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夏休み最後の夜


仕方なくいやいや続けていたことが、ある日を境に開放された夏休み初日。
そこには安堵感とワクワクと、とりあえず「何もせず休もう」としていた幼いころの私がいた。
毎年八月も終わりの日となると、さまざまな思いが去来する。
夏休みが近づくにつれ、あれやろう、これもやりたいという期待感とは裏腹に、「とりあえず疲れたから休む。休みなんだから休む」と、初日の朝は天井を見上げながらこれからの計画を空で練っていたものだ。

ところが。
部屋のドアを開け放たれるなり
「夏休みだからって初日からダラダラしない! 宿題は早くやっちゃいなさい! 毎年夏休み最後の日に泣きながらやってるんだから! 朝ごはん! 大人は夏休みなんてなくって今日も仕事なんだから、ダラダラしないでよ! 少しはお母さんの身にもなってちょうだい!」
言葉の機関銃を弾切れまで打ち放したかと思うと、母は音をたてて階段を駆け下りて行った。
さっきまでたてていた計画は、ものの見事に一方的な言葉の機関銃で、跡形もなく消え去っていた。
促されるままに食卓につくと、昨日の残り物のおかず、温め直した昨日のみそ汁、冷蔵庫から出しただけの常備菜。 ごはんだけは温かかった。
父はもう始発で会社へ行ってしまっていた。
せわしなく出掛ける準備をしている、母は病院看護婦の仕事をしている。
「ご飯食べたら、フロ掃除しといて! もう大きいんだからごはんの準備くらいしてよ! ついでに部屋の掃除もしなさい! あ、そうだ。庭の掃除は夏休みのあなたの仕事! いいわね! 行ってきます!」
そう言い残して扉の向こうへ消えた。
「えーっ?」
おはようより先に出た、夏休み初日の朝の一番のセリフだ。

そんな感じで始まった夏休みも、何だかわけわからないうちに終わってしまった。
初日と同じように、母が慌ただしく仕事に出掛けたあと、無言のままのんびり朝ごはんを食べ終え自室に戻ってベッドに倒れ込んだボクは、また天井を仰いでこの夏休み最後の日をどう過ごそうかと考えた。

そうだ。今日が夏休み最後の日だ。
明日からまた学校がはじまる。
夏休みの宿題は終わらなかった。
けれど毎年のように泣きながらやる気力も起きなかった。
きっと宿題の他に期限もうけられたペナルティが課せられるだろう。
反省文とか書かされるかな。
ハイミス担任のヒステリックな声が聞こえるような気がする。
おとなしくそれに従って、それとなくやり過ごして、そして卒業まで何事もなく過ごしていたら、就職したり、進学したりして、こんな生活も終わるのだろうか。
こんな学校生活もはやく終わりにしたいな。
卒業近くなったら、また夏休み前みたいにワクワクとかできるのだろうか。
 
いや、待てよ?
 
どうも両親や街歩くサラリーマンを見ていると、学校卒業したところでワクワクできるような日々が待っているとは思えない。
ひらすらお金のために仕事して、毎日時間に追い立てられていて、朝も日の出から出勤して終電で帰ってくる、父の姿は暫くまともに見たこともない。
休日ですら、接待だの何だのでボクが起きる前にはもう家にいない。
母も朝からパタパタして仕事に慌てて行くし、たまに「手術がある」と言う時は帰宅も遅い。
「病院の手術って夜やるんだろうか?」という疑問は考えないようにしていた。大抵、いつもよりケバイ化粧が多少崩れて帰ってくる。
両親のそんな姿を見ていると、どうやら学校卒業=夏休みという構図は成り立たないことは、さすがに理解した。

机の上には終わっていない宿題。
今年はあまりないからと言って終わったことにしておこう。
街の喧騒が家の壁を抜けて微かに聞こえてくる。
耳を澄ませば、なんだか遠くの音もよく聞こえてくる。
屋根を叩く雨の音。そうか、雨が降ってるんだ。
川の中に沈んでいるかのように、なんだか心地よい音に聞こえた。

うっかり寝てしまったようだ。
あたりはもう薄暗い。
「えーっ?、もう夕方かよ!」
しまった、貴重な夏休み最後の日を寝て過ごしてしまった! と後悔しても時間が戻るわけでもない。
飛び起きて上半身を持ち上げたとたん、お腹がぐぐーっ、と鳴った。
昼も食べずに寝続けたんだから、さすがに腹も減るか。
雨はまだ降り続いていた。
薄暗い階段を降りてキッチンに入った。
キッチンのシンクはどこから手を付けていいか分からないくらい、洗い物がたまっていた。
汚れが焦げ付いたガスコンロ。調味料や食器がところ狭しと置かれている配膳台はむしろ物置である。
まな板は黒ずんでいる。包丁は出しっぱなし。
冷蔵庫の白い扉にはケチャップが飛んだ跡。開ければ荷崩れするほど詰まった食材。奥はもう食べられないだろう。何が入っているかわからない。
床には落ちた食材の破片。
ごみ箱は蓋が閉まらない。
 
幼少時の記憶だと、そんなにだらしない両親ではなかったハズだ。
今は時間に追われている。
仕事は忙しいらしい。
とにかく「お金が必要だ」と息巻いている家計は厳しいらしく、ある月からお小遣いも減らされた。
どうにもこうにも本当にお金がないらしい。と、同時に時間もないらしい。
たまに酒に酔いつつも夜早く帰ってきた父が
「学生時代なんて夏休みみたいなもんだ!」
といった言葉を思い出した。
あれはいつ聞いた言葉だったんだろう。
もうずいぶん父をまともに見掛けてないから、よほど昔のことだったんだろうか。

そうか。
あの時から、卒業したら大変な社会が待っているんだなと思うと同時に、そんな社会に夢も希望も期待すら持てなくなってしまったんだ。

パンを見つけた。
どうやらまだカビてないようだ。
まっくろに汚れたオーブントースターに放り込んで、タイマーを回す。
「バター……」
と、冷蔵庫の扉を見た。
果たして見つけられるだろうか。
見つけたとしても食べられるのだろうか。
いや、それ以前に扉を開けたくない。
雑多な配膳台の上にケチャップをみつけたので、それで済ますことにした。

食卓に、焼いたパン一枚持ってきてもそもそ食べていると、突然玄関が開く音した。
やばい! 今日はやたら帰ってくるのが早い。
掃除も何もやってないぞ。 「何やってたの!」と叱責されるだろう。
玄関に続く部屋の扉が開いてそこから入ってきたのは、父だった。
えっ? 父? ありえない!
「お? いたのか」
その言葉に対してボクの口から出たのが
「どちらさんですか?」
という、突拍子もないものだった。
言ってから慌てて自分の手で口を塞いで、斜め下に俯いてしまった。

「おいおい、ご挨拶だなぁ。なんだそんなもの食べてんのか? どっかメシでも食いにいくか?」
ボクの頭の中は混乱していた。
ちょっと待て。
「学生時代なんて夏休みみたいなもんだ!」
「寄らば大樹の蔭! 勉強していい会社勤めて、そこで上司に気に入られて、いい仕事していれば人生安泰だ!」
「父さんなんて25で家を建てたぞ! おまえもそうなれ!」

ちょっと酒が入ってそう叫ぶように言ってた記憶しかないので、ほがらかに家に早く帰ってきて気さくに話しかける父が、まるで別人のように思えたのだ。
まして「どっかメシでも食いにいくか?」だなんて、想像の範疇を越えていた。

ネクタイ緩めながら目の前にどっかりと座り、
「明日から学校だな、夏休みはどうだった?」
いきなり考えたくない話題を振ってきた。
「どうって、その。フツー」
普通に終わったんだと思った。

「そうか、それはつまらんな。普通ってことはないだろう、何か見落としてるだけじゃないのか? 普通ってのは何もなかったに等しいとは思わんか? 父さんは、夏休みったら大学のワンダーフォーゲル部の連中と山登りしたりキャンプしたり、それはもう楽しかったぞ?」
ちょ、ちょっと待って。
ぜんっぜんボクが知ってる父が言いそうにないセリフばかりじゃないか。
いや、まてよ。
ワンダーフォーゲルという言葉は幼少時に聞いたことがある。
それにしても、こんな楽しそうに話す父の姿は、どう割り引いても他人のような気がする。

「フツーか。父さんも子どもの頃は夏休み初日にはいろいろワクワクしたもんだ。でも気がついたらもう終わりで夏休みで、あんなに楽しかった毎日が夢かと思ったこともあったかな。今の今まで忘れていたけど、あのころあんなに毎日が楽しかったハズなのに、最後の日は何もなかったと嘆いたこともあったな。でも、そういうのは後になってから思い出すもんだ。きっといい夏休みだったんだろうが、今年もどこにも連れて行ってやれんで、悪かったな」
何も言えないでいた。
「学校はじまっても、夏休みのことは忘れないで、勉強はそこそこに。 友達と楽しくやれよ」
そう言って風呂場へ向かって席を立った。
蒸し暑い上にこの雨だ。シャワーでも浴びたくなったんだろう。

ぜったい、ありえない。
こんなこと言う父だったろうか。
「やり残したことがあるんなら、今から少しでもやっとけよ!」
風呂場から少しエコーの掛かった声で父が言った。

自室に戻って、またベッドに体を投げ出した。
本当にこの夏休み、ボクはなにしてたんだろう?
アレコレ考えたけど、どうにもこうにも思い出せない。
夏休み初日の朝に目覚めたら、夏休み最後の日の朝だったかのようだ。
そんな中でさっき父が言った言葉を思い直していた。
「今からやれって言ったって……」
独り言をいってみた。
今日中に終わるものならまだしも、今から何かしたって「終わらなきゃ何もしてないのと同じ!」って言われるような気がして、何もやる気が起きなかった。

夏休み初日、何を考えていたんだろう?
あの日の朝、急いでいる母の言葉の機関銃で粉々にされたワクワクは、なんだったのだろう?
あの後、あらためてワクワクのカケラを集めて考え直すこともしなかった。

壁から微かに聞こえる街の喧騒と、屋根から微かに聞こえる雨の音。
そういえば、雨の音なんて今まで気付くこともなかった。
雨といえば鬱陶しい天気としか思わなかったので、音がしてても意識の外に追いやっていたみたいだ。
いつも街の喧騒とテレビから流れるコマーシャルの音が頭の中を駆け巡っていた。
今日はテレビも点けていない。ただ雨の音だけが心地よく感じる。

そうか。
あの時、夏休みになって学校行事から開放されて、“どこか旅に行ってみたい”だなんて考えていたんだ。
学校と家と、見知った街の中で、いつも見掛ける人たちばかりでなくて、いつもの街ではなくて。
誰も自分を知らない、自分も周りの人が誰かも知らない、そしてまったく知らない行ったことない街や山、海、川、道!
と、思ったところで笑えてきた。
今から行ったら、今日中に帰ってこれないじゃないか。
明日、学校が消えてなくなるわけでもないし。

でも、このままでは自分のワクワクが消えてなくなりそうだった。

「ちょっといいか?」
シャワーを終えた父が、ノックすることもなく部屋の扉をあけて入ってきた。
「さっきの話だけどな、“今から少しでもやっとけ”ってのは父さんの反省でもあってな。学校を卒業し、就職してからこの30年間、あまり自分の夢とかを考えずに来ちゃったんだなぁ、と思ったんだ。つい先月、久しぶりに大学時代で一緒に山歩いたヤツと偶然再会してな」
何も言わないで上半身起こすと、目の前の机の椅子を引いてどっかり座って話を続けた。
「アイツときたら、大学も休学して海外へ旅に行くわ、就職してもずっと好きだった山歩きを続けてて、時には会社休んでまでして行ったりして、いつまでも結婚しないわ、実家から通っているわで、“あんなんで立派な社会人なんだろうか?” と、それまで、父さんは少し軽蔑していたところがあったんだ」
はぁ、と思いつも、どうリアクションしていいか分からずじっとしていた。
「ところが、再会したソイツは、山登りで知り合っただいぶ年下の若くてきれいな女性と結婚してるわ、子供つれてキャンプにもよく行ってるわ、実家は両親他界してから広々と住んでるわ、夏休みなんて近所の子どもたちや親御さん連れて山歩きガイドツアーなんかもボランティアでしているわ、実に活き活きとしていたんだ。きっと、“自分に正直な生き方”をしてただけなんだな」
そんな話、ボクに何の関係があるんだろうという疑問は言わないでおいた。
「そうしてやりたいことをずっと、少しづつずっとやっていたんだよ。幸せそうだった。それで今日久しぶりに呑もうかという話になってな、今日は早く帰ってきたんだ」
それで納得した。
どうりでこんな早い時間に帰ってくるわ、楽しそうにしているワケだ。
「父さん、今日仕事いいの?」
「ん? 今日は取りそびれた休みの日で、実は数日前からずっと休みだったんだが仕事や片付けが終わらなくてな、フツーに会社行ってただけだ」
といって、ガハハと高笑いした。
「母さんには内緒だぞ?」
と声を落として封筒を差し出した。
お金だった。
「どうしたの、これ?」
ふふん、と得意そうな顔をして
「遅れていたボーナスやら何やらのおすそ分けだ。ずっと夏休みどこにも連れて行けなかったしな、夏休み最後の日で悪いが“お小遣い”だな。人生のために大切に使え。でも、間違えても学習参考書は買うな」
と、また笑った。
「学生時代なんて夏休みみたいなもんだと思っていたが、就職しても勉強することばかりだ。いろんなものが進歩とかいってどんどん新しい規格が出るし、言われるままにいくら勉強したって終わりがない。本当は終わりも始まりも自分で決めなきゃならないんだと、その友人は言ってたよ。本当ははじまりも終わりもないのかもしれない。実に自分に正直な生き方をしているだけなんだと、父さんはその時きっと感心して反省したんだな」
少し肩を落として、声の勢いを落として話す父の言葉が変わっていたのに気付いた。
ずっと口癖のように誰かを呼称するときに言ってた “ヤツ” “アイツ” “ソイツ” が “友人” になっていた。
“学生時代は夏休み”と言い放ったことも、酒が入っていたのにちゃんと覚えていたんだなと、いつも強気で苦手だった父を少し見直した。
「夏休み、本当はどこかに旅に行きたかったみたいだ。今更だけどね」
と、ポツリと言ってみた。
「旅か、いいんじゃないか? 明日からでも行けば」
ありえん! 今日の父さんは本当にありえんことを言う!
「学校あるじゃんよ、行きたくないけど」
「行くか行かないかは自分で決めろ。行けと言われて仕方なく行って、あとで“行けと言われたから仕方なく行った”と言われててもかなわん。いや、本当はこれは、俺が親に言いたかった言葉だな、もう爺さん死んでしまったけどな」
そういって席を立った。
「その代り自分で責任取れ」
「責任って?」
「後悔しないことと、他人のせいにしないことだ。分かりやすく言うなら後で後悔して“あの時、父さん止めてくれなかったじゃないか!”とは言わないこと。じゃ、ちょっくら行ってくるわ、母さんには遅くなると言っといてな」
そういってまた扉の向こうへ消えた。

あたりはもうすっかり暗くなっていて、それでもボクは部屋の明かりを点ける気にもなれず、じっとベッドの上で考えていた。
「今からでもはじめる」
「はじまりも終わりも自分で決める」
「はじまりも終わりもない」
「自分に正直に生きる」
一言、一言、ぽつりぽつりとつぶやいてみた。
次の瞬間。まるで直前までの自分にはありえないスピードで動いているようだった。
押入れの奥から手軽なナップサックを探し出す。数着の着替えをちょっとだけ詰める。ナイフ、ドライバーなど最低限の工作工具を見繕う、車庫からボーイスカウトで使っていたロープとロープハンドブック、キャンプ鍋、割れそうにないコップ、皿、あとは現地調達。充電式災害ラジオライト、読みかけの本を一冊、などなど。

一通り詰め終わったバッグを、さらに大きな紙袋に押し込み、口をガムテープで塞いで、ワザとらしく“夏休みの宿題”と書いた。
作業を終えて自分は一体何をしているんだろう、と自問自答した。
心配かけるだろうな。
いや、定時連絡すればいいか。
母さんは自分の言いたいことだけ言って、ボクの話は聞きそうにないけど、父さんはどうやら今日の様子だったら何も言わないかもしれない。
学校は後追いで休学届かな。
母さんは体裁悪いからって、当面は体調が優れないとか言い訳して、やがて引き籠りってことにして、回り道して休学とするかもしれない。
ボクが休学したいと言い出しても、どのみち母は自分の意見ばかりで取り合ってもらえそうにないので考えないことにした。

“ちょっとやりのこした夏休みの宿題をやりにいってきます”
そう書いた紙を、机の上に裏返しにして、飛ばないようにペンを重しに置いた。
夏休み最後の夜、夏休み前夜のようだった。
なんだかワクワクが戻ってきた。
明日から本当の夏休みがはじまるような気がした。

父さんがその日、リストラで最後の出勤の日だと知ったのは、大分後のことだった。


続きはお話会にて)
続きあるのか?
続編はこの本編と対比しながら読む、間違い探しのようなものです。
世界がどう違っているでしょうか?

(続・夏休み最後の夜)
https://note.mu/huseyinsharemind/n/n7b953623ffad?magazine_key=m4a8b4e6fffa1

あまり落ち着いた時間を持てないので、ほかの短いつぶやきは
Facebook布施院 に気が向いたときに書いてます。

お題企画
#8月31日の夜に


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