クズの先に栄光がある

ソクラテスが唱えた無知の知。
無知であることを自覚せよ。
今回言いたいことはこれだけである。

私は一丁前にnoteを執筆しているが、
どの記事も半ば自分に向けて書いているところがある。
完璧主義うんぬんの話がまさにそうである。
この記事も完璧主義うんぬんの話と通ずるところがあって、
完璧になり得ないクセに大きい態度を取るなとただただ自分に言いたい所存である。
そうは言うものの共感していただけるとnoteの意義が保たれるので目を通して頂けると非常にありがたい。


自分のことを偉いとか特別だとか思ったことはないだろうか。
私は大いにある。
むしろ自分はダメだ、平凡だと思ったことの方が少ない。
信念はあるし夢もあるしそれなりに苦労をしてきたし、そこからたくさんの学びを得たし、他の人より優れていると思って生きてきた。
しかしここ数年で他人の偉大さを目の当たりにしたのだ。
人を包み込む大きな愛、自分にはない優しさ、海のように大きい器を持った人達がいたのだ。
こうなればもはや引き下がるしかない。


そう思って自分はクズだと認めた。
不満はたくさんあるしイライラするし、簡単に人を嫌いになる。
お金が貰えないと働かない。
私はそういう人間なのだ。

かといって道徳を捨てるほどのクズになるのは真っ平御免である。
人間というのはどこまでもバランスが大事だとつくづく思う。
やり過ぎは良くないが、足りないのも良くない。
正直面倒だ。
だが本物のクズにはなりたくない。

だからクズになろうというのは、謙虚になろうということである。
クズだと認めてから、本当に心が軽やかだ。
肩の荷がスっと降りた。
自然体の自分で生きている感じがする。
生きた心地がする。

オリラジの藤森が、プライドレスという言葉を吐いていた。
プライドレスになってから、気が楽になったらしい。
プライドを捨てる。
クズになるというのはそういうことなのかもしれない。
プライドだけ高くても、自信ばっかりあっても、自分が苦しいだけだ。

身の丈に合わないプライドや自信は、もはやプライドでも自信でもなく、ただの見栄に過ぎないのかもしれない。

不出来な自分を認めることは簡単ではない。
頭で分かっていても、どこかで納得がいかないところがある。
しかし認めることが出来れば、些細なことを幸せに感じることが出来るだろう。

自分の無力さを知って初めて何かを学ぶことが出来る。変化を作ることが出来る。
見栄を集めて作った椅子にドカッと座っていたところでなんの変化も訪れない。
つまらない人生である。
だからクズであることを認めるのだ。


腹が減っては戦は出来ぬ
ということで、
腹が減ったのでご飯を食べてきます。


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