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連載*バタイユとアナーキズム 第3回

 法政大学教授の酒井健先生による連載『バタイユとアナーキズム──アナーキーな、あまりにアナーキーな』が始まりました! 全ての「主義」に批判的であったジョルジュ・バタイユの思想に全方位から迫り、現代日本社会の「アナーキズム」思潮を根源から問い直します。 

 第3回は、「ヨーロッパの二つのトポス」と題して、バタイユ、ニーチェ、シェストフを俎上に載せ、根源的な自由への渇望、アナーキズムの源流をたどっていきます。

ヨーロッパの二つのトポス

酒井健

1 「すべては許されている」

 19世紀後半、ヨーロッパではとくに二つの地域でアナーキズム運動が盛んだった。ロシアとスペインである。ともに近代産業の発展が著しく遅れていた地域だが、アナーキズムはそれぞれ様相を異にしていた。その違いをバタイユ、ニーチェ、そしてシェストフとともに捉えてみよう。

 1922年2月、バタイユはパリの古文書学校を卒業すると、スペインへ旅立った。次席卒業の褒章ほうしょうとしてスペインのマドリッドに留学が認められたのだ。出発まえにバタイユは、スペインに滞在経験のある後輩アルフレッド・メトロー(1902–1963)に当地の事情を熱心に聞いている。結局バタイユの留学は、パリ国立図書館の司書の職が決まった関係で、6月には切り上げられたが、しばらくしてメトローに再会したときにも彼は、いまだスペイン滞在の熱めやらぬ風情ふぜいで、興奮気味に当地での文化体験を語った。『クリティック』誌のバタイユ追悼号(1963年8–9月合併号)に寄せられたメトローの証言によれば、「彼〔バタイユ〕は、月夜のアルハンブラ宮殿で見たカンテ・ホンドのコンクー【1】のことを回想した。彼の感動ぶりはとても生き生きしていて、回想されるイメージもきわめて美しかったので、40年たった今でも、私自身この祭典に加わったような気がしてならない。それから彼は長々と闘牛について語った。闘牛にこめられた性的な象徴表現が彼にはことのほか衝撃だったの【2】」。この闘牛の衝撃は彼の小説『眼球譚』(1928)に生々しく語られることになる。

 メトローとバタイユはこれを機に親しくなっていった。バタイユはメトローに、ジッドそしてとくにニーチェの思想をこんな言葉とともに伝授したという。「すべては許されている。陽気な破廉恥漢になりたまえ。君自身そうなのだか【3】」。これはメトローの性格が勇気を秘めつつ表向き控え目で慎重だったことに発する激励ととれるが、当時の、つまり1923年頃の、キリスト教信仰を脱したばかりのバタイユ自身のモットーでもあったろう。それとともにこの言葉からは、バタイユのニーチェ理解、つまりバタイユがニーチェの何に刺激を受けていたのかがうかがい知れる。先走って言えば、それは、知的な不信心家になるな、というニーチェのメッセージだった。「神の死」を知的な否定の精神から理解するのではなく、肯定的にこの世界の体験として生きよ、というメッセージである。

 ここにはまたニーチェのニヒリズム批判がある。ニヒリズムとは、虚無主義と訳され、この世の人も物事もすべて空しく、つまらないものに見てしまう厭世的な立場を言うが、ニーチェがとくに厳しく批判したのは、「受動的ニヒリズム」と彼が呼んでいたもので、これは、未来あるいは天上に理想の世界を知性によって設定して、ちょうど重荷を背中に負うラクダのよう【4】受動的にこの理想をにない、それに心を支配されながら、現世を否定的に見る立場を言う。その実践形態を彼はアナーキズムに見て、これも同様に批判したのである。アナーキズムは殺害や破壊をともなって一見して恐ろしい様相を呈するが、ニーチェからすれば、その根本は、生命力に不足した弱き人間のわざとなる。19世紀後半から西欧ではこの受動的ニヒリズムが蔓延まんえんしだしていた。とくにニーチェの視野に入ってきたのは、アナーキズムと連動したロシアのそれだった。まずは、この受動的ニヒリズムをヨーロッパ「最後の認識の理想主義」と捉える彼の批判を見ておこう。

2 ヨーロッパ的・キリスト教的自由精神とアナーキズム

 メトローに語ったバタイユの言葉「すべては許されている」は、ニーチェの『道徳の系譜』(1887)のなかで次にように紹介されている。西欧の外部の自由精神をこの言葉に見出して、西欧のニヒルな自由精神を批判するスタンスである。

 キリスト教十字軍の兵士たちが東方であの打ち勝ちがたい暗殺者教団、その最下位者たちでさえもがいかなる僧団も及ばぬほどの服従生活に徹していたあの優れた自由精神の教団に出会ったとき、彼らは何らかの仕方でまた、その教団の最上位者たちにだけ秘伝としてとっておかれていたあの象徴と符牒語についても、それとなく知るところがあったのだ。その符牒語とは、「何ものも真ではない、すべては許されている」というのであった。…まことに、それこそは精神の自由であった。それによって真理そのものにたいしてすら信仰の破壊が申しわたされたのだ…。かつてヨーロッパ的、キリスト教的自由精神にしてこの命題とその迷宮のごとき帰結のなかに迷いこんだことがあるだろうか? この洞窟の怪物ミノタウロスを実地に見知ったことがあるだろう【5】

(ニーチェ『道徳の系譜』第3論文24)

 クレタ島のラビュリントス(迷宮)の奥に潜む怪物ミノタウロスが何を意味するのか、それはあとで語ろう。ここでニーチェが言いたいのは、ヨーロッパでは近代に入ってもまだ、超越化された真理が信じられている。自由精神を標榜する懐疑家たちにおいてすら、神は死んでいない、新たに捏造されている、ということだ。ニーチェによれば、彼らは「最後の認識の理想主義者」なのである。つまり「これら現代の否定者や離反者たち、知的清廉せいれんを要求するという一事に無二無三なこれらの人たち、われわれの時代の名誉となるこれらの厳酷な、峻厳な、抑制的な、英雄的な精神の者たち、すべてこれらの蒼ざめた無神論者、反キリスト者、インモラリスト、ニヒリストたち、これらの懐疑家〔…〕、今日ではただひとり知的良心を宿し体現する者となっているこれら最後の認識の理想主義者た【6】」なのである。このなかにはロシアのアナーキストも含まれる。

 『善悪の彼岸』(1886)でもニヒルでペシミスティックな懐疑主義の流行が問題にされている。当代では、自分は懐疑家でないなどと言おうものなら、その人が周囲の人々からいっそう恐ろしいニヒリストとして、ロシア版のアナーキストとして恐れられてしまうというのである。「彼ら〔周囲の人々〕は、彼が懐疑を拒否したのを聞くと、まるで遠くの方から何かものすごく脅かすような物音を聞いたような気になる。まるでどこかで新しい爆薬の実験でもあったかのように思う。いわば精神のダイナマイトが、もしかしたら新しく発見されたロシアの虚無主義ニヒリンが、ただナインを欲するばかりか、さらには──考えるのも恐ろしいことだが!──ナインを実行するところの〈善き意志〉のペシミズムが、爆発したかのように思うの【7】」。

 〈善き意志〉とはニーチェに言わせれば「現実の行動をもって生を否定しようとする意志」のことであり、ロシアではじっさい1881年に「人民の意志」なるテロリスト集団によって皇帝アレクサンドル2世(在位1855–1881)が暗殺された。首謀者ソフィア・ペロフスカヤ(1853–1881)は大学出の若き知識人であり「人民」の上に立つ貴族の家系、父親は州知事の職にあった。「人民の意志」の源流をたどると、1860年代の政治運動「ナロードニキ」に達する。その標語「ヴ・ナロード(民衆の中へ)」からもうかがえるように、「ナロードニキ」の参加者たちはもともと民衆の中に属さない知識人たちだった。彼らは民衆の外部から民衆への人道的な愛を果たそうとしたのだが、この一方的で独善的な姿勢には前回指摘した「認識の病」も見えてくる。彼らは「未知のものを既知のものに関係づけて同一化する」認識の動きに取り憑かれて、まだ見ぬ多数の民衆(そのほとんどが農民だった)を、彼らの既知の「人民」の概念に同一化していたのだ。その彼らの「人民」理解の源にあった知識、その手本となっていた知識は、おおむねフランスの啓蒙思想、西欧近代の合理的科学主義、マルクスの革命思想であった。彼らナロードニキから見て、1861年にアレクサンドル2世によって発せられた農奴解放令は欺瞞ぎまんと言っていい表面的な自由化にすぎず、農民の立場は実質、資本家に隷属し搾取される肉体労働者だったのである。「人民の意志」は平等な社会の実現を夢見ていたのだ。その決断は、この皇帝を殺害すれば、農民は立ち上がり、帝政はくつがえるとの期待にあった。だが人民は動かなかった。

 要するに「ナロードニキ」にしろ「人民の意志」にしろ、ロシアのアナーキストは、民衆社会の外部に存して、この社会を一様に否定的に捉え、それを改善するために彼らが「善」と仰ぐ外来の平等思想を一方的にロシアに実践していった。「悪」の元凶たる帝政を倒す行為はたとえ暴力的であっても「善」によって正当化されると考えていたのだ。こうしたロシア・アナーキストたちの観念的で否定的な現実認識と「善」への崇拝に、ニーチェはキリスト教と同じ精神を見て取っていた。もちろん彼らアナーキストたちからすれば、キリスト教すなわちロシア正教は、旧弊きゅうへいにして蒙昧もうまいなロシア人社会の病原であり、西欧の合理的理性の敵でしかなかったのだが。

 おしなべてロシアの進歩派知識人は宗教に対して批判的だった。「宗教は大衆のアヘン」とみなすマルクスをつまでもなく、ロシア正教は抑圧的な政治体制にくみしつつ、民衆を迷妄によって苦しみから解脱させる悪しき鎮痛剤と映っていたのである。そのなかで特異な逆行のターンを切ったのがドストエフスキー(1821–1881)だろう。彼は若い頃西側の進歩思想に染まり政治的反逆者として逮捕され処刑寸前にまで追い込まれるが、シベリアの流刑地で4年間罪人民衆と生活をともにするなかで180度の宗旨替えをする。彼の名作『罪と罰』(1866)、『悪霊』(1871)、『カラマーゾフの兄弟』(1880)において最終的に裁かれ敗北していくのは西欧伝来の不平等否定の思想とその実行であり、称えられるのはロシア土着の人間性と信仰心なのである。ただし彼はすんなりこの逆行を果たしたわけではない。今も命をかけて活動するアナーキスト同志たち、その息吹を内に宿す自分自身が彼の後ろ髪を引く。ラスコーリニコフ、スタヴローギン、イワン・カラマーゾフ、これらニヒリストたちの苦悶の大きさ・深さ・生々しさは、作者の入れ込みなくしてはありえない。他方でまた『地下室の手記』(1864)と『賭博者』(1866)の主人公たちがまったく別の、不合理な情念に屈する者の角度から、見ようによっては凡庸限りないこの小市民的逆行を、「本心なのかい?」、「きれいごとだろ?」、と足元を見るがごとく小馬鹿にしてくる。これら多声のおりなす不協和音が彼の文学世界の魅力なのだが、しかしともかくドストエフスキーは、アナーキスト的「否定」からキリスト教的「信仰」へ、二項対立の図式を維持したまま、時代錯誤的な退行を果たしつつあった。そしてその途上で、ちょうどアレクサンドル2世暗殺事件と同じ1881年、この事件の一か月まえに、世を去るのである。

 ニーチェは「否定」と「信仰」の対立図式の両項をまったく同じとみなし、この図式自体を一刀のもとに無効にした。曰く「アナーキストとキリスト者は同じ一つの血統の者であ【8】」。ニーチェからすれば、双方とも、現実の彼方に真理を設定し、そこから現実を一様に否定的に眺めている。黄昏たそがれゆく偶像をまだ信じているというのである。そこには生命力の衰退しかない。人間の生命力はそもそももっと豊かなのだとニーチェは見ているのである。では偶像崇拝のあとにくる世界観とはいかなるものなのか。ニーチェに即して言えばこうなる。新たな真理であろうと、これを仰がず、さりとて無化することもなく、現実の一つの表情とみなして肯定していくのである。この世には真実在か仮象かの区別はもうなく、あるのは生命力の多寡たかに応じた表現だけであり、これを先入観なしにそのままに肯定していこう、子供のように無心に生きようというのであ【9】。「何ものも真ではない、すべては許されている」は、このような現実の多様性への力強い肯定の言葉なのだ。これも新たな「理想」だと見なすならば、その人はまだ近代人の疲労のなかにいる。子供より大人の社会に進歩を見る狭く細い近代人の視野のなかにいる。

 バタイユがメトローに語った言葉「陽気な破廉恥漢になりたまえ」はそうした子供への招待と受け取れるが、しかしここにはさらに深いニーチェの思想があった。そしてそれを見抜いて、非近代的な視点からバタイユに教示したシェストフがいる。

3 キュニコス派の演劇性

 バタイユがシェストフを知って、哲学の教えを私的に授かるようになったのは、1923年頃のこと。図書館司書の仕事のかたわら東洋語学校でロシア語の授業に出席しだし、おそらくそこでパリ大学のロシア文学講座の教壇に立ったばかりのこのウクライナ・キーウ出身の哲学者のことを伝え聞いたのだろう。のちのバタイユの回想によれば「レオン・シェストフはドストエフスキーとニーチェから哲学していた。それが私を誘惑し【10】」。じっさいシェストフは1903年に『悲劇の哲学──ドストエフスキーとニーチェ』を発表していて、その第20章では先ほど紹介した『道徳の系譜』にある「何ものも真ではない、すべては許されている」の文言を引きあいに出している。

 では「陽気な破廉恥漢になりたまえ」はどうなのか。私の訳が意訳にすぎたかもしれないが、直訳するとこの「陽気な破廉恥漢」(le cynique joyeux)は「陽気なキュニコス派の人」となる。キュニコス派は、ソクラテスの弟子アンティステネス(前446–前366)によって創始され、ディオゲネス(前412?–前323)に受け継がれた哲学の流派で、世俗の常識を愚弄しながら精神の自由を実践した。街中でこれみよがしに犬のような生活を送っていたため犬儒学派けんじゅがくはとも呼ばれる。

 ニーチェは『悦ばしき知識』第5書「我ら恐れを知らぬ者」(1887)の断章「キュニコス派の徒は語る」で、自らをこの派の継承者とみなしている。言わんとするところは、ドイツ民衆との共生を欲したヴァーグナーの楽劇の重苦しさを批判しつつ、つまり大衆の常識と道徳観の染み込んだ劇場型美学の重さを批判しつつ、音楽それ自体の「軽やかな安らぎ」と、これに興じる彼自身の脱俗的な生き方を称えている。「ナロードニキ」とは逆向きに彼は民衆の外へ出ようとするのだが、これはけっして民衆の上に立つことでも西欧の進歩思想に寄り添うことでもない。人間そのものの「規準」の外に立つこと、つまり人間の生活を成り立たせている善悪の道徳観(常識、慣習、合理性も含む)の彼岸に立つことが欲せられているのである。しかもこの「規準」を含め、人間の可能性の全幅を体験して認識することがめざされている。それを可能にするのが、自分とは別のキュニコス派との出会いなのだ。単独の身ではキュニコス派の徒は、ニーチェとて、自閉状態の壁の中にいて認識を果たせない。キュニコス派は街中に出て、別のキュニコス派の人々が演劇的に振る舞うのを見なくてはいけない。その演劇性は、劇場に集う大衆と反りを合わせるヴァーグナーの美学とは違って、自発的に人間の「規準」の外に出て、矛盾を恐れず、陽気に人間を演じる点に本質がある。この意味で『善悪の彼岸』の断章26はとても重要なテクストだ。冒頭を読んでみよう。

 すべて選り抜きの人間は、本能的に自己の居城と隠れ家を求める。そこで自らが大衆、多数者、民衆から解放され、例外者として〈人間〉という規準〔die Regel « Mensch »、Regelには「規則」の意味もある〕を忘れ去ることができるためである。──ただし、彼が偉大な例外的な意味での認識者として、さらにより強烈な本能から真一文字にこの規準と衝突する、というただ一つの場合だけは別にし【11】

(ニーチェ『善悪の彼岸』第26番の断章)

 この「ただ一つの場合」が街中でのキュニコス派の人々との出会いである。彼らは本然から人間を多様に演じている。一つの可能性を演じつつ、それが別の可能性のパロディーになっていて、見る者は二つの可能性を次から次に認識することになる。

 彼らキュニコス派の人々ときては獣性や野卑や〈規準〉をそのままあっさり承認し、さらには証人の居合わす面前で自分や自分と同類の手合いのことを弁じたてるほどの気の利いた才知とからかい心をも持ちあわせている。〔…〕キュニコス主義は、卑劣な魂が誠実性ときわどく触れあうようになる唯一の形式である。より高い人間とても、自分よりがさつでもあり繊細でもあるすべてのキュニコス主義に耳を傾けて聴くべきである。そして、面前で恥を知らぬ道化師や学問的半獣神があたりはばからず大きな笑い声をあげる際には、そのたびごとおのれの幸福を祝すべきである。それにまた、嘔吐すべきものには魅惑的なものが混ざっている場合さえある。すなわち、自然のいたずらで、そうした不謹慎な牡山羊おやぎや山猿風情に天才が結びついていることがある。〔…〕学問的な頭脳が山猿の胴体の上にのっかり、精緻な非凡の悟性が卑劣な魂の上に鎮座しているということも、すでにしばしば見られた例であ【12】

(ニーチェ『善悪の彼岸』第26番の断章)

 バタイユが友人メトローに「陽気な破廉恥漢になりたまえ」と檄(げき)を飛ばした理由もここから察せられる。相互にキュニコス派の演劇性を体現して、この世界の広い認識者になろうというのだ。しかしシェストフはさらに深い次元へバタイユをいざなっていた。内的な次元へ、歴史に浮上しない人間の内面の次元へ。そこはまたアナーキズムの根源でもあったのだ。

4 アナーキズムの根源へ

 シェストフは独特の視点でキュニコス派を語る。思想史に立ちつつ、歴史の底流へ眼差しを向けるのだ。16世紀スペインのキリスト教神秘家の言葉から語り始める彼は、いっきょに歴史を遡って紀元前5世紀の古代ギリシア、キュニコス派の創始者アンティステネスへ、そしてその師ソクラテスへ、そしてまたソクラテスのもう一方の弟子プラトンへ視点を差し向ける。

「主よ、苦しみを、しからずんば、死を与えたまえ」。16世紀後半に生きた聖テレーズはこのように祈った。
 彼女より2千年以上前、著名なる犬儒学派の一人で、同学派の創始者であり、ソクラテスの弟子であったアンティステネスは絶叫した、「われ人生に満足を得るよりも狂人になることを欲す」と。プラトンは、伝説によれば、アンティステネスの弟子ディオゲネスを狂えるソクラテスと言った。プラトンは正しかった。ディオゲネスは言うに及ばず、彼の師〔アンティステネス〕、および彼に最も近かった弟子たちもまた、たしかに、狂える人であった。しかも、単に狂える人ではなくして、まさしく狂えるソクラテス、すなわち狂える賢者であった。満足を恐れること──すべての人間がその全生涯を通して、満足の中に、人生の意義と本質とを見出していたときに──、はたしてこれこそ疑う余地なき狂気ではなかろうか? ソクラテスの英知と同様に、これもまた、「れっきとした」狂気ではなかろう【13】

(シェストフ『ソラ・フィデの哲学──それしかない!』第1章「理性と狂気」)

 シェストフが強調してやまないのは西欧哲学の開祖ソクラテスの二面性である。そして彼の弟子は二手に分かれ、師のこの理性と非理性の二面性をそれぞれに発展させた。「ソクラテスの弟子プラトンは、最大の不幸は理性の嫌悪者(ミサローグ)になることであると言った。犬儒学派の人々は、同じくソクラテスの弟子であったが、彼らはそこには何ら不幸をも見出さず、反対に、プラトンが理性と考えたものの中にすべての不幸の出発点を見たのであ【14】」。大多数の人と同様に「プラトンは完成、説明、豊富、満足を得ようとした」。その一方で、多くの人から嫌悪された「犬儒学派の人々は、もし中世の術語を知っていたとすれば、このような精神状態のすべてを「悪魔のしわざ」と言ったであろ【15】」。この対立はしかし表向きのことなのだ。

 シェストフは、正気と狂気のどちらかが真の英知だとは言わない。彼はアンティステネスを「狂えるソクラテス」と称えつつ、そのように語ってアンティステネスを評価したプラトンをも称えている。「周知のごとく、同時代人は、犬儒学派を嫌悪し、軽蔑し、彼らを犬と呼んだ。ただ少数の、プラトンのごとき鋭敏な人々、そして、もし伝説を信じるならば、アリストテレスの弟子たちが、これら狂気の賢者たち、これら社会の疎外者たちの奇妙な生き方に驚き、あるいは、少なくともこれに思いをめぐらせたのだっ【16】」。

 シェストフの真意は、英知もまた狂気であり、狂気もまた英知だといった単純な逆説を説くことにはない。彼の眼差しは近代人の正気の体系を狂的として相対化するフロイトのパラノイア説より深い。たしかにシェストフは、「完成、説明、豊富、満足」を一貫して肯定するプラトンの英知に狂気の体系を見出し、狂気を演じるキュニコス派に理性の正体をあばく英知を見ていくのだが、けっして理性はおろか狂気すらも実体化しない。狂気こそ真理だなどとは言わない。

 「狂気は独自の源泉、大胆さ、力、そして正当性(これを誰が知ろうか)をもっているのであろう【17】?」。シェストフの投げかけるこの疑問の意味するところは何なのか。狂気の根源は人知では達しえないということなのかもしれない。しかしまた、狂気の根源が特定化できないのは、正気との相互的関係にあるからだ、と解釈できないだろうか。ちょうど、ソクラテスがその内部に正気と狂気の別々の人格を棲まわせて、戯れさせていたように。プラトンとアンティステネスが正気と狂気の別々の英知を展開しつつ刺激しあっていたように。つまり、私に言わせればこういうこうだ。狂気は理性による否定とともにあり、理性は狂気による否定とともにある。狂気は理性によって否定されながら存在し、理性は狂気によって否定されながら存在する。

 この相互的な否定にこそ生命豊かなアナーキズムの根源があると私は思う。こうした二つのアナーキーな否定のつながりを肯定的に生きることこそが、アナーキズムの源流なのだ。私はそう見る。そしてこの表に現れにくい心の内面の連続性を断ち切って、「主義」に走り言説によって自分を誇示し、組織によって自分の拡大をはかろうものなら、そうして現実の社会にアナーキストとして登場し顕在化をめざすのならば、アナーキズムは原理主義に転じて、死んでいく。ちょうど大人にぶたれて倒れる子供のように。ここにはもう一つの「弱さ」があるのだ。

 子供の生命力は豊かなのだが、弱い。生命の過剰は非力なのである。生命に枯渇した大人はその貧しい生命をタイトに制度に固めて武器にする。表向き大言を吐き、他者や他所に攻め入って強く見えるが、自分を守りたいのだ。大人は生命乏しき者であるがゆえに表面では強く、子供は生命豊かであるがゆえに社会では弱い。簡単に滅ぼされていくのだ。

 バタイユがスペインのアナーキズムに見ていたのはそのような子供の弱さだった。大人のように組織化に向かい武装蜂起もするのだが、長続きせず、覇権は握れず、逆に軍事政権の下に沈んでいく。だが否定の精神はフランコ政権下でも息づくとバタイユは主張する。曰く「自由スペイン、この言葉は根本的には政治的な意味で理解されねばならない。けれども人々の心のなかには、監獄の内部にいても存続する内的な自由があるの【18】」。スペインのアナーキズムはスペイン民衆の内的な次元に源泉がある。人間の「規準」を超え出ようとするスペイン民衆の情動にこそ源泉がある。バタイユは、1945年、若き日のスペイン滞在を振り返りながら、そう語った。この見方にはシェストフの教えが生きている。

5 「不可能なもの」への欲求

 第2次世界大戦(1939–1945)が終わると、バタイユはまっさきにスペインへ目を転じた。フランスでは「自由フランス」をモットーにレジスタンス(対独抵抗運動)が連合軍の多大な軍事力に助けられ、まがりなりにも自国の解放を成し遂げたが、隣国スペインはナチス・ドイツと結託したフランコ将軍の軍事政権がそのまま抑圧的な支配を続けていた。スペインの自由はどうなっているのか。こう危惧するカミュとともにバタイユは文集『自由スペイン』(1945)を編み、自らそこに「アーネスト・ヘミングウェイの『誰がために鐘はなる』について」を発表した。これはヘミングウェイの小説に寄せた書評の体裁をとりながら、バタイユ自身の留学時の文化体験を語り、それを通してスペイン民衆の自由の異質性を明かした好論である。バタイユの文章にしてはたいへん読みやすい。

 メトローに熱く語ったあの1922年6月のカンテ・ホンドの野外コンクールのことも鮮明に回想されている【図①】。舞台から観客へ、とりわけ刺激的な声で「彼らは彼を埋葬した」と歌いかけた歌手について、バタイユはこう綴る。その「歌声は、はじめのうちはゆっくりとしていてうめくようだったのだが、そのうちに鋭くなり、ついには狂気のようになって、可能なものの極限の地帯へ到達したのであ【19】」。

図①
カンテ・ホンドのコンクールの模様。グラナダのアルハンブラ宮殿にて。1922年6月13日・14日。若きバタイユはフランス帰国直前にこの夜宴に立ち会った。写真は雑誌『ヌエボ・ムンド』に掲載されたもの。
El Concurso de Cante Jondo de 1922 - Universo Lorca
フラメンコ学 Vol.6 カンテ・ホンドのコンクール(1922)|一般社団法人 日本フラメンコ協会 (note.com)

 「可能なるもの」とは人間の生活を成り立たせている「規準」のことだ。善悪の道徳観もそうだし、プラトンが重視した「完成、説明、豊富、満足」のことでもある。その極限に達するということはまさに狂気とすれすれのところに、生死で言えば、死とすれすれのところに行くことを意味する。当然、不安も生じてくるが、スペイン民衆はこの不安の境地を欲した。闘牛にしろ、フラメンコの踊りにしろ、はたまたゴヤの絵画、16世紀の神秘家たちにしても、この心理は共通するとバタイユは見る。曰く「スペインとは、不安というよりはむしろ不安に満ちた陽気さ、挑発的な態度、不可能なものへの雄々しい欲求なのであ【20】」。スペイン民衆はまるでキュニコス派のような欲求を内に抱えていたわけだ。そしてこの不可能なものへの欲求からなる文化は「民衆自身が自分たちに与えている文化なのである。この文化は学校で教えられてはいない。知識人層の専有物でもな【21】」。スペインのアナーキストたちも同様で、可能な世界の外へ、法の支配する世界の外へ、つまるところ、非政治的世界へ、出ていく欲求にかられていた。それゆえに、どのように振る舞っても彼らの否定の活動は政治的には成果があがらなかったのだ。計画的で組織的でおおがかりな体制転覆などとうてい果たせなかったのである。バタイユはこう説く。

 スペインにおけるプロレタリアートの政治活動は、イギリスやフランスの場合とは異なった様相を呈している。スペインでは農民プロレタリアートの数がたいへん多い。アンダルシア地方〔セビリアを中心する南部スペインの後進地域でフラメンコの発祥の地とされる〕の村々には無政府主義の結社がいくつもあったのであり、そのなかでは最も素朴な人たちでさえ人間性の意味を議論していたのだ。そして工業の盛んなカタロニア地方〔バルセロナを中心にするスペインの先進地域〕の労働者たち──その大多数が正真正銘のスペイン出身──でさえ、世界の外で生きるための自分たちのやり方を持っている。アンダルシア地方の農民たちが非政治的であったのと同様に、彼らカタロニア地方の労働者もだいたいにおいて非政治的だ。アナーキストである彼らは、合法的世界の現実を否定している。〔…〕しかし彼らは合法的世界と同じ次元に身を置いていなかったので、彼らの行動は合法的世界に影響を及ぼすことはなく、まったく成果のあがらないネガティヴものになってい【22】」。

(バタイユ「アーネスト・ヘミングウェイの『誰がために鐘はなる』について」)

 バタイユはスペインのアナーキストたちを非難しているのではない。むしろ称えているのだ。アナーキズムの本質を生きていたからである。

アナーキズムは、根底においては、不可能なものへの執拗な欲望の最も浪費的な表現なの【23】

(バタイユ、同上書)

 少なくともこの論文の書かれる1945年までスペインのアナーキストは、皇帝を暗殺したロシアのアナーキストのように、歴史に刻まれるような大事件は起こせなかった。当局によって監獄送りにされるなど、まさにその情念は浪費的に燃焼されていくだけだった。バタイユは、しかし、彼らのうちに、政治的解放よりも根源的な自由への渇望を読み取って、歴史の水面下に沈む彼らに人間としての真正性を回復させようとした。人間の「規準」を超えるがゆえの真正な人間性である。シェストフはまさに内的次元へ降下して、そのような非理性的な情念の照射に賭けた思索者だったのだ。「犬儒学派の人々の心の奥底には、彼らにこの地上のすべての完成された秩序を嫌悪させる何ものかがあっ【24】」。若きバタイユにはこのようなシェストフの言葉が身につまされるように生々しく響いたことだろう。ほかならない彼自身の内奥にキュニコス派が棲みついていたのであり、もう一人の、もっと強烈なキュニコス派の怪物と相対していたのだから。

 「アリアドネの糸がきれてしまうときがある」とは『内的体験』第2部「刑苦」冒頭付近の断章に記されたバタイユの名句である。自身の心のラビュリントスに迷い込む彼においては、あの人間の世界の「規準」との命綱が、糸のように細くなった論理的な思考の脈絡が、ときとして切れてしまうことがあった。そのとき眼前におぼろに現れる怪物ミノタウロスこそ、いつもきまってあの異形の人だったのである。座したまま、糞尿にまみれ、陽気に人間の「規準」を笑いとばしていたあの同じ血筋の「全き他者」。見えないものを見て別の世界のあることを教えてやまない「狂えるソクラテス」。あの盲目で狂的な亡父の面影だったのだ。そしてこの人こそいつも、記憶の奥底から息子に檄を飛ばしていたのではなかったか。「陽気な破廉恥漢になりたまえ。お前自身そうなのだから」、と。

【1】カンテ・ホンドは「深い歌」の意味で、フラメンコ歌謡の重要な部門。このコンクールは、作曲家ファリャ、詩人ロルカの働きで開催になった史上初の記念碑的な催しで、アマチュアと21歳以下のプロによって競われた。1922年6月13日と14日にグラナダのアルハブラ宮殿内の野外、アルヒベス広場で行われた。日付からすると、バタイユはフランス帰国の直前に立ち会ったことになる。
【2】Alfred Métraux, « Rencontre avec les ethnologues » , Critique, no.197–198, août-septembre 1963, p.677.
【3】Fernande Schulman « Une amitié : deux disparus », Esprit, no .322, novembre,1963 , p.672.フェルナンド・シュールマンはアルフレッド・メトローの妻。メトローは1963年4月、パリ近郊のシュヴルーズ峡谷の森のなかで自殺した。上記の彼のバタイユ追悼文「民族誌学者たちとの出会い」が『クリティック』誌に発表されたとき、メトローはもうこの世にいなかったわけだ。妻シュールマンは、この記事「ある友情──この世を去った二人の人」で、夫の死を悼みつつ、バタイユの訃報を聞いた直後の夫のバタイユ追想を報告している。
【4】『ツァラトゥストラ』第1部冒頭の「三様の変化」では、権威に屈するラクダから、権威による支配を誇るライオンへ、そして権威を脱する子供へ成りかわっていく精神の変化が語られている。
【5】『道徳の系譜』信太正三訳、『ニーチェ全集第11巻、善悪の彼岸・道徳の系譜』所収、ちくま学芸文庫、1993年、566–567頁。なお『ツァラトゥストラ』第4部の「影」の章にも「何ものも真ではない、すべては許されている」が引用文として書き込まれている。
【6】同上書、565–566頁
【7】『善悪の彼岸』信太正三訳、第208番の断章、前掲書、198頁。
【8】『反キリスト者』原佑訳、第58番の断章、『ニーチェ全集第14巻、偶像の黄昏・反キリスト者』所収、ちくま学芸文庫、1994年、267頁。なお遺稿の断章にはこうある。「私がしりぞけるのは、1)社会主義、というのは、これは、「善、真、美」や「平等権」をまったく素朴に夢見ているからである(──アナーキズムもまたこれと同じ理想を欲しているが、その方法がいっそう残忍であるにすぎない)」(『権力への意志』第753番の断章、原佑訳、『ニーチェ全集第13巻、権力への意志(下)』所収、ちくま学芸文庫、1993年、268頁)。
【9】前記の註4に述べたように『ツァラトゥストラ』第1部「三様の変化」の最終段階が「子供」である。「子供は無邪気そのものであり、忘却である。一つの新しい始まり、一つの遊戯、一つの自力でころがる車輪、一つの第一運動、一つの神聖な肯定である。/そうだ、創造の遊戯のためには、わたしの兄弟たちよ、一つの神聖な肯定が必要なのだ。いまや精神は自分の意志を意欲する。世界を失った精神は自分の世界をかちえるのだ」(『ツァラトゥストラ』(上)吉沢伝三郎訳、『ニーチェ全集第9巻』、ちくま学芸文庫、1993年、50頁)。
【10】OCVIII563.
【11】『善悪の彼岸』信太正三訳、前掲書、58頁。
【12】同上書、59–60頁。
【13】シェストフ『ソラ・フィデの哲学──これしかない!』植野修司・天野和男訳、雄渾社、1975年、1頁。この翻訳書には原典が明記されていないが、シェストフが1911–14年のあいだに執筆し、未完に終わった遺稿『ソラ・フィデ』なる書物の第一部の序文である(「ソラ・フィデ」は「信仰だけを」の意味のラテン語で、ルターが、聖人信仰や豪奢な教会建築などに信者の献金を費やすローマ・カトリック教会を批判して用いた言葉である)。その第1部は「古代の哲学と中世の哲学」、第2部は「ルターとローマ・カトリック教会」と題されていた。この序文はT.Troyanoffによってフランス語に訳されて『神学・哲学誌』(Revue de théologie et de philosophie)第7巻第2号(1957年)に発表された(pp. 81–94)。本稿ではこのフランス語訳も参考にした。
【14】同上書、4頁。
【15】同上書、2頁。
【16】同上書、4頁。
【17】同上書、同頁。なおフランス語訳ではこの文章は肯定文になっている。“La démence a ses propres sources où elle puisse force et courage et, qui sait, peut-être, la vérité.”, Revue de théologie et de philosophie, vol. 7, no. 2, p. 82.
【18】 « À propos de Pour qui sonne le glas ? d’Ernest Hemingway », L’Espagne libre, Calmann-Lévy, 1945, p. 126. なお、このテクストは次のアンソロジーに再録されている。Georges Bataille, Une liberté souveraine, Textes et entretiens réunis et présentés par Michel Surya (Farrago, 2000). 邦訳は拙訳にてバタイユ『純然たる幸福』ちくま学芸文庫、2009年、29頁。
【19】Ibid., p.124、拙訳では同上書、25頁。なお歌手はディエゴ・ベルムーデス(1852–1933)で、70歳にしてこのコンクールで優勝を果たした。1922年当時の彼のその圧倒的な歌声は、現在でもC D「グラン・クロニカ・デル・カンテ(カンテの大年代記)[ⅩⅩⅧ](VOL. 28)── グラナダのカンテ・ホンド・コンクール」で聞くことができる。解説も詳しく、臨場感が湧いてくる。
【20】Ibid., p.126、拙訳では同上書、29–30頁。
【21】Ibid., p.123、拙訳では同上書、20頁。
【22】Ibid., p.124、拙訳では同上書、22–23頁。
【23】Ibid., p.124、拙訳では同上書、23頁。重要な定義なので、原文のフランス語も記しておく。 « L’anarchisme est, au fond, la plus onéreuse expression d’un désir obstiné de l’impossible. »
【24】シェストフ『ソラ・フィデの哲学──これしかない!』、前掲書、4頁。

執筆者プロフィール

酒井健(さかい・たけし)
法政大学教授。著書:『モーツァルトの至高性──音楽に架かるバタイユの思想』(青土社)、『バタイユ入門』(ちくま新書)ほか多数。訳書:バタイユ『純然たる幸福』『ランスの大聖堂』『エロティシズム』『ニーチェ覚書』『呪われた部分 全般経済学試論*蕩尽』(以上、ちくま学芸文庫)、『ヒロシマの人々の物語』『魔法使いの弟子』『太陽肛門』(以上、景文館書店)ほか。

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