の報告書をまとめながら、次の年度の提案書や企画書を作るという非常に忙しい時期である。
休みの日も図書館に籠もって情報収集や勉強をしながら報告書や提案書の素案を練ったりしているが、いつの間にか書棚から全く仕事に関係のない蔵書を見つけてきて読みふけってしまっていたりするから油断ならない。
やらなきゃいけないとことがあるのに一体何をやってんだよと自分でも思うけれども、「やるべきことをやらないで他のことをしちゃってる」という背徳感も相まって、今手に取っている本が余計に面白く感じられてしまうのだ。
僕の弱い心では到底この種の誘惑に抗うことができない。
それでもどうにか仕事に目処がつけられるのは締切というものがあるからで、僕はこの締切というものを毛嫌いしつつも、その存在に感謝しているような、まるで思春期の頃の母親に対するような思いを持っている。
納期とか締切というものがあればこそ、誘惑に弱い僕でもどうにかこうにか締切までに自分でもあまり納得が言っていないが、一応体裁だけは整っている文書を作ることができているのだ。
やっつけ仕事に少し自責の念を抱いて「時間があったらもっと丁寧な仕事ができるのにな」などと思うのだけれども、実際に時間ができても丁寧な仕事をすることはなく、大抵締切直前になって慌ててあまり良くない品質の成果物を一応完成させるということを繰り返しているのである。
今自分はこの文章を図書館で書いているが、図書館の本も同様に、返却期限があるから読もうとするのだろう。
ずっと欲しかった本をやっとの思いで購入しても、「いつでも読めるな」と思ってしまえば、その本を手に取ることはなくなってしまう。
もっと大きな視点で見ると、人間はいつか死ぬことを知っているから何かをやろうとするのだろう。
不死身の身体を手に入れても、おそらく僕はただ日が昇っては沈むのを繰り返し見ているだけの無為な日々を続けるのだろう。
「いつでもできる」は「永遠にやらない」と同義なのである。
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