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70歳で始めた音楽、取り戻した青春とは?!

現在85歳となる兵庫県西宮市出身の福岡俊一さん、70歳になって音楽を始めたというものの、大阪ではもちろん月に数回は銀座のバーで軽やかなピアノ演奏にテノールの豊かな声を響かせ、カンツォーネやジャズライブもこなすほどの腕前。大手都市銀行への就職から、出向先DDIの立ち上げを経て、現在青春真っただ中!という福岡さんが取り戻したという青春とは。


20代での長い闘病生活

 日本の高度経済成長期の走りのころで就職難であったため、とにかく安心して勤められる大手で安全な先ならどこへでも、と関西拠点の大手都市銀行へ入行しました。職場が職場ですから真面目に一生懸命頑張りましたが、銀行時代にはあまりいい思い出がありません。20代後半には職場の催事での大怪我、胸の病気なんかで7年間も闘病生活を強いられ、私には青春時代がなく辛いものでした。焦りだらけ、でもとにかく安静にしなければならない日々。ようやく迎えた復帰の日、活気のある交差点に恐怖を感じたこと、そろばんを弾く手が思うように動かなかったことを覚えています。

49歳で出向

 職場復帰後、語学を勉強したくて会社に頼んで夜間の大学に通いました。のちに妻となる彼女がサンドイッチを作ってくれたことがいい思い出です。
 関西では支店を6カ店ほど異動しました。ところが49歳のときに突然の人事異動、聞いたこともない会社への出向命令とあり、驚きは隠せませんでしたが、そこは行員として銀行に従い出向しました。
 時代は1984年、政府は電気通信事業の自由化、具体的には日本電信電話公社の民営化と自由競争の始まりです。その民間の電気通信事業の立ち上げに参画することとなりました。

辛い、でもむちゃくちゃ楽しい

 NTTという大企業との圧倒的不利な状況での戦いの中で、次から次へと営業所や基地局を作っていかなければならないのに、通信・電波障害やら多くの苦情処理の対応もこなさなければならず、とにかく慌ただしく忙しいものでした。
 50代半ば頃には東京へ赴任、初めての東京生活は来る日も来る日も営業で、関西への出張があっても自宅へ寄る暇もなく、次の地へと飛び回る日々。不摂生がたたり痛風、胃潰瘍にもなりました。ですが素晴らしい人たちに出会い、多くのことを教えてもらう日々は、生きている実感があって、一言で言えば「むちゃくちゃ楽しかったぁ。」東京生活がこんなにも楽しいとは。

62歳で退職

 会社を無事上場にこぎつけて約1年、62歳で取締役を退職となりました。
 さぁ時間もたっぷりあるし、あれもこれもできるなぁ、とゴルフをやったりのんびり伊豆へまわったり、日本舞踊藤間流を習い始めたりしましたが、日々の仕事での合間、限りある時間での休日だからこそ楽しめたのだと改めて実感し、早々に仕事へ復帰しようと思いました。そして以前から親交のあった大阪の若手の素晴らしい経営者グループの仲間となり、今日に至っていますが、それまでの働き方とは多少変化してきました。仕事は手段、目的は自分の人生を豊かに過ごすことです。65歳ごろには初めてのイタリア旅行で、すっかりイタリアの紳士に憧れ、帽子、ネクタイや靴、バッグなどに気を遣うようになり、オシャレも楽しむようになりました。

会社所有ヨット

音楽で女性にモテたい!!

 いつの頃だったかBARで、初老の男性がピアノの上に薔薇の花束を置いて弾き語りをしたあと、さっと退場する姿を目にしました。その姿がとても印象的でカッコ良く、いつか自分も、という憧れの想いがどこかに残っていたのか、仕事も落ち着いた70歳になった頃、突然自分もやろうという想いが沸々と湧いてきました。それがきっかけの一つでしょうか、弾き語りができるように、とピアノと声楽を始めることにしました。
 そして習い始めたピアノでしたが、女性のソプラノの先生に間違ってはぴしゃりと何度も手を叩かれ大変厳しい練習でしたが、この新しい体験にすっかり飲み込まれ、仕事への情熱のように、いやそれ以上にのめり込むようになりました。
 ピアノと声楽2年くらい習った頃でしょうか、本格的にやるなら音大でしっかり習った方がいいよ、と言う新地のママのアドバイスのもと、思い切って音楽大学の門を叩くことに。興味を持ったらすぐ実行、は私の信条でもあります。ただ70歳を過ぎてからのスタートのせいか、受講申し込みをして暫くウェイティングがあり、その後「引受ましょう」と言って下さったオペラ歌手の先生がいらっしゃり、無事スタートすることができました。なぜ引き受けてくれたのか?あとから伺ったところ、私の音楽を教わりたい理由、音楽を心から愛していて、とにかく女性にモテたい、という思いに共感した、とのことでした。

持ち歩いている楽譜の束


ビルボードライブ大阪での公演決定

 今から思えば冷や汗ものですが、初めての公演は2013年11月、76歳のときです。何事もどうせやるなら目標をもって、と1年前に計画してそれからは16曲を披露するためにひたすら練習の日々です。もう二度とやらない、と思うくらいの熱量で打ち込んだ甲斐もあってリハーサルもまずまず、大勢の人に声をかけて意気込んで迎えた当日でしたが、ステージに立つと足が震えだしました。頭は真っ白、歌詞も完全に吹っ飛びました。うまくごまかしつつなんとかリスタート、2曲目になったころには足の震えはすっかり止まり、その場の雰囲気に酔いしれるほどに。
 辛い練習の日々があったからこその、この感動、何とも言えない思いが押し寄せてきて、二度とやるものかと思ったはずが、翌日には次はどこでやろうか、なんて考えていました。そして結果的には新地のピアノバー、東京赤坂のライブハウスと続けて開催することになりました。

ビルボードライブ大阪にて


青春は取り戻せる

 自分には20代の闘病生活で青春がなかった。ただ青春はすっかり取り戻せます。青春は心の持ちよう、いま私は毎日がすごく幸せで、毎日「あれをして、これをして」と考えることが楽しくて仕方がありません。新しい事に挑戦しようと思うと並大抵の努力ではだめで、人の何倍もの努力ゃでやっと人と一緒になると思っています。常に努力、努力、努力、努力、努力、何度も努力しないと物事は成就せず、その先に感動があります。その感動を積み重ね、魂を揺さぶることを追求していきたい。まさしく私にとってはいま青春真っただ中です。ピアノは毎日2時間自宅で練習し、声楽は自宅ではできないので、束ねた楽譜をバッグに詰め込み、新地のBARで歌っています。何度も練習している同じ曲の中でも必ず新しい発見や気付きがあり、やればやるほど難しい。それにあれもこれもまだまだやりたい曲もあって、時間がいくらあっても足りませんが、挑戦を続けていきたいと思います。
 当初の目標、音楽で女性にモテるようになったか?是非演奏を聴きに来て下さい(笑)

銀座のBARにて

#生きがいの持続化 #イキイキ #ワクワク


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