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連載*バタイユとアナーキズム 第1回

 法政大学教授の酒井健先生による連載『バタイユとアナーキズム──アナーキーな、あまりにアナーキーな』が始まります!

 全ての「主義」に批判的であったジョルジュ・バタイユの思想のあり方を多角的に追いかけ、現代日本社会の「アナーキズム」思潮を根源から問い直す連載です。

 全てを否定する自己中心的な破滅の情熱と全てを甘受する無批判主義の快楽を超えて、無と有の単純な二元論の狭間、死と停滞的生の狭間の沼地を這いずり回れ、と説くバタイユに耳を傾けます。連載第1回は、そのイントロダクションです。

バタイユとはどういう人だったのか

酒井健

1 生きることを不可能にするアナーキズム

 バタイユは、第2次世界大戦の末期、『ニーチェについて──好運への意志』(1945)の序文でアナーキズムを批判している。

 私はアナーキズムには怒りを覚える。とくに、普通法の違反者を擁護する俗悪な教説には腹が立つ。世に暴露されたゲシュタポの所業は、泥棒たちと警察を結ぶ深い類縁関係を明示している。誠意も道義もない人間だけが、虐待行為に走ったり、拘束機関の冷酷な手先になったりしがちなの【1】

(『ニーチェについて』序文第5節)

 普通法(droit commun)とは、社会のなかで人間が生きることを可能にする法、つまり共同体の成員の生存権を保障する法のことである。バタイユは普通法それ自体を擁護したいのではない。ましてや普通法を支える政治体制や国家を守りたいのでもない。おおざっぱに言って、彼は、人々が生きることを可能にするものを擁護したいのだ。そして、これを一方的に不可能にする独善的な教説、その手先になる者たちの所業をアナーキズムの名で批判している。

 バタイユがこの序文を書いていた時代、強制連行や拷問、虐殺を繰り返すナチス・ドイツの秘密警察(ゲシュタポ)はこのアナーキズムの最たる例だった。だが独善的なのはナチスだけではな【2】。組織に属さずたった一人でいる人間でも自分勝手な発想から他者の生を無にする。バタイユはだから先の引用文のあとにすぐにこう付け加えるのだ。

 私はさらに、個人のためにあらゆる権利を要求する、混乱した精神の弱き者たちをも憎む。一個人の権利の限界は、ただ単に、相手の、つまり一人の他者の権利の中に与えられているのではない。もっと厳格に、民衆の権利の中に与えられているのであ【3】

(『ニーチェについて』序文第5節)

 「民衆」と訳した言葉は英語の「ピープル」にあたるフランス語「プープル」(peuple)である。通常、この言葉は大きな枠組のもとに「民族」とか「国民」と訳されるが、バタイユの他のテクストも考慮に入れると、彼はむしろ漠然と「多数の人間の群れ」と解していたようだ。その群れは不特定であり、大きな場合、この地上に今生きる人々全てを指すし、過去に生きたさらに多くの人々を指すこともある。だがバタイユにとって何よりも重要なのは、どの人間も、たった一人で存在しているのではなく、他者との関係の中にあるということ、つまりその他者の数や地域、時代にかかわらず、人は他者とともに生きているということだった。この重要な点を、国家にしろ個人にしろ一方的に否定してしまう場合がある。そういう考え方や行動をバタイユはアナーキズムとして批判している。

2 アナーキズムの根源へ

 では彼の立場はアナーキズムと反対の地点にあるのかというとそうではない。

 アナーキズムとは、ギリシア語でアナルキア(anarkhia)といい、「欠如」を意味する接頭辞ア(a、母音字の前ではan)が「原理」を意味する語アルケー(arkhê)の前に置かれてできあがっている。となると、アナーキズムの対立概念は、「原理」を尊ぶ「原理主義」となるかもしれないが、バタイユは原理主義者ではなかった。「他者とともにある」ことをことあるごとに、一人でいるときでさえ実感し、大切に思い、好んでいたが、しかしこれを「原理」とみなして「主義」の対象にはしなかった。そうしてしまうと、「他者とともにある」ことが、崇拝概念に硬直してしまって、これに反する人や考え方を制裁したり排除したりしだすからである。「他者とともにあること」自体が否定されてしまうのだ。「原理主義」もまた、独善的になってアナーキズムになってしまうのである。

 いや、じつはアナーキズムは少なくとも発端においてはそうした専横な原理への反抗であったはずなのだ。アナーキーな情念が先行していたはずなのに、いつしかこの情念が神のごとく最上位の概念にまつり上げられ、支配的な原理になり、と同時にこれを崇拝する人々がその崇拝をただ表向きのことにし、実際にはこの支配原理を自分のために使う、つまり道具や物のごとくに地位や金稼ぎの野望のために使用するということが起きてきたのだ。崇拝概念が使用概念になって人間の利己的な野心に奉仕しだしたのである。バタイユの眼前に見えていたアナーキズムは、そのように批判の対象であった硬直した「原理」にいつしか自分自身生成したアナーキズムだった。180度の転身、あってはならぬ矛盾を呈していたのである。

 バタイユはそのようなアナーキズムを批判しつつ、アナーキズムの根源にあり続けた人だった。アナーキズム以前の情念、つまり硬化し支配的になった原理への批判の情念に憑かれた人だった。アナーキストを自称する人よりバタイユはアナーキーだったのである。

 じっさい彼は、その初期においてはつまり1920年代から30年代にかけては、「低い唯物主義」と言い出して、観念主義に抗したはずの唯物主義を低き否定の情念の泥の中にもう一度埋没させて蘇生させようとし、中期には「無神学」の名のもとに、絶対を僭称する神概念や哲学の概念の衣をはがしてその内実に潜む生身の否定の力を露呈させ(「ラマサバクタニ」のイエス、精神の闇の中のヘーゲル)、後期には西欧史を支配する主権概念(souveraineté)を脱階級化させ支配の発想から解いて「至高性」として再生させ、どの人間からも発する無益な生の輝きだと語ったのである。

 彼をアナーキーな情念に駆りたてていたのは「他者とともにある」という実感だった。これは「共存在」なる哲学者の概念におさまって、哲学論文の基底に役立つような静態的な事態ではない。一つにまとまって単体に結晶しないのだ。私と他者の交わりは、ある時には風のごとく吹きわたり、そのテンションは気ままに昇降する。水や泥のごとく不定形に広がり、野獣のごとく獰猛に荒ぶりもする。定まった意味をなさないがゆえに、近代社会では軽視されたり、何らか建設的に読み替えられたりする。この読み替えに役立ったのが、単体とタイ・アップした「主義」(イズム)の発想だった。流派、党派、組織、国家、民族。バタイユが生きた20世紀の西欧においては、これらさまざまな単体化した共同体が「主義」に染め抜かれて狭隘化し、「他者とともにある」バタイユの定めない実感を裏切っていった。ダダイズム、シュルレアリズム、実存主義、ファシズム、コミュニズム等々がそれだ。だがこれら主義の思想は実態が比較的明瞭であり、理論面でも当事者の面でも批判のターゲットを特定しやすい。バタイユがアナーキーな情念を差し向けたのは、もっと手ごわい、目には見えない相手だった。ほかならないバタイユも若いときにはこの見えない敵にやられていたのだ。

3 意味の覇権に屈する若きバタイユ

 目に見えないまま人々の心の中に入り込んで覇権を握りだす「意味」の動き。フロイトが超自我と呼んだ精神の上部構造で起きる現象である。心を支配するその内実をフロイトは伝統や慣習に求めたが、バタイユは意味を生み出す「有用性」に見た。何かに役立つことが、その人の行動や存在を正当化していく、つまり意味あるものにしていくのである。その「何か」は自分が立てた目標であったり、既存の組織であったり、人により状況によりさまざまだが、今ある私の心はその意味に支配され束縛を受ける。他者を見る目もその意味に縛られていくのだ。自分に役立つ存在なのかどうかという目で人を見ていくのである。自分を理解するときにも、他者を理解するときにも、役立つ面が重視される。無用の面が際立ってくると、自己嫌悪に陥ったり、他者には差別的な対応をしだすのだ。

 悲劇的なのは、自分を取り巻く他者たちがみな役立つ存在に見え、それに引き換え自分が役立たずに思えてしまう事態である。劣等意識に染まって、世間が怖くなり、引きこもりがちになる傾向は、現代社会に生きる者の病になっているが、バタイユも若い頃これに支配され、自閉的になり、嘘をつきもした。

 若い頃の彼、つまり成績優秀なパリ古文書学校生からパリの国立図書館司書になっていくエリート街道時代のバタイユを紹介した文献に、この時期をともにした同僚で国立図書館全体の監察官になったアンドレ・マッソン(画家のマッソンとは同名異人)の二本の追悼文がある。最初の追悼文は、バタイユが他界した日(1962年7月9日)から数か月後に国立図書館の月報に発表され、もう一つの方はこれに若干の補筆と改稿が施されて、1964年パリ古文書学校の紀要に発表された。ともにバタイユ研究者なら必読の文献だろう(今ではネット上で閲覧できる)。この二つの追悼文でマッソンはバタイユの誕生をまったく同じに「1897年9月10日、ピュイ゠ド゠ドーム県ビヨンの生まれ、若くして死んだ医者の息子」と紹介してい【4】

 バタイユがパリ古文書学校に入学したのは第1次世界大戦が終結した1918年11月のこと。彼の父親は、そのちょうど3年前、この大戦のさなかの1915年11月に北フランスの大都市ランスで逝った。このとき62歳、およそ若死とは言えない年齢だ。しかも、この父親は医者などではなかった。たしかにいっとき医学の勉強に向かいはしたが果たせず、役人になり、やがて梅毒を患って(おそらくバタイユの誕生前に)、それがもとで死んだのだ。全国国立図書館の監察官が公的な刊行物で二度もあえて虚偽でこの事実を包み隠したとは思えない。バタイユが学生時代にマッソンにそう伝えていたのだろう。梅毒で死んだ父を早逝の医者にしておけば世間のとおりはいい。

 若いバタイユは人を恐れている。「君にも言ったとおり、僕はあいかわらず人間嫌いのほうに折れ曲がったきり【5】」。パリ古文書学校の1年目が終わった夏休み、フランス中部山岳地帯の母方の故郷の村リオン゠エス゠モンターニュに帰省中に従姉に出した手紙(1919年8月9日付)の一文である。「人間嫌い」(misanthropie)とは人とのつきあいを拒んで、厭世的な気分になることだ。若い彼がそうなった理由は、家庭の事情が大きい。父親の病がもとで母親もまた精神を取り乱し自殺未遂まで犯した事情がこの狭い村では知れ渡っていた。

 だが若いバタイユは、人間嫌いでありながらも、他者のほうへ出ていった。一人の娘を熱愛し、結婚まで決意し、先に引用した手紙の直後、その決意を娘の父親に告げに行ったのである。果敢にも、だ。というのも、ほかならないこの娘の父親はバタイユの母親の治療に当たっていた医者であり、バタイユ家の事情を熟知していたからである。案の定、娘の父親はこの結婚に難色を示した。従姉に宛てた彼の書簡(1919年10月29日付)の言葉である。「僕は医者に話をし、医者は何もはっきりしたことを言わないまま、僕を失意させるための返答をしまし【6】」。バタイユはこの拒絶を受け入れ、娘も父親に従った。22歳になったばかりの青年にはどれほど応えたことか。「自然の成り行きからすれば、僕は自殺していたかもしれませ【7】」。

 涙の谷。キリスト教は現世をそうみなす。しかしそこには救いの意味づけがなされている。今の不幸は、神の歴史計画の意図的な一環であり、神はこのあと必ず信徒を救いたまう。ちょうど愛する息子イエスを十字架にあえて架け、その身の痛みと死によって人類の罪を贖って救い、しかも死んだイエスを復活させ最終的に天上の自らの元へ帰還させたように。不幸を有用に意味づけるキリスト教神の配慮に、敬虔な信徒バタイユは一心にすがった。人間嫌いの彼が閉じこもった先は母方の家庭ではなく、昼なお暗いリオン゠エス゠モンターニュのロマネスク教会堂の中だった。その祭壇の前で彼は、現世の有用性の意味体系に傷つけられた身を、もう一つの意味体系にすがって癒そうとしたのである。

写真①
 リオン゠エス゠モンターニュ(フランス、中部山岳地帯オヴェルニュ地方、カンタル県)、サン・ジョルジュ教会堂(12世紀)。中世ロマネスク様式のこの教会堂の中で若きバタイユは一心に祈りに耽った。扉を閉めにきた堂守に気づかず、一晩、閉じ込められたことも。私が訪れたのは3月末の夕刻、教会堂はうっすら雪をかぶっていた。筆者撮影。
写真②
 リオン゠エス゠モンターニュ、サン・ジョルジュ教会堂(12世紀)の堂内、祭壇前。左に真新しい十字架像が立つが、ロマネスク時代の柱頭彫刻は、異教の名残であるグリーン・マンや縁日の大道芸人の模様など、キリスト教に直接関係のない図像が多い。筆者撮影。
写真③
 リオン゠エス゠モンターニュ、サン・ジョルジュ教会堂(12世紀)の堂内。祭壇左前十字架像の上に見える柱頭彫刻、縁日で手風琴を奏でる人とその横で裸で踊る人の像(12世紀)。筆者撮影。

 彼がカトリックに改宗したのは、1914年8月、第1次世界大戦の戦禍の迫るランスにおいてだった。その直後彼は、梅毒の父親をランスに置き去りにし、母親とともに中部山岳地帯、オヴェルニュ地方のこの村に逃げてきたのである。彼の心は、父親遺棄の罪責感に加え、戦禍の中で父親を一人死なせたとがでさらに重くなる。やがて動員を受けるが、結核を患い、戦わずして野戦病院に送られ、役立たずのまま除隊になりこの村の駅に再度降り立ったのである。

写真④
 リオン゠エス゠モンターニュの駅。私が訪れたときには廃線になり使われていなかった。若いバタイユには辛い思い出ばかりである。1914年8月末、ランスに父親を置き去りにして母親とともに降り立ったのもこの駅、1915年11月父親逝去の知らせを受けてランスに向かったのも、そこから罪の意識を倍加させて戻ってきたのもこの駅。1916年1月動員を受け死を覚悟し出征したのも、1917年1月役立たずの兵士のまま除隊し帰省して降り立ったのもこの駅だった。筆者撮影。

 現世に負い目を二重、三重に抱える彼が現世に向けてあえて出版したのが『ランスの大聖堂』(1918年夏)だった。棄教後のバタイユがいっさい触れなかったこのエッセイの存在を世に知らしめたのは、先に言及したアンドレ・マッソンの二本目の追悼文である。それによれば「彼(バタイユ)の最初の作品は、どの書誌にも挙げられていない《ランス(Rheims)》のノートル゠ダム大聖堂に関する小冊子で、これは最悪のユイスマンス調でありながら、ある熱情に刻印されている。その熱情はしばらくして、まったく異なる理想へ方向を転じることにな【8】」。

 ユイスマンスは晩年にカトリックに改宗し神秘主義に傾斜した小説家で、作品に大作『大聖堂』(1898)がある。その神秘主義の系譜に21歳のバタイユの小品はあるが、どうにも見劣りがする。ただしそこにみなぎる熱情は宗旨替えしたその後の彼にも通底するとマッソンは言いたいのだ。

写真⑤
 サン・フルール(フランス、中部山岳地帯オヴェルニュ地方、カンタル県)。 丘の上に広がる旧市街にバタイユが寄宿した神学校がある。彼の最初の作品『ランスの大聖堂』(1918夏)はこの地方都市で出版された。筆者撮影。

4 情熱のゆくえ

 彼のこの情熱には注目していい。『ランスの大聖堂』は、4年に及ぶ大戦争で疲弊した故郷オヴェルニュ地方の若者に宛てた宗教的にして情熱的な激励の書である。ドイツ軍の爆撃で崩壊した中世フランス・ゴシック建築の花、ランスのノートル・ダム大聖堂を各人の心の中で蘇らせ再起のいしずえにせよと、バタイユは語りかけている。穿うがった見方をすれば、この敬虔な主張の背後にバタイユ自身の痛ましいほどの再起の念が透けて見える。キリスト教の意味づけの力を借りながら、なんとか現世の意味の地平に立ち返りたい、まっとうに役立つ人間としてもう一度現世で再起したいと欲する彼自身の心情がうかがえる。

 やがてその情熱は、先ほどのマッソンの言葉を借りれば「まったく異なる理想へ方向を転じることになる」。理想とは言うまい。アナーキーな、あまりにアナーキーな彼のその後の情念は、いかなるものであれ理想の境地を否定するのだから。

 先ほど引用した1919年夏の手紙の一節、「人間嫌い」を吐露した文章のすぐ後にバタイユはこう綴っている。「僕は、人間嫌いの中で、まるで熱い温室の中でのように、成長していく。やがて君はもう僕のことを見分けがつかなくなるだろうね。予告しておくよ。僕はつっけんどんになって粗暴になるだろう、【9】」。じっさいその後のバタイユはそれまでに増して感情を露わにすることが多くなったようだが、暴徒になったわけではない。バタイユは情熱の高まりを外的体験として、つまり行為にして外に見える体験として現実化していった人ではない。『眼球譚』(1928)や『マダム・エドワルダ』(1941)といった小説ではたしかに登場人物の常軌を逸した外的体験が語られるが、バタイユはそのような外的体験を第一に内的体験との関係で見よ、と説いた人なのだ。心理、意識、感情、そういった目には見えない次元において、常軌逸脱を既存の意味の体系一辺倒の見方から切り離そうとした人なのである。彼はこの根本的な変革を近代人に求めた。既存の意味づけの体系からの変革、有用性最優先の見方からの脱皮を近代人に対して、まず内的な次元において求めたのである。そして最終的に、そこにしか、つまり内的次元の変革においてしか、近代人の病を治す道はないと彼は見ていた。マーシャルプランであれ何であれ外的次元の解決策は、結局のところ、近代人自身によって有用に活用されてしまうからだ。

 この意識の変革の道行きに出る彼の最初の一歩が、ある文通相手の女性に宛てた1922年秋の書簡に見出せる。パリの国立図書館の司書になってまもなくの頃のバタイユの肉声である。彼の激しい感情の言葉、あまりに横柄な文面に困惑し精神の変調を見て危惧を覚えたこの女性に対して、彼は、単純に狂気とみなさないでほしいと懇願する。世間の見方から離れて彼バタイユを見てほしいと説くのだ。というのも「第一にそのような見方には、私が尊敬を抱く唯一のものに対する一種の不敬があるからなのです。私が敬意を払っているものとはつまり熱き情念であり、精神の不安であり、欲望なのです。これらの美徳が、不快な貶下へんげ的見方によってほんの少しでも説明される場を目にすると、私はショックを受けてしまうのです。これは、カトリック教徒が、神聖このうえない聖体拝領を粗野な言葉で語られるときとちょっと似ています【10】」。

 バタイユはこの頃ニーチェを読み始めていた。パリ国立図書館の記録によれば、彼はこの勤務先から1922年8月にニーチェの『反時代的考察』(1874)と『善悪の彼岸』(1886)を借り出した。彼は今やこの大いなる先人とともに同時代のものの見方を相対化し、激しい情熱や欲望、そして不安をも、人間の崇高な感情として価値評価しだしていたのだ。あわせて、彼自身染まって青春を苦しめていた世間の見方、つまり狂気の家系の子という見方に対しても何とかこれを相対化しようともがいている。今しがた引用した手紙には、父親の狂気は梅毒の疼痛を緩和するモルヒネから来ていたのだと、自殺を何度も図った母親の狂気は誰しもあれほどの不幸事の連鎖にあったならば当然陥るていの境地であった、と言い立てるバタイユがいる。弁解とも受け取れよう。いささか彼の論法には近代人の自己愛がほの見えもする。

 1922年秋、バタイユは未だカトリックの意味体系からも、近代の自己肯定からも充分抜け出せていない。しかしやがて父親の狂気も母親の狂乱もそれ自体として認めていくようになる。そして自分自身についても「私は聖人だ、いやおそらく狂人【11】」と書くようになるのだ。彼がそうなるのも、ほかならない、世界がつねにアナーキーな情念に駆られ一瞬前の世界自らの姿をも笑いとばしその硬化を破っていることにバタイユ自身気づいていくからである。

 涙の谷にはじつは生成変化の笑いが響きわたり、自分は笑うコスモスの子だとバタイユは自認していく。そのようなアナーキーな世界とバタイユにしばらく同道してみたい。

連載第2回は、8月2日(金)公開予定です。

【1】Georges Bataille, Sur Nietzsche – volonté de chance, in Œuvres Complètes de Georges Bataille, tome VI, Gallimard, 1973, p.16(以下、ガリマール社のバタイユ全集からの引用は最初の二つの頭文字と巻号とページ数のみにて略記する。例OCVI16). 『ニーチェについて──好運への意志』拙訳、現代思潮社、1992年、21頁。なお邦訳は以下全て訳をいくぶんか変えている。
【2】しかしまた『ニーチェについて』を読んでいくと、その第三部「日記」の最終章「1944年8月 エピローグ」には、ゲシュタポの反対勢力、つまり対独抵抗運動(レジスタンス)の一方的な所業に対してもバタイユは批判の目を向けている。1944年8月、パリがナチスから解放されると、彼の住むセーヌ河畔上流の村サモワもナチスの占領から解かれていった。するとレジスタンスの一軍が村の対独協力者(コラボラトゥール、略して「コラボ」)をいっせいに捕捉し連行していった。彼らコラボは、多くの場合、私設の裁判所で簡単に判決が下され処刑されていった。サモワの広場でレジスタンスによってフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」が不吉なほど高らかに斉唱される光景をバタイユは好んでいない。
【3】Sur Nietzsche, OCVI16. 『ニーチェについて』拙訳、21頁。
【4】①André Masson, « Nécrologie : Georges Bataille » , Bulletin de bibliothèques de France, 1962, no.9-10, p.475. https://bbf.enssib.fr/consulter/bbf-1962-09-0475-001
/②André Masson, « Georges Bataille », Bibliothèque de l’école des chartes, 1964, tome 122, p.380.  https://www.persee.fr/doc/bec_0373-6237_1964_num_122_1_460191
【5】Lettre de Georges Bataille, adressée à Marie-Louise Bataille, Riom-ès-Montagne, le 9 août 1919. In Georges Bataille, choix de lettres, 1917-1962, Gallimard, 1997, p.22.『バタイユ書簡集 1897–1962年』岩野卓司ほか訳、水声社、2022年、45頁。
【6】Lettre de Georges Bataille, adressée à Marie-Louise Bataille, Riom-ès-Montagne, le 29 octobre 1919. Ibid., p.24. 『バタイユ書簡集』、同上書、47頁。
【7】Ibid. 同上書、同頁。
【8】Masson, « Georges Bataille », op.cit., p.380. 上記註【4】の②の論文。
【9】Lettre de Georges Bataille, adressée à Marie-Louise Bataille, Riom-ès-Montagne, le 9 août 1919, op.cit., p.22–23.『バタイユ書簡集』、前掲書、45頁。
【10】Lettre de Georges Bataille, adressée à Colette R., automne 1922, op.cit., p.54.『バタイユ書簡集』、前掲書、81頁。
【11】Georges Bataille, L’Expérience intérieure, OCV218. 『内的体験』江澤健一郎訳、河出文庫、2022年、371頁。

執筆者プロフィール

酒井健(さかい・たけし)
法政大学教授。著書:『モーツァルトの至高性──音楽に架かるバタイユの思想』(青土社)、『バタイユ入門』(ちくま新書)ほか多数。訳書:バタイユ『純然たる幸福』『ランスの大聖堂』『エロティシズム』『ニーチェ覚書』『呪われた部分 全般経済学試論*蕩尽』(以上、ちくま学芸文庫)、『ヒロシマの人々の物語』『魔法使いの弟子』『太陽肛門』(以上、景文館書店)ほか。

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