悪意について話した


悪意とは何か。なぜ悪意って面白いんだろう。そもそも悪意とは何かみたいな事について話した。ここら辺はツイキャスで話した事の延長線上にある話で、悪意のある構図ってみてる方は楽しいのかもしれないが、悪意を受けた側というのはたまったもんじゃないし、今は簡単に告発できて報復できるように少しづつなってきたけど、それが出来ないような仕組みっていうのを盛り込むと、未だに悪意ってみてる側は安心して享受できるような感じだし、それを俺もそうだし、見てる側も楽しめるような世界だけど、それってどうなんだろうね。

みたいな話をしました。

藤井健太郎氏の悪意とこだわりの演出術については、喋ってる時はうろ覚えだったんですが、岡田斗司夫氏の動画で知ったというのがある。もう4年前の本なのか。

感動とは何かという動画であり、その中で悪意とは何かみたいな話をしているので、見てみると面白いかもしれない。笑いは水物みたいな話にしてしまう訳ではないが、時代のセンスみたいな話であって、悪意とは何か、という事に対して作為的であるという事について喋っている動画で、この動画を見て学ぶことは多かったというか、俺の中に部分的でもいいので残ったし、悪意って今時どうなのみたいな話はここら辺につながっている。

今の水曜日のダウンタウンがどういう作りになっているのかには分からないけど、先週の放送を見るとあまり変わってないのかなと思うし、そういった構図って邪悪だよなって思ったりする。

笑いとはすり替えの暴力だというのは、その通りで俺はよく何かを笑ったりするのだが、それは人を笑うのは怖いので、創作物に対する読み込みの姿勢が変化する事に対して笑う事によって、俺は創作物を呼んで馬鹿にしているのでない。その構図を笑っているのであって、そういう形でストレスを発散(変則的な見方をする俺の目線きもちいいいいみたいな事を突き付ける暴力)みたいな事だなと思ったりする。

俺はこの構図を分かっているのでえらい。偉い俺はこの構図に気が付いているので、読み方が分かる。わかるから、他の読み手より偉いみたいな論理の構築に対して俺は親和性が高い、けど、俺はその構図を嫌がりたいなと思いながら、それに準じている。という構図から抜け出したいよね。

作為に気が付く悪意の差を笑いと動画の中で言ってるという構図ではなくて、俺はゼロベースの地点に立って、その現場から自分の構図を俯瞰するみたいな仕方になりたいよねって感じ。真面目かもしらんけど、なんか誰も気が付かない構図の気づき方で生きられたらいいのにねって思うよ。
















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