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私の中の「私」

今、私は専業主婦をしている。

一つ年下の夫。高1、小5、幼稚園年少の三兄弟と猫に囲まれて

にぎやかに、そして穏やかに暮らしている。

そんな、「普通の主婦」の私には

住所不定で漂流していた時期があった。

夫も、息子たちも知らない私がいた。

それはもう、22年も前の話。

「今の私」が出来上がる前の「私」の話。

機能不全家庭の中で

私の実家は、いわゆる「機能不全家庭」だった。

ヒステリックでアルコール中毒の母と

ギャンブルにのめり込み不在がちの父。

母による暴力、暴言、過剰な制限。

門限、友人関係、洋服、読む本、テレビ番組、寝る時間

進む高校でさえも

全て母によって決められていた。

その異常さを察知されていたのか

私と友達になろうとする人はおらず

嘲笑の的になっていた。

よく「心が死ぬ」という表現をされるが

そうではない。

私の心は生きていた。

生きていたがゆえに、反抗しなかったのだ。

母がダメだということには手を出してしまえば

怒りに任せて木刀を振り回すような母だから

どうなるかわかっていた。

自分を守るためには、いうことを聞くしかない。

いつの頃からか

自分を惑わせるような情報は、シャットダウンしようとする癖がついた。

「私は、私」

「これが、私」

「変わる必要なんてない」

呪文のようにグルグルグルグル。

今になって思うのは

「よく生きたよ、私」ということだけ。

心が死んでいなかったから

自分を守る術を知って、実行できたのだ。

変わっていく景色

私が、「違う私」に気付いたきっかけは

専門学校に入って、二年間寮生活を送ったことだった。

そもそも母は

「女に学なんて必要ない」

「地元の人と結婚して、家庭に入ることが幸せなんだ」

と言って、頑なに私を進学させようとしなかった。

だから、地元の行きたくもない商業科の高校に通わせた。

卒業したら、すぐ就職しろ、と。

だが、ひょんなことから進学のチャンスが転がってきた。

唯一仲良くしていた同級生の親御さんが父の仕事仲間で

専門学校にでも入れたらどうだ、と進言してくれたのだ。

ちょうど、地元北海道の景気がすこぶる悪い時期で

就職先を見つけるのもかなり難しくなっていたため

「バイトなんかさせるより、専門学校でも行かせておいた方がいい」

との話になったようだ。

見栄っ張りだった父はまんまと口車に乗り

専門学校に行けと言い出したのだ。

父のギャンブルと母の酒代のせいで

家計は火の車だったはずだが

母は父に反抗できない。

あっさり、専門学校行きが決まった。

降ってわいたチャンスに乗ってみたものの

私には喜びはなく

むしろ恐怖しかなかった。

自分が変わってしまう恐怖。

見える景色が変わったとき

私はどうなってしまうんだろうと。

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機能不全家庭育ちのあるあるとして

「自分の家の価値観が普通だと思っている」

というのがあると思う。

それは

友達関係や娯楽の制限などがあって

「普通」をを知る機会が少ないから。

だから一旦ぐれたりすると、戻ってこれないし

逆に「外の世界」を毛嫌いする。

私は、紛れもなく後者だった。

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母は、せめてもの抵抗からなのか

私を寮へ入れた。

毎日電話がかかってくるが

それ以外は自由だった。

友達と寝食を共にしたことが大きかったのか

自分が育ってきた環境や

「しつけ」と称する過剰な制限は異常だったんだと

認識するのに時間はかからなかった。

それに気づいてからは

見える景色がどんどん変わっていった。

自分の持ち物が友達よりも

みずぼらしくみえた。

鏡の中の自分は

可哀想な人に見えた。

例えば、そんなこと。

必死に守ってきた「私」が

変わっていく。

それはもう恐怖じゃなくて

喜びに近い感情だったと思う。







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