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連載第3回 『ケアの贈与論』

 現代社会を考えるうえで試金石となる「ケア」の倫理。明治大学の岩野卓司先生が「贈与」の思想と「ケア」とを結びつけ、「来るべき共同体」の可能性を根源から、ゆっくりと探っていきます。

 第3回は「あるヤングケアラー」と題し、ジョルジュ・バタイユに焦点をあてます。「贈与論は本質的にスカトロジーと密接な関係にある」とは……?

あるヤングケアラー

岩野卓司

ケアラー時代

 1897年9月10日、フランス中部のピュイ゠ド゠ドーム県のビヨンという町にひとりの子どもが生まれた。

 その子はジョルジュと名づけられたが、その生誕は不幸の始まりをも予告していた。彼の父はすでに失明していたが、それは梅毒の進行によるものであったからである。

 ジョルジュが3歳のとき、病魔は進み、父は四肢の自由を失った。彼は母とともに父の介護をすることになったのだ。

 肘掛椅子にくぎ付けにされた父は、人並みに便所に行けないので、腰かけたまま尿瓶に用を足すのだった。毛布で隠れているとはいえ、目が見えないので毛布がずれて放尿がむき出しになることもあった。しかも、排尿のときの白眼の狂おしい表情はうすら笑いにも似ていたことが、ジョルジュに強い印象を残した。

 また、少年は父が糞をたれるのを幾度となく目撃した。盲目で体の不自由な老人を彼は助け起こし、便器の上に座らせ、排便に立ち会った。梅毒は脊髄を犯し、突然襲ってくる苦痛に父は耐えきれず、排便のとき腕で抱え込んでいた脚を投げ出してしまい、獣のような恐ろしい叫び声をあげるのだった。これがなんともいえずやりきれなかった、と彼は告白している。

 脊髄癆からくる痛みは頻繁に訪れ、病人は体を掻きむしるような叫び声を絶え間なくあげるようになった。その後、ついに発狂し自分の妄想を雄弁にまくしたてるようになった。その中には、「おい、先生(医者のこと)、俺の女房といつまでやってんだ!」という、ジョルジュに衝撃を与えたエロティックな妄想もあった。

 こういった状態に母も耐えられず、ノイローゼに陥り、自殺未遂を繰り返すようになった。屋根裏部屋で首をくくることもあれば、川に飛び込むこともあった。

 この悲惨な介護生活にはさらに後日談がある。

 第一次世界大戦が始まったころ、ジョルジュの家族はフランス東部の都市ランスに住んでいたが、侵攻してきたドイツ軍の砲撃に晒されるようになった。身の危険を感じた母と彼は、盲目で動けない老人を見捨て町を逃げ出した。介護放棄である。1年後ランスに戻ってくると、父は棺のなかにいた。2、3日前に子どもたちの名前を呼びながら息を引きとったそうである。この遺棄は彼の心に深く罪悪感を刻むことになる。

甦るケアの記憶

 成長したジョルジュはこの体験から逃れようとしてカトリックに入信する。救いを求めたのだろう。熱心な彼は、一時は司祭になろうとも考えていたが、その道はあきらめ図書館の司書になった。だが信仰のほうはしだいに失われていき、ニーチェの「神の死」の影響で棄教するに至る。

 信仰による抑圧から解放されると代わってあらわれてきたのは、エロティシズムとスカトロジーである。エロティシズムは、「おい、先生(医者のこと)、俺の女房といつまでやってんだ!」という妄想が、少年が受けてきた厳格な教育を粉砕したことに結びついているのかもしれない。スカトロジーのほうは、どうしようもない糞尿の記憶であろう。

 ジョルジュはシュルレアリストたちと交流し、その才能はまずは文学において開花する。彼の最初の小説は執筆後にすぐに破棄されたものであるが、そのタイトルは『W.C.』である。その後執筆した『眼球譚』は、エロティックな場面とスカトロの場面が満載である。その筆名であるロード・オーシュは、オーシュ卿であり、一見するとイギリス貴族風の名前であるが、その隠れた意味は「便所の神」である。ロードは英語で「主なる神」の意味でもあり、「オーシュ」は「オー・シュオット(便所に行っちまえ)」というフランス語表現の略だからである。さらに、奇書とも言うべき『太陽肛門』は、性的交接、男根の勃起、太陽の光、火山の噴火、糞を垂れる肛門といったイメージが互いに重なり合い層をなしている。

 スカトロジーやエロティシズムの嗜好は、ジョルジュに文学テキストを執筆させただけではない。彼はマルクスの影響を受けつつ社会学や人類学も研究していたが、社会の出来事の考察にもこの嗜好は深い影響を及ぼすことになる。

 彼によれば、社会の出来事は聖なるものと俗なるものに分けられる。俗なる出来事とは、僕らの日常のそれで、労働、生産活動、功利性などによって特徴づけられているが、その根本にあるのが「同質化」と「獲得」である、とジョルジュは考える。人間は周囲の物を認識し名指し同一化することで同質のものとしながら支配していく。また、物を材料として加工しながら自分の役に立つものに作り変えていく。これが「獲得」にほかならない。ジョルジュの考えでは、この「獲得」は、人体が食物を体内で同化吸収して血や肉にしていくのと同じである。しかし、人体では役に立たないものは外に排出される。その典型は、糞尿である。それと同じように、俗なる社会にとって有用でないものは、外に「排除」される。彼はそれを「異質なもの」と呼ぶ。神や天使のような宗教的な存在は日常の外に位置し、僕らが所有したり支配したりできない異物なのだ。ただ、「排除」されるのは、高貴なものばかりではない。生殖目的をもたないエロティシズム、糞尿を愛好するスカトロジーも「排除」の対象であり、これらも聖なるものにほかならない。ジョルジュは人体からの糞尿の排出と社会からの聖なるものの排除をアナロジックにとらえるのだが、それも幼少期のケアの体験に由来しているのだろう。

スカトロ贈与論

 この「排除」された「異質なもの」を、ジョルジュは1933年に「消費の概念」という論文で消費という観点から分析している。「異質なもの」は、「獲得」して利益をあげるものではなく、むしろ経済的損失を招くものだからである。この論文ではモースの『贈与論』も取り上げられているが、それは贈与がその動機は別にしてひとつの経済的な損失だからである。そして「消費の概念」で目を引くのは、『贈与論』がスカトロ嗜好によって汚されながら再解釈されている箇所である。例えば、アメリカ北西部では、紋章入りの銅製インゴットを贈与の儀礼の対象にしているが、これは排泄の象徴であるとか、メラネシアの儀礼では、贈与する者が豪華な贈り物を競争相手の足下にまるで自分の排泄物のように置き捨てるという例が挙げられているのだ。

 ジョルジュは『贈与論』のなかのポトラッチに特に関心をもっている。ポトラッチとは北米先住民の儀礼で、闘争的贈与交換とも呼ばれる。子供の生誕や結婚といった特別な行事のとき、ある部族の首長は別の部族の首長たちを招待し贈り物をする。受け取った首長たちは別の機会にこの首長や他の首長を招きそれ以上の贈り物をする。こういった贈与の応酬を通して、最も財を犠牲にした首長が部族間で最も高い地位につくことができるのだ。ポトラッチは経済的損失を通して名誉と地位を得るものなのである。

 こういった一般的な解釈に対して、ジョルジュはポトラッチの損失の面を重視する。ひとつ間違えると、名誉を求めて無謀な散財をすることによって身を滅ぼす危険が、ポトラッチには潜んでいるからである。この点、ポトラッチは賭けに似ている。勝負に勝つためにずるずると引きずり込まれ多額な負債を抱え込んでしまう危険と背中あわせだからである。

 ポトラッチは、必ずしも相手に贈与しなくてもよく、自分の所有物を破壊することでもかまわない。それは、相手からのお返しを期待していると思われたくないからである。部族にとって大切なカヌーをいくつも破壊したり、場合によっては自分の住んでいる家を焼くことで自分の力を誇示しようとしたのである。

 ここからジョルジュは、贈与の破壊的な面に注目する。

贈与は、損失として、つまり部分的な破壊として、見なされなければならない。というのも、破壊したいという贈与する者の欲望が部分的に受け取る者にも及ぶのだから。精神分析が描くような無意識の形態において、贈与は排泄行為の象徴であ【1】〔…〕 。

 やはり糞尿なのだ。ジョルジュはフロイトの精神分析による肛門サディズムの考え方に触発されている。肛門は腹のなかの財産を糞のような無価値なものにしてしまう破壊性をもっている。これが無意識におけるサディズムの原因となっていくというのがフロイトの考えだが、ジョルジュはこれを贈与論に応用している。

 贈与の本質は、今まで所有していたものを人に与えることで、自分にとって〈無いもの〉にしてしまうことにある。それは腹のなかの財産を糞にしてしまうのと同じなのである。

 ヤングケアラー時代に幾度となく父の排尿と排便を目撃したジョルジュは、贈与の本性に潜む破壊的な傾向を手繰りだした。贈与交換の理論は贈与を交換を通して利益を得るものと見なすが、こういった理論によっては見過ごされがちな贈与の危うい面を、ジョルジュは鋭く見て取っていたのだ。この発見は、ケアを彼に強いた父のおかげとも言うべきであろうか。

 贈与論は本質的にスカトロジーと密接な関係にあるのだ。

連載第3回は、6月28日(金)公開予定です。 

【1】Georges Bataille, « La notion de dépense », Œuvres.Complètes. ,I, Gallimard, 1979, p. 310.『呪われた部分』酒井健訳、ちくま学芸文庫、2018年、320–321頁。
*訳文・訳語に関しては既訳と一致しない場合もある。


執筆者プロフィール

岩野卓司(いわの・たくじ)
明治大学教養デザイン研究科・法学部教授。著書:『贈与論』(青土社)、『贈与をめぐる冒険』(ヘウレーカ)、『贈与の哲学』(明治大学出版会)、『ジョルジュ・バタイユ』(水声社)、共訳書:バタイユ『バタイユ書簡集 1917–1962年』(水声社)など。


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