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ブレス~女の一生

キム・ギドク 監督、脚本、出演、製作
2007年4月26日 韓国公開
2007年5月27日 第60回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品
2008年5月3日 日本公開
原題訳 息
英題: BREATH
宣伝文「愛は、天国と地獄。だから輝く----」

 まず、服役中の死刑囚と同房の3人は、この男が殺害した家族だ。死刑囚が雑居房にいるのがそもそも不自然。言わば幽霊なのである。雑居房が家庭の暗喩で1024号は妻、その他2人は彼が殺した子供で家族の暗喩になる。
 死刑囚が3度自殺を図ったのは3人に対する後悔と苦しみを意味しているし、最後にあった処刑はこの3人の手により、暗喩的に執行される。妻が首を絞め、子どもたちが胴にぶらさがっているから、家庭という牢獄から逃げた男の、罪と罰を描いているのである。

 「子どもですよ、落書きですよ」というように、同房の男が熱心に壁に絵を彫るプロローグが、お絵描きする女の子に移行して物語ははじまる。
 女の子の母親で、何不自由なく生活する30代半ばの専業主婦ヨンが主人公である。冷え切った印象があるのは、白い部屋のせいだけでなく、ヨンから表情が殺がれてしまっている。夫婦の諍いもなく夫の存在はどうにも薄く、物語はあくまでこの主婦の心の物語である。
 
 ヨンの住む邸宅の窓には白く縦に長いブラインドが設置され、まず檻を暗示している。
 羽のある自分に似せた造りかけの石膏像に、夫の愛人が忘れて帰った髪留めを着ける。若い娘がするような髪留めをした自分を見て感じるのは、失った若さだろう。そこからヨンは家庭という牢獄に捕囚され、このまま歳をとり死を迎えてよいのかと疑問を感じており、家庭を壊して自由を求めた死刑囚に自分を見たのである。既に夫の浮気にさえ嫉妬心もおきない、自分の人生を見つめ直そうとするひとりの女性の姿を描いた作品なのである。

 人生を振り返る姿は、死刑囚を前に刑務所の面会室で珍妙に演じられる「春夏秋」であり、過去の写真が渡されるのも自分語り。5分間だけ死んでいたという9歳が、面会から自宅に帰ったときに見た愛らしく踊る娘の年齢と考えてもよく、このときのヨンの視線が母親の視線とはおよそ遠いのは、殺意なのか、これから成長し女の一生を生きねばならない娘への冷徹なまなざしか、生き生きとした愛情を感じていないのは明白である。

 死刑囚と面談するヨンの下手な歌と踊りが演技だということは、はっきりと描かれているのである。ふたりがいる会議室に貼られる写真が書き割り、ベルの音はカットの声で、この部屋で行われることはすべて監視カメラで撮影され、保安課長が映画監督(キム・ギドク自身)になっている。
 刑務所とはいえ、会議室に監視カメラは必要なく、面会室の暗喩であり、ヨンの心象風景なのである。死刑囚が常に戸惑っているのは、そこでヨンが自分と無関係な人生談を一方的に聞かせているからである。
 監視室から妻の姿を見せられた夫の表情が苦悶より驚きに近かったのは、狂ったように「秋」の一人芝居をする妻があったからだろう。ヨンに代わって現在を示すヌード写真を死刑囚に渡すエピソードは妻の繰り言につきあってくれるお礼とお詫びである。

 しかし、この「春夏秋の一人芝居」という人生を振り返る儀式を終えた彼女が出した結論は、自由への渇望を表現した石膏像の破壊だった。一度目は燃やしてしまった夫を象徴する汚れたワイシャツも、二度目は手洗いする構図になっている。
 そして、今日が死刑執行という最後の面会で、彼女は自分の自由と解放を象徴した死刑囚と激しく交接したあと、窒息というテーマを使って象徴的に殺してしまう。
 もとより男が処刑される運命だったから、彼女は面会の必要があった。専業主婦が家庭を捨ててひとりで生きられないことは、当初から承知していたのであり、それを覚悟するために、家庭を壊した男の末路を見届けたかったのだと思われる。
 このとき夫が娘を連れて車で刑務所まで送っていったのも、最後の面会が済めば彼女が家庭に戻ることを知っていたからである。

 刑務所で演じられなかった「冬」の時代は、これからやって来るというように帰りの車は、雪景色のなかを走る。ヨンが「雪が降る」を歌いはじめると、妻のタナトス(死の欲動)にも気づかない夫が、楽しそうに追唱するというやりきれなさをもって映画は終わる。夫婦で力を合わせれば何とかなるさという夫の希望を残したエンディングと言えないことはないけれども。

 ヨン「연」は凧、原題「숨」は窒息の息。そういう映画なのである。

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