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何かと何か つながる麻薬

 DJは曲と曲をつなげて一筆書きにする。もとは破線だ。つなぎ目とつなぎ目をひっかけてぼかしていく。

最近は「伏線」が注目されているようだ。「伏線」も、元々描写されている事象を再認識させることで物語の過去と現在をつなげる。つながるのが”気持ちいい”からだ。

つながるものは、全部麻薬だ。

SNS、家族、続編、血、理解、発見、歴史、交友関係、セックス、文脈、友人との小気味よい会話、メッセージのやりとり…
みんな、つながることが気持ちいいことをわかっている。意識していても、していなくとも、それは同じことだ。
しかしつながりはいつか途切れる。わかっていても目先の快楽を優先する。いつか途切れるよりも、またつながる可能性の方に賭けるほうが気楽で、なんだか人間らしい気がする。つながれないことも悩みの一種で、”気持ちよくなれないだけ”で、疎外された気分になったりする。何事も用法用量、節度やリズムを守れば、つながることに害はない。つながること全てを突っぱねたりする必要は全くない。大事なのは全体性だ、バランスを保つことだ。
つながることを押しつけるのは犯罪級によくない。つながるには理解か時間(またはその両方)が必要になるだろう。つながりの押し付けは色々あるが、私はどれも良くないと思う。

さて、私はというと…
つながることの用法に則せない頭のつくりをしている。麻薬がデフォルトで垂れ流されている。
弊害としては、思考にカロリーや水分が過剰消費されるため、すぐにお腹が空いてしまったり、少し水を飲まないだけですぐに気分が悪くなったりする。もう、つながりまくりだ。毎日連想ゲーム状態。
過剰消費を抑えるための術に出会えたのは、19年生きてようやくのことだったが、抑えすぎても私の良さが削れていくため、その術も理性的に使用するべきだろう。

体内に取り込まれたエネルギーは連想ゲームのガソリンとして使われていく。連想したものを取り出すにも、整理するにもエネルギーが使われていく。このリソース配分をいかに効果的に使うかが生きていく中での鍵となる。

あまりにもつながりに溢れた生活だからか、私はつながりが絶たれるような表現を好む。文脈理解が麻薬なのは前述の通り周知の事実であるが、文脈を横断または摘出したものを移植する過程自体、意味がわからないので好きだ。新たなつながりが生まれる瞬間を眺めるのが好きだ。つながらないこともつながることのウロボロスだ。ぐるぐる回っていく。正負の力の名付けがあったとしても、その力は回転だ。

さよならだけが人生なら、自らつながらない人はさよならをする権利もない。これは身の回りの人たちには結構言いたくなる。みんな、エネルギーを溜め込んで何になる?と思う。溜め込んでもその強度は上がらない。

回転してベイブレードみたいにぶつかりたい。鉄が弾ける音が好きだ。嫌なのは歯に当たるカトラリーだけ。目を回せ。どちらかの回転が終わってもまたベイをサーヴし直してまた遊ぼう。麻薬遊びをしよう。ベイがぶつかる瞬間、独り遊びが崩壊してつながりが生まれる。パーツを組み替える楽しさが生まれる。時報がなったら帰ればいい。

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