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絶対の愛~あるいは魚と巻貝の置き物

キム・ギドク 監督、脚本、編集、製作
2006年8月24日 韓国公開
2007年3月10日 日本公開
原題訳 時間
英題 TIME
宣伝文「永遠に愛されたかった…」

 キム・ギドクはこの作品について「日本でも知られているとおり、韓国は整形する人が多い。韓国内では道徳的に正しいか、論争になっているほどです。好みの顔かたちはみんな欧米風の顔なんですね。これをモチーフとして愛の物語を思い立ちました」と語っている。

 時計が止まるオープニングのあと、整形手術のグロテスクな映像がクローズアップされてはじまる「愛の物語」を7章に分けて解読してみる。

第1章(男と女)
 カメラマンのジウと、OLセヒは交際2年。今も心から彼女を愛しているジウだが、セヒのほうは自分に飽きたのではないかと猜疑心をもち、理不尽にジウを責めたてる。あげくのはてに、あろうことか整形し、仕事までやめてしまい、手術の痕が回復するまでの半年間、ジウのまえから完全に姿を消してしまう。別人になって出会い直し、ふたたび情熱的に愛されようというのだ。

 ここでは女性が望んでいるようには、男がいつまでも情熱的ではいられないことが描かれている。韓国人男女にありがちな恋の悩みのようである。
むやみに数ある恋愛記念日や携帯電話が、恋愛の寿命を短くしているのは想像に難くない。

第2章(ジウという男)
 恋人に突然失踪されたジウは悲嘆にくれるが、深酒にホステス、学生時代に好きだった女性との再会、合コンでの出会いで、何とか苦しみを乗り越えようとする。

 整形を作劇上の便法と考えれば、ここは失恋後の男にありがちな行動をたどっただけである。

 彫刻公園に渡る船のなかででジウの前に現れる謎の女は、セヒ恋しさが生んだジウの妄想である。公園のできごとは、ほかにも内面描写の場合があるように、このときのジウは思い出の場所に向かっていたわけで、セヒの面影を探している。
 注目すべきところは、女性と事に及ぼうとすると誰かに邪魔され、セヒでは?と思わせるのはホラーの常套だが、ホステスのときはセヒに未練を残すジウ自身の良心(貞操観念のようなもの)を現わしていること。もうひとりの場合は彼女自身のだが。
 
第3章(セヒとスェヒ)
 半年後、包帯がとれたセヒはスェヒと名前を変え(女優は別)、ジウのまえに姿を現わす。望みどおり彼との接近遭遇には成功するのだが、セヒを忘れられないジウから、なかなか思うような反応を引き出せずいらいらする。
 それでも、彼の弱さと彼女の努力が実り、深い関係になっていたある夜のこと。スェヒは、ジウがこのままセヒを忘れなかったらと不安に慄き、眠っているジウの横で涙する。そして、セヒの名前で会いたい旨を書いた手紙を、差出人が自分であることがわからないようにして渡す。

 ここも整形から離れれば、過去の恋人の面影をひきずる男を好きになってしまった女の心模様を表しているだけだ。

 問題はなぜ、スェヒはセヒの名前で手紙を出し、会おうとしたのかである。これは正体を明かすつもりになったということだ。せっかくジウが自分の男になったというのに。
 このとき、もしセヒが戻ってきたらどうしようと恐怖に怯えている。自分がセヒだと忘れてなければ、戻るも戻らないも自分次第なのだからおかしなことだ。この自己喪失の原因はまさにジウと愛し合うようになったことにある。セヒだと気づかないジウにスェヒとして愛されてしまえば、セヒでいる必要がなくなってしまう。
 人間は他者の視線によって自己を成立させているのであり、他者がなければ自己認識は失われる。世界中の人間の記憶から抹消されれば自分が誰だかわからなくなるのである。
 また人間は誕生から現在までの記憶をひとつの物語とすることで、自己同一性を確保しており、常にこの作業を行いながら私として生られるのである。彼女からセヒが消えてしまえば、彼女は完全に自分が誰なのかわからなくなる。過去のすべてを消した彼女の他者は、今やジウひとりとなっている。
 彼女にはどうしても、ジウがもつセヒの記憶、視線というささえが必要だったのだ。だから真相を告白しなければならなかった。それが手紙を書かせたのであり、私だってこと気づけよバカとひっぱたく理由になっている。

第4章(真相)
 セヒからの手紙を受け取り、選択肢ができたジウは、セヒとやり直すことを決め、さっそくスェヒを呼び出し事情を説明する。当然のように体が目的だったのかと腹を立てたスェヒとの修羅場となる。
 手紙の約束の日、喫茶店で待っていたスェヒがセヒの顔写真を拡大コピーしたお面をつけていたことから、ふたりが同一人物だという事実を知り、恐れ、絶望し彼女をなじり、愁嘆場となる。

 記憶障害が悪化している。
 自分が手紙を出したことを忘れて、平気でジウと会っているのだ。人格の断絶がなければ、ジウが呼び出した理由は予想の範囲内にあるはずだ。ジウを罵ったあとのスェヒは、自分を見失い辺りを見回している。
 彼女が翌日お面をつけて現れた理由もそこにあり、既にお面なしでは自分がセヒなのか誰なのか、わからなかったのだ。

 しかしこの部分も、整形を離れれば、過去の女性が忘れられないと別れを切り出した男と女の様子を描いただけなのである。単純に何か男を怒らせるようなことをして謝る女でもよいが。
 よくあることの表現なのは、喫茶店で横に座ったカップルの喧嘩が示している。

第5章(セヒの消滅)
 傷ついたジウが向かった先は整形医だった。
 「セヒはかわいかったんだぞ、責任とれ」と詰め寄るのだが、お前が悪いと反対に殴り倒されてしまう。しかし、「ひとつだけ方法がある」と同情した整形医のアドバイスにより手術を受け、彼女のまえから姿を消してしまう。
 5か月後には戻ってくるでしょうと整形医の口からその事実を知らされたスェヒ。彼女のまえに現れる3人の男。愛しいジウなのか?重ねた手の感触で確かめようとするスェヒであった。

 ここも、ただの痴話喧嘩後の女の姿を描いているだけなのである。整形手術はジウを消失させるための装置だが、これでセヒは世界から消滅したのである。

 1か月は悲しみのなかにいたセヒだったが、医者の話を聞いたあとは黙ってジウを待っていたわけではない。新たな恋の対象を探しはじめているのだ。最初の男との出会いは、うきうきと化粧してナンパされに出かけたときのことである。男たちと手を重ねるのは、ジウの発見が目的ではなく、スェヒは色目を使っている。おわかりのとおり、彼女はジウが帰ってくるのは5か月後だと知っているのだから。
 3番目の出会いでは男の部屋にまであがり込み、危機一髪となる。彼女を救いだした姿なきものの正体は、観客にはジウにみせかけてはいるが、彼女の良心(貞操観念のようなもの)だろう。

 以上のように、ここまで物語の主たる部分は、男女の恋愛を戯画化しただけなのである。
 
 ジウは「人間なんておんなじだろ」と言い外見がちがうだけじゃないかと主張している。セヒ、スェヒの差は顔でしかなく、内面は評価しない。
----男は女の外見が大事
 スェヒは、整形で顔がわからなくなっているジウを手の感触をたよりに探しだそうとし、出会った男の外見は全く気にしていない。
----女は男の内面が大事

 しかし、重要なのは彼らは本気でお互いを愛しているのだが、浮気性というか、男女の弱く移ろいやすい心を描いている点にある。

第6章(悪魔の呪文)
 半年が過ぎ、包帯のとれたジウが自分のところに戻って来るはずだと考えたセヒは、自分の写真を撮っていた謎のカメラマンを整形後の姿だと信じて身を任せてしまう。別人だとわかったとき彼女は半狂乱となり、ふたたび街をさまよいジウの姿を探し始める。

 カメラマンに会いに行く朝、スェヒがはっとして飛び起きるのは、今までジウのことを忘れていたという描写である。
 スタジオに連れていかれた彼女が「誰なの?」と聞いても「それは関係ない」と言うのが悪魔の呪文であり、電気が消える一瞬の暗闇がスェヒとの距離を近づけているのも、彼女が魔の手にかかったと言っているのである。

 しかし私の論理でいえば、この展開は次にように読むことができる。
 スェヒは魅力的な男に誘惑され、とうとう肉体関係を持ってしまった。
 ジウではなかったというのは、本当の愛はなかったということだろう。先には良心と書いたが、つまり魂が穢されたのである。
 と同時にこの男が別人だったということは、6か月たってもジウは現れなかったということを意味する。あの狂乱ぶりは、ジウの整形の目的が、自分から逃げて新しい人生を生きることにあったと彼女が悟ったということだろう。

第7章(顔のない男)
 スェヒは地下鉄の構内で見かけた男の影を必死に追いかける、が逃げる男は道路に飛び出した拍子に、トラックにはねられ死んでしまう。車体の下敷きになり、顔の破損した男の死体を見た彼女は精神に異常をきたし、事故現場の通りの向こうにあった美容クリニックにひきよせられ、ふらふらともう一度顔を変え、生きる希望をつなぐのであった。(以上)

 死んだ男がジウだったと考えると、女性の浮気を知った男は、死ぬほどの苦しみを味わう、女は二度とその愛を回復させることはできない、と言っている。
 昔から(必ず裏切られるから)人の気持ちを試してはいけないというが、セヒはこれをやってしまったのだ。

 では、映画の主題はなんだろう。
 ジウとセヒに仮託された男女の愛の物語はよいのだが、キム・ギドクがそれだけで映画を撮るだろうか。
 実のところ、私が装置に過ぎないとした、美容整形は現代人が信仰する宗教だといっているのである。
 ジウが、セヒのことで責任のない医者をなじったのは、この神へ自分の愛を訴え、救済を求めた姿なのである。スェヒが最後に門をくぐった美容クリニックは現代の教会なのであって、同じ神に救済を求めたのである。ふたりとも絶望したときに整形医のもとを訪れている。

 しかし、にせの神だから、新しい顔を与えることはできても、別人にすることはできない。神の愛は完全だが、彼が作り出す愛は不完全なものでしかない。つまり、そこに本当の愛<救済>はあるのかと問いかけ、男女の不確かな愛をあぶりだしたのが『絶対の愛』という作品の本質なのである。

 おそらくトラックの下敷きになった、顔のない男が本当の神だ。
 姿なきもの<良心>として登場していた男が彼なのである。
 よく観るとジウとスェヒを映すカメラが、物影から見守る神の視線になっている場面があるのだ。

 エピローグの雑踏シーンは、神が死んだ世界を描いている。「ほら、これほど怖いことはないだろ」とキム・ギドクは言っている。この映画はそういうホラー映画なのである。

 原題の『時間』は、男女の心を変化させる怖いものという意味でもあるが、オープニングの時計が止まり、神の登場を考え合わせれると、いずれみんな死ぬといっているようで、ホラー映画の観点からすれば、そのほうが怖いだろう。キム・ギドクはこのあと『殺されたミンジュ』(2014年)で、本格的に神の死に取り組むことになる。

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