明けまして、それから


※こちらは小説投稿サイト『カクヨム』に投稿している《山茶花の行方》の掌編になります。



 赤坂朱音は悴んだ手を擦り合わせたまま、初詣のお参りで賑わう神宮を一瞥した。
 正門の鳥居を抜けると、まるでお祭りを思わせるように出店の屋台が軒を連ねていて、寒さで荒んでいた朱音の心はほんの少しだけ熱を帯びた。そのほとんどが食べ歩きを推奨するもので、聖良に見つかったら行儀の悪さを指摘されるだろうなあ、などと杞憂に終わる心配をしてしまう。
 清佳から初詣に行かないか、と誘われたのは年明けが近付く十二月の末日だった。本心では二つ返事で頷きたいところを、家業や挨拶参りを終えてからでないと自由な時間を取れない朱音は、気軽に頷くことが叶わない。追って連絡すると伝え、後日「三が日は厳しそうなので、四日でも構いませんか?」と折衷案を出すと、程なくして清佳から「了解」のふた文字と、丸を意味する絵文字が返ってきた。
 本殿まで緩やかな傾斜になっている参道の傍に逸れて、朱音は早くも両手を合わせていた。参拝客を拝んでいるわけではなく、肌を突き刺す寒波に少しでも抗おうと熱を求めてのことだった。なので、
「気が早いね」
 と背後から声を掛けられたとき、朱音は驚きのあまりその場で小さく飛び上がってしまった。振り返るとそこには、羽毛の詰まった黒のジャケットを羽織り、片手を上げる清佳の姿があった。
「……背後を取るとは、卑怯ですね」
「殺し屋じゃないんだから」
 もこもこのジャケットと生地の厚いマフラーに顔を埋めた清佳は、縁の薄い眼鏡の奥にある目を細める。その頬はほんのり赤み掛かっていて、手で触ったらさぞ温かいだろうなあという邪な気持ちを、すんでのところで飲み込んだ。
「あけましておめでとうございます」
「いえいえ、こちらこそ。おめでとうございます」
「こちらこそ、はおかしくないですか?」
「……確かに」
 口々に新年の挨拶を交わして、どちらからともなく境内へと足を踏み入れる。三が日を外したおかげか、拝殿に集まる人だかりは想像よりもずっと少なかった。それでも、作法を教え合う親子が柄杓を握る手水舎や、おみくじ効果で賑わいの絶えない社務所を目にすると、ようやく初詣に来たという実感を得られた。
 赤坂家にとっての迎春とは、遠縁までを含めた親族一同が顔を合わせ、より一層の躍進を願うために食事会を開く日でしかない。こうして新年の挨拶をするために神宮までやってくるのは久しぶりのことだった。
「あとで唐揚げ食べてもいいですか」
「……聖良さんに怒られない?」
「大丈夫です。ブレスケア用品も完備しています」
 未だ不服そうな眼差しでこちらを見つめてくる清佳をよそに、朱音の頭の中は小銭入れに入った百円玉のことでいっぱいだった。二千円分を百円玉で持参してきた。新年の食べ歩きには十分な量だろう。
 からんからん、と歩くたびに参道から音が響く。そのたびに清佳は、ちらちらとこちらの足元を伺ってくる。物珍しいのかもしれないが、親しさゆえにじろじろと見られると何だか気恥ずかしい。
「うるさいですか」
「いえ、ただ……歩きづらくないの?」
 清佳の動きに合わせて、彼女の眼鏡がそっぽを向く。どうやら心配されていたらしい。
「たしかに小さい頃はそう感じることもありましたが、毎年のことなので。慣れてしまった、というのがいちばん近いかもしれません」
 今日も朱音は、年明けから実家で袖を通していた晴れ着と同じものを身に付けていた。着付けはもちろん聖良が行い、足元は足袋に合わせて、少しだけ高さのある下駄を履いている。学校指定のローファーと履き心地は違うが、慣れてしまえばこれはこれで歩きやすい。
「ただ、てっきり清佳さんもお着物で来ると思っていたので、ちょっとだけ恥ずかしいですね。私だけ気合いを入れて来てしまった感じが否めないので」
「とても似合ってるわ。朱音の晴れ着姿を拝めただけで、初詣に来た甲斐があったってくらい」
 清佳の口振りには、本心でそう思っているという真剣な部分のほかに、ほんの少しだけふざけている部分も垣間見えた。抗議を訴えようにも、清佳はすでに私服で初詣に来ているのだから、いまさら同じ格好を要求することも叶わない。
「……清佳さん。後で綿あめ奢りですからね」
 仕方がないので、メッセージと同様に折衷案を立てる。清佳は驚いたようだが、苦笑を浮かべながらそれを承諾した。
 拝殿前の段差を登り、賽銭箱の前に立つ。
 手持ちの巾着から小銭入れを探り、中から五円玉を取り出した。清佳も準備が終わったようで、お互いに一瞥をくれてから、ほぼ同時にお賽銭を投げ入れた。
 二回、頭を下げる。続けて、ぱんぱん、と軽快な音を立てて、今度こそ寒さからではなく本心で神宮を拝んだ。無病息災。学業成就。願い事を際限なく上げていいと言われたらキリがないだろうし、受け入れる側の神様もてんてこ舞いだ。
 だから朱音は、初詣とは今年の抱負を神様に伝える行事なのだと捉えていた。神様の前でいまの自分の願い事を告げることによって、今年一年の自分の頑張りを見張っていて欲しいという、そういう願掛けなのだと。
 目を開ける。久しぶりに参拝に来たせいか、今年は三つもお願い事をしてしまった。欲張りと言われてしまえばそれまでだが、頑張り甲斐のある一年になることは約束されただろう。
 隣では、未だに眉を顰めて願い事と向き合う清佳の姿があった。朱音も長くお願いをしていた自負があったが、清佳にはそれ以上に叶えたい願い事があったらしい。正直、少し意外だった。
 粘る清佳を待ってから、ふたりで一礼をして拝殿前を後にする。場所を社務所に移して、本年最初のお楽しみ。おみくじの時間がやってきた。
「私、こういうのは強いんですよ」
「夏休みに同じような台詞を別荘で聞いたけど、あのときは聖良さんに負けてたわよね」
「む……。清佳さん、覚悟してください」
 六角形の筒をじゃらじゃらと振り、えいや、と逆さにひっくり返す。中から姿を現したおみくじ棒には「十二」の文字が書かれており、数字を確認した巫女が背後にある箪笥から、結果の書かれた縦長の紙を持ってくる。
「ふたり同時に、せーので開きましょう」
 同じ手順でおみくじを受け取った清佳と、列の脇に逸れて「せーの」の合図で紙を開いた。
「あ、大吉」
「……私は末吉です」
 お互いの顔を見やるだけの沈黙が流れる。その空気を打破したのは清佳のほうだった。
「……ほら、おみくじって結果が全てじゃないから」
「大吉の人に言われても響きませんよ」
「それに、よく見て、ここの欄。朱音のおみくじ、内容は結構良いこと書いてあるわよ」
 促されるまま、おみくじの内容を目で追う。清佳の言うとおり、願望は努力すれば叶うし、待ち人は遅いがいずれやってくる、とある。金運も芽が出れば上がるし、病気の欄に至っては万にひとつも心配なし、とまで断言されていた。
「……本当にそんな悪くありませんね」
「逆に私のほうは当たりが強いわ。去年と同じく気を引き締めろってことなのかしらね」
 ふたり揃っておみくじ掛けにおみくじを結ぶ。大吉なのに結ぶのかと清佳に尋ねると、こういうのは気持ちの問題なのだと返された。
 ピークを避けたとはいえ、未だ出店が並ぶ神宮には入れ替わり立ち替わりで新しい参拝客がやってくる。お参りが済んだのなら長居は無用だろう。朱音自身も、晴れ着で来ていたので、初詣の後に何処かへ出かけようなどとは考えていなかった。
「迎えは来るの?」
「はい。連絡を入れたら、車で近くまで来てくれるそうです」
「そう。なら安心ね」
「その前に……。すみません、唐揚げをひとつ」
 参道に並んだ屋台に駆け寄り、店主をしていた男性に声を掛ける。男性は活気のある声で「あいよ」と言うと、揚げたての唐揚げをひとつ、ふたつとカラフルな紙コップに入れ始めた。じゃらじゃらと音を立てる小銭入れから、男性と同じように一枚、二枚と百円玉を取り出していく。
「はい、ちょうどね。まいど」
 男性にお礼を言って、朱音は清佳の元へ戻った。呆れ顔の清佳を前に、少し萎縮をしながらも唐揚げを突き出す。
「食べませんか?」
「……買っちゃったんだから、しょうがないわよね。あ、でも、ブレスケアはやめた方がいいわ」
「? どうしてでしょう」
 紙コップから串に刺さった唐揚げを引き上げた朱音は、行儀が悪いことを承知の上で、刺さっていたおおぶりな唐揚げを皮の部分から齧った。売店でサンプルとして置かれていた唐揚げより、ひと回りもふた回りも大きくて、とてもひと口では食べ切れそうにない。
「口からミントの良い香りがしたら、いかにも買い食いしましたって感じがするじゃない。聖良さんなら必ずそこに気が付いて、指摘してくるわ。だから朱音は逆に、そのままの状態で戻ればいいの」
「そのままで……。でも、それだと結局、買い食いしたことはバレてしまうんじゃ」
「ええ。だからひとまず、聖良さんに買い食いを指摘してもらって、その後、忘れていたふうを装ってブレスケアをするの。そうね、私からひと口貰ったことにしましょう。そうすれば朱音は、つまみ食いのひと口ぶんしか怒られないで済む」
 朱音は暫くの間、唐揚げに齧り付いたままの体勢でフリーズしてしまった。返事がないことを不安に思ったのか、眉をへの字に下げた清佳がこちらを覗き込んでくる。
「大丈夫? 唐揚げ美味しくなかった?」
「……私、ときどき清佳さんのことを恐ろしく思います」
「なんで?」
 紙コップに入った唐揚げの中から小ぶりなものをひとつ摘んだ清佳は、そのまま口に放り込んで「うん、美味しい」と笑った。
 昨年の春に清佳と出会って以来、たびたび彼女が見せる突飛な推理や柔軟な発想に、朱音は心底驚かされてばかりだった。他の人にはとうてい真似することのできない特技だと思うのだが、どうも本人はその事実を認めようとしない。
「ひとつ、訊いてもいいですか」
 緩やかな下り坂の途中で、朱音は立ち止まる。
 前を歩く清佳が振り返り、背中に下ろした長い黒髪がふわりと宙を舞った。もこもこに着膨れた清佳は、こちらを見つめ返したまま、僅かに首を傾げている。
「清佳さんはさっき、上でどんなお願い事をしたんですか」
 拝殿の前で長々と手を合わせる清佳の姿は、朱音にとっては意外な光景だった。人様のお願い事をむやみやたらと詮索するべきでないことは分かっているが、これでは年明け後に取り掛かろうと思っていた家業の宿題も気になって手を付けられない。
 くるりと踵を返した清佳は、鳥居が聳え立つ神宮の入り口に向かってゆっくり歩き出した。
「大したことは何も。無病息災とか学業成就よ」
「それだけじゃ時間が合いません。私もそこまでは同じお願い事をしていたので。……話したくなければ、別にそれでも構わないんですが。ただ、清佳さんがそんなに信仰深い方だとは思えなくて」
 信仰深いって、と噴き出した清佳は、頭上を見あげながら白い息を吐いた。朱音も釣られて顔を上げる。新年の青空にはどこまでも伸びていきそうな入道雲が浮かんでいた。
「笑わない?」
「笑いません」
「……まあ。その。私たちがこれからも仲良くありますように、的な。だから、ほら、ね。あー、やっぱ今のはなし! なしにして頂戴!」
 既に発した言葉であるはずなのに、清佳は朱音の両耳を覆うように上から手を被せた。寒さですっかり真っ赤に染まっていた清佳の両手はとても冷たかったが、不思議と悪い気はしなかった。
「私に言っても仕方がなくないですか? もう神様も聞き入れちゃったと思いますよ」
「……たしかに」
 朱色に彩られた顔をふいと背け、屋台のほうを見やる清佳は、拗ねた子どものようでなんだか可愛らしかった。珍しく照れている彼女の姿を目に焼き付けながら、山のように積まれた大きな唐揚げを今度は豪快に頬張ってみる。
 朱音は、自分が拝殿の前で唱えた三つめの願い事を思い返し、その偶然にひとり驚いていた。
「清佳さん」
「……何かしら」
「今年もよろしくお願いしますね」
 奇しくもそれは、朱音が神様に願った内容とほとんど同じだったからだ。

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