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続・夏休み最後の夜

気がついて目を開けると、白い天井が映った。ここはどこだろう?

突然、部屋のドアが開いた。
「おはよう。明日から学校でしょ? 夏休み最後の日、後悔しないように過ごしなさいね。朝ごはんだよ。お母さんはいつも通り仕事いくから」
上半身だけ飛び起きるように起こして、ただ茫然とその言葉の主を見続けながら聴いていたものの、その人が扉の向こうに消えると、突然沸騰するような血流を頭の中に感じて、慌てた。
「誰っ?」
小さくつぶやいて、ボクは言葉を反芻していた。
明日から学校? お母さん? あの人がボクのお母さん?

慌てて部屋の中を見まわした。
天井からつるされたピラミッドの模型、ベッドの足先にある本棚、その左手にあるクローゼット、タンス、ベッドわきにはカラーボックスとその隣には父の職場のお下がりのスチール事務机、私の机だ。
手に取るようにわかるぞ。 確かにボクの部屋だ。
金属の螺旋階段を、音を立てないように静かに降りて、階下の食卓につくと、朝から手の込んだおかず、常備菜少々とサラダ、暖かなごはんとスープが出迎えてくれた。
周囲を見渡してみる。
いつも通りのリビングダイニングだ。
食卓の隣にソファ。大きな白い壁。
こんな広かったかな。 何か置いてなかったっけ?

母は病院看護婦の仕事をしている、化粧室から出てきたら、落ち着いて用意してあったハンドバッグを手にとって言った。
「ご飯食べて、気が向いたらおフロ掃除よろしく。 じゃ、行ってきます」
そう言い残して扉の向こうへ消えた。
「あ、いってらっしゃい……」
なんだか違和感だらけの朝だ。
無言のまま一人で朝ごはんを食べ終え、自室に戻ってベッドに倒れ込んだボクは、また天井を仰いでふたたび気が付いた一つ一つを検証していた。
母はまぁよくよく考えたら母だ。
今日はなんだか、いつもの口調でなかったから違和感を覚えたけど、そもそもいつもどんな口調だったのかは思い出せなかった。
天井からぶら下がっているピラミッドも自分でつけたものだし、本棚にならんだ愛読書の「ムー」も創刊から14号まで、きちんと揃っている。
机もカラーボックスも、このベッドも別に変った様子がない。
「あたりまえか」
でも、なんかひっかかる。

そうだ。明日からまた学校がはじまるんだった。ってことは、今日が夏休み最後の日? また頭の中に沸騰するような血流を感じた。
ボク、夏休み一体何をしていた? 学校? 学校って何っ!?
ぜんっぜん思い出せない。 学校?
記憶喪失にでもなってしまったのだろうか。
怖くなって毛布をかぶって、ベッドにうつぶせて、手当り次第に記憶を探った。
思い出せない夏休みのことなんて、この際どうでもいい。
自分の名前はわかる。 両親の名前も職業も覚えている。
学校は……「匝瑳市立第二中学校」と、つぶやいてハタと気が付いた。
あれ? そんな名前だったかな。
なんだか頭が痛くなってきた。
今日のボクはどうかしちゃったんだろうか。
外は雨が降っているらしく、屋根を叩く雨のリズムが心地よかった。
考えるのに疲れて、朝からまた意識が遠のいていくのを感じた。
雨の音は、目を閉じたらまるで渓流にいるかのようだ。

うっかり寝てしまったようだ。
あたりはもう薄暗い。
「えーっ?、もう夕方かよ!」
しまった、貴重な夏休み最後の日を寝て過ごしてしまった! と後悔しても時間が戻るわけでもない。
雨はまだ降り続いていた。
その音を聞きながらゆっくり上半身を持ち上げたとたん、お腹がぐぐーっ、と鳴った。
昼も食べずに寝続けたんだから、さすがに腹も減るか。
薄暗い階段を降りてキッチンに入った。

整然とかたづいたシンク。新品じゃないかと見まごうほど磨かれたIHレンジ。配膳台の上には調味料が並び、冷蔵庫を開けたら今日明日の必要なものしか入ってないからスカスカな感じだ。
床はきれいに磨き上げられている。
ごみ箱は、探さなければそれとわからないくらいに室内に同化している。
いつも通り。
と思った瞬間、突然また頭痛がして、頭に入ってくる記憶があった。

キッチンのシンクはどこから手を付けていいか分からないくらい、洗い物がたまっていたハズだ。汚れが焦げ付いたガスコンロ。調味料や食器がところ狭しと置かれている物置のような配膳台。出しっぱなしの包丁は錆びていてまな板は黒ずんでいたハズだ。
冷蔵庫の白い扉にはケチャップが飛んだ跡。開ければ荷崩れするほど詰まった食材。奥はもう食べられないだろう。何が入っているかわからない冷蔵庫だったハズだ。
床には食材の破片が落ちていて、ごみ箱は蓋が閉まらないくらい溢れていたハズだ。

「痛てっ、今の何っ?」
慌てて冷蔵庫をあけてみた。
やはり、さっきと変わらない。
冷蔵庫の奥の壁が見えるほどスッキリしている。
「気のせいか」
気を取り直して、冷凍庫にキチンとしまってあるパンを取り出した。

イタリア製のオシャレなオーブントースターに入れて蓋を閉めたら、自動でパンの状態を把握して焼き加減を調整してくれる。
冷凍からだから1分くらいか。
バターを冷蔵庫から取り出し、ついでにスパークリングウォーターを出して、コップに注いだところでパンが焼けたようだ。
配膳台の上に皿を置いてバターを薄く塗り、食卓にそれらを持って行って、もそもそ食べていると、突然玄関が開く音した。

あれ? もうそんな時間か? そう思うが早いか玄関に続く部屋の扉が開いてそこから入ってきたのは、父だった。

「お? いたのか」
その言葉に対してボクの口から出たのが
「どちらさんですか?」
という、突拍子もないものだった。
言ってから慌てて自分の手で口を塞いで斜め下に俯いてしまった。

「おいおい、ご挨拶だなぁ。なんだそんなもの食べてんのか? どっかメシでも食いにいくか?」
ボクの頭の中は混乱していた。
ちょっと待て。この人が父?
いや、確かに父だけど、こんな穏やかな人だったか?
そういえば今日はなんだか母も穏やかだった。
今朝感じた違和感はそれだ!

また激しい頭痛がしてきて、変な記憶が蘇ってきた。
「学生時代なんて夏休みみたいなもんだ!」
「寄らば大樹の蔭! 勉強していい会社勤めて、そこで上司に気に入られて、いい仕事していれば人生安泰だ!」
「父さんなんて25歳で家を建てたぞ! おまえもそうなれ!」
酒が入ってそう叫ぶように言って荒れていた父の、悪夢を思い出した。

なぜ、このタイミングで思い出すかな! あんな怖い夢!
想像の範疇を越えた父と、目の前にいる父とは似ても似つかない悪夢を思い出した。
そんなことも露知らず、ネクタイ緩めながら目の前の椅子に静かに座り
「明日から学校だな、夏休みはどうだった?」
いきなり考えたくない話題を振ってきた。
「どうって、その。フツー」
ボクはまだ思い出せないでいた。

「そうか、それはつまらんな。普通ってことはないだろう、何かあたりまえに慣れすぎて見落としてるだけじゃないのか? 父さんの大学時代の親友夫妻と、山登りしたりキャンプしたりしたじゃないか。楽しくなかったか?」
ちょ、ちょっと待って。
ぜんっぜん記憶にないんですけど!
山登り? キャンプ? この夏、行ったのか?

「まぁ、父さんも子どもの頃は夏休みなんてあっと終わってしまった感じがして、あんなに楽しかった毎日が夢かと思ったこともあったかな。でも、そういうのは後になってから思い出すもんだ。きっといい夏休みだったんだろうさ。学校はじまっても、勉強はそこそこ、友達と楽しくやれよ」
そう言って席を立って風呂場へ向かった。
蒸し暑い上にこの雨だ。シャワーでも浴びたくなったんだろう。

どうも、なんだか引っ掛かる。
いつも通りの父のハズなのに、なんだか知らないオジサンみたいでもある。
「やり残したことがあるんなら、今から少しづつでもやっとけよ!」
風呂場から少しエコーの掛かった声で父が言った。

自室に戻って、またベッドに体を投げ出した。
本当にこの夏休み、ボクはなにしてたんだろう?
アレコレ考えたけど、どうにもこうにも思い出せない。
頭痛はまだ少ししていた。
屋根から微かに聞こえる雨の音。

そういえば雨の音なんて今まで気付くこともなかった。
雨といえば鬱陶しい天気としか思わなかったので、音がしてても意識の外に追いやっていたんだな。
いつも街の喧騒と、テレビから流れるコマーシャルの音が頭の中を駆け巡っていた。
今日はテレビも点けていない。ただ雨の音だけが心地よく感じる。

あれ?
テレビって何? コマーシャル? コマーシャルって何っ?!
そうか、それだ! 今朝感じた違和感!
慌てて階段を駆け下りて、リビングダイニングに来てみた。
ない。ないっ! テレビがない!
え? マジ? いつからなかった?
もう、何が何だかわからない。テレビがなくなっている!


「どうしたんだ?」
シャワーを終えた父が、風呂場から出てきた。
どうもボクは、相当血相を変えて取り乱していたみたいだ。
「テ、テレビ! テレビ、いつからなかった?」
父は怪訝な顔して
「テレビって何だ?」
と頭をタオルで拭きながらシレっと言った。
「いや、その、ほら、ビデオとかドラマとかコマーシャルとか映すアレ!」
「プロジェクションのことか? おまえ、テレビだなんていつの時代の話だ?」
といって笑った。
食卓の上にあるリモコンを操作すると、いきなり壁全体に大草原が映し出された。
「何これ! 壁がなくなった!」
まるで大草原が家の先にあるようだった。
恐る恐る近づいていくと、ガツンと見えない透明なガラスにぶつかるような衝撃に跳ね返されて、後ろに倒れ込んでしまった。
「おいっ!大丈夫か? 何やってんだ? 壁が傷つくじゃないか」
どうにも、こうにもワケがわからない。
テレビじゃなくって、壁が映画館のスクリーンになっている。
「テ、テレビは?」
「テレビって…そんな大昔のもの、よく知っていたな」
といって父は笑った。
「いつもおまえが聴いているiPodを蓄音機といってるようなものだぞ?」
何それ? 蓄音機はわかるけど、あ、あいぽっど?
どうにもこうにも、ボクの様子が普通じゃなかったようだ。
「おまえ、今日はなんだか変だな。明日、学校大丈夫か?」
そうだ、明日学校なんだよな。
落ち着いて考えてみたら、映画館みたいなこの映像装置も、なんだか見覚えがあるような気がしてきた。
「今日これから佐々木さんと呑みにいくんだが、お前もくるか?」
「佐々木さんって誰?」
とっさに切り返した。
「夏休み、一緒に山のぼりやらキャンプやらいった佐々木さんだよ」
「あ、あぁ……」とはいったものの、まるで思い出せない。
憶えてもない、父の友人らしい知らない人の席についていっても気疲れするだろうし、だいたいどう振る舞っていいかわからない。
「明日、学校だからやめとくよ」
と付け足した。
「そうだな、じゃぁ父さん行ってくるから、母さんに遅くなるって言っといてくれ」
支度しながらボクと話をしていた父は、上機嫌で出掛けようとしていた。
どうも引っかかる。
このまま父を行かせていいんだろうか。
妙な焦りを感じた。

「父さん!」
呼びとめた。
「ん? なんだ?」
呼びとめたものの、何を話していいんだかを考えてなかった。
「いや、その、今からでも少しづつやっとけって、その、さっき……」
父は一瞬何のことを言ってるのかわからなかったようだが、すぐ
「あ? あぁ、アレか。まぁ夏休み終わっても学校がはじまっても、何か思いついたらスグやっとけってことだよ。じゃ、ちょっくら行ってくるわ」
そういってまた扉の向こうへ消えようとしていた。
「いや、あのさ!」
父は止まってくれた。
「いや、その、ちょっと欲しいものがあって……その、本屋に行こうと思うんだけど……」
「今からか? 早く行かないと閉まってしまうぞ?」
「うん、それで、その、お金をちょっと貰えないかなって思って」
父は明らかに怪訝な顔をして言った。
「お金って何だ?」
えっ?
今度はボクが怪訝な顔をしていたらしい。
「いや、あの、本を買うためにちょっと欲しいかなって」
「本が欲しいならライブラリ行って、テイクアウトチェックして貰ってくればいいじゃないか。 お前、今日ちょっと変だぞ? 大丈夫か?」
「いや、大丈夫。 うん、そうだね。 行ってらっしゃい……」
閉められたドアを暫し茫然と見送って、ボクはだんだん怖くなってきた。

ライブラリ? 本屋のことか?
テイクアウトチェックって?
ボクはスーパーのレジを思い出そうとしていた。
陳列棚から、必要なものを、必要なだけピックアップする。チェッカーに並んで、ピックアップしたものを在庫管理機を通過させて、そのまま持ち帰る……。 うん、それが普通だよな。 お金、払ったことないな。
あれ? お金ってなんだっけ?
なんだか思い出そうとするほど、だんだん記憶が入れ替わってしまっているような感じがした。
首をかしげながらリビングダイニングに戻ろうとすると、玄関に置かれた時計がピンポンと時報を告げた。
「20:00」
もう、そんな時間か……。
20時と告げるデジタル時計の右に、小さく表示されている日付に気付いた。
「1980.8.31(sun)」

ここはどうやら、ボクの知っている世界じゃない……。


(続きはお話会にて)
続きあるのか?

前半に書かれた世界と、何がどう違うでしょう?

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