椎名秋平の話

 ――あぁ、くだらない。何もかもがくだらない。
 そう思った。
 本気で、そう思ってしまった。
 全部がどうでもよくなった。

 気が付いた時には目の前にいるセンパイを殴り飛ばしていた。
 鼻血を垂らしながら情けなく倒れるセンパイ。
 ギャーギャーと騒ぎ立てる周囲のメンバー。
 次第に集まっていく他の部員達。
 その中心で俺は拳を握ったまま立ち尽くしていた。
 後悔はなかった。
 これから自分がどういう処分を受けて、どういう扱いを受けるのか容易に想像できたが、もうどうでもよかった。
 だから、目の前で無様に床をのた打ち回りこちらに呪詛を投げかける先輩であった男を見ながら心に浮かんでいたのは、抑えていた自分をやっと解放できた晴れやかな清々しさだけだった。
 俺がそんな清々しさを感じている間に目の前のセンパイが立ち上がっていたらしい。
 奴はこちらに向かって手を伸ばしていた。
 が、おそらく喧嘩などまともにしたことがないであろう奴の動きなど話しにもならないもので、奴がこちらを掴むよりも早く、俺は追撃をもう一発顔面にぶち込んでやった。
 瞬間、大きな悲鳴が上がった。
 誰かが呼んだのか、はたまた単純に騒ぎを聞きつけたのか、タイミング良く顧問の教師が教室に入ってきた。
 目が合った。
 教師が一瞬、たじろぐのが見えた。
 たぶん、この状況で浮かべていた俺の表情を見て、理解できなかったからだろう。
 その時、俺は確かに感じる達成感と清々しさを受けて、笑っていたのだから。


 「入るぞ」
 「どうぞ」
 処分が下るのにはそれなりに時間が掛かった。
 先輩をぶん殴った後、顧問の教師はおそらく怒りと恐怖が混じった表情で言葉少なに俺を空き教室に通して待機を命じた。
 わざわざ逆らう理由もないので、大人しく待っていた訳だが、なんせ部活の練習中だったのでスマホをはじめとした荷物の類は丸々部室に置いたままだった。
 そのせいですることも無くただただ何もない教室で三時間も待たされる羽目になった。
 教室のドアを施錠された訳でも無いので、別に堂々と荷物を取りに行くことも、なんなら全てを無視して帰宅することも出来たが、これ以上事を荒げる必要も感じなかったので、これからどうなるのか、またどうしようかなんてことを考えながら大人しく待っていた。
 やっとドアを叩く音と溜め息混じりの声が聞こえて、約三時間振りに出した声で返答した。
 すぐに扉が開く。

 現れたのは中年の顧問の教師、ではなくまだ若さの残る俺のクラスの担任の男性教師であった。
 なるほど、顧問は俺とは顔を合わせたく無いのだな、とすぐに悟った。
 担任は俺が平然としている様子をみて、安堵なのか呆れなのか、はたまた怒りから来たのかわからない微妙な溜め息を付いて、それから俺の対面の机から椅子を引いて腰掛けた。 
 「椎名」
 「はい」
 「・・・退部と、それから一週間の停学に決まった」
 「はあ」
 随分と寛大な処置だな、と思った。
 てっきり退学にさせられるのかと思っていたので拍子抜けだ。
 拍子抜けついでに思わず出た間の抜けた返答に担任は苦い顔を浮かべた。
 「お前なあ」
 「なんすか?」
 「・・・いや、なんでもない」
 担任は言葉を飲み込んだのだろう。
 それ以上は何も言わなかった。
 言いたいことはきっと沢山あっただろう。
 それでも、俺と件の先輩との間の確執を知っている目の前の担任は言葉を飲み込んでくれたのだ。
 こういうことが出来るから、この人は生徒からの信頼が厚いのだろう。
 俺と担任以外誰もいない教室に沈黙が流れる。
 外はすっかり暗くなっている。
 放任主義のウチの親が心配するようなことはないだろうが、流石にそろそろ帰りたくなって来た。
 窓の外を呆っと眺めていると、飲み込んだ中から言葉を探したらしい担任が意を決したように口を開いた。
 「・・・悔しく、ないのか?」
 それは、本当に俺を心配しているから出た言葉だったのだと思う。
 振り返って考えてみれば、今回の件が退部とたかが一週間の停学で済んだのは目の前の教師の頑張りがあったのかもしれない。
 「コンクール、近かったんだろう? その為に、散々お前が我慢していたこと、だいたい想像出来るよ」
 優しい人だな、と思う。
 きっと顧問の教師あたりと相当に揉めたであろうことが容易に想像出来るし、その上で俺の立場を考えてこうして言葉を選んでくれている。
 視線を窓の外から担任の方へ戻した
 だから、俺も素直に答えるべきだ。
 「まぁ、残念だなとは思います。でも、後悔は特に無いっすね。どうせ退部になるならもう一発蹴りでも入れとけば良かったかな、とは思いますけど」
 俺が素直に答えると、担任は目を剥いて、それから盛大な溜め息を吐き出してがっくりと肩を落とした。
 数秒そうしてから持ち上げた顔には苦笑が浮かんでいた。
 「お前なあ・・・」
 その言葉は二回目だったが、そこには妙な安堵が含まれていた。
 「・・・退部を、拒否する気はないんだな?」
 「あんなとこ戻りたくないんで、無いです」
 「そうか」
 担任は気が抜けたように肩の力を抜いた。
 おそらく、俺が戻るつもりなら学校側と対立してでも手伝ってくれるつもりだったのだろう。
 だが、もし仮に退部にはならなかったとしても自分から退部する気だった。
 その手間が省けたのだから、むしろこちらとしては好都合な状況なので、そんないらぬ心労を負う必要など無い。
 「別に音楽なんて何処でも出来ますよ。部活でしか出来ない訳でもあるまいし、他の場所を探すだけっすよ」





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