レガシー産業の得意を伸ばす

私が私として、あなたがあなたとして認知されたいように、所属する会社やその事業もまた、それぞれの個性として認知されたいものです。

例えば、科学がもてはやされる時代において、生徒全員が数学を得意とするわけではないし、またそうである必要もありません。国語や歴史が得意な子、美術が得意な子、スポーツが得意な子、あるいは笑わせるのが得意な子や、サボるのが得意な子ですら、それぞれの得意を伸ばすべきですし、時にはそれぞれの得意から科学に関係することもできるはずです。そうすることで本人だけではなく、関わる周囲も、そして科学も活性化するはずです。

これってつまりダイバーシティ?

昔から「モノ」ではなく「コト」が先だった

数字を見ていないので肌感覚ですが、レガシー産業の多くは、数十年以上、世代で言うと3世代〜4世代くらいに亘って、既成の市場に向けて、生産を行ってきました。目的と手段で言い換えるなら、目的は変化しないという前提で、目的は考えずに、手段(生産)に注力してきた。もちろん、今日の生活を享受できるのは、そうした先人たちの努力の賜物です。

今、すべての産業で「モノからコトへの転換」が盛んに唱えられていますが、コトがあってモノがあるという構図は、実は昔も同じです。コトとはすなわち「目的」ですから、これまではコトを棚上げにして、モノ(生産)に集中することができたというだけです。それまでのコトとは、例えば「不足を満たす」というテーマ。今では、偏りがあるにせよ、その目的はほぼ達成されて、不足が不足してきた。だから、改めてコトから考える必要がでてきた。あるいは、自社の生産力をサービス(XaaS)として捉え直す必要がでてきた。

我々の生産するモノとは、その時代ごとの大きな物語(文脈)の中の小道具です。そう考えると、小道具の価値は物語が与えているのであって、小道具自体に価値があるのではないことがわかります。

今に必要なのは「改善」ではない

動かないと思っていた目的が大きく動きはじめ、手段の改善では対応できなくなったのが現代です。その大転換の過渡期であるから、VUCAは当然の現象であると考えられますし、「反脆弱性」といった考え方が出てきたのは、必然なのかもしれません。さらに近年では、多発する自然災害や伝染病といった要素がそれに輪をかけて、予測や常識の適用を困難なものにしています。

言葉遊びになってしまうかもしれませんが、「改善」が「手段」に対して行うものであり、「改革」が「目的」に対して行うものであるなら、今はまさに「改革」が求められているのでしょう。その点で、例えば、最新の設備やAI、IoTなどの導入が、改革のためなのか、改善のためなのかによって、それらの働きは後に大きく変わってくるように思います。

素材を活かすも殺すも料理人の腕次第

今も昔もサービスのために顧客がいるのではなく、顧客のためにサービスがあります。社会とはこうした「誰かのための行為」の連鎖で成り立っており、今日の「仕事」とは効率化のために専門分化した、その一形態です。

例えば、かつて住宅地や商店街にあった食品や家電、洋品、書籍などの小売店、あるいは開業医や士業、工務店、料理店などは、恐らく、域内の顧客が近所でそれらのサービスにアクセスできるという利便性に強みがありました。しかし、そうした距離の優位性は、交通網や交通手段、流通技術、情報網の発達と、百貨店、スーパー、大型専門店、コンビニを含むチェーン店、ECを含む通信販売などによって、顧客の域外サービスへのアクセスが容易になった結果、大きく損なわれました。

こうした業態では「かつての目的」の呪縛から離れて、私を含む、域内の利用者に対して、近所であるからこそできるサービスや、逆に、域外の顧客もアクセスしたくなるようなコンテンツを再考し、その役割を早急にアップデートして欲しいと思います。我々が求める価値は日々変化します。

食料を例にとると、生産や流通が不安定だった頃には、食料自体が希少で、そこに価値がありました。だから持っていれば、売れた。持っていれば売れるから、それ自体に価値があると思い込んでしまう。しかし、生産や流通が少しずつ安定に向かい、飽食の時代になると、食料の役割は変わります。例えば、量から質への転換。ちなみに希少であることと、希少性は異なります。少ないから常に価値があるわけではありません。需要次第ですね。

コロナ禍で今後にどうなるかわかりませんが、現代の食に求める価値は、非常に多様化しています。それだけ、空腹を満たす役割の順位が下がった。これは素直に喜ぶべきことです。もちろん、コロナ禍によって、1ヶ月前には考えられないほどの多くの産業がダメージを受け、その一方では特需が生まれているように、今後の食に求められる価値が短期間で変わる可能性はあります。そしてここにも反脆弱性は求められます。

ウサギやドジョウを待つきではない

市場とは、社会の価値観を映す鏡であり、本来、流動的な存在です。変化を続ける市場に合わせて、産業もまた変化を続けていく必要があります。難しく考えずとも、産業側の作り手自身もまた、市場を構成するメンバーの一人です。市場が必要だと考えれば、その産業は繁栄し、不要だと考えれば、衰退します。

かつての繁栄を求め、切り株や、柳の下にウサギやドジョウを待つことは、古来より戒められています。改めて、それぞれの産業とその製品、サービスの得意とするところを再評価し、リフォームして、これからの市場に新たな活躍の場を求めて欲しいと思います。


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