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弓~アフロディーテが見た夢

男の私としては、ほどほどにして頂きたいのである。

キム・ギドク 監督、脚本、編集、製作
2005年5月11日 第58回カンヌ国際映画祭ある視点部門オープニング上映
2005年5月12日 韓国公開
2006年9月9日 日本公開
原題訳 弓
英題 THE BOW
宣伝文「海の上、ふたりきり。老人は少女に永遠の夢をみた。」

 絵画には言葉がない。時間も音もない。何を語りかけているのかは、観る者の想像力次第。そんな絵のような美しさで我々を夢の中にいざなう映画。

 大海原に静かに浮かぶ一艘の釣船。
 ここで暮らすどこの誰とも知れない老人とひとりの少女がいた。
 10年前に誘拐されたらしい少女は、17歳になればこの老人と結婚するよう外界と隔離され育てられていた。
 無垢な少女は結婚の意味を知っているのだろうか。
 あらかじめ言葉を奪われた2人が織りなす神話的世界。
 ある日ひとりの若者が船に訪れたことから時間は動きだし世界の破綻がはじまる。

 DVDの箱に「至極のラブストーリーは、観るもの全てにそっと真実の愛を語りかける」と書いてあるが、そういうものを期待して観た人は度肝をぬかれるだろう。

 私が解釈するに、この作品はキム・ギドクが描いた「男と女」だ。
老人(叡智を象徴)は、武器(弓)をとって戦い、楽器(弓)を奏で、少女だけを見つめて暮らしている。
 さらにこの老人が射た矢(男根の暗喩)は、少女に破瓜の痛み無く、いきなりエクスタシーに導く。
 さて、これに、釣りに来た若者がもつ若さと正義感を合わせてみるとどうだろうか。女性が望む男とはこういうものではないか。

 一方で、この老人はカレンダーの日付を誤魔化したり、船の修繕で癇癪をおこし怪我をする。
 首吊りの状態になった苦しさに耐えられずロープを切ろうとしたナイフを、少女の目からあわてて隠したりする様子は、いかにも子供じみている。女性にとって男とはこういう生き物ではないか。

 少女が象徴するのは神秘だろう。
この娘の誕生日(結婚予定日)が旧暦の4月5日だと、カレンダーで示す場面は、3日後の仏誕節を匂わせているのかもしれない。
 仏誕節にしなかったのはキム・ギドクの美意識ということでどうか。無理なら如来に届かない菩薩だからという理由ではどうか?

 船体に描かれた菩薩に向かって撃たれる矢のまえで、ブランコに揺られた少女が寄せる老人への信頼と、あどけない笑顔。
 彼女が導く神であり、老人はその宣託を受ける預言者のようでもある。

 ボートで青年の元まで流れてくるときの、純白の衣に身を包んで横たわる姿はアフロディーテである。それを暗示するポーズの演出が、素晴らしすぎる。これぞキム・ギドクの真骨頂。
 海から生まれた愛と美の女神であり、また戦いの女神の側面もあると知れば映画の面白みはさらに増す。
 少女は老人を時には母親のように慰め、焼きもちを焼かせようと、釣り客に娼婦じみたまねをしてみせる。男が望む女性とはこういうものではないか。

 しかし、こういう女という生き物が、男をどんなに苦しめるかという、実はそういう映画なのであった。
 老人がロープを首にかけるシーンは、感情表現を話の一部にしてしまうトリックで、男は女に捨てられて「死ぬほど苦しんだ」という演技である。

 夢見る少女の時代は終わったというように、海の妖怪は去り母船が沈む。
 「女って何考えてんのかわかんない」と言葉を無くしてしまった、薄ぼんやりな青年が、いとも簡単にこの少女に支配されてしまう運命にあることが暗示されたところで、映画は幕を下ろす。

 神とマリアの純愛を描いた『悪い男』(2001年)同様、3つのフェーズがあり、「少女と老人」を使って、「男女」のありふれた関係を描き、「海から生まれた女神に懸想する海の妖怪」の奇譚になるという、キム・ギドクのほかに誰がこんな奇っ怪な着想で映画が撮るだろうか。
 物語の明解さと愛らしい少女に、ユーモアが加わわった珍しく深刻さのない明るい作品で、私の大好きな1本となっている。

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