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8月4日 早島 我が家

今朝も5時頃から散歩

日があがってきても、昨日に比べると、涼しい。

昨日のうちに、この2日間でやってしまいたかったことが済んだ。
やってしまいたかったのは、これのチェック。

現在では、書籍化され、アマゾンでも販売しているが、最初にこの資料集が刊行された時には、夢中になって事実関係のチェックなどしたものだ。

その時の、折り目やら棒線やらも残っているこの資料に改めてあたったのは、まず3巻巻末の人名索引に助けられて他の美術家達の動きのチェック、それから小杉未醒、山本鼎、そして満谷国四郎への藤田の対応を確認したかったため。

この書簡は、藤田がフランスへ渡った1913年6月から1916年11月に渡るもの。
ちょうど同じ頃、小杉、山本、満谷も滞欧し、その画風を大きく変化させてゆく。
そして、彼らは第一次大戦をうけて日本へ戻るが、帰国後も、3人揃って、薄塗、片ぼかし、平面性の強い描写を強めてゆくのだが、それがヨーロッパに残った藤田とも共振する。

こうしたことが画面の観察からはわかるのだが、改めて、当該時期のそれぞれの言説を確認する作業がこのところの課題。
15年ほど前、まだ焦点がよく絞れていなかった時に、同じようなことはしたのだが、このところ、第一次世界大戦直前の滞仏日本人画家の様子がうかがえる資料のいくつかに出会ったこともあって、改めて双方の側から整理をつけているところ。

いずれ、その成果をどこかに書きたいのだが、フランスに来てみて、彼の地の美術動向(アートシーン)を見てみて、なにやらフランスの最先端は東洋を向いているぞ!といった認識を深めたことにより、いわゆる東洋回帰と言える展開を果たした満谷達に対して、藤田は、わかったつもりの早飲み込み!といった批判的な態度をもっているのを再確認。
でも画風上は似ていくことになるのはどうして?
そもそも「1913年、14年頃の藤田作品がない!」ので、考え方と作品との関係を考察するのは、なかなか至難。

とは言え、こうした資料の読み込みに時間を費やせるようになったのは、このところの、私の仕事のありようのおかげ。


今日までのつもりの宿題が、昨日のうちに終わったので、これから岡山大学図書館にさらなる資料調査に行くことに。
非常勤講師ゆえに使える特権は使わせてもらおう。

夏休みだからどうだろうと、開館状況を検索してみたら、今日は通常モードで、午前8時から午後11時まで開館!
素晴らしい。

朝の田んぼの香りのあとは、知的な香りを嗅ぎにゆこう。


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