さよならいとしのハイライト

先日、タバコを辞めました。心筋梗塞でぶっ倒れてしまうと、さすがにそこから先、吸う気になりません。中性脂肪も血圧もすべて理想的なはずなのに、こんな厄介な病気になる理由は二つだけ。過労と喫煙です。重度のアルコール依存症で三十歳で酒を辞め、心筋梗塞で五十二歳でタバコを辞める。思えば双方とも、自分の意志ではない辞め方です。

タバコとは、十五歳からの付き合いでした。なんとなく大人の真似をして吸い始めて、この年まで一度も禁煙せずに吸い続けました。勤続四十年弱。会社なら表彰の一つもされそうな年月です。銘柄は、はじめから最後までほぼ同じ。ハイライトでした。当時はすでに軽いタバコが主流になっていましたが、七十年代のアメリカンニューシネマや、フランスのフイルムノアールやヌーベルバーグの映画が好きな生意気盛りの小僧だった僕は、どうせ吸うんなら、アメリカのマルボロやフランスのゴロワーズに見合う、日本の労働者タバコを吸うべきだと思って、ハイライトを選びました。俳優ならジャン ポール ベルモンド、アラン ドロン、チャールズ ブロンソン。ミュージシャンならトム  ウェイツ、キース  リチャーズ、セルジュ ゲンズブール。僕が好きだったかっこいい男たちはみな、労働者タバコを燻らせていました。十代後半の僕は、必死になってかっこいいハイライトの吸い方やウィスキーの飲み方を考えたりしました。

かつて酒やタバコが、なぜあれほどクールなものの象徴として君臨していたのか? その理由の一つに、退廃的なものに僕らは色気や美学を感じていたからだと思います。刹那的で享楽的で妖しいもの。健康や社会的安心に背を向け、一人身の自由さやその場の愉しみを尊ぶ精神。それをかっこいいものとして認識していました。酒やタバコやドラッグで身を持ち崩し、萎れるように死んでいくジャンキーたちを、僕らは心のどこかで崇拝していました。才能ある人間はみなそういう破滅型で、いつか彼らのように朽ちていかなければ、自分には才能がないということになってしまう。そんな馬鹿げた考えをして、二十代の僕は一生懸命無頼に精を出していました。その結果、三十前に重度のアル中になりました。そして、なんとかタバコだけはと、デカダンスの尻尾に掴まるようにハイライトを吸い続け、五十過ぎて心筋梗塞になりました。もう、人生あとの残りは、ダラダラ爺さんになっていくだけの過程です。いまさらデカダンスもクソもありません。第一、よーく考えると、いい歳して刹那的だの退廃的だのと言っている初老のおじさんというのは、それはそれでえらくカッコ悪いなとも思います。不健康って、さんざんやってみて思いますが、思ったよりもしんどいだけでカッコよくないです。退廃的とは、逆説的にみて若さの象徴です。僕は目をつぶって、若い頃の自分に思いを馳せます。

あの十五の夏に、最初に火をつけた日から三十八年。僕の人生には、いつもあいつがついてきてくれました。はじめてちゃんと付き合った女の子を口説く時に、格好つけて咥えていたのも、二十歳になって2ヶ月目に路上で喧嘩をして泊まった留置所で、朝二本だけ吸わせてもらえたのも、ロンドンで暮らしていた時に、知り合いの日本人から免税店で買ってきてもらったのも、アルコール依存症の病院で、夜な夜な他のアル中たちと喫煙室で話していた時に指に挟んでいたのも、あの和田誠デザインのシンプルな青いパッケージでした。なんだか、タバコを辞めたこと自体より、ハイライトを二度と吸えないという寂寥感の方が強いなと自分で思います。とはいえ、お別れは突然やってくるもの。僕はあいつに別れを告げて、生き残る方に歩いて行こうと思います。さよならハイライト。今まで楽しかったよ。

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