映像的な美しさが・・・ない今のコマーシャル

個人的に二ヶ月近く漫然とした気持ちでテレビや動画サイトなどの映像媒体のコマーシャルを見てきて、昔のジョンテモーニング氏の東京モード学園のコマーシャルや今も放映されているライザップのコマーシャルには及ばないなあ、と思いました。一方で1990年前後の日本ではバブル景気の影響もあり、日本人の多数が未来に対して夢や期待を持っていた時代だったこともあって東京モード学園などのコマーシャルには「あぶらむし」が映っていたこともありました。

他には東北太平洋沖の地震が発生する前は動植物を映したり、キタキツネが川で水を飲んでいる住友林業のコマーシャルが筆者は好きでしたし、グリコの甘味のコマーシャルでブロンドヘアの外国人の女性が映っていて、女性からの支持があったらしくて、これらも映像的な美しさが求められていたのかな、と思いました。もう少し昔ですと朝青龍明徳関が横綱をつとめていた時代には黒烏龍茶のコマーシャルは食事の席に集まっている壮年の男性たちが黒烏龍茶についての歌を歌いながら食事を待っている姿も印象的でした。

機械製品だとバブル景気時代のコマーシャルは現代でも人気があるそうで、自動車だと音だけを出したり、ボディを見せなかったりしたり、音響機器だと音の美しさを視覚的に表現するコマーシャルがありました。

自動車のコマーシャルを一つ作るなら、早朝の海岸線をオープントップのクーペでクーペを横から映して視聴者から見て右から左に走るだけ、という内容にしたいです。

現代のコマーシャルは「リレーションシップ」にかかわる描写が多いな、と思いました。一人でアルコール飲料をたしなんだりする内容ではなくて、ウイスキーのコマーシャルだと店舗を経営している女性の店主が店を閉めて友達と飲みに出掛けたり、成年になった娘と父親がアルコール飲料を飲んでアルコール飲料の中身に対して議論をしたり、それで娘の方が父親が糖質のあるアルコールの方が美味しいと言ったことに対して娘が「出た、適応障害」のような発言をしたりする内容や、浴衣姿で女性の友達同士がアルコール飲料を楽しんだり、若い男性が中年の男性に対して「若い感性」を披露してみたり、していて昔のようにバーでマスターと一緒に二人で物静かにお酒を味わう、という「都会の中のオアシス」みたいな内容は減りました。「都会の中のオアシス」を別の言い方にするとつたない表現にはなりますが、「わびさび」になるのでしょうか。

アルコールのコマーシャルだけで判断するのは短絡的だとは思いますが、絵面が若いというより・・・子供っぽい印象はあるな、と思いました。付き合いを映す描写が昔より増えていて、コロナが五類に移行してから団体客に対する欲求がかなり多くなっているのかもしれません。

ゲームのコマーシャルもカードゲームだと、夢を見ている視聴者に対して現実を見せるようなコマーシャルも多く、基礎としてはルサンチマン、ステレオタイプ、印象操作で構成されているよな、と思いました。「少しは夢見させてあげてもいいんじゃないか」とは思いました。

コンピュータゲームもロールプレイングゲームはグループを作って進めていく形式なのですが、そこの人間関係がフォーカスされるコマーシャルがジャンルを問わずに増えていて、アクションゲームみたいにプレイアブルのキャラクターが華麗に動いたりするのが少なくなってはいました。恐らく、2001年発売の「エースコンバット04」のコマーシャルがアメリカやヨーロッパで「戦争を賛美している」と非難されたことも原因にあるかもしれませんし、同じ頃に「グランツーリスモ3」のコマーシャルが放映されてそれも欧米から「違法運転を奨励している」と苦情が入ったのでしょう。任天堂の「ウェーブレース」も「事故を想起させる」と言われたのかもしれませんし、「エキサイトバイク64」もイギリスみたいな国から「危険走行を奨励している」と言われたのでしょう。

現代的な観点として映像的な美しさを追究する姿勢がインターネットスラングでは「中二趣味」、海外からは「不法行為の奨励」、国内からは・・・「美しいという言葉の意味がわからない」のかもしれません。だから、「フレームの中に何人映っているか」とか「時間の中で何文字話しているのか」という評価でコマーシャルを国内では評価しているのではないかな、と思いました。

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