FUSE 2
3/
「……それじゃあ、お疲れ様です」
「おー、おつかれー」
挨拶と共に会釈をする。
タバコを吸っていた夜勤の先輩がくれた気の抜けた返事がバックヤードに響いた。
バックヤードの扉を抜けて店内に出るが客はいない。
窓の外はすっかり真っ暗で、もう数時間もすれば日付が変わるのだからそれはそうだろう。
俺は買い物をすることもなく店の扉に向かった。
別に特に用事は無い。
あとは帰って眠るだけ。
そうすればまた今日と同じような朝が来て、また今日と同じような日々を過ごしていく。
そう、思っていた。
「……ん?」
店の外に出て、夏の夜に特有の生ぬるい風に不快を感じた時だった。
ふと足元を何かが通り過ぎた気がした。
視線を下に向ける。
最初は客の捨てたビニール袋でも風に飛ばされたのかと思った。
面倒だな、と思いながらそれを拾おうと手を伸ばした。
が、それは俺の手を避けて動き出した。
「は?」
それはその大きさであるわけがない小さな猫と小さな人の姿に見えた。
思わず目を擦った。
疲れているのかもしれない。
なんせ今日は急なシフトだった。
自分の心にそう言い聞かせてもう一度見る。
「……」
だが、やはりそこには小さな人と猫がいる。
一人と一匹は不思議なものを見るような目で俺を見つめていた。
いや、不思議なのはこちらだ。
目の錯覚や見間違いでないのであれば脳の異常、または病気かもしれない。
まだ二十歳にもなっていない俺だが、もうだめなのか?
時間が止まったような錯覚の中良くない思考で頭が回り始め出した。
どのくらいそうして固まっていたのだろうか、不意に小人と小猫が思い出したように走り出した。
「ちょっ……!」
おもわず俺は彼女たちを追いかけた。
追いかける理由などなかったし、無視して帰るのが普段の行動だったはずだ。
そもそも疲れて見えてしまった幻覚だと疑っていたのだから、さっさと帰って眠るのが合理的で理性的な発想のはずだった。
それでも俺は追いかけていた。
小さな彼女らと大きな俺では明らかに歩幅が違う。
すぐに追いつけるはずなのになぜだか追い付けない。
段々と息が上がっていく。
何処を走っているのか、何故追いかけているのか、何を追いかけていたのか。
息が上がるにつれて思考も真っ白になっていく。
右も左も上も下も、過去も未来も現在も、全てが混ざり合ってやがて自分という存在すらも真っ白になって行くような、そんな錯覚。
全てが白くなっていく錯覚の中で、海の香りがした。
「っ……!? あ……!! ……はぁ……はぁ……はぁ」
息をすることを忘れていたらしい。
俺の体は急にガクンと停止して、膝に手を付いて、思い出したように息を吸い込んだ。
さっきまでの記憶が曖昧だった。
俺は何をしていた?
激しい疲労の中で酸素の不足している脳を動かそうとするがうまくいかない。
ダラダラととめどなく流れる汗が衣服に染みて体に張り付く。
そんな状態にあるはずなのに、身体にも心にも不思議と透き通るような感覚があった。
数十秒、或いは数分して俺はようやく体を再び動かし始められた。
そこに来てようやくここが何処なのか、という簡単な疑問を抱いた。
顔を上げて周囲を見渡す。
広い道路の真ん中、街灯は少なく街の灯りも遠い。
海の香りに波の音。
ろくに整備のされていないボロボロの柵の向こう側に月明かりに仄かに照らされている真っ黒な海が見えた。
なんてことは無い、いつの間にかいつもの海岸沿いに来てしまっていたらしい。
それがわかって、俺はうまく動かない体を引きずるようにして柵の方へ近寄った。
それは未だ知り得なかった『なにか』に誘われていたのかもしれない。
柵に辿り着いて、それからいつもそうしているように海を眺めた。
仄かに照らし出されているだけの真っ暗な海で何かが見える訳も無いのに、俺は目を凝らしていた。
自分でも訳も訳が分からないまま目を凝らしたその視線の先で何かが揺れた気がした。
真っ暗な中でそれが何だったのか、わかるはずもない。
わかるはずもないのに、気が付けばいつの間にか手を振っていた。
先程まで疲労の限界でうまく動かなかった体で、必死に手を振っていた。
『向こう』に見えているのかわからない。
こちらだって何も見えていないのに。
その時の俺は確かに必死だった。
それはきっと祈りだった。
見えないはずの視界の先で確かに、誰かが手を振り返してくれた感覚があった。
体の動きが止まる。
上げていた手がだらりと下がって元の位置に戻った。
風が吹いていた。
不快感のある生温い風ではなくて、涼やかで吹き抜けるような風。
海の香りの混じったそれを受けて、俺は深呼吸をした。
深く深く、確かに呼吸をした。
海は静かに波音を奏でていた。
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