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幸せについてなんとなく書いた



自分のことが好きであることが幸せになるのかってのは全く=ではないと思います。こういった質問が出てくるということは、どちらかというと、幸せじゃない原因が自分が好きじゃない事みたいな形につながってしまっているのが原因な気もしますね。

僕は自分の顔が嫌いなので、鏡を部屋に置かないしみません。自撮りというかカメラを向けられる事に対して嫌悪感を覚えます。また、自分の過去の行いの醜さに気持ち悪さを幾度なく感じていますし、恥じています。未だに過去の事を思い出しては部屋の中で時折その場面を思い出して声を普通に上げますし、それは街中で一人で歩いている時思い出して声を反射的に出してしまう自分が心底嫌いです。また、自分の長所みたいな所を褒められるのは気持ちが悪いとおもっていた時期がかなりあって、罵倒されると自分の認識している気持ち悪さや底を浅さを肯定された気分になり、心がみたされた気持ちなる事の方が多いです。正直未だに褒められると、心の底では自分の事を褒める前に褒めるべき存在は世の中に沢山あるのに褒めるという事は、世辞を言われているのか、それとも他の世界の事を知らんのか。みたいな心が湧き上がってきます。これは褒めてくれた人の事を考えると、やばいなと思う事が最近増えてきてちょっとずつなくなってきていますが、未だにちょっとだけ思います。

自分を好きになろうと思った事があるのですが、思えば思うほど自分が自分の事をいかに嫌いかであるか内省が深まるだけで、幸せになるどころか精神がおかしくなっていきました。結局の所、今の自分が幸せなのは、自分の事が好きだとか考えるのではなく、今日は疲れたから寝よう。仕事がうまくいってよかった。俺は徹夜するとダメな人間だから10時に寝よう。みたいな形で、自分の特徴に対して自分というからだにどういう環境や、スタイルが合っているのかみたいな事を詰めていくことだけ考えて、自分に好悪という感情を向けるのをやめました。

感情は起こされるべき契機があると思うのですが、それが自分に対する好悪から発生するのではなく、外側に象られた自分自分の特徴が他者にどのような結果を及ぼすのか、みたいな所から自分を観察していって、どうやったら自分が気持ち状況に陥るのかみたいな事を詰めていった結果、「幸せとは」みたいな問い自体を消滅させ「今なんとなく生きてるし、仕事大変だけど楽しいな。」みたいな状況に自分を置きにいきました。そしたら幸せみたいな感じです。

俺の場合、自分の生き方を否定するそうな存在は実際の所天敵だなと思っています。散々怒られてきたけど、怒られた結果一個もいい事なかったです。自分を救ったのは、ちゃんとした机を買って、サクサク動くパソコンを買い、自分の脳みその特性のずれの差分を少なくする薬を飲み、誰かと話すのは苦手なので、一人で延々と話してもいいようなツイキャスやようつべという媒体や、好き勝手に何書いても多少許される文章形態をとってもいい詩や、ステージにたって思うがままに自分の感情をぶつけてもいいとしてくれるバンドに参加させてもらっていることや、この質問箱になるべく素直な回答を書くことや、偶にゲームをしながら闘争心を燃やす事の必要性を思い出し、思い出したように本を読んで、読むのを投げてやめても何も誰も言わないでくれる独り暮らしの環境があるおかげです。後は金です。

なので、未だに僕は自分の事マジで好きじゃないし、自虐ネタは自虐ネタではなくて、自分の性格、特徴がゴミ屑だと思っているからそう言っているのですが、それは他者との比較の上でそういう事なのだ。俺は人間と関係が結ぶのがへたくそで、でも一人でいるのはさみしいから誰かと偶にはしゃべりたいんだ。みたいな人間なんだなという自覚を誰にも指摘されないまま抱えてなんのきなしに暮らせているので、それでも全然幸せだと思います。幸せだと思った事がないけれど、生きるという事に戸惑いがないのでそういう事だとおもっています。

後は、自分の事を好きになれるのは、こういう言葉は好きじゃないけど有能だと思っています。自分に入り込んで、自分の事を自分で認められるというのはすごいですね。自惚れをふりまかれて、それを強化するための材料にされるのは困りますが、自分で自分の存在を担保できるのは非常にコスパがいいです。そういう意味では自分は非常にコスパが悪いので、幸せであることの状態を保つのに、僕は毎月薬代で1万、家賃6万、自分が生きやすくなるためのツールに1万くらい使っていますが、それでも足りないし、諸々必要なので更に課金しています。

最初の答えに戻れば、いかに自分が嫌いであって、幸せになれないのは、自分の事が好きじゃないからという問いから自分をずらしまくって、問いのポイントを変えてあげた事で俺は今幸せです。部屋も今くっそちらかってて、弁当箱の空箱が10個くらい転がっていたり、洗濯機の中に大量の洗濯物が現れたまま数日放置されていますが、それでもなんとも思いません。コスパが悪いながははみたいな感じです。嫌いだけど、幸せですね。でもその状態を保てるのって、俺が誰にも迷惑かけてないからだし、誰かに指図されて自分の部屋の様子をボコボコに指摘されてないからですね。これは間違いなくそうです。

みたいな感じなので、好きになった結果幸せになることもあると思うので、自分の事が好きじゃないと幸せになれないは誤だと思います。なので、多分質問者の方も幸せになれるといいなと思いますね。


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質問箱のbotに対して書いているのかもしれないし、誰かが質問してくれたのかもしれない。という前提は分からないのだが、なんとなく偶に入っている長文の質問に対してなんとなく真面目に返したいなと思っている。真面目に返す事は気持ち悪いよな。相手はそこまで思ってないよなみたいな感じや、一度話始めると、止まらなくなって相手に自分の取り留めのない話をぶつけてしまっている状態に突き合わせているような気持ちになってしまうので、こういったテキストベースで思いのたけをぶつけている事によって、実は幸せなのは間違いなく俺なんだよなという事に気が付いてしまう事がだいたい話終わった後に思う事である。あれだけ長文を書いたのにまだ書いているという事がその証拠に他ならない。

だが、そういった自分を気持ち悪いと思うのではなく、単純にまじめにかえしてみよう、そっちの方が俺は気持ちがいいからだ。という事にしてしま事で、俺は自分の事が好きじゃないが、気持ちいい状況になるので、自分の好悪の事についてこうして書いている今は最悪だが、書いているこの瞬間の高揚感は最高である。という矛盾が最悪なので、やはり好悪について考えたところで、どんどん自分の事が嫌いになっていく。嫌いになっていった結果、その精神状態が崩れて悪い方向に向かっていくので、考えないに越したことはないと思う。俺は幸せな事を考えるのが苦手なので、きがついたら幸せだったという状況に自分を追い込んだ方が早い。

そういった事は最近気が付いたおおきな事で、それを言語化出来るようになったのは、自分がそういった自分に対するアイデンティティに対して距離をおけたからに他ならない。のかなぁ。なんか足らない気もするけど、まぁこんなところだ。俺は俺の事嫌いだったなって事を思い出して来たら気分が悪くなってきちゃったので、やっぱりだめですね。

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