『オーケストラを観に行こう』3

4/
 日曜日当日。

 二人は最寄りの駅前を集合場所に決めていた。
 特に深い理由があったわけではなかったが、どうせデートなら、その方が雰囲気が出ると考えた言海が提案したことだった。
 理由は口にしなかった言海の提案にも大した反論もなく清景は頷いたため、そう決まったのだが、前日の晩になって言海は提案したことを少し後悔した。
 デートだと意識すると、妙に緊張したからだ。
 ソワソワして珍しくあまり眠れなかったし、ソワソワとする言海を見た言海の母から生暖かい目もされた。
 これならどっちかの家に集合にしてしまえば、この落ち着かない気持ちを早く片付けられただろう。
 そう考えながら、いつもより少しだけ気合の入った服装をした言海は遅刻しないよう30分ほど早く駅前に向かっていた。
 服装については佐藤真緒に意見を伺った。
 普段、周りの同年代の女子よりも服装にそれほど真剣に気を使っていない自覚がある言海は、これに関しても前日の晩に真緒に連絡し、相談した。
 真緒はたいそう楽しそうな声音であったが、普段からオシャレな真緒のアドバイスなら的確なのは確かだろう。

 約束の集合場所に着くと、見知った背中が見えた。
 思わず焦って、急いで声を掛ける。
 「すまん、キヨ。もう来ていたのか」
 言海に話し掛けられて、風島清景は操作していたスマートフォンから目を離して、顔を上げた。
 「あー、言海」
 内心、待たせていた可能性に焦る言海をよそに、清景は普段と変わらない様子で、手にしたスマートフォンを仕舞い、座っていたベンチから立ち上がった。
 清景の様子に幾分か安心をするが、一応言海は自身の腕時計で時刻を確認する。
 ほぼきっちり約束の30分前だった。
 清景も早めに家を出てきたのだろう。
 しかし、いつから待っていたのだろうか、もっと早く家を出るべきだったかもしれない。
 言海の内心を察したのか、清景が口を開いた。
 「あー、俺もさっき来たとこだよ」
 「そ、そうか?」
 「ああ。本屋寄って時間潰そうかと思って早めに出てきたんだよ」
 清景は駅の方を指さした。
 駅には書店が併設されている。
 それなりの規模をしており、言海も清景もよく使う本屋だ。
 「まだ時間あるなら、ちょっと寄って行ってもいいか?」
 「それは構わないが……」
 「じゃあ、そうしよう」
 清景は言海の手を取って歩き出した。
 気を使わせてしまったのだろうか?
 浮かぶ疑問も握られた手の熱であやふやになっていく気がした。


5/
 ステージの上、一番先頭に立つ指揮者のタクトが揺れるのを目で追う。
 タクトの動きを合図に一斉に奏でられ、会場いっぱいに鳴り響き、反響する荘厳なフルオーケストラの音は、音楽に関して一切の素人である言海にとっても面白いものだった。
 音と音の隙間でチラリと横に座る清景を見やれば、真剣な表情でステージを見つめていた。
 音楽が好きで、今もギターを弾いており、小学校を卒業するまではピアノを習っていて、クラシックにも少しは造詣のある清景には、一層面白いものなのだろう。
 目線をステージに戻す、変わらずタクトは揺れている。

 書店に立ち寄った清景が購入したのはクラシック系の音楽雑誌だった。
 清景も今は普段からクラシックを聴くことは無いようで、少しでも今日のコンサートを楽しむために購入しようと考えたらしい。
 清景はジェームズ・ハウアーにも相談したようで、アレコレとクラシックの知識を覚えてきたようだった。
 コンサートの前に、会場近くのファミリーレストランで二人は昼食を取りながら、「付け焼刃だけど」と注釈をつけた清景に、言海もアレコレと教わっていた。
 
 たとえ付け焼刃のニワカ知識であってもあるのとないのとでは違うもので、言海がここまでコンサートを楽しめていたのは清景のおかげだろう。
 もし、それが無ければ途中で寝てしまっていたかもしれない。
 尤も、清景のそれが純粋にコンサートを楽しむためのものだったのか、それともデートを楽しむためのものだったのかまではわからない。
 指揮者のタクトが揺れ動くたび、言海は少しだけそれを考えてしまう。
 どうにも、デートを考え始めてからデート当日の今日に至るまで、頭の中であれこれと考えることが多い。
 普段、決断が決して遅くない言海はそのせいでソワソワとしてしまう。
 理由はわかりきっていて、その上でその状況が言海にとって幸福なのだから、始末に負えない。
 油断すれば、きっとすぐに頬が緩んでしまう事だろう。
 そんなみっともない姿を見られたくないが、そう思えること自体が嬉しくて、また頬が緩む。
 また、言海の頭の中があれこれと巡る。

 ステージ上で奏でられる音楽はクライマックスに向けて盛り上がる。
 曲の盛り上がりに合わせて指揮者の動きやタクトの動きも盛り上がる。
 言海はそれを目線で追う。
 揺れ動くタクトを追いながら、アレコレと頭の中も巡る。


6/
 コンサートは終わった。
 疎らになり始めた会場を後に、二人帰路に着く。
 清景はコンサートの余韻に浸っているのか無言で、言海も未だ頭の中の整理が付かず口を開けないでいたため、二人は短い会話を繰り返す程度でのんびりとビル群の中を歩いていた。
 清景の隣を歩きながら、会話のきっかけをつかめずに言海は顔を上げた。
 ビルの谷間に綺麗な茜色の夕焼けとまだ輝きだしたばかりの明星が光った。
 なんとなく、その風景が綺麗で、言海は立ち止まった。
 行き交う雑踏を気にせず立ち止まった言海に、清景もすぐに気づいて言海の方へ顔を向けた。
 「どうした?」
 「……綺麗だな、と思って」
 「ん?」
 言海がビルの谷間を指さし、清景はそれに従い顔を向ける。
 清景はまた無言になった。
 言海も隣の清景の表情を確認することもなく、明星を無言のまま眺めていた。
 雑踏の音。
ビルの谷間に切り取られている風景に気付いているのが2人だけのような気がした。
やがて二人は顔を見合わせて笑った。
 笑い合って、雑踏に紛れる様にまた歩き出す。
 「言海」
 「ん? なんだ?」
 「今日、楽しかったよ。誘ってくれてありがとう」
 「あー……、うん。そうか」
 どうにも煮え切らない返事が返ってきて清景は言海の顔を覗き込んだ。
 言海は俯き、口元を抑えて数瞬目線を泳がせた後、意を決したように顔を上げた。
 「わ、私が、清景とデートしたかっただけだから。だから、その、気にするな」
 頭の中でグルグル回る言葉や感情の、その全てを言葉で伝えられるわけではない。
 それでも、今伝えられる言葉に、感情を載せて、琴占言海は風島清景に告げる。
 清景は、一瞬だけ不思議そうな顔をした後、笑った。
 なんせ長い付き合いの二人である、伝えていないことも伝わる。
 笑った清景に釣られて言海の頬も緩んだ。

 「デート、誘ってくれてありがとう」
 「……うん」
 「次は、俺が誘うよ」
 「ふふふ、楽しみにしてる」
 「……言海」
 「ん?」
 清景が立ち止まった。
 それに気づいて一瞬遅れて立ち止まった言海が振り返る。
 清景はいつもと変わらない表情のままで、振り返った言海の肩に手を置いた。
 距離が近づく。
 なんせ長い付き合いの二人である、伝えていないことも伝わる。
 距離が近づく。
 目を閉じた言海に、清景の吐息が聞こえる。
 距離が――

 ――突然、言海のスマートフォンが着信を告げた。
 二人は、即座に近づいていた距離を離した。

 驚いたように顔を見合わせて、次に思わず笑う。

 「キヨ、すまん。仕事みたいだ」
 「あぁ」
 「名残惜しいが、行ってくるよ」
 「気を付けて」
 短く言葉を交わして、言海は走り出した。
 

 琴占言海は、長い間風島清景の事を想って来た。
 風島清景も、長い間琴占言海の事を想って来た。
 二人は、やっとの事で結ばれたが、それは物語のほんの途中に過ぎない。
 
 少しづつ、二人なりに前に進みながら、相手を想う昨日を積み重ねてきたように、これからも相手を想う今日を積み重ねていく。

 そのために、言海は雑踏の中を駆けながら、今日の事を、風島清景の事を考える。

 コンサートのクライマックスのように。
 少しづつ、大きな音を作りながら――。

                                                                                                                        完

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